15話 浅井長政と市とナポリタンと その①
「全くもうお兄様ったらっ……そうは思いませんか、倫さんっ」
テーブルの上においたお饅頭をぱくぱくと食べているの彼女は、信長さんの妹・お市さんだ。
家に来てからこの調子で、信長さんに対して、ずっとぷりぷりとしてご立腹の様子なのだけれど。
「ああ〜……またわたしのお饅頭が減っていく……」
テーブルから消えていくお饅頭のほうが、わたしにとってはかなり重要なのだよ。
お市さんが文句を言うたびに彼女のお腹へと消滅していくお饅頭を、わたしはただただ見ているしかできないでいる。
「うぅ……期間限定お饅頭が……」
「ですからね……ぱくっ! お兄様ったら……ぱくぱくっ! 思いませんか? ぱくぅっ!」
彼女、食べる速度が異常に速いんだよね。
狙ったお饅頭をわたしが手を出すより早く奪っていくし。
「ふぅ〜……なんだか少しすっきりしました。あれ……? 倫さん、何をそんなに悲しそうな表情をしてらっしゃるんですか?」
「うぅ……お饅頭ぅ〜」
「……?」
空になったお皿を眺めているわたしに、お市さんは不思議そうな顔を向けていた。
◇
お市さん——
信長さんの妹さんであり、戦国一の美女という逸話が残っている。
見目麗しくありながら、どこか幼っぽい可愛さも併せ持つ容姿。
笑うとまた笑顔が可愛いそんな彼女は、わたしの友達の一人でもある。
小さい頃、お市さんは父親である信秀さんと来ていて、よく一緒に遊んだ仲なのだ。
そんな彼女がなぜ信長さんに対して怒っているのかと言うと——
「会ったこともない男の人と、同盟のために結婚しろって……お兄様は女心をわかっていませんっ!」
話を聞くと、なんでもお市さんの知らないうちに、勝手に結婚話が進んでいるらしい。
お市に一言も相談がなかったらしく、彼女はそれに対して怒っているっぽい。
「うんうん。その気持ちは十分わかるなぁ。信長さんは何て言うかこう——女心をイマイチ分かってないんですよね」
「そうなんですよっ!」
「うんうん。本当にそう思う」
「ふふ。その気持ちを分かってもらえるのは倫さんだけです」
ここに来て、ようやく彼女は笑顔をみせてくれた。
ニッコリと微笑むお市さんの笑顔は、女のわたしでもキュンと胸が締め付けられてしまう。
「でも……浅井某とはどんな男なのか。市は不安で不安で仕方ありません」
子供みたいに頬をぷくっと膨らませたお市さんもまた可愛いなあ、もう。
そんなお市さんを背後の襖から覗き見をしてる人がいる。
彼こそがその件の人物・浅井長政さん本人だ。
「——どうしたんですか、倫さん。先ほどから市の後ろばかり気にされて……?」
実は彼はお市さんが来る本の少し前。
お市さんと同じような相談に来ていたのだけれど。
お手洗いに席を立った直後に、お市さんと入れ違いになっていたのだ。
で、襖の裏に隠れてしまった彼はずっと出てくるタイミングを失ったままなのだ。
「う、ううん。なんでもないよ?」
「そう、なのですか?」
長政さんも我が家に何度か訪れている。
そこで知ったんだけど、彼は天然なのに妙に空気を読んじゃう人なのだよ。
だから今も出るに出れないで、困り笑顔でわたしの方に視線を送ってくるのだけれど。
仕方がない……ここはわたしが一肌脱いで、協力をしてやろうじゃないの。
「ごほんっ。あのね、お市さん。実は——」
「おい、倫っ! 襖の裏にいたこの怪しい男はなんだっ!」
「の、信長さんっ!」
なんて間が悪いんだ、信長さんは。
今まさにわたしが長政さんを紹介しようとしていたのに!
