13話 本能寺の変 後編
「お待たせしました、信長さんっ!」
わたしは信長さんと最初に出会った部屋へと戻って来ていた。
3つの御膳台には真っ白なお皿に盛ったカレーライスと鉄の匙が載っている。
これを運ぶのを蘭丸くんにも手伝ってもらっている。
「お、ついに来たかっ! さっきから旨そうな匂いがしてくると思えば……正体はそれかっ!」
「えへへ〜そうですよぉ」
カレーを運んで部屋に入ったときから、信長さんはずっとソワソワとしている。
「はい。まずは信長さんの分ね」
言ってわたしが御膳台を置いた瞬間。
信長さんは両手で御膳台ごと持ち上げ——
「くはははっ! 堪らんな、この香りっ! 嗅げば嗅ぐほど腹が減ってくるっ!」
すぅーっと鼻から息を吸いあげた信長さんの顔、なんて嬉しそうなこと。
「匂いだけじゃなくて、食べても美味しいんですからね」
「そうかっ……そんなに旨いのなら、早速喰うとするかっ!」
「っと、その前に!」
「なんだ、倫。俺は早く喰いたいんだがな」
食べるのを止められたのが気に入らないのか、信長さんは怪訝そうな表情でわたしを見ている。
「今日は蘭丸くんも一緒に食べて貰おうと思います」
自分の分の御膳台を持った蘭丸くんが、申し訳なさそうに部屋の角に立っている。
「蘭丸。お前も俺たちと一緒に飯を喰おうというのか?」
「あの……その」
目は泳ぎ、額からはいくつか汗が流れ落ちている。
すっごく動揺しまくっているのが離れてるんだろうな、蘭丸くん。
うーん。
彼はどうやら信長さんと一緒にご飯を食べるのが恐れ多いと思っているのかも。
こっちの信長さんは常に眉間に皺を寄せて、怖い顔をしてるし無理もないか。
んで、蘭丸くんは蘭丸くんで泣きそうな子犬みたいにして、わたしに助けを求めているし……仕方がない。
「いいじゃないですか。蘭丸くんも料理を手伝ってくれたんですよ」
野菜の皮むきとか、ご飯をよそってくれたりとか手伝ってくれたんだし。
一緒にカレーライスを食べる権利は、蘭丸くんにもあるよね。
「問題ないですよね、信長さん」
「……お前には敵わんな。まあいい、蘭丸。今日は倫が作った料理を一緒に食べるぞ」
「え……よろしいのですか?」
「ああ、今日は構わん。一緒に喰うぞ、蘭丸」
「は……はいっ!」
蘭丸くんはのあの嬉しそうな表情。
信長さんの近くにちょこんと座っている姿は、本当に子犬みたいだ。
「三人揃ったし……じゃあ、いただきますっ!」
パクリと一口カレーを頬張れば、わたしは自分の顔が綻んでいくのが分かった。
「んんん〜っ! はぁ〜〜カレーって何度食べても飽きないのよねぇ〜」
カレーが染み込んだ炊きたてのご飯。
ほどよく味の染みた玉ねぎ。
噛めば口の中でほろりと崩れるジャガイモ。
人参もほんのり甘くて美味しい。
「んふふふ〜これだよ、これっ」
匙ですくい上げた鶏もも肉。
弾力のある歯応え、滲でる脂がカレーと相まって堪らない。
「んんんっ! 旨すぎて笑いが止まらんぞっ! 甘くて旨い……まさに俺の好みの味だな、このかれーとやらはっ」
ご飯の中にガッと匙を突っ込むと、信長さんはすごい勢いでカレーを食べ始めだしてる。
「お、美味しい……こんな美味しい料理は初めてですぅっ! 優しい味でいてどこか刺激的なこの香りがたまりませんよっ!」
「くはははっ。これだこれ……倫が作る旨い飯を俺はずっと待っていたんだっ!」
蘭丸くんも信長さんも、口の周りにカレーを着けちゃって。
そんなに美味しく食べてくれるなら、わたしも作った甲斐があるってものだ。
「おい、倫っ! このかれーのおかわりだ」
「あ、倫殿……わ、わたくしももう一杯いただけませんかっ!?」
二人とも同時に空になってお皿をわたしの前に差し出した。
「はいはい。まだまだおかわりがあるから、バンバン食べてくださいね」
結局、わたしと信長さんは5杯食べ、蘭丸くんも3杯は食べてしまった。
◇
「う〜ん……」
わたしは床に敷かれたお布団の上で、ゴロリと寝返りをうった。
スマホに表示された時間はすでに夜中。
普段ならこんな時間にまで起きているわけじゃないけど。
「うっぷ……」
あの後、蘭丸くんのご好意でこっちの時代の料理を堪能したのだよ。
さらに街に繰り出してお饅頭とかお団子とかを食べ歩きしたのだけれど……
