弟五章 決戦
第五章 決戦
一、
―十二月二十四日 日曜日。
豊田署 共同捜査本部
朝日は昇った。朝方まで降り続いていた雪がようやく止んだ。
街は北国のような雪景色が広がり、冬の独特な分厚い雲が空一面を支配していたが、それでも雲の隙間から日差しが顔を出すようになった。
「十一月二十日。遺体となった佐竹宣夫さんが発見されるが、それと同じくしてその息子の小学六年生である浩太君も行方不明。
通学している矢作小学校の担任、クラスメートの証言からも、普段何処かに寄り道をするような男の子ではなく、状況からみて、連れ去られたとの見方が強いということで、捜査は開始されました」
「勿論、身代金の要求などはない。父親が亡くなっているのだから、当たり前だ。
捜査本部は、可能性として、佐竹を殺した犯人が拉致監禁をしたと考え、情報収取、写真の配布をしていく中でも、目撃情報は皆無といってもよかった」
「そこで、我々の見解は、二年前の中西守変死事件に関連した人物で、容疑者として豊田市在住の後藤義信が浮上。
だが、後藤は逃亡し、行方不明となった。
そこで我々は、浩太君を人質として連れ廻すために、拉致監禁したのではないか、という推測を持った」
「確かに。浩太君がまだ生きているという希望的推測は高い。
だが、後藤の本質的な目的は、異母兄弟である中西英二の命を狙うことである。
その着眼点から、後藤がいる場に、人質として浩太君もいるのではないか、と憶測を立てている者もいる」
捜査本部が敷かれた講堂の中で、捜査員たちが順序立てて事件の概要を話していた。
「人質ね、まさに人間の盾だな。浩太君はその役目を担っているということか」
「あり得ますね」
「とにかく、十二月二十四日の現在も、その後藤容疑者の足取りは掴めないが、後藤は今日、この場に必ず現れる」
「ええ。それが奴の本質だから、ですよね」
この講堂の人の出入りは激しく、騒々しい。それでいてピーンと張り詰めた緊張感が漂っている。
「だから、情報収集、写真の配布の捜査に廻している捜査員を、一旦停止させるんだ。
そして、レインボーホールに廻すんだ。後藤は必ずここに来る。応援が必要だ」
「それでは被疑者、被害者宅の視察などに向かわせている何人かの捜査員も、レインボーホールに向かわせましょう」
「ああ。そうしてくれ。そして、中西選手の護衛を、もっと手厚いものにするんだ」
「はい」
集まった捜査員たちが落ち着いたのを見計らったように、一人の男が講堂に入ってきた。
「皆、聞いてくれ。現在、後藤容疑者の足取りは掴めていないが、奴は必ずレインボーホールに姿を現す。
予定通り、本日十二時には現場に警戒態勢に入る。
それから、SATが配備されたという報告を受けた。
情報が入り次第、随時報告していくので、その都度、敏速に行動してくれ」
SATとは、特殊急襲部隊のことで、主に四つの班で構成されている。
部隊全体を統括する指揮班、偵察研究を行う技術支援班、狙撃支援するスナイパー班に、接近突入担当の制圧班がある。
「現在、どのような状況なんですか?」
近くにいた若い丸顔の男が訊いた。
「詳しい情報はまだ入っていないが、SATがMP5を携帯し、この会場の外から遠巻きに警戒しているとのことだ」
MP5とはサブマシンガンのことだ。
インカム(内線通話機)同一敷地内で使用する通話システムをつけた、小柄で眼鏡をかけた神経質そうな男、カマキリ顔の現場の指揮官刑事部長佐々木が前へ歩きながら答えた。
その先にはホワイトボードがあり、レインボーホールの見取り図が描かれている。
「中西選手には護衛を付けているので、相手は単独で行動することが難しい。
もしかしたら後藤容疑者は何者かと接触し、複数犯により、犯行を企てる可能性がある」
佐々木は唾を飛ばしながら、大声で説明をした。
「いいか。アリーナの警官の配置、それからビデオカメラの設置場所の把握も大事だが、犯人との接点が重要だ。
それは捜査的に最も効率の良い逮捕の現場となる。
だから周辺に配置される捜査員の技量、センスが試されるのだ。
着衣、動作、無線機の使用方法、それから会話等万遍なく気配りをしてくれ。
その中、容疑者を目撃したら、必ず単独で動くな。応援が揃った時点で確保に全力を挙げる。わかったな」
捜査体制は着々と、しかも迅速に整えられつつあった。それから佐々木は、前に座っていた男らに言った。
「君ら五人は最初からアリーナに行ってもらう。
とにかく皆、私が指示するとおりに目標を追うんだ。
尚、無線機等携帯品の点検も抜かりはないように。
それから犯人との接触に備えて、捜査員間の連絡方法も密にとってくれ。いいか、くれぐれも一般市民だけは、絶対に巻き込むな。わかったな。以上だ。質問はー」
二、
―名古屋市レインボーホール
十二時
豊田署、愛知県警を始め、全国から応援でやってきた部隊がこの会場を囲うようにして警戒態勢に入った。
JRのK駅から歩道橋、レインボーホールの周り、駐車場、それぞれの管轄によって配置された警官が、ホルスターに拳銃を装着し、任務に当たっている。
