弟六章 理由
第六章 理由
一、
静かな空間にコツ、コツ、コツ、カツ、カツ、カツという乾いた革靴とブーツの反響する音が響いていた。
灯りの乏しい通路を、綾乃と板垣は歩いていく。
このホール内を殆んど見廻わっており、おおよその個所を把握していたはずだった。
これから向かう地下にある一室以外は。
そこは八十歳の男性が使用する、防犯カメラのない、部外者には全く知られることのない部屋だ。
二十年前からその老人が用務員室として使用し、他の者が入室するのを嫌っていたために、その部屋がどうなっているのか、関係者でさえ殆んど知る者はいなかった。
綾乃と板垣はアリーナの下、地下にやってきた。
そして、階段のすぐ脇の部屋で立ち止まった。
拳銃はホルスターに収まっている。もしもの時にだ。
S&WM37エアウルフ、口径三十八口径装弾数五発。
作動方式はダブルアクション。いつでも手にすることができるが、できるのなら使わずに済ませたい。
板垣はノックした。一度目は何の返答もない。今度はやや大きく、ゴンゴン。
「はい」
短い返事が返ってきた。綾乃は身構えた。
「東海新聞の皆川と豊田署の板垣です」
しばらくすると白髪で、背中の少し丸まった老人が現れた。
「お待ちしておりました」
中に通してもらうと、部屋は狭く、食器棚と流しのあるキッチン、それから六畳の和室がある。
折り畳まれた布団が二セット目につき、卓袱台があり、その後ろに十四インチの小さなテレビ。
その画面には中西VSゴンザレスの一戦が流れていた。
「どうぞ狭いですが、入って下さい」
老人は言ってから、ポットがあるキッチンに向かった。
「今から茶でも入れます」
「済みません」
板垣は腰を下し、テレビに視線をやった。
部屋の中に入ると、そこに肩を寄せ合うように中西瑠唯、佐竹浩太、そして老人に変装した後藤義信がいた。
彼の目は赤く、充血しており、酷く弱って見えた。
「十和ジムで会って以来ね」
綾乃は、義信に視線をやりながら座った。
「まさか、私のスマホに電話があるとは・・・ありがとう、といってもいいのかしら」
だが義信からは、テレビを見ているだけで返答がなかった。
『五ラウンドが終わりました。大橋さん、今までの試合展開をどう見ますか?』
アナウンサーが、解説の元世界級チャンピオンに話を振った。
『中西選手は立ち上がりこそ体が硬く、動きが悪かったのですが、ラウンドを重ねるうちに、本来の動きを取り戻し、試合を有利に進めていますね。
しかし、チャンピオンの方は若干動きに精彩を欠いているようで、どうやら減量の影響が出てきているみたいです。
パンチも大振りが目立ってきました』
老人が、湯飲み茶わんに茶を入れて、持ってきてくれた。そして、彼も一緒に腰を下ろす。
「もう五ラウンド終わりましたか。ここに来る前に、ちょっと調べることがあったもので、遅くなって済みません」
板垣は、綾乃に目配せし、彼女に任せることにした。
先程、短い時間ではあったが、打ち合わせをしてきたのだ。
綾乃は肯いた。そして、まず老人と話を始めることにした。
だが老人は何も語らず、というか何を言っていいのかわからないのだろう。茶を啜って、相手が喋るのを待っているようだった。
「あなたの名前は後藤三吉。八十歳」
綾乃も茶を啜り、それから唇を舐めた。
「あなたは二十五年前の五十五歳まで、中西工業で働いていましたね」
綾乃は、老人の顔色を伺った。突然切りだしたためか、赤く火照っていた。
「それに一人、娘さんがいました。名前は後藤春江。そう、そこにいる彼の母親です」
義信の目が広がった。
後藤三吉は煙草を取り出した。「いいかな?」
「ええ。どうぞ」
「よく調べましたな」
三吉はセブンスターに火をつけ、ゆっくりと一服した。
「わかっていることは、これだけです。時間がなかったものですから。なので、詳しいことを教えてほしくて、この場に来ました」
三吉は煙草をくゆらし、テレビを見ていたが、その会話がきっかけとなったのか、しばらくすると意を決したかのように、灰皿に吸殻を押しつぶした。
「わかりました。全てのことをお話しするために、この場に及び立したのですから」
三吉は深呼吸をした。
「わしは、すみ子という女性と結婚をしました。
そして彼女は、二年後に一人の女の子を身籠ると同時に、を患いました。
それでも彼女は子供を産むと言ってな。不安な想いに駆られながら、わしも彼女の意向に添い、出産に備えた。そして、出産当日だ。
始めの頃は順調にいっていた。ところが陣痛が始まると共に、すみ子の容態が悪化したんだ。
それで瀕死の状態となってしまった。正直、子供は諦めたさ。それより何とかすみ子だけは助かってくれ、と願った。すみ子は頑張ったよ。
子供を産むことに全精力をつぎ込み、自分の体力を擦り減らして・・・。
そんな中、子供は生まれた。女の子だ。でも、悲しいかな、母親はその一時間後に力尽きて、死んでしまったんだ・・・」
「その女の子の名が春江さんですね?」
「わしが男手一人で育てた、すみ子の忘れ形見だと思って、大切に。