長政さんの襟首を猫みたいに摘み上げて、わたし達の前に連れてくるなんて。
「お、お兄様……?」
「お前は、お市なのかっ!?」
お互い指差して驚きの顔をしてる織田兄妹。
「どうしてお兄様がここにいるのですっ!? それにその殿方は誰ですかっ!?」
「俺はこの家に飯を喰いに来ただけなんだが……たしかにこの男は誰なんだ?」
織田兄妹はずっと言い合ってる。
長政さんはバツの悪そうに笑ってるし……
御角家の居間はちょっとした混乱状態になっていた。
「ねえ、倫さんっ!?」
「おい、倫っ!」
「あははは……困りましたね。どうしましょう、倫殿……?」
この妙な雰囲気の中、わたしはひとりお腹を空かせていた。
「——今日の晩ご飯、なににしようかなぁ?」
わたしの心配はそこにあった。
◇
——御角家・居間
織田兄妹が並んで座り、わたしと長政さんはテーブルを挟んだ向かい側に座っている。
「ええと、こちらが浅井家当主の——」
「ただいまご紹介にあずかりました、私が浅井長政と申します」
長政さんはのほほーんとした笑顔を二人に振りまいている。
浅井長政さん——
北近江を統治する浅井家の当主である。
信長さんが京都へ上洛する際に近江を通過するのだけれど。
そのために北近江の浅井家と関係を結ぶ必要があったのだ。
「このお方が浅井長政様……なんて素敵な殿方……」
お市さんは、そんな長政さんをうるうると潤んだ熱い視線で見つめている。
と言うか、聞き間違いじゃなければ『素敵』とか聞こえたぞ。
「ええと、お市さん。もしかして長政さんのこと——」
「そそそそそんなことありませんっ! 長政様が市好みの顔をしているだとか。笑った顔がお可愛い殿方だとか一切考えておりませんっ!」
全部正直に言っちゃったよ。
自分で言っておいて、耳まで真っ赤にさせてはにかんでうつむいてるし。
この態度、いくら恋愛に疎いわたしでも分かる。
これが俗に言う『一目惚れ』というヤツだ。
初めてみたよ、わたし。
「しかし……本当に噂どおりに美しいのですね、お市殿は」
「いえ、あのそんなことはございません……! 長政様こそ、素敵な殿方ではございませんか」
お市さん、両手を振って否定してるけれど、顔はまんざらでもないって表情してるし。
うーむ……二人の間に、キラキラとした何かが漂っている感じがするのは気のせいだろうか。
まるでわたしと信長さんが居ないかのような。
二人だけの世界にとっぷりとトリップしてるようにも感じる。
「ええと……信長さんも何か言ってあげてくださいよ——って、無理そうだな」
信長さんに声をかけてみたものの。
さっきからずっとしかめた顔のまま固まったままで微動だにしないでいた。
信長さんとお市さんの歳の差は十歳ほど離れているのだよ。
今の時期の信長さんからすれば、その頃のお市さんはまだまだ子供のはず。
いきなり成長した妹との出会い。
大事な妹の結婚話を聞かされ、さらにその判断を下したのが未来の自分だと知れば……
「まあ、普通は混乱するな」
とまあ、固まった信長さんのことは放って置いてだね。
問題は信長さんよりも、お市さんと長政さんの方なのだよ。
「もう冗談ばかりおっしゃられて……長政様は市を困らせてどうしようというんですか?」
「あっはっはっは。私は冗談なんか言わないですよ、お市殿の美しさ……最初は天女が舞い降りたのかと——」
すっかりラブラブでイチャイチャしてるし。
この部屋全体にピンク色のハートがたくさん舞っているような気もしないでもない。
この甘〜い空間にいるだけで、わたしが恥ずかしくなってくるよ。
ちょっとこの雰囲気に耐えられそうもないな……よしっ!