その大掛かりな警戒網は会場の南区だけに限らず、交通機関にまで敷かれ、後藤容疑者は徹底的にマークされることとなった。
今日の警察の出動は全国から少なくとも二千人は集まり、蟻一匹逃がすまいと監視を強化すべく、電子機器も配置された。
代表的な物にCARASシステムがある。これは街中にある監視カメラを使って容疑者検挙に役立てるのだが、このシステムではさすがに音声までは記録できない。
刻々と会場の時間が近づくにつれ客の姿も増えてきた。
上から眺めると、押し寄せる黒い頭の数々。まさに異様な雰囲気だ。
警官の目が一段と険しいものへと変わる。
指定席の方は殆んど売り切れで、あとは若干の自由席を残すのみとなっている。
前売り券の売上げを見ても、八千人の来場が見込まれる。
この会場の定員は一万人で、それ以上の客を中に入れないため、マスコミを賑わす中西英二の初の世界戦、それから殺人事件の容疑がかけられた後藤義信がこの日に現れ、その中西英二を狙う、という報道が世間の注目を集め、今日、この場は混乱することが予測された。
会場の入口では手荷物検査を待つ長い列が出来ていた。
全国からやってきた警官がしっかりと警戒態勢に入る。
二十代の若い制服の警官たちが、会場の入り口辺りで全ての客の手荷物検査、ボディチェックを施す任務に付く。
彼らは金属探知機を手に、目を光らせる。会場は異様な熱気が漂い、それが警官を刺激し、冬だというのに彼らの額には汗が光っていた。
「これで一万人の目撃者ができる」
刑事部長の佐々木が言った。
「試合が始まれば、この会場は密室状態になる。なぜなら警察によって会場を封鎖するからだ」
「ええ」
長身で、猫背の男がそれに肯いた。
「後藤はこんなところで、下手な動きが出来ますかね」
少し小太りの男。
「ここがどんな状況になろうとも、奴は絶対に現れる。間違ない」
カマキリ男。
その集団に板垣が入っていった。彼の目は注意深く、周りに向けられており、いつもの温和で、人の良い顔は何処にもなく、少しばかり引き攣ってもいた。
「SATの動きは、どうですか。何か動きは? 何でもいいです。情報があったら、すぐに知らせて下さい」
板垣は熱く、何としてでも後藤義信を捕まえる、ということに執念を燃やしていた。
他の警官がその珍入者を白い目で見る。
「君は、少しは落ち着いたらどうだ。そんなに気負っていると、見えるものも見えなくなるぞ」
「はい。ですが・・・」
「訊くところによると君は、単独で動き回っているそうだな」
「いえ、そのようなことは・・・」
板垣は小声で、答えた。
「組織の一員として、自分の仕事をしっかりとやってくれさえすれば、それでいいんだ。勝手に動くな。持ち場に戻れ!」
カマキリ男は続けざまに言った。「様々なカメラの可動状況に問題はないな?」
板垣はインカムに手をやり、取り敢えずカマキリ男から離れた。
話にならない。体制ばかり気にしやがって。板垣は腹の中で悪態をついた。
俺にはやらなければならないことがある。後藤を捕まえなければ、死んだ佐竹も浮かばれない。
彼が亡くなったのは、俺のせいでもある。
―やはり、あの時に、強引にでも身柄を拘束しておくべきだったんだ、と板垣は、中西工業での事情聴取のことを悔やんだ。なにせ、目の前に容疑者がいたのだ。
「おい、どうなんだ!」
カマキリ男の声が背中を追いかけてきたが、無視して、先を急いだ。
会場の入り口に足を運ぶと、まだかまだかと一般客が怒り出した。
時刻は三時。ボディチェックを済ませていない者は、入場できないため、文句を言っている者も仕方なく我慢させられる。
そして、一苦労余儀なくされ、やっとのことで会場内に入った者も、アリーナの至るところに配置された警官により監視されることになる。
席に着くなり動き出す者、周りをキョロキョロ見渡す者。
落ち着きのない者は、一旦警官に呼び出され、再度ボディチェックをされ、注意を受ける。
この会場は鬼気迫った警官の視線、それを受ける客の熱気が交差し、異様なまでの雰囲気を醸し出していた。
三、
分厚い雲が姿を消し、太陽が顔を覗かせると同時に気温も上昇していった。
会場内が異様なざわめきで賑わっている中、義信は満を持して、中西英二を仕留めるべく動き出す。
S&WM19を手に、危険 関係者以外立ち入り禁止、という札のあるドアを静かに開いた。
会場内では幾人もの自分を探す警官がいる。だから人質として連れてきた浩太と瑠唯が重要となってくる。
それは、何かあった時のために、彼らには人間の盾となってもらう。
その彼らに帽子を被せた。二人共ひさしの長い黒色のキャップ型だ。防犯カメラに顔がアップで映されないためにだ。
義信の体調は、依然として良くはならなかった。
喘息が治まらない。
実際こうして立っていることが精一杯だった。
壁にもたれ、休憩をとりながら、必死で前へ進むが、咳が止まらず、背中が焼けるように痛い。
それでも俺は前へ進まなくてはならない。あいつはどうなんだ?