でも、わしには、そう言う、言える資格などなかった。なんせ途中から娘を捨てたのだから」
三吉は言った。
綾乃は、義信に視線を向けると、彼は必死で背中を丸め、耐えているようだった。
「聞いて下さい」
三吉は、義信の背中をさすりながら、板垣と綾乃に言った。
「わしの若い時は、貧しくて、な。だから、中西工業で一生懸命になって働いたよ、娘の喜ぶ顔が見たくて。
そして会社のために、毎日何時間も残業をした。徹夜だって進んでやった。嫌がる奴らの分まで代わりに。
でも一時期、会社の業績が悪化した時があったのだが、その時、無駄な残業をやっている者とし、会社側は、わしだけに処置をとった。
部署移動を何回もさせられ、待遇もどんどん悪いものになっていった。
それで、わしは仕方なく会社を辞めた。表向きはこうなんだが、本当の理由は違うところにあるんだ」
「どういうことですか?」
綾乃は訊いた。
「それは、娘の春江が中西工業社長、順三の息子とできていたからだ。
だが中西は、わしの娘は中西家にふさわしくない、と思っていたんだろう。
中西は、わしのクビを切った。そして、娘と俺を遠ざけた。
だから、わしは娘に反対したよ。そんな男と付き合うのはよせ、と。
それでも娘は中西の息子を愛していた。向こうは遊び半分だったかもしれないが、娘は若くて、初めての恋だったんだ。
いくら反対してもきかなかったよ。
わしの方は、元々嫁を亡くしてからは酒に溺れ、呑んだくれていた。
一時は控えていたんだが、会社をクビになってからは、また酒に手を出すようになって、な。
そのせいもあってか、わしが飲む酒に小言をいう娘を、わしは邪険にした。
そして、これ幸いに、自分のいうことを訊かぬ、そんな娘を勘当してしまったんだ。
そうすることにより、わかってもらえるだろうと、かこつけてな。
最初は戻ってくると思っていたが、娘は出て行ったっきり、それ以来二度とわしの目の前に現れることはなかった。
それほど中西の息子を愛していたのだろう。今から思えば、わしのことが嫌いだったのかもしれない。
無責任な親だよ、わしは。後悔しか残っちゃいない。娘が苦しい時に、親ならずっと付いていてやらなきゃならなかったのに、な・・・」
「酷い。その時に娘さん、春江さんに子供ができていた、ということを知らなかったのですか?
その子供が今、目の前にいる彼ということを」
綾乃は、痛烈に皮肉った。
「許せることじゃないわ。無責任すぎる」
「いや、最初は知らなかったんだ・・・」
「まあ、まあ。続きを訊こうじゃないか」
板垣は、綾乃を宥め、そして、三吉に言った。
「最初は、というと後々知るということですか?」
「ええ。うちの近くに穏やかな流れの川が流れていましてね。
そこでいつも一人でポツーンと座って、その川を眺める少年とわしは仲良くなった。
最初はそれだけだった。だが何回も会い、話を聞いているうちに、この子が自分の孫だということを知った。そこから事態は変わった」
綾乃は、無表情で、淡々と喋るその三吉の様子を窺った。
この人には、感情というものがないのだろうか。いや、きっと欠落しているのだろう、そう思った。
「この子の人生の節目には、必ずといってもいいくらいに会っていたな、まるでお互いが引き合うかのように」
「では、後藤義信が中西工業に入社した時どう思いましたか。
もしかして、今まであなたが裏で、操っていたのではないか、と私はそう憶測を立てているのですが・・・」
板垣は、手帳にペンを走らせながら訊いた。
「そう思われても仕方がない。私が受けた恨みを、この子には小さな時からずっと言い聞かせてきた。
悪いのはわしだ。それに中西工業に就職するよう勧めたのも事実だし、この子が暴走するのも止められなかった。
そして、この子が大きくなると必然的にわしを、利用するようになったよ。
というよりもわしがそうさせたのだろう。心の底でこうなることを望んでいたわけだから」
「利用? それはどういうことですか?」
板垣のペンが止まった。
「義信が、レインボーホールで働くわしに力になってほしいと、今年の十一月の終わりからクリスマスまで、わしの使用しているこの用務員室を貸してくれ、といってきたことだよ」
「十一月の終わりから―」
板垣は、天井を見上げながらあの時のことを思い出していた。
中西工業にいき、義信と会い、そこで事情聴取をした。
だがその時の本当の目的は、義信と瑠唯が兄妹ということを知ったため、それを確かめに行ったに過ぎない。だから、あの時は確固たる証拠もなく、漠然と義信のことが怪しい、とは思ったが、その日は時間に追われていたのもあり、退却したのだ。
また次回訊きにこればいいと。しかしその後、義信は姿を消してしまったー。
「何所に逃走したのかわからなかったが、まさか、この中、レインボーホールの中にいたとは・・・。信じられない」
板垣は呟いた。
「何処にいようと、当日、ここまで来ることはできなかったはずだ。
なにせこの外は、警察の厳重な警備が敷かれていたのだから。
