表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心に傷を負った男  作者: 中野拳太郎
4/7

弟三章 対峙




第三章 対峙


     一、


    ―翌日。

愛知県、足田町あしだちょう下林山しもりんざんの谷底から、丸焦げで、大破した車が発見された。

車はトヨタ車のレクサス。その焼け跡から性別不明の遺体が上がった。

 第一発見者は、森田勲五十六歳。会社員。


帰宅途中に山の中を自家用車で走行中、崖の下に車が落下していたのを発見したので、車から降りて、現場まで走っていくと、その車からは火が出ており、熱くて、近づくこともできなかった。その後、警察に通報。


現場は下林山で、山頂まで約二キロの地点。道路の急カーブ途中に設けられた待避所(長さ約二十メートル、幅約十メートル)にあるガードレールの切れ目(約五メートル)から、四十メートル下の谷底に、車が誤って転落したとみて警察は調べている。


その切れ目近くのガードレールには、車が接触した跡はあるが、周辺の道路にブレーキ痕は残っていない。そのまま谷底に落下していったと見られる。


 夕刻。

 足田町下林山で起きたレクサス転落事故の遺体の身元が判明。


遺体の性別は男性で、佐竹宣夫(四六)会社役員ということが判明した。死亡推定時刻は昨夜の十時前後。 

 調べによると、佐竹宣夫は、会社の金を一千万近く横領した人物で、重ねて女性問題も噂されている。

その日のうちに豊田警察署に(足田町下林山レクサス転落事故)の共同捜査本部が設置された。

指揮をするのが豊田署の刑事部長、佐々木だが、警察本部も豊田署と共同で捜査を進めていくことになった。


豊田署の小柄で、眼鏡をかけた、現場の指揮官刑事部長佐々木が前へ歩いていく。

カマキリに似た神経質そうな男だ。五十過ぎで、頭に白いものが増えたその髪の毛を撫で付けながら、これからの捜査方法を説明していく。  


捜査手法は、捜査は二人一組で行われ、本部の刑事と所轄の刑事がコンビを組むことで、仕事の役割が拡散できることにメリットをおく。

例えば一人が聞き込みをし、相棒がメモを取る。

緊急時には一人が対応し、相棒が連絡する、という役割を担う。それで捜査会議は朝の八時半と夜の十一時に予定され、主に朝の会議にはその日の指示。

そして、夜の会議に、その日の成果を報告することになっている。


渦のような人の輪を掻き分け、板垣敬三はようやく廊下に出て来て、やっとのことで一息つくことができた。ソファに腰かけ、溜息をつく。

昨夜から呼び出されて、一睡もしていない。

 重い頭を左右に振ってから、考えた。

本部は、この件を事件と事故の両面で捜査を進めているが、大半の捜査員たちは、この件を自殺と踏んでいる。板垣は、目頭を押さえた。

睡魔が押し寄せてくる。


しかし、この件は皆が思うような自殺ではない。なぜなら、死亡した佐竹はあの日、俺と会う約束をしており、彼は有力な証言を得られるでしょう、とまで言ったのだ。

これから死のうとする者のセリフなんかではない。だが佐竹は死んだ。しかも自宅からあんなに遠く離れた所で・・・。なぜだ? タイミングが悪すぎる・・・。


なぜ、俺と会う前に死んだのだ。

―この事件は、単純なものではない。きっと二年前の事件が絡んでいる、のではないか、そんな風に思う。

増井病院で亡くなった中西守。それから足田で亡くなった佐竹。二つの事件に共通項はあるのか。 

しかし、二つの事件現場には、犯人と思われる遺留品などの物的証拠に繋がるものは、殆んど残ってはいなかった。


なにより本部が乗り込んで来た理由も不明だ。確かに事件の当日、俺と会う約束があった、というのを伝えはしたが、本部の連中は未だ半信半疑のまま。

奴らが来た本当の理由は、佐竹が一千万円を横領した件ではなかろうか。だから共同捜査本部が設置されたのだろう。

では、仮に俺の立てた憶測が合っていたのなら、犯人は衝動的な犯行ではなく、秩序型の犯行に思える。

なぜなら計画的で、証拠を遺留しないよう配慮のできる、言ってみれば、自制心のとれた知能犯だからだ。

それでは、犯人像は? 年齢、性別、社会経済的な地位、職歴、学歴は? そして、犯罪歴はあるのか。

それから犯行現場と移住地の関係は? まったく関係のない所であれば、あんな山奥まで行った理由、それから移動手段は何だったのか。

う~ん手懸りがなさすぎて、調べることや考えなければならないことが山ほどある。


板垣が唸っていると、この部屋にもう一人の男が入ってきた。

「板垣さん」

額に傷痕の残る若い男がやってきた。

「やっと見つけた。もう、探しましたよ」

学生の頃、柔道部に在籍しており、その試合で負った傷だそうだ。

愛知県警から配属されたエリートで、この事件でパートナーを組むことになった愛知県警察本部 刑事部捜査一課 北川太一きたがわたいち巡査部長だ。

エリートはここ、所轄で大手柄を上げることを目標として仕事に邁進する。

例えば警察功労賞などを受けて、一階級、上階級への昇任を目指すのだ。きっと彼もそのはず。


だから所轄の人間の目の輝きとは違う。そして、その所轄の警部補板垣に宛がわれた任務は、彼の道案内人でしかない。

「エリートが来た」

ようやく板垣は顔を上げた。


「何をしていたんですか?」


「昨夜の事件のことを考えていたんだよ」


「実際、あれは自殺という線で捜査は進められていますよ」

北川が隣に座ると、板垣は首を振った。

「え、板垣さんは、そうは思っていない?」


「ああ」


「では、他殺と踏んでいるのですか?」


「俺個人的には、な」

板垣は言った。

「それには根拠もある。会議でも言ったが、昨夜、本当に、その死亡した佐竹宣夫と会う約束をしていたんだ。偶然にしては、話しが出来過ぎだとは思わんか?」


「そうですよね。会う、約束を・・・」

北川は言った。

「ですが本部の方は、その意見を重要視してないんですよね」


「本部の捜査は見落としが多い」


「そうでしょうか」


「ところで、俺が二年前の事件を追っていることは知っているよな」


「ええ。増井病院で中西守さんが亡くなった事件ですよね。

それは病院側の過失だったということで捜査は打ち切られていますが、板垣さんだけは、他殺だと踏んでいる」


「一言多い」


「済みません」

この男は、俺の意見に耳を傾けてくれる。だから悪い気はしない。


「俺は今まで、単独で二年間、地取捜査に動態調査、それらをずっと続けてきたよ。

中西守が入院していた増井病院、当時そこで入院していた人間、病院関係者などに聞き込みを続けて、な。

でも、芳しい情報は掴めなかった。だが、佐竹宣夫の息子がいたんだよ。その子は当時喘息で入院していたんだが・・・」


「それで、その子と会う約束を取り付けたわけですね」


「そうだ。だが佐竹宣夫は俺と会う前に、亡くなった」

板垣は言った。

「彼は言っていたんだ―」


「何と?」


「きっと有力な証言が得られることでしょう、と」


「どういうことでしょうか?」


「事件について、何か知っていたのではないか、と思うんだ。でも、死人に口なしだ。

結局、俺と会う前に彼は亡くなった。こうしちゃおれん」

板垣はそう言って、椅子から立ち

上がった。


「何処に行くのですか?」


「ちょっと、な」


「まだあの事件にこだわっているんですね」


「きっと二年前の事件と繋がりがある。俺にはそう思えてならん。

本部は自殺の件を調べればいいさ。だが俺は他を調べてみる」


「板垣さん」

北川が呼び止めた。

「私も手伝います。一人よりも二人の方が何かといいのでは。

そうですよね。とにかく、単独で動かれるのは、困りますからね。本部になんと報告すればいいのやら。

僕らはパートナーなんですよ。捜査は二人一組と決まっているんですから、ああ、待って下さいよ」


「うるさい奴だな」

板垣は、振り返って北川を見た。そして一人で肯いた後、手でついてこい、と合図を送った。


「何処に行くのですか?」


「中西守は、名東大学を卒業している。そこに行って、先ずはその名簿を手に入れようと思うんだ。

そして、何者かに憎まれてはいなかったか、聞き込みをするんだよ」


「その当時の同窓生に当たるわけですね」 


