薔薇の令嬢は現実逃避したい
少し痛々しい描写があります。
苦手な方はご注意ください。
前世の記憶をうっかり思い出した私は、その翌日、初めて学園をお休みした。
猛烈に気分が悪かったから。
別に熱があるわけでもなく明確な病気でもなく……まぁ完全な仮病なのだが一日くらい許してほしい。
病人らしく、大人しくベッドの上で過ごすから。
気分が悪くなった理由は、前世の自分の死を思い出したから……というわけではない。
死の間際に見た風景はなんとなく覚えているけれど、感覚までは思い出さなかったからダメージは少なかったのだ。
ただダメージが大きかったのは、この世界で私に怒声を浴びせたり悪口を言ったりしていたあの祖父と前世のパワハラ上司が推定同一人物だったことだ。
怒鳴り方と悪口のレパートリーがなんとなく似通っていたから。
昔、自殺をすると来世で同じことを繰り返すことになる、そんな話を聞きかじったことがあったけれど、あながち間違いではなかったらしい。
実際あの祖父がまだ生きていたころ、何度も何度も死んでやろうと思っていたから。結局なんやかんやで死ねなかったけど。
クソー、折角思い出すならあの祖父が死ぬ前に思い出したかった。
そうしたら、葬式にハンマーを持ち込んで暴れまわってやったのに。
……いや、私にそんな勇気はないか。
気分の悪さとイライラで頭の中がぐちゃぐちゃになっていた時だった。
控え目なノックの音が聞こえる。
「クレア様、昼食の時間ですが」
侍女、メロディの声だ。
猛烈に気分が悪いので食欲もない。昼食はお断りさせていただこう。
そう考えながら起き上がり、小さく返事をする。
すると心配そうな顔をしたメロディがベッドサイドまでやってきた。
「食べられそうですか?」
ふるりと力なく首を横に振れば、メロディはベッドサイドにしゃがみ込み、私と視線を合わせてくれた。
「大丈夫で、すか……クレア様!?」
メロディが私の首元を見ながら、ぎょっと目を見開いた。
そしてすぐに「救急箱!」と言ってばたばたと部屋から出ていった。
私の首元に一体何が、そう思ってベッドサイドの引き出しから手鏡を取り出す。
すると、手鏡には傷だらけの首元が映った。
幾筋もの引っ掻き傷が出来ているので、どうやら寝ている間に掻き毟ったらしい。
うーん……これはやっぱりあの縄を思い出したからだろうか。
夢を見た覚えはないが、もしかしたらただ覚えていないだけで魘されていたりしたのかもしれない。
しばらくぼんやりと傷を見ていると、部屋の外から「今それどころじゃないのでお引き取りください!」という声がした。
そしてすぐにメロディが飛び込んでくる。
「酷い傷はなさそうですが、まずは消毒をしますね」
彼女はそう言って手早く消毒液を浸した脱脂綿を私の首に押し付ける。
軽い引っ掻き傷なので多少ぴりぴりする程度だった。
「傷が残ってはいけませんし念のため包帯も巻いておきますね」
包帯が、くるりと私の首に巻き付けられる。
その瞬間、今までに感じたことのないような、得体の知れない恐怖が腹の底から湧き上がってきた。
「や、めて」
「クレア様?」
上手く呼吸が出来ない。
「クレア様!」
いうことをきかない震える手で、必死に包帯を引き剥がそうとする。
そしてやっとの思いで包帯を掴んだ瞬間、前世の記憶が頭の中でぐるぐると回り始めた。
来る日も来る日も貶され蔑まれ嘲笑われる。
先輩も同期も後輩も、社員も派遣もパートも、人はその場にたくさんいたのに、私だけが皆の前でこれ見よがしに怒鳴られる。
それだけじゃない。
あいつらは私にだけ雑用を押し付けて、無駄な残業を強いて、精神も体力も、正常な判断力さえも奪っていった。
誰も、誰も助けてなんかくれなかった。助けようともしてくれなかった!