俺のように苦しんでいるのだろうか。俺の今まで生きてきた道のりは、本当に苦しいものだった。
楽しいことなど何一つない。だがお前はどうだ。いつも華やかで、楽しそうだ。
苦しくて、壁に爪を立てた。あまりにも強く立てたため、ピキッ、と中指の爪が真ん中から折れてしまった。
実際痛みはあったが、そうでもしなければ、立っていられない。
お前は苦しくて、辛いことなどなかっただろう。
だが、もう少し時間が経てばそれも変わる。義信は咳をした。痰に血が混じっていた。かなり酷い状態だ。
そんな義信の容姿は、何処から見ても青年には見えない。白髪頭に、不精髭。
それから顔にシリコンゴムを万遍なく塗り込み、たるんだ皺を作ると、七十を過ぎた男の姿に見えなくもない。
ゆっくりとした足取りで上の階へ続く、狭くて、暗い天井の低い通路の中に足を踏み入れるが、通路の入り口に数人の男がいたために方向転換した。
身体が弱っている分、今は弱気になっている。
後ろの二人も一緒について来る。白色の、寒々とした通路だ。
前座の試合はすでに始まっており、上のアリーナからざわざわとした歓声が聞こえてくるようになった。
先を急いだ。
いまだ自分の進む道がこれで正しいのかわからなかったが、自分自身、それを確かめるべく、前へ歩を進めた。
奴を殺すことができれば、俺はどうなっても構わない。
死んだとしても、それで俺はきっと納得することが、できる。何も自分の人生が変わらなくとも、自分の人生なんか・・・ち、ちからが・・・入らない。
俺は、俺は一体、何がしたいんだ?
四、
控え室の中が賑やかになってきた。
世界戦にはトレーナーの神谷は勿論、会長の松尾、それから真木がセコンドに付くことになっている。
彼らは傷の手当てをする救急箱と、嗽用の水を用意し、この世界タイトルマッチに万全のバッップクアップで臨んでくれる、なくてはならない強力な援軍であり、スタッフだ。
両拳に真っ白なバンテージが巻かれ、それがしっくり拳にフィットしたか、何回も掌を叩いて確認した。
動いていなければ、この恐怖心を追いやることはできない。
それを見かね、神谷が言う。
「ちよっとじっとしていろ」
神谷が両手に沢山のワセリンを持ち、それを英二の顔に満遍なく、染み込ませるようにして塗っていく。
顔の次に、それは上半身まで及ぶ。
「もう、迷いはないな?
