お前はそこで止まれ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うわっ、こえー! 平均台のジャンプ、めちゃこえー! これ失敗したらシャレになんねーって。
足、あんなに開いたまんまだろ? 踏み外したり、股間ぶつけたりすることを想像したら、俺なんかとてもとても……やる気になんかなれねえな。
でも見る側にいると、華麗な技の成功もやまやまだが、失敗する様も目にしたい、と思う時がある。ひょっとして俺だけか?
こんなこと考えちまう理由。個人的に「安心感」を得たいからじゃないかと考えている。
選ばれた競い手とはいえ、自分と同じ人間だ。とうてい俺たちには及びもつかない技をくりだす彼らのアラを見つけたい。
それによって自分と同レベルであると。あいつは特別じゃないんだという、実感が欲しい。そんな劣等感の現れなんだと思う。
この気持ち、適度に発散されないとどえらい目に遭う恐れがある。俺自身、ちょっとした経験持ちでな。だいぶ前の話になるが、聞いてみないか?
小さいころは平均台に限らず、やたらと狭い部分、小さい部分を綱渡りすることが好きじゃなかったか?
俺が覚えているだけでも、道路の縁石、ガードレールの上、道路にはめこまれたタイルの色が違う部分などなど。こぞって足をのっけにいったもんだ。
こいつらはお金をかけない、手ごろなおもちゃだった。そして飽くなき訓練ツールでもあった。
――もっと速く。もっと正確に。
時間が許す限り、何度も何度も俺は往復する。自分との勝負であるとともに、世界との勝負でもあったなあ。
この場所で、俺以上にうまく動ける奴はこの世にいない。誰にたずねられなくても、そう胸を張れるようでありたかったんだ。
俺が気に入っていたのは、とある中学校前に横たわる道路。その路側帯の上だ。
しばらく手をくわえられていないらしく、線はあちらこちらが消えかけ、かつて標識が埋まっていただろう隆起もそのまま。むき出しになった土からは、色のあせた草がちょこちょこ顔を出している。これらをうまいことかわして、白い部分だけ踏んでいくのが俺のやり方。
その日は先客がいた。制服を着た中学生と思しきお兄さんで、つつと路側帯の上をなぞり、ときおりまたいだり、跳びはねたり。
――俺の真似っこをしているな。
ちょっと距離を離して、俺はその様子を眺めている。邪魔をするのは気が引けたし、年上相手に「どいてくれ」という勇気も出てこない。
やがてお兄さんは、難所に差し掛かる。そこは数メートル先にかけてカーブを描きながら、線がとぶとぶでしか残っていない。そのひとつひとつの大きさも、お兄さんの足のサイズじゃ、かかとをつけるのがせいぜいだろう。
お兄さんはよく頑張った。バレリーナのようなつま先立ちのまま、確実に線の残りを踏んでいったが、あとひとつで向こう側というところで、パッパーとクラクションを鳴らされる。
じゃりを積んだ、そこそこ大きいダンプ車だ。
ちょっと珍しい。ここを回り込めば広い道はそこそこあって、ある程度大きい車ならそちらを選ぶだろう。下手をすればタイヤが路側帯を越えて、歩行者を脅かしかねないからだ。
お兄さんはどかなかった。つま先立ちのまま路側帯の一角で止まり、ダンプを待ち受ける。
事故を起こしたらたいてい車のほうが弱い立場で、責任を重く負わされがち。ダンプはきもち分離帯をはみ出て外側へ。余裕を持ってお兄さんを越えていく。
だが、そのあとがよくない。ダンプの排気管が横を向いていて、もろにお兄さんの顏へかかった。もちろん不正改造だ。
「ぶほっ、ぶほっ、ぶほっ」と、黒い排煙がとぎれとぎれに吐き出される。もろに浴びたお兄さんは、たまらず路側帯から足を外して逃げてしまった。
俺は思わず吹き出す。お兄さんを笑ったんじゃない。排煙が出の悪い屁をこいたようで、おかしかったからだ。
そのタイミングでお兄さんがこちらを振り返る。
眉毛を吊り上げ、食いしばった歯が口元からのぞかせ、「ちっ」と大きく舌打ち。不機嫌さを隠そうともせず、前へ向き直るとそのまま足早に立ち去っていく。
――やべっ。ひょっとしてお兄さんを笑ったように取られたか?