でもこの場にいれば、動くことは可能だ。義信は、クリスマス・イヴの前からこの場にいたんだよ。子供を連れて、な。
わしが見ていた限り、その子供とは、人質という扱いなんかではなく、むしろ自分の子供のように接していたよ。
彼らは、人が行き交う昼間は舞台下でひっそりと、そして夜、人がいなくなってからわしの用務員室にきて、寝るという生活を送り、いつも大体、朝の七時とわしが家に帰る夜の六時頃に食事を運んでいた」
「ここで、そんな生活をしていたとは・・・・・」
綾乃は言った。そして、
「昼間はなしですか? それと、食事はこの部屋に運んでいたのでしょうか?」
と訊いた。
「朝と夜の食事はここですませていたよ。昼間は人に見つかることを嫌い、なしじゃ。
なぜなら、日中は人を滅多に入れることはなかったが、わしの知らぬ間に、関係者が休憩にやってくる時があるかもしれんからな」
三吉の口にしていた煙草の吸い殻が、床にポトリと落ちた。彼はそれを払いのけた。
「この子はな、義信は、異常なまでに母親の愛を渇望した。
それは仕方ない。なにせ、身寄りは母親しかいない。
この子はいつも母親と一緒に居たいと思っていたし、犠牲を払い、全てを投げ打ってでも、母親を欲した。
この世界で唯一心を許せる人、あるいは年齢差を超えた男と女、であるかのように。
そういう男だよ。なのにこの世の中で、たった一人だけの信じられる者を無くしたのだ。普通じゃいられないだろう・・・。それをこの老いぼれが利用したんだ」
「どういうことですか?」
「そんな男に、人を殺したい、と思ったことはあるか、と訊いたんだ。
わしがこの言葉を口にしていなければ、きっと彼は、こんな風には生きてこなかったのかもしれない・・・」
三吉は溜息をつき、首を下げ、ぐったりとした。
三吉の頬を伝う涙を見ても、何も思わなかった。いや、無責任過ぎる男だ、泣くに及ばぬ行為だ、とさえ思った。
そんな時、テレビからざわめきが耳に入ってきた。綾乃は、テレビに視線を移した。
世紀のクリスマス・イヴ決戦の試合は、気づくと最終ラウンドまでもつれていた。
激しい打ち合いに、魂と魂のぶつかり合い、男の意地とプライドが交差する物凄い試合が、双方譲ることなく液晶画面を通し、流れてきた。
『右、右! 左! 効いた、効いている。遂にゴンザレスの腰がおちた!
チャンピオンがぐらついた。中西、猛然と前に出る。
このチャンスを逃すまいと、一気に攻める。
次々に出る、リズミカルな、まるで風車のような連打がゴンザレスに襲い掛かる。
右フック、左ストレート! ダウン、ゴンザレス初めてのダウン!
立てるか、ここでレフリーのカウントが入る―』
綾乃は、三吉を見た。彼もテレビを見ていたが、その目に力はなかった。何を思い、見ているのだろう。
テレビの中の若い中西からは若さ溢れる力、ある種、美を感じたが、この部屋で涙に暮れる老人からは、秋の終わりのような深まる老いに、ただ虚しさを感じるだけだった。
その隣で画面を見つめる義信もまた・・・。
彼らは今、何を思い、見ているのだろう。枯葉舞う、虚しさだけが広がるこの空間で。
『新チャンピオン! 中西英二!』
老人は、しばらく呆然としながらそのテレビを見ていた。その背中が寂し気だった。
「それでは、中西家を恨んでいたあなたは、丁度知り合った一人の子供。少年後藤義信に、自分の恨みを伝えていった。
そして、成長していく彼を見守りつつ、彼が青年になる頃には、完全にあなたの思い通りに動かせるようになった。
そして、彼は、中西守を殺害し、次々に事件を起こすようになっていった、そうですね?」
「はい。その通りです。この子は悪くありません。私が、全て悪かったのです」
「そうですか。あなたがあの言葉、人を殺したいと思ったことがあるか、それを訊いたために義信は、人間じゃいられなくなった・・・」
綾乃は沈痛な趣で言った。
「もう、あなたの話しはいいです」
人を殺す、ということは人間ではなくなるのだ。
この人の話はもういい、これ以上訊いていられない、とさえ綾乃は嫌悪感に陥っていた。そして、次に義信を見た。
「吉田産婦人科に勤める八草京子という女性を知っていますね?」
義信はゆっくりと肯いた。
「彼女が自供してくれました」
綾乃は、今度は義信に向き直り、八草京子から訊いてきた事柄をポツポツと話し始めた。
中西守殺害時のこと、中西瑠唯を妊娠させるために排卵誘発剤を渡していたことなどを。
「はい。間違いありません」
義信は肯定した。
「でも、じいさんに命令されて、やったわけではありません。自分で考え、行動をしてきた。その時は正しいと思って」
義信は、背中を丸めゼェィ、ゼェィと喉を鳴らし、苦しんでいた。なぜ義信は、この老人をこうまでして庇うのだろうか。
「そうですか。それでは、十一月二十日の足田町下林山事件について聞きたいと思います」
今度は板垣が訊いた。
「わかりました」
義信は咳き込んでから肯いた。喉から奇怪なヒュル、ヒュルという音が鳴っていた。
「では、全てを話します」