やるだけのことはやってきたんだ。あとはそれをリングの上で証明するまでだ。わかったな」
一息入った。絶妙なタイミングだ。これで不安や緊張が緩和される。
「はい」
準備が滞りなく終わると、英二は椅子から立ち上がり、鏡の前にいき、自分の顔を確認した。
昨日まで伸ばしてきた不精髭を、今日の朝、それをスッキリと剃ってきた。
そして今までゲン担ぎのため、伸ばし放題にしていた髪の毛を、できるだけ整髪剤で、後ろに持っていき、それで纏めた。
減量で頬が引き締まり、顔中にワセリンが塗られ、テカテカに光っている。
それが精悍な顔つきとなっている。やるぞという気力が全身に漲ってきた。
「よし、グローブを付けるぞ」
神谷がメキシコ製の八オンスグローブを持ってきた。
このグローブはチャンピオン側が選んだもので、拳の皮の部分が非常に薄く、それでいてその皮が荒いため、パンチがよく効くことで有名なグローブだ。
このグローブを選んできたことから、チャンピオンがパンチに自信を持っていることが窺える。
充分注意しなくてはならない。
英二は一旦椅子に腰掛け、神谷にグローブの紐を縛ってもらう。
少し痛みを感じたが、これくらいが丁度いい。
そして、全て整うとその紐が解けないよう最後に白色のテープできっちりと手首を巻いてもらう。
そのグローブを両手で握り締め、それから叩いてみた。
バンバン、という音と共に気合が乗ってきた。
よし、という合図で椅子から立ち上がった。緊張も最高潮に達しようかとしていた。
そんな時だ。
扉がゆっくりと開かれた。その先に一人の女が立っていた。その女は中に入るか、入るまいか、迷っている。
それを見かね、ドア口まで歩いた。
「なんか、いつもと違って緊張しますね」
「君が緊張することはない」
英二は廊下に出ていくと扉を閉め、二人切りになった。
彼女はやや緊張した趣だった。黒のウエスタン調のブーツにタイトなロングスカート。上は白のブラウスに襟元にマフラーをしていたが、それを取って、腕に掛けた。
そんな今日の彼女は女らしかった。しっかりと眉を整えている。珍しく、マスカラを使って睫毛を長く見せ、アイラインでくっきりと目のまわりを縁とっていた。
メークが人工的で、いつもと違った印象を受けた。
「体調はどう?」
綾乃はやや上ずった声を出した。
「万全だ」
英二はそれに自信を持って答えた。
「それより、今日は警察が多いね」
「ええ」
綾乃は真剣な顔つきをした。
「だって、この中に後藤義信がやってくる可能性があるもの」
「そうだな」
「でも心配いらない。この中にも、外にも警察が厳重に警戒しているから。あなたは、試合に集中して」
「瑠唯は?」
英二は訊いた。
「昨日から連絡が取れないんだ」
「妹さんは・・・行方不明。警察も連絡が取れないの。でも大丈夫」
「なぜわかる?」
「大丈夫」
綾乃はそれ以上言わない。英二もそれ以上は訊かなかった。
「安心して、あなたには板垣さんがつくことになっているから」
綾乃がそう言って後ろの方を指差すと、少し離れた所に中年の男がそっと立っていた。
「豊田署の板垣さんよ」
板垣は会釈した。
英二は肯いた。
「試合、頑張ってね」
綾乃は親指を立てた。
「応援しているから」
英二はグローブを掲げてから、控室に戻った。
奴がいる、俺の妹を連れ、この中の何処かに―。
そして、牙を剥き、俺を襲うべくあのリングに向かっている。そんな気がする。
だがな、俺も世界戦のリングに向かう。そう、俺は向かわなくてはならないし、あのリングは俺の憧れの舞台でもあるのだから。
それを誰にも邪魔はさせない、そうだろ?
やっと、ここまで登り詰めてきたんだ。もう、今の俺は、試合のことしか頭にない。やるべくことは、試合に勝つ、それだけだ。
ボクシングとは、他のどんなもの、スポーツや仕事など安全が約束されたものとは違う世界だ。
それは減量であったり、パンチを貰い、その蓄積されたダメージだったり、それら限界を超えた上での場だ。
その世界に生きてきた俺だ。今更何をも、恐れ戦くことはない。それだけのことをしてきたのだ。
元々、リングは他のどの社会ともかけ離れた場にあり、危険で、茨の道を渡って来た者でしか上がれない、生と死の隣り合わせの戦場のような所。
あるいは獰猛な猛獣、例えば腹を空かしたライオンがいる檻の中に入れられるような、そんな所なのだ。
そこに入れられてしまえば、誰にも頼ることは出来ない。また助けてもらうことの出来ない場なのだ。
ボクサーに必要なものは知識であったり、屈強な身体であったり、耐え忍ぶ忍耐なのかもしれない。
でも俺は思う。一番必要なものは、何れも変えられない勇気だと思う。
五、