「――助けてっ!」
この世界で生きてきて、一番大きな声が出た気がした。
けれどその声が私のものなのか、それとも前世の私のものなのか、よく分からなかった。
その後、急に苦しくなってげほごほと死ぬほど苦しい咳に襲われる。
目尻からは涙が溢れてきた。苦しいからなのか、悲しいからなのかも分からない涙が。もう何も分からない。
「クレア様、クレア様落ち着いてください」
いつの間にか前かがみになっていた私の背を、メロディの右手がゆっくりと撫でてくれる。
咳が落ち着いてきて、やっとちゃんとした呼吸が出来るようになった時、丁度私の膝の上あたりにメロディの左手が添えられているのが視界に入る。
なんとなく、その手に触れてみるととても温かい。
あの時、こんなに温かい手が側にあったなら、死なんか選ばずに済んだのかな。
そんなことを考えていると、メロディがきゅっと私の手を握ってくれた。
それを見た私は、驚くほど大泣きしてしまった。
メロディも驚いていたし、私自身も驚いていた。だって次から次に涙が溢れてきて全く止まらなかったんだもの。
ベッドに腰かけたメロディが、今度はぎゅっと抱きしめてくれる。
「好きなだけ泣いてください、クレア様」
そう言って、よしよし、と頭や背中をなでてくれる。
「メロディ、お母さんみたい」
「まだぎりぎり三十手前なので……お姉さんでお願いします……」
「お姉さん」
ふふ、と小さく笑いながらメロディの顔を見ると、彼女の目にも光るものがあった。
私につられて泣いてしまったようだ。申し訳ない。
「ごめんね、メロディ」
「なにがでしょう?」
「迷惑、かけちゃった」
「迷惑だなんてとんでもない」
メロディはそう言って、もう一度改めて抱きしめてくれる。
今までは、私なんかに優しくしたらメロディまでこの家の厄介者扱いをされてしまうんじゃないかと恐れて極力距離を取るようにしていたけれど、今はもうそんな余裕がなかった。
私は恐る恐るメロディの背中に腕を回す。温もりに縋るように。
「よしよし。今までたくさん我慢しましたね」
メロディは、幼い子どもをあやすように、私の背をぽんぽんと叩きながら優しい声でそう言った。
「あなたを一番苦しめていた奴はもう死んでしまいました。残ったのは雑魚だけ」
「メロディ?」
「……よしよし」
誤魔化した……!
抱きしめてくれていた身体を離し、メロディはまず私の目元を確認する。
「涙は止まったようですね。でもこのままじゃ腫れちゃいますし、冷やすものを持って来ましょうね。首元のほうは……」
首元に視線を移したメロディが、うーんと呻りながら小首を傾げる。
傷があるのでそれを隠すためにも包帯を巻きたいのだが、私が包帯を巻こうとしたところで取り乱してしまったのでどうしたもんか、といったところだろう。
「治癒魔法師を呼べばすぐに治せますが……クレア様はお若いので七日程あれば傷も綺麗に消えるでしょう」
「うん」
「きっと長年の疲れが爆発しちゃったのでしょうし、この際だから傷が治るまで学園はお休みしましょうね」
「いいの、かな」
「旦那様や奥様なら私が適当に言い包めておきますからご心配なく」
「う、うん」
「お休みしている間の授業内容なら私がお教え出来るので、それもご心配なく」
「分かった」
「クレア様は、ご自分のことだけを考えてゆっくりお休みください」
「うん、ありがとう」
「それじゃあ、私は目元を冷やすものと、心を落ち着けるハーブティーを用意してきますね」
メロディが部屋を出ると、当然ながら室内がしんと静まり返る。
その静けさの中、私はなんてことをしてしまったのだろうと少しだけ恥ずかしくなった。
人前であんなにも派手に大泣きしてしまうなんて。
でも、泣いたことで少しすっきりした気もしている。
今までは常に喉元に違和感があって、物を飲み込もうと咳払いをしようと何かがつかえたままみたいだった。
けれど、今はそれが少しだけ落ち着いていた。
これがこのまま治ってくれるなら、恥をかいた甲斐があったというものなのだが。
「クレア様、ハーブティーをお持ちしました」
ほどなくして、メロディがあれこれ持ってきてくれた。
ハーブティーと、軽食と、目元を冷やすための水と、あとタオルと。
「ありがとう、メロディ」
「いいえいいえ。軽食は食べられそうだったらどうぞ」
メロディの言葉に、私はこくりと頷く。
メロディが持ってきてくれた軽食はふわっふわのパンだった。
ついさっきまでは食欲がなかったはずなのに、なんとなく胃のあたりが活動を始めた気がする。
「ハーブティーを飲んで、食べられそうでしたら軽食を。それから目を冷やして少し眠って薔薇のお世話はその後ですね」
「お世話をしに行っても大丈夫かしら?」
「クレア様が大丈夫なら大丈夫ですよ。屋敷内に人目のない時間帯も調べているので誰とも顔を合わせず温室に行けますし」
「ありがとう」
良く出来た侍女だこと。
そんなわけでしばらく眠り、目元の泣いた跡が目立たなくなったところで私は温室へと向かった。
「お待たせ」
そんなことを呟きながら、薔薇たちに水をやる。
そこでふと『薔薇の令嬢クレア・ローラット』という言葉が頭に浮かんだ。
クレア・ローラットは私の名なのだが、はて? 薔薇の令嬢というのはどこで聞いたものだったか。
クレア・ローラット……?
フォルクハルト・ハーマン……?