「さすがに食べ過ぎたみたい……げっふぅ〜」
お腹が苦しくて寝られないだけだったりする。
まあ寝付けないのはもちろんそれだけじゃない。
わたしは本能寺の変のことが、ずっと頭の中で気になっていたのだ。
「……信長さんとは会えずじまいだったな」
信長さんは、蘭丸くんにわたしをもてなすように頼んだのだ。
わたしは話たかったんだけど、信長さんはずっと忙しそうにして、結局話すことができていないのよね。
本能寺の変のことを信長さんに伝えないといけないのだけれど……
「よしっ! ここで考えていても仕方がない。よいしょっとっ!」
ガバリと上半身を起こし、お布団から立ち上がろうとした瞬間だった。
「おい、倫……まだ起きてるか?」
「え、信長さんっ?」
閉められた障子戸の向こうから聞こえてきたのは信長さんの声。
声を聞いたとき、正直わたしは驚いてしまった。
まさか信長さんの方からやってくるとは思ってもみなかったしね。
「ええと……どうしたんですか、信長さん?」
「いやな。まあ少しお前と話たくなってな。眠いのなら邪魔はせんが——」
「——わたしなら大丈夫ですよ。というか、まだ眠たくありせんしね」
「……そうか」
これは願ってもないチャンスだ。
これから起こる事を信長さんに伝えられるんだから。
外でジィっと動かないまま、信長さんは部屋に入ってくる気配がない。
「ええと……良かったな部屋に入りません?」
「——いや、俺はここで構わん」
言うと、ドスンと部屋の前に座り込んでしまった。
部屋の明かりに照らされて、障子戸にぼんやりとシルエットだけが浮かび上がっている。
物音一つしないシーンと鎮まりかえった時間。
わたしと信長さんの二人しかいないんじゃないのかと錯覚してしまいそうなくらい。
「ええと……信長さん、あのこれから起こることを——」
「なあ、倫。秀吉や光秀のことを覚えているか?」
「……まあ覚えていますよ」
信長さんと再会しておもいっき泣いた秀吉さんは、唐揚げを美味しそう頬張っていたっけ。
敗走する光秀さんは、肉じゃがに癒され、精一杯生きようと決めていた。
信長さんとの関わりが深い二人を絶対に忘れることなんてできない。
「光秀さんのこと、覚えているんですか……?」
「——まあ、な。優秀な家臣はどれだけ居ても困ることはないからな」
「だからって——」
「光秀や秀吉がいたからこそ、今の俺があるんだ」
確かにその二人がいないと、信長さんはここまで大きくはなれなかったかもしれないけれども。
だからと言って、自分を討つ可能性のある人を迎えいれるなんて……
「……バカだよ、信長さんは」
こんなバカできるのなんか、信長さん以外いないよ。
いつだって自分を裏切った家臣をあっさりと許したりするし……
でもそんな信長さんだからこそ、いろんな人が慕って集まって来たのも事実なのだよ。
「あん? 今なんて言ったんだ?」
「なにも言ってません——」
「殿っ!!」
静寂を破るような蘭丸くんの声。
それと同時にダダダっと廊下を慌ただしく駆けてくる足音が遠くから近づいてくる。
短く息を切らせて、蘭丸くんは信長さんの前にかしずいた。
「殿、謀反でございますっ。相手は——」
「——光秀だな。そうかやはり来たのか……」
信長さんは辛そうな声でそう呟いた。
◇
「光秀様が来ることを殿は知っておられたのですかっ!?」
蘭丸くん、かなり動揺しているのか。
障子戸で隔たれていても、それがわたしには分かった。
「倫、聞いたとおりだ。間も無くここは戦場に変わる……お前は逃げろ」
「に、逃げるって……嫌ですっ!」
障子戸の向こうから、はぁ〜と深いため息が聞こえてきた。
「……お前なぁ」
「なんと言われたって構いませんっ。信長さんも一緒に逃げましょうよ……でないと信長さんが今ここで死んでしまうんですよっ!」
わたしが放った言葉に、信長さんは黙ったままで、すぐに言い返しては来なかった。
逆に蘭丸くんはめちゃくちゃ怒って、わたしに文句を言っているけれど。
蘭丸くんの小言が一段落したタイミングで、信長さんはようやくわたしに話す。
「……己の信念をかけて挑んでくる一人の男が来たんだ。それを背を向けて逃げるなんて、俺にできると思うのか、倫?」