まるで俺の心の中に蠍がいるようだった。
そいつがグルグルと、縦横無尽に動き廻っている。その蠍の鋏で内臓を切り刻まれていくように、胃の中がキリキリと痛み出してきた。
「瑠唯、」
義信は弱々しい声を発した。
「え?」
瑠唯は聞き返したが、義信は目を瞑っているだけだった。
「雪は、音を吸い込むんだな。だから静かなんだ。
俺は、雪が好きだ。このシーンと静まり返った世界。雑音もなく、自分の世界に浸れる。
世の中はうるさいが、ここは静かでいいよな」
瑠唯は、義信のいきなりのセリフで、何を言っていいのかわからず、ただ唖然と、彼の横顔に視線をやっていた。
そんな義信は、両手を万歳のように上げて、伸びをした。
「そのお腹の子を産まないでくれ」
そして、呟くように言った。
「その子を生んでしまったら、後悔する。君も、それからその子も・・・」
それは決めかねている声音ではなく、まさに決断した時の声音そのものであった。
「そんな・・・今になって、どうしてそんなことを言うの。信じられない。私が今、どんな心境でいるか、知ってるの?」
「聞いてくれ。通常のところ、兄妹は法的には婚因できない。
だから非嫡出子のまま俺が認知することで成り立つ。
だがそんなことは心配しなくていい。
なぜなら俺とお前は、戸籍上は他人同士だ。なにせ中西守は春江との子、俺の事を認知していないのだから。
それがいいことに俺の戸籍の父親の欄は空欄だ。
だが、その子が事実を知ろうと、例えばDNA鑑定などで調べていけば、いずれ自分の親が兄妹だということがわかる時が来るかもしれない。
それに血が濃いため、障害のある子が産まれてくる可能性だってあるし、何より自分の親が殺人者だ、ということがその子のことを不幸にする一番の理由だ。
無責任なことは重々承知している。でも・・・」
波打つ背中。苦しくて、咳が止まらなかった。それでも自分の意思を伝えなければならない、そう思った。
「俺は、自分のしてきたことに、疑問を抱くようになった。
こんなことをしてもいいのか、と。自分の母親がされたことを、君に同じことをした。復讐として。
だけど、何も得られなかった・・・。気が晴れるどころか、自分のことを、こんなに汚い自分だった、ということを思い知らされただけだ。
もう、どうしようもないよな、今さら。さっきも言ったように、俺には、戻るところなんか、ないんだ。こんなことをしてきたんだからー」
「そんなの、今更、なに・・・自分勝手よ」
狭くて、暗い道だった。光がまったく差し込まない、その圧迫感に押し潰されそうな道。
息遣いが激しく、空気をいくら吸えども、肺の中には入らない。
この廊下は海底にでもいるかのように、空気がない。どうにも苦しい。俺は狭いところが嫌いだ。小さな時から・・・。
閉所恐怖症なのかもしれない。それに暗いというのは気分まで落ち込ませる。
義信は這って壁までいき、そこにもたれた。
ひんやりとした壁が背中に冷たく、心地よかったが、この苦しみを追いやることはできなかったし、背中が咳のし過ぎで熱くて、痛い。
呼吸を激しく繰り返したせいだ。背後から大きな壁が、俺の居るスペースを狭め、圧迫するように差し迫る。
逃げるところなんてどこにもなかった。もう駄目だー。
そう思った。苦しくて、苦しくてどうしょうもない。
何で、こんなにも、苦しまないといけないんだ・・・。
義信はおもむろにナイフを取り出した。それを上に振りかざす。
ナイフが光を浴び、存在感を増し、キラリと輝いた。
心の中で、これで俺の心の中の蠍を刺殺してやろう―
そう思った。頭が熱くなると、もう自制が利かなくなっていた。
勢い良くそのナイフで自分の膝を突き刺した。
「ぐわあっっっっっっ」
「何してるの!」
耳の奥で瑠唯の声が反響した。
今までにない痛みを感じた。
じわじわと赤い液体がズボンを濡らす。
しかし、この鋭い痛みの方がどれだけましか、とさえ思った。もうどうだってよかった。
「お兄ちゃん!」
浩太が慌てて走ってきた。
「何でそんなことしたの」
「義信!」
瑠唯もやってきた。
「もうやめて、自分を痛めつけるのは」
「いてぇよ。いてぇよ。いてえぇんだよ!」
だが、徐々にその痛みにも慣れ、再び咳の苦しみが勝るようになってきた。
どうにもならなかった。
逆に、さっきより苦しみが倍増したような気がする。
身体が動かず、苦しくて、気が狂いそうだった。
また、蠍が顔を出した。そして、動き出すー。
「浩太、お前の持っている、吸入器を、貸して、くれないか」
左手で持っていた拳銃はそのままで、右手のナイフを持った手でそれを受け取る。
それは自分でもわかるくらいに弱々しい手つきだった。情けない。
