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薔薇の令嬢は心の準備がしたい

 

 

 

 

 

 ある日の朝、いつものように温室にやってきた私を甘く芳醇な香りが出迎えてくれた。


「……いい香り」


 かちゃり、と後ろ手でしっかりドアを閉めてから、私は思わず独り言を零す。

 この温室に充満するほどの香を放つ薔薇といえば"月夜の女王"という品種の薔薇だ。

 昨日の夕方、蕾の姿を確認したから間違いない。

 この薔薇は深夜に月の光を浴びながら白と薄紫の美しいグラデーションカラーの花を咲かせる品種で、この強く甘いフルーツのような香りが特徴だ。

 フォルクハルト様が……何度目の訪問だったかは明確に覚えていないけれど、この温室にやってきたとき、偶然咲いていたこの薔薇の香りを嗅いで「美味しそう!」と笑っていたっけ。


 確かに美味しそうだもんな。まぁ、実際は無味なんだけど。


 と、私は内心で笑う。

 フォルクハルト様が美味しそうだと言ったから、薔薇ジャムにしてみようと思ったのだ。

 ぐつぐつと煮詰めて煮詰めて、そして味見をしてみればびっくりするほど無味だった。あんなに強い香りは一体どこへ逃げてしまったのか、出来上がったジャムはお砂糖の味のただただ甘いどろっとした物体になってしまった。

 あまりの驚きにちょっぴり脳がバグってしまうほどだった。

 そんな美味しくなかった薔薇ジャムの話はいいとして。

 そういえば、月夜の女王を見たフォルクハルト様は大層興奮していたな。

 月の光に照らされて咲く花の話なんて初めて聞いた、と。

 それからとても綺麗だ、とか、すごいなぁ、とか、とにかく熱い視線を向けてべた褒めしていた。

 その様子を見て、私は胸の奥がちくちくするというかもやもやするというか、今までに感じたことのない複雑な感情を抱いていた。

 今改めて考えてみれば、私が咲かせた薔薇を褒めてくれる嬉しさと、熱い視線を向けられた薔薇たちへのちょっとした嫉妬があったのだろうと思う。

 だから、そのころにはもう、私はフォルクハルト様に恋心を抱いていた……んだと思う。

 今まさに捨てられそうになっているようなときにいつから恋心を抱いていたのかなんて自覚したところで無駄でしかないんだけど。

 ……フォルクハルト様はもう、私のことなんて忘れてしまっているかしら。

 まぁ見てくれも地味だし大した話もしていないし、覚えていてもらえるほどのインパクトなんて残してないしな。


 ……インパクトて。


 でも、どうだろう。

 私と婚約したのなんて今よりもっと子どもの頃だし、人が心変わりをするなんて当たり前のことだ。

 学園で新しく出会った人に恋をして、その人のほうが大切になってしまうなんてきっとよくあることだろう。

 あと、ついでにヒロインと攻略対象キャラだし。惹かれ合うのも当然なのかもしれない。

 それはいい。……いや、よくないけど、まぁいい。置いておく、と言う意味でまぁいい。

 もしもフォルクハルト様が私のことを邪魔だと、疎ましいと思ったら……私は嫌われてしまうのだろうか。

 嫌われるくらいなら、忘れてもらったほうがいい気がする。


 フォルクハルト様に嫌われてしまうのは……考えただけでつらいからな。


 忘れてもらったほうがいいというか、嫌われるくらいなら忘れられたほうがまし、だ。

 何事もなかったかのように、まるで最初からそこには何もなかったかのように、何もかもを忘れてほしい。

 親族に嫌われることにはもう慣れたしいくらでも我慢出来るけれど、フォルクハルト様にだけは……嫌われたくない。嫌われるのが、怖い。

 もしもフォルクハルト様に嫌われたら、面と向かって嫌悪感を滲ませた目で見られたら、私はきっと今までにないほど傷つくのだろう。そうなったら、私は立ち直れるのだろうか?