「あ」
ゲームだ。
前世でちょっとだけ遊んだ乙女ゲームだ。
確かあのゲームにフォルクハルト・ハーマンって人が居た。
フォルクハルト様みたいにカッコイイ次期公爵様がいて、あとフォルクハルト様の幼馴染である第二王子が居て、あとは……ちょっと忘れたけど、なんかイケメンがいっぱいいたことは覚えている。
そしてヒロインを目の敵にしている、いわゆる悪役の令嬢がいて、その子がちょいちょいミニゲームを仕掛けてくるのだ。
水をかけてくるから上手く避けろだとか、足を引っかけようとしてくるから当たらないように飛べだとか。
神経衰弱を挑んでくるみたいなミニゲームもあったな。
一緒に神経衰弱ってもはや仲良しじゃん! って思いながら遊んだ記憶がある。
しかし仲良しじゃん! と思いつつもミニゲームのスコアが低ければイケメンたちとの親密度が減ってしまうので必死で戦っていたっけ。
……と、そんなおちゃめな悪役令嬢の名がクレア・ローラットだった。
つまり、私と同じ名だ。
ヒロインの名前は好きなように変えられたはずだけど、デフォルト名は確かジェニー・サリス……。
ジェニー・サリスといえば、私にいじめられに来ているあの子だ。
と、いうことは?
まさか、ジェニーは私のことを悪役だと思って当たりに来ているということなのだろうか?
ゲームのシナリオ通りに事を進めるために?
なんだろう、すごく迷惑。
私は悪役を演じるつもりもないし水をかけるようなミニゲームを仕掛けるつもりもないし、ましてや神経衰弱を挑むつもりも一切ない。
イケメンたちに囲まれてちやほやされたいなら勝手にやってほしい。面倒臭いし。
私はただただ薔薇の品種改良に勤しみながら平穏な日々を過ごしていたいだけだもの。
そりゃあ、ちょっと好きだったフォルクハルト様が側に居なくなるのは少しだけ残念だけれど、平穏な日々を選ぶなら彼のことは諦めねばなるまい。
二兎を追う者は一兎をも得ず、というやつだ。私は平穏な日々だけを追う。前世が散々だったことだし。
「クレア様、そろそろお時間です」
温室の外からメロディが声をかけてくれた。
時計を見れば、そろそろ兄弟たちが帰ってくる時間だった。
私は奴らと顔を合わせないように急いで自室に戻る。
「それでは、夕飯のお時間にまた声をかけますので、それまでもうひと眠りしていてくださいね」
「うん、ありがとう」
メロディが部屋を出たのを確認して、ごろりとベッドに寝転がる。
そして、瞳を閉じて記憶の欠片をかき集める。
ヒロインとイケメンがくっついたあと、あのおちゃめな悪役令嬢はどうなったんだっけ?
思い出したとはいえ鮮明に思い出したわけではないので細かいところは思い出せない。
ヒロインをいじめたことがバレて婚約破棄……いや、それは別の乙女ゲームだった気がする。
あのゲームに婚約破棄なんて言葉は出てこなかったんじゃないか?
というか、クレアはどのイケメンを狙おうとミニゲームを仕掛けてきていたし神経衰弱を挑んでもきていたんじゃなかったか?
あの……その、そう、確かそうだ、クレアはこっちが誰を狙おうと邪魔してくるし、なんならクレアを利用して親密度を調節してた気がする。二人分の親密度を揃えると奪い合われエンド……みたいなのがあった気がする!
なんか頑張って狙ってた気がする!
私は誰と誰から奪い合われようとしてたんだっけな!? 思い出せない! あぁ思い出したい!
……と、ひとしきり現実逃避をしまして。
おちゃめな悪役クレアのその後はどうなったんだっけな、ということを考えていたのだった。
ゲーム内のクレアがどうなろうと関係なかったけれど、今は我が身に不幸が降りかかるかもしれないわけだし関係ないだなんて言っていられない。
思い出すことが不可能ならば、今後起きそうなことを想定しておかなければ。
悪役が迎えそうな結果といえば……フォルクハルト様のごきげんを損ねてローラット家没落、とか? 彼は公爵家の方だもの、そのくらい簡単に出来てしまうだろう。
いやでも没落したところで困るのは家族とそこら辺の親族か。……別にどうでもいいな。
えーっと、それ以外なら、フォルクハルト様から婚約破棄を言い渡される、とかか。ヒロインとフォルクハルト様がくっつくんだとしたら私はただの邪魔者だもんな。仕方ない仕方ない。
というかクレアがスコア調節のための悪役ポジションだったとしても、婚約者が居る相手に手を出そうとするヒロインってどうなの?
なんかもやっとするな。略奪趣味がある人にとっては美味しいシチュエーションなのだろうか?
私にそんな趣味はないなぁ……ってことは前世の私も別にフォルクハルト狙いではなかったのかなぁ。
うーん、略奪っぽいシチュエーションがあるゲームになんか手を出すかなぁ?
うーん……うーん……? あれ?
そもそもフォルクハルト・ハーマンとクレア・ローラットは婚約なんか……してなかったな?
沢山のブクマ、ありがとうございます!
そして読んでくださって本当にありがとうございます!
今後はじわっとラブコメ路線に乗っていくと思うのでどうぞよろしくお願いいたします。