「ああ。それから俺にはちょっと気になることもあるんだ」

 北川は、板垣の顔を覗き込むようにして見た。

「夫人が言っていたことだが・・・」


「それはどんな言葉ですか?」


「あの人は、ずっと家族に言えない何かを隠していた、というセリフが妙に気になるんだよ。

だから光子と結婚する前のことでも調べてみようかな、と思ってね」


     二、


 東の空が明るくなりかけた頃に、ようやく義信は部屋に辿り着いた。

何十キロも歩き、途中放置された自転車を漕いで家まで帰ってきた。

鉛を背負ったかのように身体は重く、体の節々が軋んでいる。

 家に着くなり、汚れた服を脱ぎ、ゴミ袋に丸めて捨てた。


もうこんな服を着る気にはなれない。それを風呂場に持っていき、火をつけて燃やした。


そして、すぐにシャワーを浴びた。二十分が経っても身体に付いた泥や灰の煤、それから佐竹の血が取れないような気がした。

石鹸で体をゴシゴシと何度も洗ったが、それでも気持ちが悪く、手を何度も擦りつけて、石鹸で洗った。皮膚が破けるんではないかと思うほどに。 


 シャワーを浴びた後、部屋で静かにしていたが、少年が目覚めたようだ。

しばらくこちらに視線を向け、何かを言いたそうに、キョロ、キョロと義信の顔を盗み見するのだが、何も言ってはこなかった。

なぜ俺はあの時、少年を殺す気でいたのに躊躇われたのだろう。自分でも不思議に思う。

「どうした?」

 少年は起き上がり、壁の方にいき、そこに背をもたせかけて、天井を見つめた。

もしかしたら寝ていないのかもしれない。少年の足元が覚束ない。 

「今何時だ?」

 訊いてみたが、少年は答えない。しょうがなく棚に置いた時計に目をやった。

七時を指していた。いつも通りの生活をしなくてはならない。

「やばい、遅れる」

義信は急いで洗面所に向かった。「お前はここにいればいい」

 少年はまるで魚の腐ったような目を向けただけで、しばらくすると興味なさそうに俯いた。

義信は顔を洗い、それから歯を磨いた。焦りも手伝い、吐き気を感じたが、唾を吐いて、それを我慢した。

「お父さん・・・」

そんな時。少年がポツリと呟いた。

 義信は、手を止めて少年を見た。

「お前の父親は、もうこの世にはいない。事故で亡くなったんだ」

 すると佐竹浩太が必死の形相で、洗面所に走ってきた。

「嘘だ!」

浩太は、義信の腕を掴み、揺さぶった。

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが―」


「俺がどうした?」


「ぼく、知ってるんだ」

義信は昨日、外出する時に、玄関の扉、それから窓を、外から固定し、脱出できないようにした。

なので中からは窓を開けること、それから玄関の扉を開けることもできない。

それにこの部屋には防音装置を取り付けてあるので、中から少々叫ぼうが、外に声が漏れることはない。

だから少年の手足は比較的自由にしておいたのだ。

そんな中、少年は一人で想像を巡らしていたのだろう。俺が何をしていたのかを。

「何を?」


「増井病院で、お兄ちゃんの姿を見た。あのおじちゃんの部屋に入って行くところを、ぼくは見たんだ。

その後、看護師さんがウロウロしてたから、僕は部屋にもどったけど・・・」


 義信は、浩太の腕を払い除けた。

「それは何かの錯覚だ」


「いいや。この目でちゃんと見た。だから、お兄ちゃんは、あの時みたいにぼくのお父さんを殺したんだ―」


 義信は嗽をして気を紛らせたが、その気は休まることなく、チクチクと胃を刺激するだけだった。

「それだったのか、警察に密告しようとしたことは」

義信がコップを所定の位置に戻すと、浩太は後ずさりし、顔を引き攣らせた。

義信は、いきなり浩太の顔面を殴りつけた。彼は後ろに吹っ飛んでいき、腰から砕け落ちた。

その後を追い、さらに俯いた頭を上から蹴りつけた。

「お前はこの家で今日一日、じっとしていろ!」

義信は叫んだ。

「外に出ていっても、お前のいく所はないし、いったとしても俺が必ず見つけ出す、わかったな」

 洗面所で倒れていた浩太を担いで歩き、居間に持っていき、そして、投げ飛ばした。

「いいか、わかったか?」


浩太の顔を上げさせると、彼は震えながら肯いた。 


「今日は半日で帰ってくるから、それまでの辛抱だ」

 証拠はこのガキが握っていたのだ。警察に密告されないとも限らない。

やはり、殺すべきだったのだ。そんなことを考えていると、スマートフォンに着信があった。

「はい」

義信は、電話に出た。


「今から仕事?」

瑠唯の声だ。


「ああ」


「忙しかったね。ごめんね」


「なんだ?」

少し苛立った。

「今日、兄貴が帰国するんだ」


「そうか」

必死で平静を取り戻そうとした。瑠唯に何かあったのかを、勘ぐられてはならないし、心配してこの部屋に来る、などと言われるのだけは簡便してもらいたい。

この部屋だけは、見せられない。 

「もしよかったら、一緒に中部国際空港に行ってくれない? 

兄貴、これから忙しくなるし、毎回試合前は集中出来ないからって、人とは会わなくなるの。

だから今のうちに会っておこうと思ってね」


 少し考えた。

「何時だ?」


「午後の九時に到着するんだけど」


 いい考えはないか、未だ考えはまとまらない。

「ちょっと、遅れそうだな」


「え~ どうして?」


「最近残業で忙しいんだ。なんとかして中部国際空港にいくから。先にいってくれても構わない」

 しばらくは返答がなかった。

「どうした?」


「なんで最近そんなに忙しいの?」瑠唯の尖った声。

「前は定時ばかりで、私とよく会っ てくれていたのに。あやしくない。

もしかして、ほんとのところは、今、邪険にしてるでしょ、私のこと」


「そんなことないよ。君にはわからないかもしれないが、仕事なんだ。ほんと最近忙しくてかなわん」


「冷たくなった」

瑠唯の声が小さくなった。

「前はもっと会ってくれたのに・・・。

私ね、今とても不安で、淋しのよ。会って話したいことだって、いっぱいあるんだから」


「え?」

聞こえないフリをした。

「ごめん。もう遅れるから、ちゃんといく。うん。国際線のターミナルでいいんだな?」

 返事を訊く前に、女のヒステリックな声を消去すべく、自分の平常心を保つべく、あるいは自分が立てた予定を崩されないために、この不必要な情報ばかり送ってくる電話を切ってやった。


      三、


日は沈みかけていた。

西の空が薄く、赤くなっており、そろそろ暗くなる頃だ。

街が灰色に染まっていくのを見ると、疲労を覚える。だがそんなことを考える暇はない。

豊田署の板垣と愛知県警の北川は、中区丸の内にある東海新聞本社に向かっていた。 

「板垣さん、スマホが着信してますよ」

さっきからスマートフォンがブルブルと暴れているのに、まったく気付かなかった。

「ああ」

板垣は、慌てて受信した。

「はい?」


「鑑識課が指紋の採取をしており、その結果が出ましたので、ご報告にと思いまして」


「有難うございます。それで、どうでしたか?」

スマートフォンを持ち替えた。

足田町下林山レクサス転落事件のことだ。鑑識が入ったので、その結果報告だ。

「ハンドルやギア、窓の指紋を採取したのですが、車内は黒焦げで、佐竹さんの指紋が僅かに残っている程度でした」


「そうですか」


「それに、トランクはグシャグシャに潰れており、座席シートやグローブボックスからも、指紋や頭髪といった手懸りになるものはありません」  


「手懸りなしか・・・。車内は黒焦げだったわけで、指紋がそれほど残っていないことには頷ける。

そもそも、自殺で車があそこまで焼けるものだろうかー」


「まだ調べてみないとわかりませんが、車が落下した時に、電気系統のどれかが岩などに衝突し、引火した可能性もなくはないのですが・・・」


「そうですか。有難うございます。それでは引き続き、何かわかったら、教えて下さい」

 

 東海新聞社に入り、受付で運動部に連絡を取りつけてもらった。

「今日名東大にいって来ました。それで、中西守さんについて訊きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」