「あなたは佐竹氏を拉致し、足田町下林山に連れて行った、間違いありませんね?」
「はい。あの日、佐竹さんを拉致し、足田町下林山にいったのは事実です」
「そもそも、あなたと佐竹さんの関係が知りたい。
なぜ、あなたは佐竹氏を利用することが出来きたのか。そして、彼を拉致しなければならなくなった理由、それを訊きたい。詳しく話して下さい」
「はい。その日は、夜になっても梅雨を思わせるようなムシムシした湿度の高い、ぐずついた天気でした。
その時の私には、計画していたことが二つあったのです。
先ず瑠唯と肉体関係を持ち、そして妊娠させること。
そうすれば、母親の気持ちをわからせることができると思ったからです。
もう一つは中西家を陥れるために、佐竹氏を自分の思い通りに利用することでした。
一般従業員では、出来ませんからね。権力者が必要だったわけです。
彼を思い通りに使うことができれば、中西工業に、更に負債を抱え込ませることができるし、社長の光子さんのイメージを悪くすることも可能だ、と考えたわけですー」
二、
―佐竹宣夫との初めてのコンタクトはこんな感じだった。
その日は瑠唯との初めての宿泊の前に、佐竹宣夫と会っていた。
仕事を終え、しばらくブラブラと豊田市の駅前をふらつき、六時過ぎにというスナックに入店する。
店内は全体的に暗いが、仄かな明かりが灯っており、それがいい雰囲気を醸し出している。
義信は辺りを一通り見渡した。カラオケの音が少々うるさいが、客は多すぎず、少なすぎずで、酒と煙草と脂っこい匂いが鼻をついたが、居心地はそんなに悪くはなかった。
前方にターゲットの背中を見つけたので、その男が座るカウンターへ近づいていった。
「ビールでもくれないか」
カウンターのスティールに腰掛けるなり、着物姿の中年女性に注文した。
「おや、」
あくまでも自然に。
「佐竹重役じゃないですか」
義信は、隣の席の男に話しかけた。目の釣りあがった神経質そうな顔つきをこちらに向け、何だ、というような表情を見せた。
「私は中西工業、冷鍛課の後藤義信です」
「そうか」
大して興味なさそうな顔つきだ。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ」
最初は当たり障りのない会話をした。自分の仕事内容、同僚の話しに、将来の夢などを織り交ぜ、そして、時には会社の経営状態を話した。
「君は、物事をはっきりというタイプなんだね」
「このような席ですから」
義信は、平静な趣で受け流した。「続けさせてもらってもいいですか?」
あまり無駄話しをする時間はない。
「どうぞ」
佐竹はビールを一口くちにした。
「今の中西工業には色々な変更、会社的に大改革をしていくことが必要です。
ま、個人が勝手に会社の規制を変えることはできないですが、あなたのような役員が強引に進めていけば、今の中西工業の中で反論できる者はいません。違いますか?」
先ずは煽てるんだ。
佐竹を見ると、悪い気分でもなさそうだった。
それに、思惑通りに事が進まなければ、俺には切り札がある。
「それはそうと、大掛かりな人事異動を仕掛けてみましょう。あなたが実権を確実に握るための」
この煽てに乗って、俺の思い通りに動いてさえくれれば、切り札を出さなくてもすむのだが。
相手がどうでるのか、ある種義信は楽しんでいた。
「私が?」
案の定、彼はキョトンとした。
「そうです。私は佐竹さんが一番適任だと思います。今の社長の光子さんでは何もできませんから。そう思いませんか?」
だが佐竹は複雑な顔を向けるだけで、無反応だった。
「そうですよね。何処の馬の骨とも知れない男には、何も言えない。
いいでしょう。ですが私は誰にも告げ口、密告などしませんから、ご安心下さい」
大きく煙を吐き出した。いかにもふてぶてしく。
義信は、淡々とした口調で説明した後、唇の渇きをビールで湿らしてから、煙草を吹かし、それから佐竹をじろりと見た。
そして、彼の言葉を待つ。
「ほ、ほう君はなんて面白い男なんだ」
少し皮肉った口調が返ってきた。「さっきから黙って君の話しに耳を傾けてきたが、一体誰にものを言っているつもりだ?
それに君が言う、話の内容がさっぱりわからん。もっと頭の中で整理して、何が言いたいのかをはっきりさせ、そこから話すべきだ。違うかね」
様子見に徹した。佐竹の目を見、次にどうでるかを予測する。
「ま、とにかく、一介の平社員が言う言葉かね、少しは慎んだ方がいい」
どうやら、佐竹の逆鱗に触れたようだ。
「そうきましたか。まだ気づかないフリですか」
こうなることを想定していたかのように、平静な趣で言った。
「気づかないフリ?
君は一体、何が言いたい。このような席だから、私も大目に見てきたが、会社では慎みなさい、わかったね。君が言うことではないのだから」
佐竹の顔色が変わっても、義信の平常心は保たれていた。いいさ、俺には切り札がある、そう。切り札が、な。
「人は痛いところを突かれたり、理解できないことがあると怒り出す、そうでしょう?
