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陽菜1

 陽菜がドラッグストアの事務所で制服に着替えて、おつかれでーすと言いながらレジに入ると、

「いつもピンチヒッターしてくれて、ありがとね」

 と由紀恵さんが笑顔を見せた。

 今日はクーポン券の配布日じゃないので、4つあるレジカウンターの2つだけ開けてあって、そこにも客は並んでいない。だからちょっと、喋っている余裕もある。

「仕方ないですよお、俊也はあたしの紹介だし、あの男、あたしに休むってメールしてくるし! あいつ、あたしのこと、舐めてますよね」

 そう言って、陽菜は肩をすくめた。

 遅番の俊也が来ないと、早番の由紀恵さんは帰れなくなる。俊也も小ズルくて、陽菜がピンチヒッター出来そうだと見計らってから、仮病になる。

「そうねえ。そりゃまあ、そうかもしれないけど。――でも、俊也くんもまだ立ち直れてないんだなって。そういう感じもするしね。ねえ」

 ねえ、と言われても。

 陽菜としては、はあ、とでも答えるしかない。

「仮病」かどうか、立ち直っているのかどうか、周りには分からない。もしかしたら、本人も分からないのかもしれない。それに、たとえ「仮病」じゃないのだとしても、陽菜に出来ることは少ない。

 陽菜は、由紀恵さんがレジの担当者変更登録をしながら、俊也がどうのこうのと喋っているのを聞き流し、ぼんやりと考える。由紀恵さんには、俊也との関係を、アパートの隣の子としか伝えていないけれど、おそらくは、いや確実に、由紀恵さんは2人がそれだけじゃないことに気づいているだろう。

 俊也との関係自体は全然たいしたことではないので、別に由紀恵さんに話してしまっても構わないと陽菜は思っている。ただ、由紀恵さんを前にすると、やっぱ、止めておこうかなと気が萎える。由紀恵さんは三十歳を少し過ぎたところにしては妙にオバサン臭くて、親と喋るような感じがしてしまうのだ。

 視野の端に、お客がトイレットペーパーを下げてレジに向かってくるのが見えて、

「いらっしゃいませ」

 陽菜はそっちに顔を向けて作り笑顔をみせた。

 由紀恵さんはそれを潮にお喋りを止め、

「それじゃ、お先い」

 と、レジを抜ける。目の前でお客が待っているから、陽菜は目だけで、由紀恵さんにお疲れでしたと会釈を送る。由紀恵さんは、店の中から小走りになって、いつも、つんのめるようにして帰っていく。

 お客がクーポン券をトレイに出す。それを回収しながら、

「ドラッグストア・ハナコのポイントカードはお持ちですか? それから、ヒヨヒヨカード、ぺんちゃんポイントも付きますけれど」

 と尋ねる。

 今日日のレジ担当は、なかなか頭も神経も使う。なにしろ、クーポン券が何種類も新聞折り込みで配られていて、ポイントカードも3種類くらいあって、それから、クレジットカードに電子マネーもあって。

 そういう煩雑な処理は、本当は陽菜の得意分野ではないのだ。

 結局、お客は、今月いっぱい有効のクーポン券、2種類のポイントカード、それをスマホ決済で買っていった。

 やれやれ。

 陽菜は、いまだに一回一回、漏れのないように自分の中で確認している。それでも、ポイントカードはお持ちですかとの声掛けを忘れて、お客に突然キレられたことが何度もある。要注意のお客っていうのが何人かいるのだ。

 そういう時は、後で裏に行って、クソ爺、死ね死ね死ねと罵る。

 でもまあ、職場の人間関係が悪くないから、向かないと思うバイトでも何とか続いている。前に正社員で勤めていた財団が、コロナ禍の影響――というよりは、コロナを踏ん切りに使うような感じで解散したのが去年の6月。

 あれからもうすぐ1年が経つ。嘘みたいだ。


 陽菜は、解散の日を思い出す。

 財団からの帰り道。日が長くなっていて、6時を回ってもまだ明るかった。街路樹は美しい何種類もの緑、ところどころには花が咲いて。

 陽菜は一人で歩いていて、何だか笑えてきてしまった。いろんなものが、ウザイと思っていたものも、ずっと大事にしていけると思っていたものも、みんなみんな、陽菜から去っていく。どんだけだよ、とそれらを指折り数えてみたら、そうしたら、意味もなく笑えてきてしまった。