「名東大ですか。構いませんよ」

ワイシャツの上に黒いセーターを着た男は、書いていた書類を閉じ、立ち上がった。

「お久しぶりですね」

 背が高く、シュッとした男で、運動部デスクのだ。

「それでは、こちらの方で」

勝田はそう言って、応接室の方へと案内した。


板垣と北川はその部屋に通され、椅子に腰掛けた。そこは奥に位置する別室となっている部屋で、さほど広くもなく、会議用の椅子と机があるだけのいたって質素な部屋だった。 

「いや、びっくりしました」

座るなり板垣が言った。

「中西守さんのことを調べたいと思い、名東大の方に行ったのですが、あなたと中西さんが同級生だったとは・・・」

 勝田は、しばらく板垣の顔を眺めていた。


「まだあの事件のことを追っていたのですか」

彼は呟くようにいった。

「もうとっくに事件は終わったと思っていましたが」


「いえ、私の中では、まだ終わってはいません。ですからこのように捜査を続けているわけでして」


「ほう」

彼は興味深そうな顔で、足を組んだ。

「そうですか。で、私に何が訊きたいのですか?」


「時間の方は、大丈夫ですか?」

板垣も足を組んだが、足の長さが勝田とは違い、こっけいに映る。やめた。また元に戻した。


「ええ、少しなら。でも、もうすぐしたら外出しなければなりません」

彼は言った。

「世界タイトルマッチが決まった中西英二選手が、今日アメリカから帰国するので、取材に行かなくてはならないのでね」


 そんなことを話していると応接室のドアが開き、お盆に茶を載せた姿勢のいい女が入ってきた。

「こんにちは」

皆川綾乃が会釈した。


「あ、彼女も一緒に行くことになっています」

勝田は茶をとり、言った。


「私も同席して構いませんか?」

綾乃は全員に茶を出してから、椅子に腰掛けた。


「また君か」

板垣はしかめっ面を作った。


「え、知り合いですか?」

勝田が訊いた。


「ええ。最近、私の周りをうろうろしているのでね」


 勝田は、綾乃を一瞥した。

 綾乃は目を反らす。


「ま、構いませんよ」

板垣は言った。

「それでは急がなくてはなりませんね。では率直に訊きます。あなたと中西さんとの仲はどのような・・・ま、簡単に言えば親しかったでしょうか?」


「はい。親しかったといえば、そうなるし。でも親しくなかったといえば、そうだな」

勝田は、曖昧な趣で答えた。


「勝田さん、中西英二選手の父親と親しかったのですか。もっと早く教えて下さいよ。そうゆうことは」

綾乃は口を尖らせ、話に割り込んできた。


「まあな。同級生だったんだ」


「来た甲斐があります」

話はしばらく他愛のないことがなされた。板垣は敢えてそうした。

初めは遠くから攻めることで、曖昧な答え方の口を滑らかにするためにだ。

何を専攻していたのだとか、彼の思想や性格。やがては彼自身の話題から少し離れ、当時の流行った歌だとか、服装。

それら笑みを浮かべ、和やかに話をしながらある程度の時間を掛けた後、中西の話に戻る。

何か、あの事件に対し、ヒントになるものがないか。恨んでいた者、快く思っていない者がいなかったのかを探るために。

「―で、彼はね、女たらしだったんですよ」


「それは、夫人の光子さんからも訊いております」

もう少し話を掘り下げられないか、少しつっいてみることにした。


「そうですか。それでね、学生の時、私は、彼と女のことをよく話していたものですよ。

こんなこと、言っていいのか。ですが、未だに引っ掛かっていることがあるもので・・・・・・」


 ん? 風向きが変わってきたぞ。板垣は、勝田の顔を真剣な目つきで見た。


「実はね、当時、彼からこんなことを聞かされたんですよ・・・」

彼は身を乗り出しながら言った。


「どんなことですか?」


「これは内緒にしてもらいたい事柄です。特にマスコミなどには、ね」


 板垣は肯いたが、事と場合によってはそうもいかない、そう思った。


「中西守は大学一年の時に、女性をはらませたことがあったのですよ」

彼は小声でそう切り出した。


 ここにいる全員が目を瞬かせた。


「え?」

綾乃は思わず前のめりになり、バランスを崩し、椅子から落ちそうになった。


「それは確かですか?」

板垣はお茶をひっくり返しそうになった。

いきなり爆弾を落されたような衝撃のある言葉だ。


「ええ。それがきっかけだったのか、私は、彼と仲が良くなったのですから」

彼はそう言い、唇を舐めた。


「仲良くなった?」

綾乃は慌てて姿勢を正した。

「あ、まあ、その経緯からよく喋るようになり、相談にも乗ってやったというわけです。

でもどうしてあいつが、俺なんかにあんな話をするようになったのか、わかりませんが・・・」

彼は昔を探るように遠い目をしていたが、最後は首を捻っていた。


「きっと同じ女たらしだったんですよ。勝田さんと中西さんは」


「そんなことはないぞ」

彼は素早く、反論した。


「そうですよ、きっと。だから中西さんも、勝田さんには話し掛けやすかった。

だって勝田さん、この前はあの女と、なんて話ばかりしている女たらしじゃないですか。

それに、先日なんか、三好君、何で君は、僕が結婚している、とあの子にいったんだ、なんて言ってるの、耳にしましたよ」


「それは、何かの間違いだろ。俺は、記憶にないが・・・」


「ところで」

板垣は、その二人の冗談を遮断するように言った。

「その女性の名を覚えていますか?」


 彼はやや左上を見ながら、考え込んだ。左上を見て話をする人は今までのことを振り返り、真実を話そうとするもの。信じてもいい。


「確か、後藤・・・春江とか言っていたような。

そうだ。思い出した。当時彼女は中学を卒業して、就職をしていたそうですが、ああ、年は十六歳でした。

ええ、確かにそう言っていたような気がする。

俺はまた変わった子を、なんて思っていたんだよ。

で、詳しく事情を聞いてみると、あるきっかけで中西が豊田市に用事があり、訪れたそうですが、その時に知り合ったようなんです。

中西の会社は豊田市にありますが、彼自身は元々豊田市には数回程度しか訪れておらず、方向感覚もなかった。

それで随分と彼女に世話になったそうで、食事をご馳走したそうです。彼女は喜んでくれ、笑顔が素敵だったと言っていました。

そして、二回、三回と豊田市にいき、デートのようなものを重ね、やがて、肉体関係を結んだ。

中西はその一度の行為で、はらませてしまったようなんです。

それが親にわかると、彼女と会うことを禁止され、慰謝料を払い、いくら支払ったのかは存じませんが、とにかく強引に別れさせられた、ということを訊かされました。

ま、若い頃ですから、社会というのか、分別、そういったものがわからなかったのでしょう」

 彼がふっーと息を吐き出し、話し終えると、他の者はその顔を、息を止め、見つめた。


「そんなことがあったのですか・・・。で、その女性は今でも豊田市に住んでおられるのですか?」

板垣は訊いた。


「いや、これが、ね」

彼は首を振った。

「亡くなったそうです」


「亡くなった?」

綾乃は不思議そうに小首を捻った。


「どうやら中西は、後になっても彼女のことが気になっていて、身辺調査を入れたとのことです。