 立ち直れない気がする。

 だからこそ、やっぱり留学でもなんでもして、彼の視界からそっと消えるしかないのだ。

 そして何事もなかったかのように、書面だけでの穏便な婚約破棄が出来ればいい。

 波風立てずに消えてしまえば、嫌われてしまうことはないだろうから。多分。

 穏便に婚約破棄が出来れば、フォルクハルト様はスムーズにヒロインとくっつくことが出来て私のことなど忘れる。うん。きっとそう。

 私がフォルクハルト様から嫌われず、さらにフォルクハルト様が幸せならそれでいいじゃないか。

 なんて、そんなことを考えていたら、月夜の女王の花びらがひとひら、はらりと落ちた。


「あら」


 落ちる花びらを目で追っていると、そこにもう一つ蕾が付いていることに気が付いた。

 この感じなら、きっと今夜にでも咲くのだろう。

 ということは、おそらくこの温室は明後日くらいまでフルーティーな香りに包まれるのだろうな。

 そう思うと、少しだけ笑顔になれた……気がした。


 いや、笑顔にならなきゃ。


 私は運がいいんだから。なぜなら前世を思い出したのだ。前世を思い出したからこそヒロインの存在とフォルクハルト様が攻略対象キャラだということに気が付けた。

 これが全く何も知らないままこの状況になっていたら、なんの心構えも出来ないまま婚約を破棄されるんだもの。

 そんなの、絶望しかないでしょう。

 よく分からず婚約して、別の女に乗り換えられて、結局よく分からないまま婚約破棄されるわけだから。

 そうならないだけ、まし。

 ね、と目の前にある蕾をつつく。そしてまた思い出した。

 花を咲かせた月夜の女王の花弁は白と薄紫なのだが、蕾の時点では薄紫の部分が薄緑だったりする。

 確かあの時も咲いた花の近くに蕾があって、それを見たかつてのフォルクハルト様はふわりと微笑んで言った。


「クレアに似てる」


 と。

 私の髪がうっすい緑色だからだろうな。

 私はそう思ったけれど、何も言えなかった。なんと言えばいいのかを考えている間にも、フォルクハルト様がしゃべり続けていたから。


「なんだか幻想的なところも、なんとなくふわふわしてて愛らしいところも、いい香りで美味しそうなところも」


 ……と、まぁ恥ずかしげもなくぺらぺらと。

 あの頃はまだ十歳頃だったと思うし、今考えてみれば恐ろしい口説き文句を言う子どもだったのだな。

 っていうか美味しそうって!

 とんでもないことを言われていたのでは!?

 いやでも子どもだから、他意はなかったのかもしれない。いや、なかった。他意はなかった!

 いやいや……いやいやいやだから今更そんなことに気が付いて思い出し照れして一人で赤面したところで無意味だって言ってんじゃん!


 私は! このあと! 捨てられるの! 自覚しろ!