これじゃ前にも後ろにも行くことができない。目は虚ろで、力がないし、視線も定まらない。
もう、ダメかもしれない―。こんなものに、頼るくらいでは・・・。
そんな時だった。
「もういい」
背後からしわがれた声がした。
「やめてくれないか。そんなことをするのは。自分の身体を虐め、一体何になるというんだ」
義信は振り返った。
その視線の先には、一人の年老いた男の姿があった。彼がゆっくりと歩いてくる。
「もう、お前のそんな姿を見るのは忍びない」
「じいさんには関係ない。今まで俺が考え、やってきたことだ。いかせてくれ」
「その体で一体どうするつもりなんだ? かなり弱っているじゃないか」
「あ、あいつを・・・」
義信は、浩太に借りた吸入器を吸った。
「俺には、やらなくてはならないことがある」
「何をしょうとしている?」
老人は訊いた。
「中西英二を―」
目の焦点が戻ってきた。いつもどおりだ。
「フゥッ。ハァっ」
息を吸い込む。
「中西英二をどうしたいんだ?」
「決まっているじゃないか」
「どう、決まっているというんだ?」
老人は床に這いつくばる義信を抱き起こし、背中を擦ってやった。
「こんな体で一体、何ができるというんだ。いや、きっと健康体でもできないだろう」
「何故?」
「お前には中西を殺す動機が浅い」
老人は静かに口を開いた。
「お前は、俺の単なるコピーに過ぎない。
そう、小さな時から、俺は中西家のことを言って聞かせてきたよな。
そのため、中西家を必然的に恨むようになった。
だが、それだけだ。考えてもみろ、お前自身何も被害を被っていないじゃないか。
だから中西を殺す理由などないし、できないんだ。この老いぼれが要らんことばかり喋ってきたんだ。
―恨みは、人間を駄目にするだけだよ、こんな風に・・・」
老人の目に、涙が薄っすらと浮かんでいた。
「俺の人生、何も残っていないし、ほんと無駄にしてしまった」
老人はそう言って、項垂れた。
「そんな想いを、お前にはしてほしくない。いいか、人を信じられない、というのは本当に辛いことだ。
俺みたいな人生をしていると、自分を破滅に導くだけだぞ。憎しみからは何も生まれないし、逆に自分を醜くするだけ。
それで己を嫌悪するようになる。そんな風になったらお終いだ。きっと、お前の母、春江が望んでいたことは、こんなことではないはずだ」
老人は、ここで額をこの冷たい床に擦りつけ、土下座をした。
「本当は、今までお前に、わしの部屋を貸してきたのは、下手なことをさせないためだった。
だからわしが監視するために、お前を地下の部屋に居させた。
そして、お前をどう説得しよう、どう解らせよう、そんなことばかりを考えてきたが、この老いぼれにはできず、何もしてやれなかった―。
きつと、心の何処かでお前が、復讐してくれることを望んでいたのかもしれない。
悪かった。わしが気づくのが遅かったんだ。全てのことに対して・・・」
義信のワナワナと震える背中。
必死に耐えながら、その老人の話しに耳を傾けていたが、ひっく、と蒸せると、自分のその感情を抑えることができず、瑠唯や浩太がいるのにも関わらず、最初は小さく、だがそれは段々と大きく、最後は大声で泣くようになっていた。
溢れ出る涙を掌で拭うと、子供みたいに、無邪気に、わき目も振らずに泣きじゃくった。
まるで幼少の頃、いつも母親の胸で泣いていたあの日のように。その残像が甦ってくると、更にオイオイと泣いた。
「どんな動機があろうとも、人を殺めることはあってはならんのだ。
許してくれ、こんな方法でしか、生きられなかったわしのことを。もう、俺の背中を見なくていいんだぞ・・・」
老人も泣き崩れた。
背中を震わす義信にしっかと抱きつき。それは、まるですがっているようでもあった。
「結局、わしは、自分の人生を全て、孫に委ねるだけでしか、生きていくことができなかったんだな」
「じいさん、俺の胸の中にいる蠍が這いずり廻っていて、ひっく、そいつが毒を巻き散らして、もう、ひっく、どうにも苦しくて、気が狂いそうなんだ。助けてよ―」
義信はそう叫んでから、ガクリと体を折った。その背中がいつまでも波打っていた。
「もう終わりにしよう。こんなことはなんの役にも立たん。だから、全てを警察に話すんだ。
お互い、気づくのが遅かったんだ・・・」
出来ることなら・・・そうしたい。でも、この中も外も警察が沢山いるし、俺を吊し上げようと待ち構えるマスコミだっている。
もう、楽になりたいんだ、楽に。静かな所で、ひっそりとしたい。今の俺は、ただ、そうしたいだけなんだよ・・・。
項垂れた義信は、左手に一枚の名刺を握っていた。そして、それを翳した。
「何だ、それは?」
老人は、その名刺を手にした。