ま、もっとも中西は彼女の子を認知していなかったものですから、彼女は一人でその子を育てたそうで、女一人では並大抵の辛さではありません。

昼夜構わず働き続け、持病も重なり、ついには過労死だったということを訊きました」


「持病と言うのは?」


「心臓が悪かったとのことで、死因は心不全だったらしいですよ」


「そのことを中西さんから訊いたのですか?」


「ええ。大学を出てから、彼とはしばらく疎遠だったのですが、あれは、今から三年前ですかね、突然、私を訪ねてきたのです。

あの時、息子の英二君は大学生でした。

それで全日本選手権で優勝したのもあり、そのことを私に伝えに来たわけですが、そのついでに後藤春江のことも話していきました。

そして、再度、自分の過去を黙っていてほしいと念押し、してね」


「そうですか」

板垣の目がまた鋭くなった。

「そんなことがあったのですか・・・」


「勝田さんはそのことを今、初めて喋ったわけですよね?」


「まあ」

勝田はここで罰の悪そうな顔をした。

「中西は、英二君のことをえらく気にしていましたし、私も思います。彼はいいボクサーです。こんなことで彼を潰したくない。

だから騒ぎ立ててもらいたくありません。刑事さん、絶対にこのことを他に漏らさないで下さい」


 板垣と北川は肯いた。

「でもなぜその話を私らにしてくれたのですか?」


「わかりませんね」

彼は溜息をついて、天井を見上げた。

「やはり私自身、二年前のことが気になっていたのかもしれない」


「二年前の事件。増井病院で、中西守さんが亡くなったことですよね」

皆川綾乃が訊いた。


勝田は肯き、板垣の顔を見た。

「私はあの事件の真相を知りたい」


「はい。真相に近づけるよう、努力しますので、ご協力下さい」

板垣は言った。


勝田がゆっくりと煙草を取り出し、口に持っていこうとした時。


「勝田さん、」

横から綾乃が急かすように言った。

「もうすぐ中西さんが帰国しますよ」


「ああ、もうこんな時間か」

彼は立ち上がった。

「よかったら、一緒にどうですか? まだ話し足りないような気がするのですが」


     四、


 風の強い日だった。今日は半日で仕事を上がり、アパートに帰ってきた。

 ドアを開けると、少年の苦しそうな息遣いが聞こえた。それは動物のような、まるでオットセイの鳴き声のようだった。嫌な予感がした。

 浩太は体をくの字に折り曲げ、オオッオオッと苦しそうに喉を鳴らしていた。喘息発作が出たのだろう。

それを見ると、こっちまで気分が参る。しゃがみながら浩太の背中を擦ってやった。

「大丈夫か? 待っていろ。すぐに水を持ってきてやるからな」

 キッチンにいき、蛇口を捻ってコップに水を汲んだ。

「飲め」

少年は、むせながらその水を飲んだ。

「お前、吸入器を持っていないか?」

 少年は肯き、パソコンの前に無造作に置かれたものを指差した。

「わかった」

 義信はそれを手にすると、少年の口を上に向けさせ、一度、二度とボタンを押して薬を肺の中に注入してやる。

酷い時には今のように二度吸わせるのだ。

浩太は薬を吸い込むと、体をぐったりとさせた。

喘息発作は思いの外、エネルギーを消費する。それはよくわかる。自分もそうだった。

 義信は新鮮な空気を部屋の中に入れるために窓を開けた。

そして、濡れタオルを喉に当ててやり、咳をする度に背中を叩き、その後優しく擦ってやる。

喘息とは孤独なもの。どれだけ苦しいのかをわかっている分、心配は尽きない。困ったな、このままにしてよいものか。


      五、


 夜になると強い風と共に雨が降ってきた。

日中から重々しい雲が空を支配し、その空が真っ黒になると、ついに本降りとなった。まさに怪しい、不穏な空気が漂っていた。

中部国際空港のターミナルは人、人、人でごった返していた。いくつもの新聞社に、ボクシング関係者。

それから多くのファン。アメリカからやってきた便を待つ人々で、ターミナル内はかなり混雑していた。 

中西英二が日本に帰国した。 

「今回のキャンプはどうでしたか?」


「バッチリです」


「体調の方はどうですか?」


「減量も順調だし、動きもいいです」

 矢継ぎ早に続く質問。

「スパーリングの方はどうでしたか?」


「チャンピオンのマーチンと、手合わせをしたということを訊いたのですが―」

 怒涛のように飛び交う質問の嵐に、神谷に先を促され、英二は早足でこの場を去っていく。

質問に答えていては、切りがないのは分かるが、少しくらいは・・・。


 そんな時。

「お帰りなさい」

と、女の声が耳に入ってきた。


「あ、君か」

やはり、来ていた。そんな気がしたのだ。あるいは居てほしい、という願望だったのか。


「どうだった?」

皆川綾乃が微笑みながら、すぐ傍らで立っていた。

「東海スポーツの皆川です。こっちが上司の勝田、それから豊田署の板垣さんと北川さんです」

 皆川綾乃が後ろにいた男三人を、英二の耳元に、小声で紹介した。


「豊田署?」

英二は小首を傾げた。

「どうして刑事さんがいるんですか?」


「いえ、たいしたことじゃないのですが」

ふくよかで、人の良い顔の男が会釈した。

 そんな中でもフラッシュが焚かれ、他のマスコミの質問が飛び交う。時折笑みを浮かべるが、顔が引き攣ってきた。

警察? またやっかいなお客を連れてきたものだ。


「あ、妹が来た」

英二が、ターミナルの外にあるバス停の方に向かって手を振った。

様々な人が降りてくる中、一人の女が、急ぎ足でスマートフォン片手に歩いてくる。


「まだ来てないの? そう、わかったわ。あとどれくらい?」

 瑠唯の声が段々と耳に入ってきた。

「そうよ。私は、今ターミナルに着いたところ。

凄い人だかりができてる。早く来てね、兄貴も到着したから」

 やがて瑠唯は電話を切り、マスコミの輪を潜り抜け、英二のところにやってきた。

「お帰り、今到着したの?」


「ああ」

その途中でさえ、マスコミの質問が飛んできた。

「ちょっと待っていてくれ。もうすぐ終わるから」


「あ、妹の瑠唯」

英二は、綾乃に紹介した。

 瑠唯は、綾乃に会釈した。

「初めまして」


「初めまして、東海スポーツの皆川綾乃です」

綾乃は、挨拶を交わした。


 板垣は、英二を見た。

長いフライト、それから激しいトレーニングによる蓄積された疲労。それでもこの男はそれを見せず、光輝いている。

こういう男がスターなんだろう。そう思った。

 そんな時、スマートフォンの着信音が響いた。

「あ、俺だ」

板垣がズボンのポケットをまさぐった。

「はい」


「村上ですが、今宜しでしょうか?」

 監察医からの電話だ。板垣は、一旦彼らの輪から抜け出した。

「ええ、お願いします」


「司法解剖の結果が出ました」

村上は短絡的に切り出した。

「警察官に案内されて、豊田署の霊安室に入り、検事の指揮下で司法解剖に入りました。

先ず遺体の顔にかけてあった布を取り除きましたが、それは酷いものでした。

被害者の遺体は焼け焦げで、所々、皮膚、肉なども削げ落ちておりましたが、骨の部分はしっかりと残っていたので、わかったのですが・・・どうも私が得ていた情報と違うんですよね」