 ウザイと思っていたもの。それは財団の諸々。解散が決まった日から、財団の人たちには、不安、焦り、怒り、そうした強い感情がかわりばんこに寄せては引いてしているのが傍で見ていてもよく分かった。

 多額の住宅ローンが残っていた遠藤部長。ケチくさくて、とにかく地味で、何が楽しくて生きているのか分からない、それで、時々、妙にイライラして舌打ちしたり。あの舌打ち、すごく嫌だった。

 それから、老母と二人暮らしの先輩ミチコさん。面倒見がよくて悪い人じゃないんだけど、真面目過ぎて細かすぎて、自分には合わなかった。合わなかったけれど、2人だけの事務職なので、だいたい何でも一緒で。

 そういう人たち。のっぴきならない人生の沼みたいなのに首まで浸かっていて。それに比べると陽菜は圧倒的に身軽で。だから、うん、まあ、仕方ないよと思い。それで決定を聞かされた日から解散の当日まで、就活もろくにせずに漫然と過ごしてしまった――。

 いやいや、就活をしなかったのは、ホントは、それだけじゃない。むしろ、理由はそっちではない。

 ずっと大事にしていけると思っていたもの。それもまた、財団の解散が通知されてから実際に解散となるまでの2か月で、ちょうど同じタイミングで、あっという間に消えてしまったから。偶然とはいえ、いっぺんに全部。だからなんていうか、もう、ヤケクソだった。何もやる気にならなかった。

 そして、陽菜は何の準備もなく、晴れて無職になった。

 陽菜は笑い出したら止まらなくなって、それで歩きながらひとしきり笑って、笑って、笑ったせいで涙が出ているのだと思ったらどうやらそうでもないらしく、今度は涙が止まらなくなって、次第に嗚咽までして、それでその時漸く。

 あれれ?と認識したのだ。

 あたしって、今、結構、ゲンジツテキなところでマズくない?

 親とはずっと絶交していて、一人暮らしを止めて実家に戻る選択肢は陽菜の中には無かった。専門学校を出て社会人3年目の薄給での一人暮らしだから、貯金もほとんど出来なかった。つまりは、すぐにお金が無くなる。

 なんとかしなくては。

 なんとか、なんとか。

 なんとかって、何だ?

 何にも持っていないあたしに、何が出来るというのか。

 ホント、何にもないじゃん。

 何にも――。

 そうしたら、目の前にあったのだ。

 新規出店するドラッグチェーン・ハナコの、アルバイト募集の張り紙が。


 ハナコでのバイトは夜10時まで。5時間ずっと立ち仕事なので、それなりに疲れて、まさに、

「おつかれでーす」

 と、これは半分以上は自分に向かって言いながら、陽菜は店を出る。従業員用の駐輪場からチャリを引っ張り出して、少し頭を突き出すようにしながら漕ぎ出す。

 マスク越しとはいえ、夜気のはらむ瑞々しさに初夏を感じる。

 ここから駅までチャリで2分、アパートは駅の反対側で、さらにチャリで10分。

 その途中、食品スーパーで、売れ残りのセール品を買っていく。

 580円のお弁当が、200円引きで380円とか。それでも自炊より高い。でも、5時間勤務×時給1,100円で、5,500円稼いだから良いとしよう。

 自分の分。

 それから、しゃーねーなーと呟きながら、俊也の分も買った。

 どうせ、メシなんぞ、食っていないに違いないのだ。

 チャリをアパートの駐輪場に止め、自分の部屋には行かずに、そのまま俊也の部屋に向かう。

 ブザーを押す。

 反応なし。

 もう1回。

 やっぱり、反応なし。

 いつものことだ。もう慣れている。

 一応、どんどんと、ドアを叩く。

「俊也? 入るよ」

 合鍵を使って、玄関ドアを開ける。

 一人暮らし男子特有の籠った臭い。

 かつて大好きだった匂いに少し似ていることがまた、腹立たしく、そして捨て置けず。

 俊也はベッドの上、壁の方を向いて眠っているようだ。

 陽菜は勝手知ったる様子でユニットバスに入り、手を洗い、うがいをし。戻ってきて、電子ケトルで湯を沸かしながら、俊也の弁当をレンジで温める。

 実際、陽菜は勝手知っているのだ。

 この部屋、この家具、この電気製品、この食器。すべて、何も変わらない。ただ、住んでいる男だけが変わった。岡崎元也から弟の俊也に。


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