それでは、答えを少しだけ、言いましょうか。実はですね、今まで話してきた内容については、あなたのパソコンから情報を拾ってきたのですよ。
本年度の計画書にちゃんと載っていましたよ。あなたが水面下で動いていることは知っています」
「何を言っているのか、理解に苦しむよ、君。いい加減にしないか。それに、何なんだ、その笑みは。
それが役員に対する態度か。まったく、けしからん男だな。
いいだろう、こんなことは言いたくないんだが、冷鍛課の課長に言って、仕事をさせないようにするぞ。
それでもいいのか。それが嫌だったら、態度を改めることだ」
権力を振りかざして喋る佐竹。
あまりにも小さな器だ。そう思った。
「あくまでも白を切るつもりですね。いいでしょう。
それでは、私が今から言うことを聞いても、そのような横柄な態度でいられるのでしょうか。
あなたとは、もっと冷静に会話ができると思っていましたが、残念です」
両唇に、含みを持った笑みを浮かべ、鋭く切れ込んでみた。
「どういうことだ?」
「それよりも、」
ここでグラスを磨く女に顔を向けた。何気ない素振りでいるようだが、聞き耳を立てている様子が伺える。
「ママには悪いけど、ちょっと席を外してくれませんかね。これからちょっと込み入った話をするので」
女は小さく肯き、タオルで手を拭いてから、カウンターから出ていった。
これで状況を変え、佐竹を身構えさせることができる。
「いいでしょう。それでは始めましょうか」
足を組み、態勢を整えた。
「中西工業で、ここ一、二年に約一千万円の所得不明の金額が出ているのをご存知でしょうか?」
この言葉で、一瞬にして佐竹の顔色が変わった。
小刻みに震え出した佐竹の身体。明らかに動揺の色が浮かんだのを知る。
「あなたは知っている」
「知らん」
佐竹はたまらず視線を外した。
「知っているはずだ」
ビールを飲み干し、空になったグラスを弄ぶようにして佐竹の顔を見、それから微笑を浮かべた。
「知らん。私には、どういうことなのか、見当もつかん」
「いいでしょう。その所得不明金と同等に近い金が、なぜかは分かりませんが、一旦、あなたの口座に振り込まれているのですよ」
佐竹の額に冷や汗が浮かんでいた。彼はズボンのポケットからハンカチを取り出し、そして、何回も拭う仕種をする。
「そ、そ、そんな証拠が何処にある?」
裏返った言葉。
「先程から何度もフッているのですが、気づきませんでしたか。
私は裏の世界、ネット業界では、少しは名が売れているのですよ。
だから、あなたの今までしてきたことを探るくらい、私には容易に可能なことです。
いいですか。あなたが中西工業にやってきて二年。
その間架空の設備投資、接待費、タクシー代の水増し、カラ出張にカラ雇用と数々の偽造を重ね、一千万円の金を会社から引き出していることを突き止めました」
「何処に証拠がある? 本年度の内部調査でも問題はなかった」
強がっているのだろう。それでも、明らかに先程までの余裕はない。
「隠すことは、いくらでもできるでしょう」
義信は言った。
「それでは、預け金、という言葉をご存じでしょうか」
ゆっくりと喋り出すと、佐竹の目が泳ぎだした。
「な、な、なんだって?」
「例えば、消耗品や事務用品を架空発注して、代金を業者にプールさせ、別の用途に不正流用する手口ですが、私は、アイユー産業側の物品納入台帳と、中西工業の支出金調書とを照合して、調べてみたのですよ。
すると、預け金だけでも、七百万円ありました。
今まで中西工業の経理は手薄で、あなたは支出金調書には架空の注文内容のみを記載し、不正購入した物品は明記せずに、内部調査の目を免れていた。
いとも簡単にね。預け金は実際の使途が記録に残されないため、情報公開請求してもチェックができない。まさに私的流用の温床ですよ」
「そんなものは、君の推測にすぎん。そうだろ・・・」
震え出した佐竹の声。
「まだ惚けるんですね。それでは、アイユー産業の井川さんをご存じないですか?」
更に畳み掛けてやった。
この言葉により、顔がぽっと赤くなった。何故かはわからないが、佐竹は背後を見た。疚しいことがあるのだろう。
「答えが、ないですね。いいでしょう。私は、その人と会ってきました。その時にちょっと脅しましたが・・・。
彼は経理をしているとのことで、あなたとは、随分と交流があるそうじゃないですか。
それで、その彼が言っていましたよ。私は頼まれたことをしただけだと。彼もあなたと一緒で責任逃ればかりを、していましたがね」
「一体、君は何を言い出すんだ・・・。理解に苦しむよ」
「いいですか。返金の名目で最初に預け金の振込を指示されたのは二年前。それで、あなたからその返金十%を貰っていたと証言しているのですよ。
約七十万円。詳しく言いますと、物品を架空発注し、虚偽の支出金調書を作って、アイユー産業の口座に代金を振り込む。
そして、あなたが欲しい時に十パーセントを残し、口座に入れてもらう。
その十パーセントは井川さんの手に残るのですが。しかし、現在あなたの口座には、その九十パーセントに当たるお金は、もう残っていないんですよね。
どうしてかな。本当は・・・そんなことなどしていない?