そう思った時には、もう彼の姿はない。最初こそ不安に思ったが、遊び場は空いた。
たとえ妨害があっても、俺はもっとうまくやってみせる。そう言い聞かせながら、俺はその日も路側帯の上を何度も行き来したんだ。
翌日も、俺は学校が終わるや、例の路側帯へ向かう。
今回はお兄さんの姿は見えない。俺は心おきなく「修行」を始めた。
昨日はあの難所で何度かミスした。今日こそは完璧に、と意気込んでいたよ。
でも、その入り口に差し掛かったところで「チリリリン」と後ろからベルが響く。自転車がやってくるんだ。
本来なら止まったほうがいいだろうけど、俺は強行。ひとつめの飛び石に足をかける。
――あのお兄さんは足を止めて、結果的にミスった。なら俺は止まらずに先へ進む。それでうまくいけば、俺はお兄さんより上なんだ!
年下の自分が、己の力で年上を負かす。なんとも、胸がぞくぞくするシチュエーションじゃないか。
それから三回ベルを鳴らした後、自転車は歩道側から俺を追い越していく。かなりのスピードかつスレスレで、ひと呼吸遅れて吹きつけた風が俺の髪の毛を逆立てた。
その間、俺は残った線の上から、いささかも足を外さなかったよ。
気を良くしたけど、満足はしていない。俺は更なる妨害の到来を心待ちにしていた。
あのお兄さんが出くわしたような、トラックの排煙。あれを相手にして勝たないうちは、本当の意味でお兄さんを上回ったとはいえないだろう。
天気の悪い日以外、俺は欠かさずそこを訪れた。あの日のお兄さんのような、コンディションに出会うことを求めて。
ほとんどは何事もなく過ぎた。時たま乗用車や、群れをなす自転車小僧たちが通りかかることがあったけど、それらには動じない。
むしろ腹が立った。「お前らは及びじゃないんだよ、くそが!」と、何回心の中で罵ったか分からないねえ。
で、3月も間近に迫ったある日。何度目かの練習のあと、遠くからエンジン音が響いてきた。
振り返ると、あの日にそっくりなダンプカー。今はずっと後ろの信号で足を止められているけど、ウインカーは出していない。真っすぐこちらへ来る。
――いよいよか。相手にとって不足なし!
俺は先立って、路側帯の上をなぞり件の位置まで移動を始める。ほどなく、改めてかかるエンジンの音と共に、ぐんぐん車が迫ってくるのを背中で感じた。
俺はお兄さんと同じ、難所の半ばあたりで車に追いつかれるペースで進む。当然、追い抜かれるだろうが、そこでなおも足を止めずに進んでいれば俺のほうが完全に上だ。
地面の揺れが伝わる。とうとうすぐ後ろまで来たかと感じるや、頭上から声が降ってきた。
「やれ!」と。
俺は思わず、ここまでとんとん拍子で来た足を止める。ほぼ同時に、俺を追い越していくダンプの助手席の窓から、あるものが飛び出してきた。
ダイヤル式の旧型テレビ。俺の目の前を横切り、そのまま学校の壁に当たって粉々に砕け散った。ガラスの破片がいくつか足をかすめる。
「ちっ!」と大きな舌打ち。顔を上げると、中学校の三階の窓がぴしゃりと閉められた。制服姿の男子がひとり、ガラス越しに背を向けながら離れていく。顔ははっきり見えなかったが、さっきの声はあの時のお兄さんのものじゃなかったか。
それ以来、俺はこの手の遊びからすっかり手を引いちまったよ。