「じゃあ、わたしは晩ご飯の用意をしてきますんでっ! あとはよろしくお願いしましね、信長さんっ!」
「——なっ!? おい、ちょっと待て、倫っ! 俺だけを残していくんじゃないっ!」
わたしが逃げようとするのを見て信長さんは慌てて引き止めようとしてるけれど——
「信長さんの犠牲は……無駄にはしませんからっ!」
わたしは親指を立てて、にっこりと満面の笑顔を信長さんにしてみせた。
立ち去った背後からは、信長さんが悲痛な叫びが聞こえていたけれど。
わたしは聞かないフリをして、その場を後にした。
◇
キッチン——
冷蔵庫から今日の晩ご飯の食材を取り出し、並べていく。
「さてと……今日はミートボールナポリタンを作るとしますか」
まずは肉団子用の玉ねぎから。
1/4個に切り分けた玉ねぎをみじん切りにする。
これは別皿に移しておく。
続いて、ナポリタン用の具材の下準備だ。
肉団子用に使った玉ねぎの残りを、薄切りにする。
ピーマンはヘタと種を取り、5ミリ幅に切っていく。
「よっし。これは他のお皿に避けといてっと……先に肉団子を作っちゃいましょうかっ」
別皿に移しておいたみじん切りの玉ねぎを、サラダ油で熱したフライパンに入れ、透明になるまで炒める。
「ふむ。透明になってきたかな」
フライパンから別皿に移して、玉ねぎを冷やしておく。
「じゃあ、その間にっと次の工程にっと——」
次は肉ダネを作っていく。
合い挽き肉、卵一個、片栗粉に塩胡椒をボウル入れて、練るようにしてよく混ぜ合わせていく。
そこへさっき冷やしておいた玉ねぎを加え、更に混ぜる。
「さてと……次だ次っと」
混ぜ終えた肉ダネを一口大して丸めていく。
人数分の肉団子を作らないといけないのだけれど。
「ふぅ……肉団子、これだけあれば十分かな」
バットにびっちりと並べられた40個の肉団子は、なかなか壮観なものだ。
これだけ作った自分を褒めてあげたい気分だけれど。
「それは後にしてっと。ええと次は——」
次は出来上がった40個ほどの肉団子を、フライパンで170度まで熱した油の中に入れ、約3分ほど揚げる。
そして——
「肉団子は、これでよしっ」
肉団子の美味しそうな匂い……これだけでもご飯何杯でもイケそうだ。
と、満足してる場合じゃない。
今回はメインであるナポリタンも作らなきゃダメなのだ。
寸胴のお鍋に水を張って沸騰させる。
沸騰したお鍋にひと摘み塩を加え、パスタを入れるのだけれど。
わたしも信長さんもかなり食べるつもりだから、二袋分・6人分の量を入れる。
ナポリタンは柔らかいパスタじゃなきゃダメだから、普通のパスタより長めに茹でるのがいいのだ。
「——ふむ。そろそろ頃合いかな」
茹であがった麺をザルに移して、水分をしっかりと切っておく。
このとき茹で汁を少し残しておけば、後で炒めるときに使えるのだ。
「ええと……フライパン、フライパンっ」
今回のパスタは量が量だけに、大きめのフライパンが二つ必要だ。
それぞれのフライパンを加熱して油を敷く。
そこにピーマンと玉ねぎを入れて中火で炒める。
具材がしんなりしてきたら、フライパンに御角家特製トマトソースを入れて少し煮立てる。
このソースはケチャップをベースとした、特製トマトソース。
旨味やコクを引き出すためには、これが欠かせないのだよ。
「さあ肉団子の投入だよ」
具材全体とソースを馴染ませるように、軽く混ぜ合わせる。
ソースが具材にまんべんなく絡んだのを見計らって、パスタと茹で汁を投入だ。
パスタと茹で汁と入れ手早く混ぜて、煮詰めたソースを茹で汁でのばしつつ、全体に絡めれば——
「ミートボールナポリタンの完成ぃっ!」
大皿に盛られた大量のナポリタンと肉団子から立ち昇る美味しい匂い。
おもいっきり匂いを嗅げば、わたしのお腹が全開で食べたいと鳴り響いていた。