「どういうことですか?」


「死因は脳挫傷。頭蓋骨骨折です。後頭部に挫傷があったので、調べてみたのですが、約五センチの強い打撃痕がありました。

岩か何かと思われる物で、他者から強打されたのか、あるいは自分でやったのか、まだはっきりとわかりませんが」


「何?」

板垣は突然大きな声を出した。「それでは、他殺の線が浮上したということですね」


「はっきりとしたことは言えませんが、ハンドルに頭をぶつけてもあれほどの陥没はしませんし、外傷は後頭部です。

それに被害者の胃は殆んど空っぽでした。

死ぬ前、八時間以上は、少なくとも固形物の食事は摂ってはいないと思われます。

場合によると、朝食後、食事を摂っていないことになります。

なぜなら人間、食べた物は通常三時間ほど胃で消化され、それで小腸に運ばれて、八時間から十二時間内で排泄されるといわれます。

ま、食欲がなかった、と言われればそれまでですが。

しかし、死のうとする人間が、最後に空腹と闘いますかね」


「う~ん。もしかすると、何者かに、拘束されていたのではないだろうか。だから長時間、食べられなかったのかもしれない」

板垣は唸るように言った。

「拘束、いや待てよ」


「そうですか。もしかしたら、佐竹は監禁されていたのではないでしょうか」


「いえ、それは違いますね。だって佐竹は、その日会社に来ているのが確認されています。

それで五時まで働いていますし、昼の休憩時間に食堂にいたのを見た人もいるんです」


「食堂にいた? そこで何をしていたんでしょうか。食事を摂っていないことは調べだってついているわけですから」

村上は言った。

「わかりませんね」


板垣は考え込んでしまった。

「とにかく、他殺の線が浮上したという訳か。それでは、犯人の遺留物か何かは見つからなかったのでしょうか」


「その点については、私からは、何とも・・・」


「そうですか」 


「他殺の可能性に関していえば、いくつかの根拠もありましたので、一先ず、ご報告までに、と思いまして」


「有難うございます。また何かわかりましたら、その時はお願いします」

 板垣はそう言うと、静かに電話を切った。

他殺か。では一体何者が佐竹を殺したのか。やはりこの事件は簡単なものではない。


      六、


 水を跳ねるタイヤの音が、はっきりと聞こえるようになってきた。

雨足は激しく、ゴロゴロとまるでお腹を壊したように、空もうねっていた。

 マスコミが去ってから一時間が過ぎた。

英二は、神谷らスタッフと別れ、瑠唯と国内線ターミナルに移動し、その中の喫茶店に話しを聞くために入店した。

 会社の方は佐竹という男に一千万円近くの金を横領され、それで会社経営が赤字となり、業績は著しく悪化。

そればかりではなく、実はその男と母親が関係にあったということが公になり、しかもその相手の男、佐竹は自殺をした。

しかし、母親に言わせると全くの事実無根で、何処からそのような噂が流れたのかわからないとのことだ。

その一部始終を聞かされると目眩を起こし、吐き気を覚えたほどであったが何とか堪えた。

「おにぃ、もう少し待ってね」

一人物思いに耽っていると、瑠唯の声で現実に戻された。

「今、スマホで彼と連絡取ったんだけど、もうそこまで来てる、っていっているから」

 会社の話だけで、瑠唯の彼氏を紹介したい、ということも上の空だった。

「おにぃ、」


「あ、何だ?」


「私の話、聞いている?」


「ああ」


「ごめんね、」


「何が?」


「おにぃがアメリカに行ってから、家が無茶苦茶になった。

なのに、私のいっていること。そんな大事な時なのに彼氏のことを、おにぃに紹介しようとしている。

ごめんね、疲れてるのにね」


「確かに、疲れてるよ」


「おにぃ、」

瑠唯の声がさらに小さくなった。

「何だ?」


「今日、おにぃに彼氏のことを紹介したいのは、実は、訳があるのよ」

 その言葉の意味を少し考えてみた。家族がこんなことになり、自分がアメリカからたった今帰ってきたばかりというのに、普通は話をもってくるべきではない。

何か、よっぽどのことがあったのだろう、瑠唯に。

「私、最近体がだるかったのね」

瑠唯は、ぽつりと呟いた。どうも様子がおかしい。

雲行きも怪しくなってくると、その次の言葉がなかなか出てこない。

英二は切り出してみた。

「どうかしたのか?」


「うん」

瑠唯は肯いた。

「それと吐き気もたまにあるし、でね、おかしいなと思って、産婦人科に行ってみたの―」


 これで謎が解けた。なぜ自分に、今こんな話をしなくてはならないのかがー。

「お前・・・」


「そう」

瑠唯は言った。

「もうすぐ、二ヶ月になる・・・」


「あ、相手は今からくるっていう男なのか?」


 瑠唯は小さく肯いた。

 なんということだ、こんなことがあってたまるか。

うそだろ? 英二は握り拳を作り、机の端をコツコツと叩いていた。本当なら、思いっ切り殴りつけたかったが、どうにかそれを、理性で抑えつけた。

 丁度その時、この国内線ターミナルの中に一人の男が入ってきた。

土砂降りの雨の中、傘も差さず、男は堂々と立つ。それを照らすように稲妻が走った。

 ドッカ―ン! 近くで雷が落ちた。

 その男は身じろぎもしない。ターミナル内をキョロ、キョロと見渡している。

背が高く、がっちりとしており、英二よりも一回り大きい。

 瑠唯が席を立ち上がり、

「あれ、あれが彼氏よ」

と言い、一旦喫茶店から出ていき、男の基に走った。

そして、その男のところにいき、肩を叩いて知らせた。

男は瑠唯に顔を向け、二人して喫茶店の中に入ってくる。

あの男だ、まさしく。悪寒に襲われると同時に喉の渇きを覚え、唇を舐めた。

そして、残り少なくなったコーヒーを飲み干す。

「このところ全然会えなかったから、言えなかったことがあるんだ―」

瑠唯の声が近づいてきた。

 男は英二の視線と合うと、会釈した。英二は顔を反らし、窓の外を見た。

すると叩きつけるような激しい雨。普通じゃない雰囲気があった。両腕に嫌な鳥肌が立つ。 

男もようやく英二の顔から視線を反らし、瑠唯を見た。

減量のため、あまり飲んではいけないと思いつつ、水にも手をつけていた。

「ちょっと残業で忙しかったから。それに君もわかっているだろ。うちの会社が今大変なことを」


「ええ、だけど、私の体調も、ちょっと・・・」

 男は瑠唯の顔を真剣な眼差しで見た。

「獲り合えず座って」

瑠唯が英二の席にやってくると、男に言った。そして、指差した。「兄貴」

 男は、今度は深々と頭を下げた。「後藤義信です。妹さんと付き合わせてもらっています」

 仕方なく肯いた。

 そして、義信が瑠唯を見た。

「さっきの話・・・」


「ああ、私、産婦人科に行ったのね」

 男が、女から唐突に言われた時に見せる仕種のように、義信の顔も驚きと困惑の顔とで重なり、そして、しばし止まった。

「で?」


「で、って?」


「ああ、ごめん。ちょっといきなりで、なんていっていいか・・・」


「前から相談したかったのよ。でも義信が忙しいって、全然会ってくれなかったし、私も不安だったけど、心配だったから、一人で行ってきたの。

一人で産婦人科に行くのって凄く不安だったし、勇気が必要だった・・・」

 義信が瑠唯に真剣な顔を向けた。何を喋っていいのか、どう言葉をかけてやろうか、考えているようだった。

「そ、それで?」 


「妊娠してた―」


「君は、そのことを全く知らなかったのか?」

英二は、義信が思案している間に思わずそう問い質していた。


「す、済みません」

義信は苦し気に言葉を振り絞った。

「仕事が忙しくて、でも、妹さんとは真剣に付き合っています」


「付き合っていますって、君はこれからどうするつもりなんだ? どう責任を―。

聞くところによると、妹とはつい最近、知り合ったばかりでしょ?」


「ええ」


「第三者から見て、君は、はっきりいって、無責任なんだよ」


「済みません」

義信は慌てて立ち上がった。

「そんな気は、いや、こうなった以上、私が責任を持って、」

そして、深々と頭を垂れた。 

 

ドッカーン! 雷鳴が轟いた。まるで英二の心の中のように。

「責任を持って、どう責任を持つというんだ!」

声が大きくなっていく。何でこんな男と・・・。

「これから瑠唯さんを、責任持って」


「責任、」

男に先を喋らせないよう、いや、彼の話しの先を聞くのが怖いからなのかわからなかったが、遮った。「君は、妹と結婚をするとでもいうのか?」

 やめてくれ、この男とだけは・・・。義信を見た。


彼の全身を。それでも義信は盗み見をするように、英二を見たが、何も言ってはこなかった。

沈黙が耐えられない。窓を叩きつける激しい雨の音だけが、いつまでも耳に響く。この嫌な空気に、溜息が漏れた。

「中西工業に勤めている、って訊いているんだけど・・・」

そして、言った。

「ええ。もう十四年になります」

だが、こいつの顔をこれ以上見ていられなかった。

これ以上見ていると、その能面のような顔を粉砕してやりたくなる。理性も限界に達しようかとしていた。

「そう」

英二は立ち上がった。もう話す内容もないし、話したいとも思わない。それよりも、この男の基から一刻も早く立ち去りたかった。


「おにぃ、」

瑠唯が慌てて立ち上がった。

「どうしたの?」


「今日はもう疲れたよ、ごめん」

背中を見せ、立ち去ろうとした。伝票を取り、一人レジへ向かうと、瑠唯も一緒についてきた。

「何も考えれそうにない。それに、あの男とは・・・」

英二はできるだけ小さな声で言った。

「今までお前が付き合ってきた男のことは、何とも思わなかったが、あの男とだけは、気が進まない。嫌な予感がするんだ。だから、考え直してくれ」

 瑠唯は足を止めたが、一人でそのまま歩いた。


疲れていた。日本に帰国した途端に、あまりにも多くの雑音が耳に入ってきた。人の足を引っ張る音に、人の家庭を壊そうとする音。

それらの雑音が耳にキーンと入って来て、鼓膜が破れそうだった。

ボクシングに集中しなければ。ボクシングに―。


止まれよ、あいつはまだ座っているじゃないか。お前を待っているんだぞ。

耳元で声がしているような気がした。それでもこの新たな音を振り払うようにして歩く。


俺はこの問題から、家族に降りかかった問題から逃げ出したいのだろうか―。


止まるんじゃない。このまま前へ進め。そうだ。


そんなことはどうでもいいことだ。今は、今だけはボクシングのことだけを考えればいい、世界戦のことを考えろ、そのためのアメリカキャンプだったはず。ボクシング、俺のボクシング―。 


止まれ。もう一度声がした。お前は、あいつから逃げるのか? 身に降りかかった災難を振り解くのが男じゃないのか。

それを、お前はあれがあるから、などと見て見ぬフリをし、耳を塞いでいるー。


―進め。

―止まれ。 

進め、止まれ。


足元が揺らぎ出していた。

地面が大きく揺れ、英二は壁に手をついて、それに必死に耐えた。どうすればいい? どうすれば・・・。


 ―ハッハハハ。愉快だよ。愉快。

こんなに愉快なことはない。

く、苦しい。腹が苦しいよ。面白すぎて、腹が捩れそうなんだ。

今にも泣き出しそうな妹に、苛立ちと、不安が交差し、パニックになりかけた兄、あの二人の顔を見ているだけで、たまらない気分になる。

湧き上がるこの喜びを、義信は背中を震わせながら、噛みしめている。

そうだ、もっと苦しめ。義信はテーブルに突っ伏して、笑いと喜びを必死に隠していた。


「義信、どうしたの?」

瑠唯が戻ってきた。


「お兄さんを、怒らせて、しまったようだ。これからどうしよう、か」

 わ、笑いが、収まらない。誰か止めてくれ。頼むからそんなふうに、俺に面白い顔をするのはよしてくれ。


「一応は伝えたけど、今は、そっとしとかなきゃね。大事な世界戦があるんだから。これ以上負担を掛けたくないわ」

 瑠唯の声を聞いた途端に、ようやく我を思い出し、シリアスな顔をつくることができた。まだまだだよ。


こんなものでは終われない。俺の母親がされた仕打ちに比べれば、大したことはない。そうだろ?

