塔の王女と外の世界
「…何してるんだ、王女殿下?それ、経済に関する本だよな?勉強してるのか?」
その日、大人しく本を読んでいたあたしの前に、クロードさんは突然現れてそう言った。あたしは、突然のことに驚きすぎて硬直した。一週間くらいクロードさんはここに来ていなかったので、今日も来ないかと思っていたのだ。…それに、いつここに来たんだろう?玄関の扉が開く音は一切聞こえなかったのに。あたしが本に集中していたからかな?すると、クロードさんはようやくあたしが驚いていることに気付いたようだった。そして、そういえば言ってなかったな…、と急に姿を現した理由を教えてくれた。
「俺の持ってる力は『転移』だ。簡単に色々なところに入ることができる。だから、もし敵に見つかったとしてもそこからすぐに別の場所に移動できるから、潜入の時とかに便利だ」
と、何故か得意げに語ってくれた。「転移」か…。なかなかその力を持っている人はいない、って前に本で読んだことがある。確か、それを読んだのはあたしがまだお城にいた頃。この世界にはどんな力を持っている人がいるのかすごく気になって…。それで、力に関する資料を読みふけっていた。残念なことに、それだけ熱心に力に関する本を読んでいたにも関わらず、あたしは何の力も持っていなかったけど…。そもそも、もし何か力を持っていれば、一応お城の中にはいることができたはずだ。クロードさんもそれについては既に誰かから聞いているらしく、「…」と黙った。が、すぐに話題を変えた。
「それで、さっきの話の続きだが、何で経済の本なんか読んでるんだ?真面目だな…」
「…別に、読みたくて読んでいるわけじゃないですけど。これは、ただの願望みたいなもので…。力がなくても、何か一つでも取り柄があればお城に入れるようになるのかな、って勝手に思っているだけです。まあ、そんなこと、起こるはずがないんですけどね…」
自分でも、馬鹿らしいことだとは思っている。だって、ずっと頑張っているのに、その願望は叶っていないから。それでも、期待してしまう。もしかしたら、ここから出られる日が来るかもしれない、と……。すると、クロードさんが急にあたしの本を取り上げ、ぱたんと閉じた。まだ栞を挟んでいないのに…。そのせいで、手元に栞だけ残ってしまった。そして、クロードさんは何も言わずにそれを本棚に戻す。その位置が適当すぎる…。まあ、後で戻せばいいだけの話だ。けど、急にどうしたんだろう…、と面食らっていると、クロードさんはどこかいたずらっぽく笑った。
「それなら、気分転換にいいところに連れてってやる。どうせこの塔には誰も来ないんだ。少しの間いなくなったってばれることはない。…そうだろう、王女殿下?」
その言葉にあたしはうなずいた。…けど、どうして急にそうなったんだろう??不思議に思ったけど、クロードさんは特にそれ以上何も言わず、早速、とでも言うようにあたしの手を掴み、ちょっとかっこつけるようにパチンと指を鳴らした。…その瞬間、浮遊感に襲われ、目の前が真っ白になって…。思わずあたしは目をぎゅっと瞑った。…しかし、その直後、クロードさんの声が聞こえた。
「王女殿下、そろそろ目を開けて大丈夫だ。天気が良くて良かったな、遠くまで景色が見渡せる」
その言葉にあたしはそっと目を開けた。その瞬間、ふわりと風が吹いて、あたしの髪を揺らした。それと同時に、その風はどこからか花びらを運んでくる。そして、その先にあるものを見てあたしは言葉を失った。クロードさんはそんなあたしを見て満足そうにしている。でも、それに対して何も反応を返せないほどあたしは驚いていた。なぜなら、あたしが今いるのは丘の上で、そこから美しい街並みが一望できたからだ。久しぶりの、塔の外の世界。こんなに空って広かったんだ…、と驚いてしまった。遠くには塔からでは見ることのできない山々が広がり、それらは鮮やかな緑の色に染まっている。きょろきょろと他の場所も見てみると、少し先にお城が見えた。いつもはすごく近くて大きく見えるけど、ここからだとかなり小さく感じる。近くにいるはずなのに…。それを見ると自分がいつもいる世界は、びっくりするほど狭いんだな…、と思えてくる。
「クロードさん、ここ、すごいです!遠くまで見えて、どこまでも大地が続いているような気がして…!お城の近くにこんなところがあったなんて知らなかったです。本当に綺麗…!」
「ここは、俺が初めてこの国に来た時に着いた場所だ。城に転移しようと思ったら失敗して。だが、この景色が見られたから悪くはなかったな。それに、ここは山になっているから全く人が来ないし」
「…そういえば、前にナテロ国から来たって言ってましたよね。…いいな、色々な場所に行くことができて」
思わずそうつぶやいた。きっとあたしは、これからもどこか違う場所に行くことができない。今日はクロードさんのおかげで塔から出られたけれど…。普段のあたしはどこにも行けない。塔の中だけが、あたしの世界だから…。すると、クロードさんはあっさりと言った。
「それなら、この後も時々外に連れて行ってやる。俺が力を使えば、他の場所に簡単に移動できるからな。他にも色々な場所を知ってるし」
「…え、それはありがたいですけど、あたしの監視はどうするんですか?監視役が進んであたしを外に連れ出した、なんて報告したらさすがに怒られると思いますよ?」
「あー、それは…、取りあえずお互いに何も言わなければばれることはないだろ。大丈夫だ、たぶん」