焦った様子もなく、すごく落ち着いて穏やかな声のトーンで問い返してきた。
「……信長さん、ずるいよ」
そんな言葉を返されたら、わたしが何も言えなくなるのを知ってるくせに。
「くはははっ! まあ、ずるいかも知れんな。だからこれ以上は何も言うな、倫」
「……うぅ、でもやっぱり信長さんは——」
「それ以上言うなと言ってるだろう。それに俺が死ぬとは決まったわけじゃない……違うか?」
「……本当に死にません?」
「何をそんなに泣きそうな声をしてるんだ。俺を信じろ……いいな」
「……うん。絶対に死んじゃダメですよ……?」
「くはははっ……達者でな、倫っ!」
ダンっと床を激しく蹴って駆け出す音が聞こえた。
ひとりや部屋に残されたわたしは、おもいっきり声を上げて泣いた。
たぶんこんなに泣いたのは、初めてじゃないかというくらいに……
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
光秀さんが襲撃してきた割には、部屋の外から戦っているような声一つ聞こえてはこない。
「……なんでこんなに静かなんだろ……?」
だるく重い体を起こして数歩歩くと、ゆっくりと障子戸を開けて……言葉を失った。
真っ赤な炎に包まれ、燃え上がる本能寺の姿があったからだ。
「……嘘でしょ」
そう呟いた瞬間、わたしの意識はそこで途絶えてしまった。
◇
「……あれ?」
「お、目を覚ましたな。倫」
「ええと……信長さん? あれ、わたしは……あれれ?」
目を覚ましたわたしは、どういうわけか信長さんに背負われていた。
「なんだ? まだ意識がはっきりしないのか。まあ無理もないな」
周りの景色も商店街から自宅までのいつもと変わらない風景。
さっきまでわたしは本能寺にいたはずだけれど……あれは夢?
「ええと……え?」
「覚えてないのか? なんでも店先で豪快にすっ転んだらしいじゃないか。床に頭をぶつけたと、智巳から聞いたんだがな」
信長さんの言葉に、思い出したようにズキリと後頭部が痛いのに気づく。
「痛たたたた……?」
後頭部に軽く触ると、たしかに腫れている。
「あ……そうだった」
瞬間、わたしは何が起こったのかを思い出す。
智巳と日和と一緒にスーパーに買い出しいって、店を出たとのと同時にわたしは派手に転んだのを、だ。
「ええと、転んだのは思い出しましたけど……どうしてわたしが信長さんに背負われているんです?」
すっ転んだのは思い出したから分かる。
でも信長さんの背中にいる理由が、わたしにはわからない。
「ああ実はな——」
わたしが気を失ったのを見て、智巳が慌ててわたしの家にいた信長さんを呼びにきたらしい。
かなり気が動転してたんだろうなぁ。
救急車とか、日和の家の専属医師とかを呼べばいいのに。
日和の言うことも聞かずにまっしぐらに信長さんを呼びにいったんだな。
智巳らしいと言えば智巳らしい。
「一応、大丈夫そうだと日和が言うんでな。こうやって俺が家まで運んでいると言うわけだ。感謝しろよ」
「……ありがとう、信長さん」
「お、ずいぶんとしおらしいじゃないか。だったら今日の晩飯は豪勢に頼むぞ、倫」
「はいはい。豪勢とまではいかないですけど、期待しててくださいよぅ。なんたって今日は——」
「あん? 急に黙ってどうしたんだ、おい?」
手にかけていたトートバックが妙に軽いのだ。
カレーの具材をかなりの量を買ったはずなのに、重量が全く感じられない。
「変だな……あれ……?」
もう片方の手をバックの中に入れて、中身を確認したけれど。
バックの中には何も入ってはいない。
「ええと……じゃあアレは夢じゃなかった」
「おい。まさか材料を買ってないなんて言わないだろうな?」
「……信長さん。絶対に死なないでくださいね……?」
肩を持つわたしの指に、グッと力が入っていく。
「はっ。飯を喰わんくらいで死ぬか、うつけが……それに俺がそう簡単にくたばるとでも思っているのか、お前は」
「……ですよね。うん、織田信長は絶対に死なないですよね」
「当たり前だっ。くははははっ!」
言って笑う信長さんを、わたしは信じたい。
変わらない運命なんて無いはずだ。
だから今この場にいる信長さんは、あの本能寺で出会った信長さんとは絶対に違うと、わたしは信じている。