「この先、わかってくれるかな。俺たちのこと」


「わかってくれるわよきっと」

瑠唯は言った。

「義信は、この子のこと、賛成してくれるよね?」


 お前も、もっと苦しめばいい。俺の母親のように一人で、その子供を育てればいいさ。そう、屈辱と共に、な。

「勿論だよ」


七、


 天井の低い、この狭い部屋にいると気分が滅入ってくる。圧迫感で押し潰されそうにー。

もう、うんざりなんだ。白くて、大きな二階建ての、前の家を見ると、余計にそう思う。

何で俺は生まれついた時から、こんな貧乏な生活をしなくてはならないのか、と。

何気にテレビに視線を送る。すると女性アナウンサーの声で現実を知った。

『十一月二十日、愛知県足田町下林山で起きた車の転落事故の続報です。

警察によると、当初亡くなられた会社役員の佐竹宣夫さん四十六歳の自殺と思われておりましたが、事故現場の状況から不審な点がいくつか上がり、事件の可能性も否めないとのことです。

今後も引き続き、事件と事故の両面から捜査を進めていくとのことです。

尚、佐竹さんの長男、浩太君十二歳も依然として行方不明であり、駅前や周辺の通りに警官を配置させ、捜査を継続し、コンビニなどにチラシを配布し、情報を募っています。こちらからは以上です』


その画面には、焼けた事故現場が生々しく映っていた。

車は撤去されていたが、破壊されたガードレールに、散らばった砂利。

車が通ったと思われるあとには押し潰されていたり、折れ曲がった、黒く煤けた木々や草などが、無残な残骸として残されていた。そして、車があったと思われる地面の所が大きく陥没していた。 

 義信は目を擦り、頭をしっかりさせることに努めた。

そろそろここから出ていかなければならない。


おそらく警察がここにくるのは時間の問題だ。

要ると思われる手頃な物を整理し、佐竹の息子、浩太を連れてこの場から出ることにしよう。


「テレビ見ていていい?」

 そんな時、木の椅子にちょこんと腰掛けていた浩太が言った。


「勝手に見ていてくれ」

布団の中、頭を掻き毟りながら義信は言った。

「だが、すぐに出かけるぞ」


「これから何所かにいくの?」


「ああ。ある所へいかなければならない。だから、もうここには戻らないことにした」


「どうして?」

 それ以上は答えなかった。

 仕方なく浩太は黙ってテレビを見た。

相手が機嫌のよくない時には喋らない、こんな状況だからこそ、生きていく上での覚えた付き合い方なのだろうか、あるいは男親との長い付き合いから、自然と身に付いたものなのか分からないが、この子は本能的に大人との接し方を心得ている。


「今日もぼく、学校に行ってはいけないの?」


「学校に行っても何の役にもたたん、やめておけ」

 ベッドから起き上がり、バスルームへと向かう途中、浩太をちらりと見てから言った。


「どうして?」

浩太は、相変わらず義信の姿を目で追う。

「じゃ、お兄ちゃん、学校は楽しくなかったの?」


「何の思い出もないさ。それに学校に行かなくても、大概の学力は本を読んで、補うことができる。

だから、この部屋にある全ての本を貸してやるから、どれでもいい、読みたい本があれば、持ってこい」


「それじゃ、友達は?」


「そんなものはくだらない。いいか、人がお前に何をしてくれるというんだ。

他人は自分のことだけで精一杯なんだぞ。お前のことを心配してくれるお人好しなど、この世にはいない。

そもそも人間は、自分の力だけで生きていかなくてはならん。どうなろうとも、な。

だから他人を当てにするな。他人は、自分の犠牲にしかならん。そうゆうものさ」


 中学までの学校生活。俺には、いや、生まれてから今まで友達と言える人間などいなかった。いつだって一人だった。


「お兄ちゃん、今日も仕事にいくの?」


「ああ、そうだ。だがその前にいかなければならないところがある。さ、用意しろ。もう手筈は整っているんだ」

 義信は、浩太を浚って来て、先ずは恐怖を与えた。

目隠しをし、ナイフを頬に当て、時折大きな声で威嚇した。

そうすることにより、浩太の口数は減り、身体を振るわせて怖がるようになった。

そして、二日は寝かせなかった。うとうとする度に頭を叩き、それで起こした。食事も一日に一食と必要最低限のものしか与えなかった。  

そして、今度は一転、浩太の心を、徐々に包み込んでいくようにした。

目隠しを解き、食事を一日に二度、それから三度と徐々に増やしていき、言葉使いも優しいものにし、こうして狭い二人だけの世界を創ることに成功した。

今では義信のいうことを、全てきくようになっている。


     八、


 いつものように八時に仕事が始まる。

自由を遮断するかのようなチャイムが鳴ると、今日も始まるのか、と従業員は肩を落としながら持ち場へと着いていく。


 と、その時。

「後藤義信さん、冷鍛課後藤義信さん、大至急二階事務所までお越し下さい」

 ひび割れた声が、スピーカーを伝って流れてきた。

何事だろう。義信は首を傾げながら機械を止め、薄暗く、汚い階段へと向かった。

その階段を登り、二階の事務所に向かう。入り口にある小さな机には不良品サンプルが所狭しと並べられており、それを眺めながら先に進んだ。


「後藤さん、こっち」

事務員の女が声を掛けてきた。どうやら不良品を流した、という仕事上の不備ではなく、客でも尋ねてきたのだろう。奥に位置した会議室の中に案内された。  

―扉を開けた瞬間。瞬きを繰り返した。自分の目を疑う。


そこには、なんと、昨日中部国際空港で見かけた二人の刑事が、座っているではないか。

この部屋から出ていきたい、そう思った。背中が突然熱くなる。

それを悟られないよう静かに、椅子に腰掛けた。来るのが早いではないか、俺の心構えが・・・。

俺をマークしているのか?


「おはようございます」

年嵩の方が先に挨拶した。背広のポケットから黒い手帳を取り出した。

「豊田署の板垣です」

 隣の男も挨拶をしたが名前はすぐに忘れた。というよりも頭の中が真っ白で、それどころではない。

「忙しいところ済みませんが、少しの間だけでも構いません。宜しいでしょうか?」


「構いません」

額に薄っすらと汗が滲んできた。

その汗を拭くか、否か迷った。


「では手っ取り早く済ませます」

 その時、事務員の女が盆にお茶を載せ、中に入ってきた。

二人の刑事が、その女に視線がいっている間に、汗を拭った。

「済みません」

刑事はお茶を受け取り、すぐに女を追い返す。すぐに本題に入りたいのだろう。


「今日はどういったご用件で?」

必至で冷静さを取り戻す。


「ええ」

板垣が顔を見据えてきた。

「二十日の夜、足田の山林で車が転落した事故をご存知でしょうか?」


 義信は肯いたが、気後れする。不自然ではなく、上手くできたであろうか。


「その晩ですが、あなたは何処にいて、何をしておりましたか?」

隣の若い方が訊いてきた。


「アリバイですか?」

こいつらの捜査線上に、俺がいるとでもいうのだろうか?


「そうです」

板垣が答えた。

 証拠は遺留しないよう配慮してきた。焦るな。

俺の行動パターンを奴らに読まれるな。警察の事情聴取には、それも含まれている。

こんな些細な日常的な行動からも、犯行時の行動と一致させ、刑事は犯人を検挙するのだ。


「自分のアリバイを立証することはできません」

義信は、はっきりと言った。

「私は独身ですし、家族もおりません。だから、その日は体調が悪く、会社を休んで、家で寝ておりました。

といっても誰も信じてくれないでしょう、違いますか? 

それに、残念ですが、その日は電話もなければ、尋ねてきた人もいませんでした。ですので、アリバイを立証することはできません」


 二人の刑事は少しの間、無言で見てきた。プレッシャーを感じた。

 やがて若い方が、話を切り替えてきた。

「ところであなた、昨夜中部国際空港にいましたね?」

 そっちからきたか。

「昨夜、プロボクサーの中西英二さんが帰国しました。それで国際線のターミナルは随分と混雑しておりました、な」

今度は板垣の方だ。畳み掛けてきた。自分たちにはまだ懐に仕舞っているものがあるのだ、といわんばかりの表情だ。


一体、何を隠し持っている?


「そして取材後、中西さんは混雑から抜け出し、消えるように何処かにいってしまった。

しばらくするとファンも散らばり、やがて誰もいなくなった。

しかし、私らも、丁度その時、中部国際空港に居合わせましてね。

空港内を歩き廻っていたのですよ、中西さんを探して。その時に、見たのです。

あなたが、中西さんと国内線の喫茶店の中にいるところを」


「なぜですか?」

若い方が訊いた。


 これか? いや、他にもあるのか?


「いけませんか?」

義信は少し動揺したが、それを隠し、躊躇うことなく、平然とした態度で言った。


上手くいったであろうか。自分を客観的に見る余裕などない。


「いけませんか、ってあなた・・・」

苦虫を噛み潰したように若い刑事が歯軋りをした。


「ガールフレンドに呼ばれましてね。兄に会わせたい、と」


「そうですか」

若い方が両唇の端を引き攣り、笑顔を作った。

「そのガールフレンド、警察の方で調べさせてもらったのですが、中西瑠唯、彼女はあなたと同じ血が流れる、腹違いの兄妹ではありませんか」


どうだと言わんばかりに身を乗り出してきた。

 これか、これを俺に突き付けてきたか。


 板垣はその若い男を宥め、義信の顔を覗き込むように見た。

嫌な目だ。まるで蛇のようにしつこい目。そして、その蛇が唇を舐めるのを見ると、鳥肌が立った。

「色々とあなたの出生を調べさせてもらったのですよ」


「そうですか」

顔から血の気が引いていく。俺の顔は真っ青ではないか? 