私は潔白だ?
でもね、証拠はあるんですよ。もしかしたら、もう使ってしまった、とか。例えば、裁判にでも・・・」
「ぐっっっ・・・」
佐竹は苦しそうだ。喘ぎ声しか出せないようだった。
義信は首を廻し、ここらで空気を変えてみた。
「いつまで惚けているんだ。俺はお前に十二歳の息子がいることを知っている」
目を見開く佐竹。佐竹の顔に驚愕の色が滲んだ。
「それだけじゃない。三年前に智子と離婚していること。
そして、その智子と息子の親権を巡って裁判を起こしていることもだ。違うか?」
彼の全身、そして様子を眺めた。
怒涛のように与える数々のプレッシャーに、佐竹は塩を降りかけられた蛞蝓のように萎えゆくようだった。
「調べはついているんだ。もう、逃げられないぞ。
嘘だと思うなら、このことを一度、会計検査院にでも、漏らしてみるか。そうすると、どうなるんだろうな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何が欲しい、んだ。
金か、いくら欲しい? 今出せる金はたかが知れているが、相談に乗ってもいい・・・」
佐竹は慌てた。瞳孔が開いている。
もはや見た目やら、体裁など、そんなことにはかまっておれず、とにかく必死の様子だった。
先程までの重役の趣は今となっては消えている。
「何処から漏れたんだ・・・」
「ま、そのように情報とは網で、水をすくうように、漏れるものなんだ」
佐竹の肩に手を掛けた。
「他にも、違う会社にプールしているよな。三百万程を。ん?
どうしたんだ? 何も怖がることはない。何おどおどしてんだよ。リラックスすればいいじゃないか。
別にお前のことを訴えようだとか、そんなことは思っていないから」
今では、佐竹がその話を聞いているのか、いないのかわからない。ただ放心状態のまま視線を宙に向けるだけだ。
「おい」
彼の顔を強引にこちら側に引き寄せた。
「お前は、俺の言うとおりにしていればいい。安心しろ。俺はただ、お前を利用したいだけなんだからー」
三、
「―そんな証拠を掴んでいたのですか。だから、あなたは望み通りに佐竹さんを掌に収めることができ、その権力者を思うがままに動かすことが出来た。
まさに佐竹さんは、光子さんと会社を貶める道具として最適だった、というわけですね?」
板垣は、義信の説明を要約した。
「はい。その通りです」
「わかりました。では、話を十一月二十日に戻します。
あなたは自分の思い通りとなった佐竹さんを、なぜその日、連れ出さなければ、ならなかったのですか?
そもそも連れ出す必要などあったのでしょうか」
板垣は、続けざまに訊いた。
「あの一件がなければ、思いどおりにいっていたことでしょう。ですが、トラブルは付きものです」
「盗聴器ですね?」
板垣はズバリ訊いた。
「ええ。そうです。私は、佐竹さんの情報を掴むために、彼の家に盗聴器を仕組んでいたのです」
義信は、板垣を見た。
「だから私は、佐竹さんが警察と接触するのをそれで知りました。
実際、慌てました。このままではまずい、と。それで、阻止するために行動をしたのです。ですが、彼を殺す気はなかった」
「殺す気は、なかった?」
「ええ。ただ、脅しとして、山奥に置き去りにするつもりだったのです。それが・・・」
義信は言った。
「あれは事故だったー」
「ちょっと待って下さい。脅しとして山奥に置き去りにするつもりだった?
では足田の下林山に連れて行った理由は何ですか」
「理由はありません。ただ佐竹さんと話しているうちに、そこにいっていた、というわけです」
「そうですか。それでは事故とは、一体・・・」
板垣は、首を傾げた。
義信は、二十日のことをポツリ、ポツリとゆっくりと喋り出した。
「―それでは、先ず、あの日の夜。車内で佐竹さんと二人でいたとのことですが、その時刻は、分かりますか?」
板垣は、義信を見て、それから瑠唯に視線をやった。
「はい。あっ、私が電話をした時刻は、十時を過ぎていました」
義信の隣にいた瑠唯が答えた。彼女の顔は真っ青だった。
妊娠の影響だろうか。ストレスを抱えているに違いない。精神的にも、それから肉体的にもきついはずだ。
妊娠のことは、綾乃から先程知らされたのだ。
ことの顛末を知らされると、驚いた。後藤義信という男は、何処までも計算高く、そして、卑劣な男だということを認識せざるおえなかった。だが今、目の前にいる男からは、そんな印象を感じえない。
そればかりか弱々しく、保護者を必要とする未成年者のようだ。
「十時を過ぎていましたか。それで、あなたと瑠唯さんの電話の最中に、佐竹さんは隙を見図り、車から脱出した、そういうことですね」
板垣が後を受け持つ。
「あなたは慌てて電話を切り、佐竹さんの後を追ったが、彼はガードレールを飛び越え、逃げてしまった」
義信は、ゆっくりと肯いた。
「しかし、必死で逃げる彼が誤って、足を滑らせ、下に転がり落ちていった。
その先に、運悪く大きな岩があったが、佐竹さんはそれに気づかず、真っ逆さまに・・・。
そして、そこに後頭部をぶつけ、彼は死亡した、とそういうことですか?」
義信は肯いた。
板垣は首を傾げた。
正直、まだ腑に落ちない。後頭部陥没骨折、遺体の損傷と話は合致するのだが・・・。
それでは車の全焼、山火事の方は?