「警察には俺の気持ちが伝わるとは、思えない。だから、この人に、間に入ってもらいたいんだ」
義信は言った。
「わかった」
老人の目には、光るものがあった。
「結局、ぼくにはできなかったよ、じいさん。ぼ、ぼくは、もう、追われる、ことに、疲れたんだ。もう、ほとほと嫌になったんだ」
六
控え室の中はピーンと張り詰めた緊張感で支配されていた。
戦う前の男はこのように無口で、近寄りがたい雰囲気を持つものだ。
中西英二は、皆から暖かな目で見守られ、周りの者が準備を着々と施していく。
チーフトレーナーの神谷が、ハンガーにかかっていたエナメル製生地の黒いフード付きガウンを着せた。
彼は自分でそのフードを頭にスッポリと被った。
いよいよなんだ。
この部屋には、板垣を始めとする数人の警察が護衛に当たっていた。
外にも何十人もの警官が配備されている。この強固な警戒態勢の隙を縫い、容疑者が接近する可能性は低いのではないか。そう思えてきた。
それよりも試合が終わり、皆が弛緩したその時が危ない。あるいは英二が一人になった時。
それでもこの控室には、重い空気が流れていた。息が詰まりそうなくらいに。
これが世界戦の緊張感なんだろう。見ている方もその緊張で押しつぶされそうで、綾乃は居場所を無くし、ウロウロと何度も行ったり来たりしていると、スタッフに睨まれた。
そんな時。ピーンと張り詰めたこの静寂を破るかのように、スマートフォンの着信音が響いた。
綾乃は急いでスマートフォンを手にし、着信履歴に目を通した。
見知らぬ電話番号だが、予感めいたものを感じた。深呼吸して綾乃は電話に出た。
―その電話で長い間話をしていたかに思う。実際のところは五分くらいであろうか。
その電話の主は、思いもよらぬ人物で、今まで会ったことも、喋ったこともない人間だった。
周辺にいる者全てが息をのみ、綾乃を見守った。
ようやくその電話が終わると、綾乃はゆっくりと英二のところに歩いた。
彼の目が問い質してきた。その目は、何処となく曇っており、不安を抱え、そのもやもやがいつまでも晴れずにいるような、そんな目だった。
「後藤義信の居場所がわかったわ。このレインボーホールの会場にいるそうです」
綾乃がそう一言いうと、この控え室にざわめきが起こった。
「本当ですか?」
ドア口に立っていた若い刑事が、走り寄った。
「今、老人から電話がありました。あるところで後藤を匿っていると」
そう英二に伝えた。
「本当か?」
板垣は、綾乃に近寄った。
「ええ」
綾乃は落ち着いて言った。
「電話の主は、私と必要最低限の刑事だけで来てくれ、自首がしたい、と言っています」
「それでは、その場所へ警官を向かわせましょう」
若い刑事がインカムに話しかけた。
「ある所とは何処ですか?」
「待て」
板垣は、彼を止めた。
「電話の主は必要最低限と言っているんだ。俺だけが付いていく」
「危険です」
眼鏡の男が言った。
「SATに報告をしなくてはなりません」
「報告はいい」
板垣は言った。
「大丈夫だ」
「何が大丈夫だ!」
刑事部長の佐々木が怒鳴った。「勝手なことをするんじゃない、板垣」
「容疑者は、自首をすると言っているですよ!」
綾乃も負けじと大声を張り上げた。
「これ以上、ことを大きくさせたくはありません」
一瞬、その迫力に押され、この場が凍りついた。
「責任は俺が取ります。だから行かせて下さい」
板垣は言い切った。
「もし、事件を解決できなければ、私が辞表を提出します」
佐々木は、しばらく考えた後、板垣に近寄り、小声で、耳元で囁いた。
「お前の辞表では割にあわんだろ。俺の辞表も合わせなければならないだろうな」
板垣は何とも言えない顔で、佐々木を見た。
そして、
「有難うございます」
と礼を言った。
「ちょっと待って下さい」
額に傷痕の残る愛知県警察本部 刑事部捜査一課 巡査部長の北川が慌ててやってきた。
「安心しろ。拳銃はちゃんと持っていく」
「そういう問題ではないでしょう。私もついていきます」
「いい。俺一人で」
板垣はきっぱりと言った。
そして板垣は、英二を見た。
「中西さん、事件を解決させます。ですから安心して試合の方、頑張ってください」
英二はゆっくりと肯いた。
「妹さんも一緒にいるそうよ。無事なので、安心して」
綾乃は、英二に言った。
英二はゆっくりと肯いた。その顔に少しだけ赤みが加わってきたかに思える。
大したものだ。この状況下、彼はもう気持ちを切り替えることに成功したようだ。
いや、それとも今の彼は、試合のことしか頭にないのかもしれない。
「安心して試合に臨んで」
綾乃は英二に言った後、板垣を見た。
「それでは、行きますか」
板垣は頷き、部下をこの場に残し、綾乃と共に控え室を出た。
