11.二人の夜
リー、リー、リー……
『夜になってしまった……』
あれから、無事に逃げ場へと駆けこんだノエル。夜半にだけ鳴くベル虫の声が、静かな森に響き渡る。
ノエルが師匠から教わった逃げ場は森の中にいくつかあり、木の窪みが身を隠すのに適していたり、強い草木の匂いが身を隠すのにちょうどよかったりと、森の中での安全地帯として複数の場所を教えられていた。
『森へ出るときは用心に用心を重ねてもやりすぎってことはないからね。勿論、何事もないのが一番いいけれどさ』
『あ、そうそう! 場所が常にあるかきちんとこまめに確認しておくんだよ? いざって時に使えなければ意味がないからね』
師匠の真剣な顔を思い出しては、その言葉を守ってきてよかったと安堵するノエル。
いま彼女がいる場所は森の中でも端にある大きな木の上部にある窪みの中。獣が登るには高く、けれど人間ならば枝木を使えばある程度容易に登れるという場所だった。特に、その木は強い匂いがすることもあって身を隠すにはうってつけで。逃げ場として彼女が幼い頃から何度も確認に来ていた場所だった。
『幸いグラスウルフの声や気配も感じなくなった。朝になったら様子を見て戻ろう……』
こういった事への対処に関しては、人一倍厳しく教わり、忠実に守ってきたノエル。
空に浮かぶ星を見上げてはおおよその時間のあたりをつけて目を閉じる。無駄に起きて体力を消耗するよりは、静かにじっとして夜明けを待つ方が賢明と学んでいるからだ。
しかし思ったよりも暑い外気に晒され、想定以上に動いたせいで彼女は身に纏う服が不快でならなかった。上着を脱ぎ、長い袖をまくり上げ、腰に着けていた鞄を外し、いつでも手に取れる位置に置いて楽な姿勢をとる。
改めて休む態勢を整えた後に目をつむると、幾何か落ち着いた気持ちになり一息つくノエル。眠るつもりはなかったけれど、目を閉じていると疲れのせいかぼんやり微睡始めてしまう。すると夢か現か境目が曖昧になっていく。
『……いらない子……して私が……』
『………あっちに行けよ……みんなが……きらいって…………』
『……化け物……』
『…………おいで……』
そんな時に瞼の裏に映る絵はろくなものでない。静かな夜に苦い記憶が甦り、僅かばかりざらついた気持ちになっている事を知るのは彼女だけであった。
それから幾何の時が過ぎた時。微睡んでいたノエルの耳は物音を聞き取った。
草木がわずかに擦れる音。風で揺れる音とはまた違うその規則的な響きに、ノエルは体を持ち上げ態勢を整える。ナイフの位置を確認し、しびれ玉を取り出し手に携えると、不確かな存在がいる音の方へ静かに体を向ける。待ち構えたその瞬間。
「見つけた……」
目の前に立っていたレオが、木の窪みに覆いかぶさるようにして中を覗き込んでいた。
「レオ……さん……?」
「すまない、とりあえず入れてくれないか?」
小声で尋ねられて驚きの衝撃から我に返るノエル。狭いけれども、詰めれば何とか二人が収まらないでもないその場所に向かい合って二人は座り込んだ。一息をつくと、森の静けさに合わせてかレオがゆっくり話し始める。
「まずは無事でよかった。皆が心配している」
「どうして……」
「街で大きな騒ぎになっている。最後に戻った少年が女性に助けられたと泣いて騒ぎ、その特徴から君だと判断して俺が探しに来た」
「でも何故? 閉門時間を過ぎたら、外に関する事は対処しない決まりが……」
基本的に民に優しい街ではあるけれど、だからこそ厳格な決まりはある。閉門時間を過ぎれば外に関する事には対処しないのもその一つで、内側の人間を守るからこそ、外で起きたことは自己責任となり助けを求めることは基本的にはしてはならないと教えられるのだ。
「…………俺が勝手に動いた」
「え?」
静まる空気。ノエルはなんと返答したらいいのか分からず固まっている。何故勝手に探しに来たのか。どうやって見つけることが出来たのか。聞きたいことは山ほどあれど、矢継ぎ早に口に出していいのか悩んだノエルは結局口をつぐんでしまう。
少し時間が流れた後におもむろにレオが話し始める。
「……大丈夫だったか? 怪我は?」
「大丈夫です。すぐにここに逃げ込みましたから」
「凄い場所だな。隠れるにはうってつけだ」
「……幼い頃から、師匠に教えこまれたんです」
会話が続かず、途切れた二人の耳にベル虫の音が響く。その沈黙の時間がしばし続き、いつもの工房とは違うこの場所で二人でいるという事実にノエルが不思議な気持ちを抱きつつふと空を見上げると、二つの月が雲の隙間から顔をのぞかせ森を照らし始める。
「静かだな」
昼とは違って落ち着いた熱気に、隣にレオがいるという安心感。気づけば彼女は言葉を漏らしていた。
「……昔の、記憶を見ていました」
「昔の記憶?」
視線は月を見上げたまま、彼女は思った言葉をそのまま口に出し始める。
「レオさんが来るまで目をつむってじっとしていたら、昔の光景が思い出されて……」
「……なぜそんなに悲しそうなんだ」
「え?」
思わず顔をレオの方に向けるノエル。彼の金色の瞳がまっすぐにノエルを見つめていた。
「魔石を扱っているときは嬉しそうなのに、今は悲しい顔だ」
「……何故わかるんですか?」
「?」
「顔が、動かないんです」
俯いて、思わず右手で自身の頬に触れるノエル。
「……私は孤児院にいたところを、土の魔力持ちだからと師匠に貰われました。その頃から顔が動かず、化け物と呼ばれていました」
言葉を紡ぐたびに声が震えていく。そんな彼女をじっと見つめながら、レオは続く話を静かに聞いていた。
「今でも、ほとんど顔が動きません。声の抑揚をつけたり、笑顔の練習をして、他者と交流するすべを学びましたがそれでも……」
思わず体を抱きしめて固まらせる彼女の耳に入ってきたのは、レオの優しい声だった。
「そんなことない、分かるぞ」
その声色の力強さから、レオが嘘をついていないことを感じ取るノエル。
「魔石を扱う時は嬉しそうだ。加工の光が溢れるときは真剣そのもので、光がはじけて輝くと嬉しそうに安心している」
「この前、俺が謝りに行った時は困っていたな。いつもより不思議な顔だった」
「子供に話しかけていた時は目が優しい」
ゆっくり、一つ一つの言葉を語るレオの声は穏やかで優しさに溢れていた。
「なんで、分かるの?」
「君が真剣だからだ」
柔らかな声、微笑みで伝えるレオ
嬉しいのか、困っているのか、恥ずかしいのか、何とも言えない顔のノエル。
それでも、彼女の心に温かい気持ちが溢れ出していた事は間違いなく。感情が心の中に広がり、顔がムズムズし始め、目が熱を帯び始める。
「朝だ」
気が付けば空が柔らかい色に染まり始め、周りの木々の色が分かる程度には辺りが明るくなっていた。
「帰ろう」
先に木を飛び降りてから差し伸べたレオの手を、荷物を抱えゆっくりと降りたノエルが握る。また少しだけ近づいた二人を、朝日が静かに照らしていた。