刑事にバレないよう繕うことができるか不安だった。

後藤春江の線はいずれ、警察が掴むはず、こうなることを予測していたはずだ。そうだろ? 

むしろ、掴んでもらい、ホッとしたさ。だからアパートを引き払った。少し、来るのが、早いだけだ。この場さえ、逃げ切れれば・・・。

切り抜けてみろ、自分の力で。そうすれば、俺はもうあのアパートにはいないのだから。この場さえー。


「母親違いの妹ですが・・・」

義信は口にした。

「本当はこんなことは言いたくありません。私は、妹としてではなく、一人の女として瑠唯のことを好きになってしまったようです。

いけないことはわかっています。彼女にもこのことは内緒にしています」

体を小刻みに震わせてみた。この場さえ乗り切れるのなら、何だってやるさ。

「前々から言おう、言おうと思っていたのですが、でも彼女の優しさに包まれていると、」

ここで涙を堪える仕種をした。

「とても安らぐのです。本当のことを言うと私は、出会う前から知っていました。

最初は、ただ一度でいい、妹と話がしたい、と思っていただけです。

けれど、それが幾度となく会う度に段々とのめり込んでいってしまった。

そして、僕の中で妹が、一人の女へと変わっていくのが、それほど時間がかからなかった、ということです。

しかし、黙っていることはズルいとは思います。だから、いずれは言わないとならない。

ですが、今まで何も知らなかった彼女がそれを知ったら、なんと言うか、どんな顔をするのか・・・不安で、怖いんです。せっかく親しくなれたのに・・・。

ぼくは、ただ彼女と一緒にいたいだけなのです。長い間会えなかった兄と妹の関係なのか、それとも男と女の関係であるのか、私にはわかりませんー」


しばらくは双方黙ったまま、まるでお互いが睨め合うかのように対峙した。


何ともいえない重々しい空気が流れた。瑠唯にしたこと、一緒に楽しんだこと、騙したこと、そして、今の自分のこの状況を思い直していると、そっと頬を伝う一粒の涙が落ちるのを感じた。


泣けた、自然に。泣いたことにより、本当に瑠唯のことを愛おしく思えるようになってきた。

それに、この涙により、状況が変化したような気もする。


「わかりました」

板垣は痺れを切らしたように切り出した。


「板垣さん」

若い方は納得いかないといった表情をありありと浮かべていた。


「仕事中で忙しいようですね。今日はこの辺りで退散させてもらいます。有り難うございました。

そのうち、また何かありましたら窺うことになりますが、その時はお願いします」

 義信は呆気にとられ、ただ板垣を見ていた。


「板垣さん」

若い方は、まだ腑に落ちない様子がありありと見てとれた。 


「あらぬ疑いを持ってしまったようで・・・」

板垣は呟くように言った。


「もう、戻っていいですか?」

後藤はその呟きを、鵜呑みしてもいいものだろうか、と思うと心に不安が広がった。


「ええ」

板垣は肯いた。

「もう宜しいですよ、仕事に戻られて」


 義信は立ち上がり、会釈をした。

俺の言ったこと全てに疑いの目を向けてくるのがわかった。

あいつは俺に目を付けている、やっかいな男だ、板垣。

 でも、安心しろ。佐竹事件の捜査線上には、まだ俺は載ってはいない。

なぜなら俺と佐竹には、接点がないからだ。

移住地と犯行現場だってあんなに離れている。

殺しの動機だってない。そうだろ? 

ただ、中西瑠唯と兄妹ということを、どこかで知った。それだけのことだ。

これで、俺は安泰だ。なぜならこの場を乗り切ったのだから。

義信は歩き出した。そして、ドアに手を掛けた。その時。 


「後藤さん」


背後から声を掛けられた。心臓が飛び跳ねた。 


 義信は振り返って、板垣を見た。


「先程、上司に訊いたのですが、後藤さんは真面目で、あまり有給休暇をとらない、とのことを訊いたのですが。なぜ十一月二十日に限って、有給休暇をとったのでしょうか」


「ええ・・・」

義信は立ち止まって、板垣を見た。なぜ、そんなことを訊く、今になって。

「ど、どうして、ですか?」

不安な心の中のものが、ポロリと口元から零れ落ちてしまった。


僅かな気分の乱れが、鼓動に変化をもたらす。ドクドクドクドクドク・・・。


「いえ、何でも、後藤さんは少々の風邪では会社を休まない、と訊いていたので、どうしたのかな、と思いまして」


「私だって、熱だって出るし、どうしようもなく、疲労を感じる時もあります。その日が、そうであったように。では、失礼します」


「あ、待って下さい」


 また立ち止まる。

だが顔は向けない。

なぜななら俺の顔は、蒼白だったからだ。


「それから、会社の中を見渡してみると、他の人は皆半袖でしたが、後藤さんだけは、長袖なんですよね。どうしてですか?」


「まだ、風邪を引いてる身、ですので」

なぜ、そんなことを訊く? 


「それでは、風邪を引いていない時は、半袖ですか?」


「いえ・・・」

包囲網が狭まるようで、狼狽した。逃げ切れ。もう少しだ・・・。「夏の紫外線は肌に悪いですから・・・。これ以上、機械を止めておけないものですから、行っても宜しいですか」


「え?」


鼓動が凄まじく跳ねていた。義信は、半ば逃げるように歩き出した。パタンという弱々しいドアの閉まる音。

義信は、これ以上ないほど長くて、重い溜息を漏らしていた。

なぜ刑事は、俺に事情聴取をしに来たんだろう? 

とにかく、ここから離れなければ・・・。そんなことを思い、逃げるように歩き出していた。


     九、


 微風が優しく吹き付ける三日月の晩。

皆川綾乃は一人である場所へと歩を進めていた。

 知らず知らずのうちに彼に興味を抱いていた。

それが新聞記者としての職業柄からくるものなのかわからないが。

彼がやることに理解できない、というのもある。なぜ彼は飲食物、それから生活などに対し、節制し、辛いことにも耐え、見知らぬ者同士の拳の交換による闘いに、それら全てを背負って挑むのか。  

だが彼からは、そんな泥臭いものに対するイメージが感じられない。自分の言いたいことを素直に、相手に伝える明るい印象、笑った時に見せる彼の白い歯、それから時折見せる繊細な表情。

そんな彼と過酷な世界のボクシングとが符号しないのだ。

「中西さんの取材にきたのですが」

 綾乃は十和ジムの扉を開くと同時に言った。

 夜の七時。沢山の練習生がいた。汗の匂い、ワセリンの匂いに、グローブやサンドバックの革の匂い、それらが入り交じり、圧倒され、自分がちっぽけな存在に思えた。


 綾乃は応接室の方へと通された。入り口に古い本棚があり、そこにはボクシングマガジンなどの情報誌がいくつも並び、本棚を埋め尽くしていた。

前方にある付けっ放しのテレビからは、先日のニュースが流れていた。足田町の下林山が映し出され、

その後死亡した佐竹宣夫の顔写真、そして、中西工業の画像が放送されていた。

警察によると、事件と事故の両面で捜査は進められているようで、目撃情報を募っていた。

一人でテレビを見ていると、会長であるスキンヘッドの松尾正一がやってきた。

「あいつはまだ来てないよ。もう少し待っていれば、来ると思うんだが」


「そうですか」

綾乃は訊いた。

「それでは、今のところ彼の調子はどうですか?」


 松尾は腕組をし、顔を顰めた。顔は怖いが、人当たりはいい。

「うーん、悪いな。本来の調子には程遠いよ」


「それは減量苦からくるものですか?」


「ま、それも少なからず影響しているかもしれんが、なにやら他に悩みでも抱えているようなんだ」


「悩み? もしかしたら、それは家庭の事情か何かでしょうか」


「わしにはわからん。なにせ本人が何も言わんのだから」


「そうですか」

綾乃は立ち上がった。

「それはそうと、せっかくきたものですから、ジムの中を見学させてもらってもいいですか?」


「構わんよ」


 綾乃は会釈をし、応接室を出た。

 ジム内はまるでライブコンサートのように大きな音楽が流れていた。その音楽の音の間を縫い、シュ、シュ、シュ、という気合のこもった息を発し、練習に励む若者たちの姿がある。