 ……とはいえ、最後にもう一度だけちゃんと顔が見たかったし声も聞きたかったな。

 というかこんなにも早くお別れすることになるのなら、もっと話しておけばよかった。

 フォルクハルト様といる時の自分はびくびくもごもごしてるだけだったからな。

 だって、他人は怖いんだもの。前世だって現世だって私の周囲には私に悪意を向けてくる人間に溢れているから。

 今はメロディがいるから、前世よりはましだけれども。

 ……もっとフォルクハルト様を信じてみればよかったのかな。

 でもなぁ、どちらにせよフォルクハルト様とヒロインの邂逅は免れないのだろうし、結局私は捨てられるわけで、信じれば信じた分だけ傷は深いんだよなぁ。


「人間って難しい」


 私もこんな温室でぬくぬくと育つ薔薇に生まれ変わればよかった。

 ぬくぬくと育って鮮やかに咲き誇って、そして命を全うして散っていく。そんな薔薇に生まれ変わっていればこんなに頭の痛い思いをしなくて済んだのに。

 そんなことを考えながら、私は大きなため息を零したのだった。



◆◆◆◆◆◆◆



 メロディに声をかけられて、いつの間にかティータイムに差し掛かっていたことに気が付いた。

 薔薇の世話をしていると、すぐに時間を忘れてしまう。私の悪い癖だ。


「クルミをたくさんいただいたので、今日はクルミ入りのマフィンを焼いてみました」


 メロディはお茶の準備を整えながらそう言った。

 そして今私の目の前には美味しそうな香りを漂わせたマフィンが鎮座している。

 月夜の女王の香りもフルーティーで好きだけど、メロディが焼いてくれた焼き菓子の香りも大好きだ。甘くて香ばしくて。


「しかし最近いろんなものをいただくのね、メロディ」


「ん? そうですねぇ」


「私の好きなお店のお菓子だったり私の大好物のミルクジャムだったり、このクルミも」


「言われてみればそうですね! クレア様が頑張っているから、天からのご褒美だったりするのかもしれませんね」


「……メロディが買って来てたりする?」


「そんなことできませんよ。私、ちゃんと仕事してるでしょう?」


 そう言って首を傾げるメロディを見て考える。

 確かに彼女の仕事は細かいところまで行き届いている。

 私が学園に行っている間に買いに行っているのではと思ったのだが、この仕事をこなしたうえで買いに行くとなると結構な時間が必要だろう。

 私が学園に行っている時間内で行列が出来るであろう有名店に行けるとも、ミルクジャムのために遠くの村まで行けるとも思えない。

 ということは、やっぱりいただきものが偶然私の好物だったということなのか。


「不思議ね」


「不思議ですねぇ」


 私の言葉を反復しながら、メロディはのほほんと笑っていた。

 メロディは自分じゃないと言っているけれど、もしかしたら私に気を遣って私の見ていないところで何かしてくれているのかもしれない。

 気を遣わせないように気を付けなければ。

 さっきみたいな考え事は温室の中でだけにしよう。温室の外では、いつものようにぼんやりしていればきっとメロディだって私が悩んでいることになんか気付かない。多分。


「それにしても……今日も相変わらず静かね」


 ぽつりと零せば、メロディが呆れたように笑う。


「今穏やかなのはクレア様と私だけですから」


 なんて言いながら。

 私以外の家族たちは相変わらず大変らしい。詳しいことはあんまり分からないけれど。


「私は、これでいいのかしら」


「いいんですよ。穏やかに過ごしましょう。もしもクレア様に火の粉が飛んできそうになれば私が蹴散らしますから」


「ふふ、頼もしいわ」


 実際、婚約破棄が目前に迫っているようなものなので、私も穏やかなまま過ごせるわけではないのだろうけれど、今だけは穏やかに過ごしていたい。


 ヒロインの努力で……努力? 体当たりが努力……? いや、まぁ努力としよう。とりあえず努力とすることにして、あの体当たりのせいで私はヒロインをいじめる悪役に仕立てられた。

 その結果、ヒロインと攻略対象キャラと悪役は出揃った。

 道のりが真っ直ぐではなかったにせよ、おそらく乙女ゲームのシナリオには乗っているのだろう。

 ということは、ヒロインと攻略対象キャラが紆余曲折あってくっつくのは学園を卒業する時だ。

 だからきっと、あと二年弱は穏やかに過ごしていられる。

 その間に、ゆっくりじっくり心の準備をしよう。

 波風を立てずに、フォルクハルト様の側を離れられるように、穏やかに。

 その前に留学出来れば話は変わってくるんだけど。

 しかしまぁどちらにせよフォルクハルト様に婚約破棄を言い渡されれば、私は次期公爵様から婚約破棄されたただの子爵家令嬢だ。

 しかもローラット家なんて大した家柄でもない。

 それだけじゃなく学園内では神々に愛された娘をいじめた大罪人なのである。

 冷静に考えれば、学園を卒業した私に居場所などないだろう。

 だから、隣国に行きたいとかなんとか言ってる場合ではなく、隣国に行かざるを得なくなるはずだ。


 やっぱり、心の準備が必要だ。


 卒業後、私は厄介な曰くつきの事故物件になるのだから、おそらく一生結婚は出来ない。

 貴族の家に生まれた女が一人で生きていくにはなかなか厳しい世界だけれど、こうなってしまった以上腹を括るしかないのだ。

 となると、心の準備どころか懐の準備もしておかねばなるまい。

 家族なんて信用ならないから、一人で隣国に行ってもしばらくは困らない額を準備しておきたい。

 幸い私には薔薇がある。

 ブーケ用の薔薇をたくさん育てて、メロディにたくさん売りに行ってもらおう。それがいい。メロディには少し迷惑をかけてしまうけれど……。


 でも、頑張ろう。前世と同じ選択をしないためにも。


「え、このマフィン美味しい!」


「それは良かった」


 まさかメロディ、お菓子作りの天才なのでは……!?





 

超両片想い。

ブクマ、評価等いつもありがとうございます。

そしていつも読んでくださって本当にありがとうございます。


おかげさまでブクマ数が1000を突破いたしました~!ありがたや~!

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