「それで、あなたは慌てて自殺に見せかけるよう、工作した」
板垣は、更に掘り下げて訊くことにした。
「では、具体的にどのように工作したのかをお聞かせ下さい」
「大丈夫か?」
三吉が心配そうな顔で訊いた。
「うん。大丈夫。僕は喋らなくてはならないんだ・・・」
義信は、真っ直ぐな目で、板垣を見た。
「佐竹さんが崖から落ち、岩に後頭部を打ちつけた時、私は焦りました。
急いで脈を取ってみましたが、ありませんでした。
もうすでに息を引き取っていたのです。
しばらくは気持ちを落ち着かせ、これからどうするかを考えました。
先ずは周りを見渡し、他に車、人気がないことを確認した。
そこで、佐竹さんを担ぎ、車まで戻った。
最初に助手席の方へと廻り、ドアを開け、ぐったりとした佐竹さんをそこに座らせた。
自分は運転席の方へ廻り、中に入り、ハンドルを握った。
そして、一旦バックしてから、向きを変え、走り出した。
少し降りていくと、待避所があり、その中のガードレールの切れ目を見つけたので、そこで車を停めた。
私は車から降り、次に佐竹さんを運転席へと引っ張って来てから、又、周りを確認。
人は、やはりいなかった。それでドアを閉め、ギアを入れ、徐行で車を発進させた。
勿論そのガードレールがない箇所を目掛けて。
車がのろのろと動き出したので、私はそこで手を離した。
道が坂になっている分、車は停まることなく、下降していった・・・」
「ええっっ・・・」
あまりにも話し過ぎたたため、無酸素状態に陥り、声が途切れ、出てこなくなった。
深呼吸をした。
じいさんが背中を摩ってくれた。「その事故の十分前位でしたかね、佐竹さんがガードレールに車を衝突させたことがあったのですが、その際、ガソリンタンクに小さな穴が開いたのでしょう。
そこからガソリンが漏れていて、道にその液体が広がっているのを見ました。
車はゆっくりと、崖に向かって下降していき、その後をそのガソリンの液体が後を追う。
そこで私は、ライターと煙草を取り出し、火を点けた。
目の前で、車が崖から落ちていく。ザッザッザッザザザ! ガシャーン!
という派手な音が鳴り響いた。物凄い音で、今までに聞いたこともない音でした。私は呆けていたのですが、その音が私の背中を押した。
やがて私は煙草の吸い刺しを道にゆっくりと落としました。
すると道に染み込んだ液体に煙草の火が引火し、それで巨大な炎の化け物が生まれた。
その化け物は徐々にスピードを上げ、勢い良く走り、谷底に落ちていったレクサスの後を追う。
火はあっという間に広がり、近くの木も焼け、一瞬にして山火事が起こり、車も全焼した、というわけですー」
話し終えると、部屋がシーンと静まり返り、しばらくは誰も口を開かず、全員が義信の顔を見ていた。
彼の顔は蒼白で、体力を消耗し、もう一言も喋れない様子だった。
綾乃は、彼の話を訊き終えてから言った。
「あなたの人生は、信頼感の破綻かもしれないわね。
なぜなら、裏切りと失望を抱えた大人に育てられ、その想いを心に刻み、生きてきたことで、周りで起きている世界が遮断されていたことに気づかなかった。
だから、小さな世界の中だけで生きてきたあなたは、何も知らず、行き着く所まで来てしまった。
そして、やがて来る自分の人生の破滅に今、身体を震撼させている。そうじゃない?」
静まり返ったこの部屋。
まるで時が止まったかのように、誰も動こうとはしなかった。この沈黙は、深く、重く、そして、長かった。
「そうかもしれない」
そんな中、ようやく消え入りそうな声で義信が呟いた。
項垂れたまま彼は、しばらく動かない。
「最後に、中西工業での事情聴取の時に気になっていたことがあるのですが」
そう言うと、
板垣はいきなり義信の両腕を捲り上げていた。
「なぜあなたは、暑かろうが、寒かろうが、いつも長袖を着て、この両腕を人に見られることを拒み、肌を出さなかったのか・・・」
しかし、その目の前に現れた両腕には、日焼けのしていない、ただ真っ白な肌の腕が現れただけだった。
その時、瑠唯が立ち上がった。
「義信はずっとその両腕に、心の傷を抱えていたのです。
罪の意識から。というより、それだけ追い込まれていたんだわ。
このありもしない傷を誰かに見られれば、二年前に亡くなった私の父親の事件の真相がバレてしまうと思い込み。
ずっと苦しんでいたの。時にはこの見えない傷が、自分のしてきたことを後悔させ、呪い、自分自身を蔑んできた」
義信は、黙ったまま力なく、頭を垂れていた。
「辛かったと思う。苦しくて、誰にも言えず、一人だけで抱え込み。
でもね、人を殺すって、そうゆうことなのよ。
一生消えない傷を心に抱え、この先、生きていかなきゃならないの」
瑠唯の頬に涙が零れた。義信も泣いていた。
誰もこの先を促すことができず、ただ無情にも時間だけが進んでいくのを止められずにいた。
「大よそのことはわかりました。詳しい話は、署の方で伺います。
あと、恐らく実況見分にも立ち会ってもらうと思うので、その時は宜しくお願いします」
陰鬱が漂うこの空間を切り裂くように、ようやく板垣が言った。
「義信、二人で今までの罪を償おう。いこうか」
三吉が立ち上がった。
「今、何とおっしゃいました? 罪を償おう?