そして、二人で廊下を歩き出す。北川を始めとする数人の刑事が彼らに付いていこうとするが、刑事部長の佐々木が制した。
刑事たちがこの場を出ていった。
勿論外にはいる。だが控え室の中に残った者は、いつもの顔ぶれとなった。
もう終わったのだ。あいつの顔を見ないことには、終わったという実感はないが、俺たちは結局顔を合わすことも、交わることもなかった。
きっと、これが運命なのだろう。まるで昼と夜、北と南、太陽と月のように。そう、きっと俺たちは絶対に交わることのない陰と陽だったのだ。
「スタンバイの方お願いします」
扉付近で若い男、係員が合図を出した。
「よし、いくぞ。これで試合のことだけを考えろ」
神谷が気合を入れて合図した。「あとのことは、警察に任せればいい」
彼は両拳を堅く握り、腹の前においた。
英二はその彼の拳の上に自分のグローブをおく。次に神谷も英二のグローブの上に拳をおく。
いくぞ、という合図だ。息も合い、拳がうまく重なり合うと、次にいくぞ、と松尾もテンポ良く、拳を交差させた。
最後にいきますか、と真木とも交差する。
他にも十和ジムの応援団との面々とグータッチをした。男たちの野太い声、勇ましい声がこの控室内に轟いた。
そして、松尾が、英二の背中を叩き、その後、扉を大きく、力強く開け放った。
白い壁が眩いばかりに目に入り込んできた。
もう何も考えることはない、俺には。越えるべく障害を全て越えてきた、そう自分に自信を持って歩く。
この場からでもアリーナからの歓声が聞こえる。客は大入りだ。ヒップホップスのオリジナルテーマソングが流れた。軽快で、迫力のある黒人の声が高らかに、弾むように、会場内に響き渡る。
その音楽が自らをヤル気にさせ、自分が強くなったように思え、それで勇気が湧き、体も自然に踊り出す。
途中TCBのテレビカメラも一緒について、男のスタッフが必死にガウンの下に隠された英二の顔を映そうと、下からのアングルでカメラを廻す。
やがて通路も終わり、アリーナへと続く、堅く、閉ざされた扉の前にやってきた。
そこで一旦立ち止まり、それから天井を見上げ、一度大きく深呼吸をした。この扉を開ければ、まさに戦場が待っている。よし!
英二は声に出して気合を入れた。これから新しい世界が待っている。
午後八時。WBA世界ライト級タイトルマッチ チャンピオン ドナルド・ゴンザレスVS挑戦者中西英二の一戦はTCBテレビ局にて全国放送がなされた。
『高校でインターハイ三位、東邦大に入学。四年の時には全日本選手権で見事優勝。
そして、エリートボクサーとして、鳴り物入りで十和の門を潜り、六回戦デビューをし、連勝で日本タイトルを獲得。
一度の防衛の後、タイトルを返上し、前回七月に世界前哨戦と題し、メキシコ人ボクサーを見事KO勝ちで勝利を収め、この時を迎えます。
戦績十二戦 十二勝 八KO勝ちで、このタイトルマッチに挑みます。
今回はアメリカキャンプを敢行し、他団体の現役世界チャンピオンのマーチンと手合わせするなど、やるだけのことはやってきた、と本人も自信を持っての入場です』
赤いサーチライトがウェーブを立て、きらびやかに会場を盛り立てる。
白い煙のスモークが焚かれ、歓声が増し、会場は揺れに、揺れていた。
先頭に真木が歩き、その後ろに英二とタオルを首にかけた神谷が、そして、最後に松尾会長がゆっくりとリズムに乗りながらリングに向かう。
その途中、花道にいるガードマンの隙間を縫って、殺到するファンがいたが、先頭の真木がそれを強引に押しやり、道を空けて前へ進む。
そんな花道を、時間をかけてゆっくりと歩いた。
リングの前にやってくると、そこで足を一旦止め、リング下に用意された松脂を黒のリングシューズに擦り付けた。
アリーナが揺れている。人為的な地震が起きているみたいだ。
やっぱり違う。今までとは比べ物にもならない。
その普段とは違う声援の数とボリュームに、張り詰めた緊張の糸。鳥肌が立ってきた。これが世界戦のリングなのだ。
英二は目を瞑り、天井を見上げた。
一瞬、音が消え、静かになった。
無になれたような気がした。ざわめきも、歓声も、何も気にならない。こんなに気持ちいいと感じたことは、今までになかった。
英二は、目を開けた。
再び音がした。歓声が耳に響く。
そして、何もかもが戻ってきた。全ての視線が自分に注がれている。今までに体験したことのないこの風。
「楽しもうじゃないか」
神谷が言った。
「これが世界戦のリングだぞ」
英二は勢い良く階段を駆け上がり、等々リングの上に舞い降りた。
会場のボルテージが最高潮に達し、ヘッドライトを全身に浴びた英二は、気持ちよさそうに天井を見上げていた。