10.草原の獣
あまり遠くない場所で、何かが起こった事が分かる喧騒がノエルの耳に聞こえてくる。
そしてまずは状況を判断するためにも、心を落ち着かせようと意識しながら彼女は耳を澄ませた。
人の叫び、怒号、草木のざわめき。
その合間に断続的に聞こえる何かの唸り声。
それを聞き取った瞬間、彼女はすぐさま師匠に教わった態勢に切り替える。
『この森の中で何かあったと感じたら、まずはそれが何なのか分かるまでは情報収集。その場から慌てて逃げるんじゃなくて、木を背後にして立ったりいけそうだったら登ったりして、ひとまず安全を確保してから持ってる防御アイテムの確認と準備かな』
『モンスターによってはじっとしてれば大丈夫だけど、逃げると襲われたりその逆もあったり、ほんと種類によって様々だからね。まぁ、そこら辺はおいおい覚えてくとして、まず最初にやることをきちんと覚えればいいさ』
『集めた薬草? あぁ、そんなん無視無視! 命あってこそだからね!』
過去にも同じように対処して事なきを得たノエル。
今回もすぐさま籠から手を放し、近くにあった木に登って、腰につけた鞄に入れたアイテムを確認する。
『……しびれ玉は、よし。匂い玉もある。……ナイフも一応あるけど、慣れていないから武器として扱うより万が一用に、うんすぐ抜ける。回復薬は……大丈夫』
そうして、いつでも対処できるように確認したところで耳を澄ませる。
騒ぎは相変わらず収まっていないが、音が自身のいる位置よりも離れていっているように感じられる。
これは慣れている職人が声をかけ門のほうへと誘導しているのかもしれないな…と頭の中で考えつつ、彼女は息をひそめてじっと待つのであった。
それからノエルの体感ではかなりの時間が経った。
周囲の騒ぎも一切聞こえなくなり、来た時と同じような音が広がる森になっていた。
『よかった……』
まずは自身の安全を守れたことに安堵し、木から飛び降りると置いてあった籠を手に持つ。
『早く戻らなきゃ。そろそろ日が暮れる……』
余裕をもって切り上げようとした時間から、かなり経っていることに内心少し焦りを覚えるノエル。とは言え、今から速足で戻れば夕暮れまでには門に辿り着けると考える。
そうして籠を背負い、門の方向まで歩き始めた瞬間。
「…………ひっく」
ノエルの耳は、かすかな人の泣き声を聞き取ってしまった。
気のせいかもしれないが、こういった時の嫌な予感は大抵無視してはいけないことを経験している。
もう一度耳を澄ませ、意識を集中するノエル。
「……………………………ひっ」
方向が分かると、自身の物音で声をかき消さないように慎重だけれど早い足取りで向かっていく。
そうして向かったのは門とは反対側。ノエルが採集していた位置より少し奥。
低木の向こうにある大木から、時々鳴き声が漏れ出ていた。
彼女がのぞき込むと。
そこには目に涙をいっぱい溜めた少年が、大木のうろに隠れていたのだ。
「……あ、あぁ、あの!」
少年が気持ち大きな声で喋ろうとした為、ノエルは少年の口をそっと押えると、反対の手で人差し指を立てつつ自身の口に当て、静かにという動作をする。
少年の目からは涙がポロポロと溢れていたが、何度も頷いて分かったと示す。それを見たノエルも一度大きく頷くと、かすかな声で少年へと話しかける。
「……あなたは、ヒチ草を集めに来ていた職人見習いの一人?」
頷きで答えを返す少年。
「モンスターに襲われてここに逃げ込んだ?」
また同じように頷く少年。
『騒動の中でここに逃げ込んでしまったのか……』
慌てている状態で森の中で方向が分からなくなるのはよくあることで、少年を責めるわけにもいかない。
「……今は森が落ち着いているから、一緒に街へ戻りましょう。声を出さないようにして、静かに移動しなければいけないけれど出来ますか?」
少し考え込んだ様子だったがコクリと頷く少年を見て、ノエルも頷き返す。
そっと少年がうろから出てくると、ケガをしていないことが分かり安堵した。
「……詳しい話はあとで。今は急ぎましょう」
少年の手を握ると、心持ち早めに街へと向かう二人だった。
それからは問題もなく、少し時間が経ってノエルがいつも目印にしている、森と草原の境目にあるねじれた木までたどり着くことが出来てそっと一息つくノエル。
その木は少年も見覚えがあったのか、それまでノエルの手を力強く握っていた彼の手が、緩んだようにほどけたことが分かった。
『ここまでくれば大丈夫』
ノエルが心の中でそうつぶやいた瞬間。
「……グルルゥ」
耳が捉えた声に反応して振り向けば、二人の背後には一匹のグラスウルフが獲物を見据えた目で立っていた。
判断は一瞬。
少年の背を街の門の方向へ強く押しやるノエル。その力強さには『門の方へ逃げろ』という無言の意志が込められていることを悟った少年は、僅かばかり逡巡するも勢いよく駆け始める。
それと同時に、獲物に食らいつこうとノエルの方へ向かってくるグラスウルフ。
『一緒に逃げれば二人とも襲われて終わり。グラスウルフは数匹で群れになっている可能性も高い。ならば……!』
瞬時に思考を駆け巡らせると、己の手を腰のバッグに持っていくノエル。グラスウルフがノエルの射程圏内へと入った瞬間、しびれ玉と匂い玉を取り出し迷うことなく投げつける。
「ギャウン!」
その体に直接当たることは無かったが、グラスウルフの足元で爆ぜたその球が大量の痺れ粉と匂い粉を巻き上げその嗅覚を襲う。強い刺激に五感を奪われたせいか、その場で大きな鳴き声を何度も上げながら暴れるグラスウルフ。
その隙をついたノエルは、己が逃げ場と呼んでいる安全地帯を目指して、全力で森の端へと駆け抜けるのであった。