あなたには、それ程の時間がもう残されてはいない。気づくのが遅かったのよ」
綾乃は、老人の背中に思わず言っていた。
「だから、その心の傷を死んでからも抱えていかなければならない。なぜなら、あなたが一番汚いからよ・・・」
老人は背中を震わせ、歯を食い縛って、綾乃の言葉を噛みしめているようだった。
そんな時、複雑な表情を見せていた綾乃の肩に、板垣がそっと掌を載せ、首を振った。
義信が立ち上がった。
「お兄ちゃん」
浩太が呼びかけた。
「何て言っていいのか、わからないけど、僕、お兄ちゃんとまだ話したいことがあるんだよ」
義信は振り返った。
その顔が痛々しい。頬はゲッソリと削げ、目は赤く充血し、腫れていた。そして、義信は肯いてから、背中を見せた。
「義信・・・待って。
私、これからどうしていいのか、わからないよ」
瑠唯はお腹を擦り、義信に声をかけていた。
義信は背中を見せたまま、今度は振り返ることをしなかった。込上げてくるものを噛みしめ、必死に耐えているようだ。
「こんなことをして一体何になる?
俺は嬉しかったのか?
気持ちがスッキリしたのか?
本当は、自分が惨めになっただけじゃないのか?」
義信は、独り言のように呟いた。
だが自制が効かないのか、段々と声が大きくなっていく。
「あいつは、あいつは、
中西英二は、人が見てないところでも、必死でサンドバックを打って、ロードワークで汗を流し、
時にはスパーリングで殴られても、それでも歯を食い縛って
耐えてきた。
日々の鍛練を怠ることなく、
それらを積み重ね、
そして、前に出て、
頑張ってきたからこそ、チャンピオンになれたんだ。
なのに、俺は、俺のやってきたことは何だ?
嫉妬にまみれただけの
つまらない男じゃないか。
まるで優等生を妬み、
いつの日か悪質な手で
引きずり貶めようとする、
できそこないの児童のように。
かっこわるいよな。
俺なんて・・・」
いきなりドン、ドン、ドンという音がした。
義信が後頭部を壁に、何度も、何度も激突させていたのだ。
そんな義信に、誰も、何も言えなかった。狂っている。半ば狂人じみていた。
「―認めたらどうだ。
お前の弟は凄い男だと。
人とは違い、
あいつは並大抵の努力で、
あそこまで登り切った訳ではない。
血の滲む努力があってこその頂点。それに引き替え、
俺のやってきたことといえば・・・情けないよ。
何で、こんなにも惨めなんだ・・・」
そして、義信は、部屋の入り口で立ち止まった。
ようやく静かになった。しばらくは口を噤む。
ここにいる全ての者が彼の背中を見ていた。
「本当は、俺だって、
ボクシングがしたかった。
あいつみたいに・・・。
叶わぬ夢とは知るが、
でもあのスポットライトに
照らされるリングに、
一度でもいい、
上がりたかったよ。
あの弾力のあるキャンパスで、
思う存分動き廻り、
多くの歓声を浴び、
ボクシングがしたかったな。
でも、そんなことを思う権利は、
俺にはないよな」
義信は振り返って、瑠唯を見た。次に浩太。そして、老人も。皆温かい目をして頷いていた。
彼は、今、初めて安らぎを感じることができたようだ。
綾乃は初めて見た。彼の優しい顔。あるいは子供のようなある種弱々しさを残した未熟な顔を。
自虐的で、自堕落な人間は、
本当は人一倍孤独なのかもしれない。
「やっとわかったよ。憎しみは、俺を狭いスペースへと追い込み、両肩に大きな荷物を背負わした。
そして、小さな世界へと導いただけだった、と」
「そうね」
綾乃は、そう一言いった。
「はい」
義信は頷いた。
「今までの人生、憎しみが自分を大きくしたと思ってきたけど、
その憎しみが自分の足を引っ張っていたことに、今気づきました。
人を殺すということは、
自分の背中に陰鬱がいつも付き纏うことになります。
いや、その前から、俺は人間としての内面が崩れていて、心理的なバランスもとれていなかったんだと思います。
あなたの言ったように、私は小さな世界の中だけで生きてきた人間なのですから」
やがて瑠唯と浩太も部屋を出た。
最後に皆川綾乃がゆっくりと立ち上がり、そして、テレビを消した。
シーンと静まり返ったこの空間。
人生とは儚く、物悲しいもの。
一体、人は何を信じ、歩み、そして、生きていかなければならないのか。
わからないからこそ、彼の自我は崩壊したのだろう。
了