と、かなり適当な答えが返ってきた。確かに、塔に誰かが来ることは全くないから、こっちが何も言わなければ誰もこのことを知ることはないけど…。本当にクロードさんが監視役で大丈夫なのかな?逆に言うと、クロードさんが監視役じゃなかったらあたしはこうして外に出られなかったってことだけど…。まあ、外に出られるなんてこと、滅多にないし、今だけはこの景色を楽しんでいてもいいかもしれない。そう思ったあたしは、どこまでも続く青い空を見た。いつもは四角く限りのある青空が、今、この瞬間だけ、ずっと遠くまで続いている。雲は形を変えながらゆっくりと流れていく。それを見ていたら、何だか雲がうらやましくなってきた。きっと、雲はここではない別の場所を旅できるんだろうな…。あちこちの国を移動して…。楽しそう…。と考えていると、クロードさんが、
「時々、城から抜け出してここに来てるんだが、やっぱりいつ来てもいいよなあ…。一番いいのは夕方だけど、昼でも空がどこまでも青くて綺麗だし。でも、急に雨が降って来たら大変なんだよな」
とかつぶやいている。…最初の言葉がちょっと心配になるんだけど。勝手にお城を抜け出していいの!?見つかったらかなり大変なことになると思うけど…。お城が広すぎて、誰がいるのかいないのかも分からない状態なのかな?そこら辺が少し気になる。まあ、それにしたって抜け出すのは良くないと思う。けど、取りあえずそれは一旦考えないことにして、ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「…あの、クロードさん、何であたしのことを『王女殿下』って呼んでいるのに、喋り方が普通なんですか?別にあたしは気にしてないですけど、基本、どちらかに統一する人の方が多いのでは…?」
「え?あー、王女殿下は王女殿下だからな。他の呼び方が分からん。それと、俺が敬語じゃないのは、使ってないからじゃなくて使えないんだよ。あまり使ったことがなくてな。正直面倒なんだ」
その言葉に驚いた。…ということは、クロードさんって意外と高貴な人だったりするのかな?全然そうは見えないけれど…。それに、身分が高い人が気軽に違う国に行ったり、こうしてあたしの監視をしたりはできなさそうだけど…。あたしは首をかしげた。クロードさんについての謎が深まったような、そんな気がする。そんなあたしに、クロードさんは楽しそうに笑い、話題を変えた。
「そうだ、王女殿下、もしもまた外に出られる機会があったら、今度は湖の方に連れて行ってやるよ。そこも偶然見つけたところだが、水が透明で、珍しい魚もいるんだ」
「本当ですか?それなら魚釣りをしてみたいです!持って帰れないかもしれないけど…。でも、クロードさんが知っているところはどこも素敵な場所ですよね、きっと。楽しみにしています!」
そう言ってあたしがどんな場所か空想していると、すると、クロードさんは何故か驚いたような表情をした。何だろう、と疑問に思っていると、クロードさんは非常に動揺しているような声音で言った。
「いや、何というか…。そういう風に王女殿下が笑うところ、初めて見たような気がして…。珍しいものを見たような…、そんな気分になっていただけだ。特に気にする必要はない」
その言葉にあたしはきょとんとした。今、あたし、笑っていた…??自覚が全くないんだけど。なので頬を触ってみたが、特にいつもと変わった様子はないのでやっぱりよく分からない。でも、クロードさんが笑っていたと言うのならたぶんそうなんだと思う。人と話さずに暮らしているとどうしても表情を変える機会がなくなってきてしまう。だから、これはたぶん、いいこと。それでも少し気になって頬をいじっていると、クロードさんは少し笑って、「そろそろ帰るか」と言った。遥か遠くの時計台を見てみると、既にここに来てから三十分ほど時間が経っていた。…いつの間に。楽しい時間はあっという間、という言葉があるけれど、本当にそうなんだ、と実感した。少し落ち込んでいると、それを感じ取ったのかクロードさんが励ますように言ってくれた。
「また、外に出られる機会はあるはずだ。そしたら、ここでも別の場所でもどこへでも連れて行ってやる。だから、それを楽しみにしてろ」
あたしが素直にうなずくと、クロードさんは行きと同じようにパチンと指を鳴らした。その瞬間、目の前が真っ白になって…、そして、再びゆっくりと視界に色が戻ってきた。いつもの塔の景色が広がる。窓から見える空は、四角くて狭い。それを少し寂しく思ったが、取りあえずクロードさんにお礼を言った。もしクロードさんがここにいなければ、あたしは今日外に出られていなかった。彼は微笑むと、
「じゃあ、俺はこの後少し用事があるから、今日は帰る。明日もまた来られると思う。じゃあな、王女殿下」
そう言って、クロードさんは颯爽と帰って行った。あたしは、その姿をずっと見送っていた。
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「……予想外、だな。こうなるなんて全然考えてもいなかった…」
塔を出たところで、クロードは一人そうつぶやいた。彼は、二人の人物からアシュリアに関する命令を受けていた。一つは、この国、リネー国の王からのもの。
―彼女に何の価値もないならば、……その存在を消せ―
恐らく、彼はアシュリアのことを自分の言うことなら素直に聞く人形程度にしか思っていない。だから、簡単にそんなことが言える。実際は、彼女は自分の意思を持っていて、自分なりの努力をしているというのに…。この国の王は、それすらも知らない。
だが、もしかしたらもう一人からの命令は、そんな状況のアシュリアを助けることに繋がるかもしれない。しかし、現時点では成功する可能性がかなり低い。なので、最初クロードはその命令を遂行することを半分諦めていたし、恐らく向こうもあまり期待をしていない。本来の目的は、別にあるからだ。しかし、予想外の連続で、今はもう一人の人物の命令に賭けてみたいと思ってしまっている。確実に忙しくなると分かってはいるのだが…。
「本っ当に想定外だ……」
彼のつぶやきは、誰にも聞かれることなく消えていった。
読んで下さり、ありがとうございました。