ほんと若いな、素直にそう思った。そんな彼らに圧倒されると、自分がえらく年を取ってしまったように思え、少しだけ肩を竦ませた。

 最少は知らなかったが、取材を重ねた今ではわかる。

彼らには大なり小なりの夢がある。だからあんなにきつく、過酷な練習に、嫌な顔もせず、もくもくと打ち込むことが出来るのだ。

人が疲れた、と感じる時はなにも体力のある、なしだけでは図れないような気がする。

好きなことをしている時は、どんなにエネルギーを消費しようが、体が疲労を感じない。

最も年を取っていれば、それが後からくるのかもしれないが、彼らは若い。ボクシングというのは夢や達成感のために、本能の赴くままに行う清々しいもの。

だからここにいるだけで新鮮な気持ちになり、自分も一緒に頑張らなくては、と思うようになる。

 自分でも気づかぬうちに、サンドバックの前に立っていた。

隣に男がいるが、彼の叩いている様を眺めると、連帯感とでもいうのか、同じように叩いてみたくなるから不思議だ。

自分の世界に入り込み、我を忘れるほどに熱中できるもの。それがボクシングだ。


 そっとサンドバックに手を添えてみた。堅くてザラザラとしていた。これに向かっていつも中西英二は殴っている。

彼は何を思い、殴っているのか。知りたいと思った。

そして、綾乃はボクサーのようにして構え、それからパンチを二、三発出してみた。パシンという微かな音しか出ず、隣の男のようにはいかない。

 もう少し腹に力を入れて殴ってみる。ポン、ポン、パーンと、三発目に少しだけ重い音がした。

腹の奥底に響く音。その感触が何ともいえず、続け様にパンチを出していた。

いつも、彼氏はできたの、と聞いてくるしつこい笑みを浮かべる同僚の顔、事あるごとに小言をいう上司の勝田の顔をサンドバックに見立て、これでもかというほどにパンチを繰り出すと、気分がすーっとして、気持ちが良かった。

これだ、これなんだ。この開放感にも似た感情がきっと彼を突き動かすのかもしれない。止められない。

酒や煙草が辞められないように。いや、全ての欲求でも追いつかないほどの卓越した、違う世界がここには存在しているように思えた。

―そんな時。


「素手で殴るもんじゃないよ」


と隣の男が声を掛けてきた。

 背が高く、体格のがっちりとした男だった。

 ハァッハァッハァッ・・・。自分が随分と息を荒げていることに気づき、驚く。

知らず知らずのうちにのめり込んでいたようだ。体の中に溜まっていたものが何なのかわからなかったが、全て出し切ったようで、スッキリとしたが、自分の拳を見ると赤く、ヒリヒリとしていた。

「痛いわ」

綾乃は、男の顔を見た。

「あなたはプロ? それとも・・・」


「いや」


「じゃ、健康を考えて運動をするだとか、ストレス発散とか、何の目的があってボクシングをしているの?」


 隣の男は手を止め、綾乃の顔を見てから、少し考える素振りを見せた。

「そんなこと、考えたこともないな」

なんとなく陰があり、威圧感を感じる。笑っているようでも、目だけは笑っていない。

こういう人間は苦手だ。何を考えているのかわからない。

腹の中に何か隠しているものがあるような、そんな人間だ。


「そう」

綾乃はとりあえず笑みを浮かべておく。

「こうやってサンドバックを叩くと、気持ちがいいわね。ところで、あなたのお名前は? 訊いてもいいかしら」


「後藤、後藤義信」


「後藤?」

ゾクッときた。背筋が冷やりとした。ナイフを当てられているような、そんな感覚がした。


「何か?」

彼は不審な目つきを返した。


「いえ、別に・・・」

 やはりそうだ。なぜかはわからなかったが、それは予期していたことのような必然、あるいは電信柱に頭をぶつけた時のような偶発的なものではあったが、結局のところ、起きるべくして起きたような気もする。

「あ、私は、新聞記者をしている者ですが、」


「新聞記者?」


「東海新聞です。あ、そうそう」

綾乃は、ポケットから名刺を一枚取り出し、そして言った。

「中西さんについて、知っていることがあれば、なんでもいいから教えて下さい」

 義信はその名刺を、不思議そうに、しげしげと眺めた。


「何で、俺に訊くの?」


「いえ、あ、中西さんの現在の体調とか、今度の世界戦の展望だとか、ああ、身近な所なんかも知りたいので・・・」


「俺は、よく知らない。彼の練習を見てるわけでもないからね。

コーチにでも訊いた方が確かだし、身近な所も、他の人に訊いた方がいいよ」


「有難う。そうするわ」

綾乃は徐々にサンドバックから離れた。

「じゃ、何でもいいから、気が向いたら、電話でもかけてね」


「何で?」

義信は不機嫌そうに答えた。

 微妙な空気が漂った。それで彼との間に厚い壁があるのを感じた。

その場には足を踏み入れてはならない、そんな壁でもあるかのように。

他の練習生を見ているフリをしながら、ずっと彼を見ていた。左構えのサウスポー。

中西英二と一緒だ。やはり、同じ血が流れているのだろうか。彼の打つパンチはサンドバックを大きく揺らし、時折打つ思い切ったパンチは、そのバックを上下に揺らすほどに強いパンチ力を持っていた。

そして、彼の優雅なバランスの取れたフットワークからは、中西英二に劣らぬ才能を感じ、本気になればプロにでもなれたろうに、なぜそれを目指さないのか。

義信と目が合った。冷たい氷のような目。その冷たい目からは、何の表情も読み取れない。何を考えているのかわからない無表情の目だった。

「あなた、プロでもやっていけるんじゃない」

綾乃は思わず訊いていた。

「その気はないの?」


 だが義信は、何も答えない。しばらく綾乃を眺めているだけだった。

こっちを見ているはずが、こっちではない、そう、何処か遠くを見るような目だ。


 しばらくしてから綾乃は応接室に向かった。中に入ると、会長が慣れない手つきでパソコンをいじっていた。綾乃は、それを見ながらソファに腰掛けた。

「まだいたのかい?」

松尾が気づき、視線を向けた。


「ええ」

綾乃は立ち上がって、松尾に近づいた。

「会長、あの後藤とかいう人のことについて、ちょっと訊きたいのですが・・・」

会長に後藤のことについて二、三話しを訊いていると、ジム内がザワザワとし、活気ついていることに気づいた。

中西英二がジムに顔を見せたようだ。綾乃は部屋から出て、リングに視線を送った。

 そこには誰とも違う、一際目立つ一人のボクサーがいた。英二は優雅に弾み、膝を折り曲げ、屈伸し、フットワークを使い、サークリングしながら体を解していく。

まるで黒豹が獲物を獲る前の準備運動のように。

引き締まった体に、顔の表情。やはり他の誰よりも違った。オーラ―を纏っている。

何といっても華があった。そのためか他の練習生たちも中西にリングを譲る。

そして、多くの者が下から英二の動きに、羨望の眼差しを向けている。

無駄のない滑らかな動きに、スムーズな身体のシフト移動。

そこから、鞭のようにキレのある強いパンチが出される。

空気を切り裂く音。そして、風車のような回転の速い、リズミカルな連打が繰り出されたところで、ラウンド終了のゴングが鳴った。

三ラウンドのシャドーだけで、汗が滴り落ち、サウナスーツに滲んでいた。

英二は汗を拭くでもなく、リングから降り、サンドバックの方へと向かった。


義信は今まで叩いていたサンドバックから離れることなく、インターバル中でも、無心になって叩いていた。

このサンドバックはウオーターバックで、拳に優しく、人気のバックである。

ボム、ボムと鈍い音を出しながら、バックを上下、左右に揺らせた。まるでその赤いウオーターバックが義信に嬲り殺されるかのようだった。そんな時だ。


「ごめん」

英二が、義信の背中に声を掛けた。

「ちょっとそのバックが打ちたいんだ」


「は?」

 義信はバックを打つ手を止め、後ろを振り返った。

そこには額に汗を浮かべた中西英二の姿があった。

お互いの強烈な視線。バチバチと電流が流れるような鋭い視線の交差は、他をも寄せ付けない凄みを感じた。

「早く打たないと、汗が冷いちゃうんだ」


「他のが、あるじゃないですか」

 義信の言ったように、隣に二つのサンドバックがある。

「いや、ウオーターバックはそれしかないから・・・」

 英二が言った。

義信は思った。こないだ空港で会ったはずだが、それを微塵も見せない。

いや、気づいていないのか。恐らく、今の彼は、それ程集中しているのだろう。

「君、中西は試合を控えているんだ。悪いが譲ってくれないか」

応接室から会長が出て来て、義信に言った。

「砂のバックを叩いて、拳を痛めたら元も子もないだろ。減量中は手首も弱っていて、痛める可能性もあるんだから」

一瞬、微妙な空気が二人の間に流れた。

 仕方なく義信はそのバックから離れた。

そして、俯いたままタオルで汗を拭き、やや肩を怒らせながら、奥にある更衣室にずかずかと入っていった。

そして、バンテージを解き、着替えを始めた。

物事で一番、自分が集中している時に止めらられることが、俺は一番気に食わない。

ここにも、もう来ることはないだろう。正直、未練はあるかもしれない・・・。

だが本当なら、警察が来たこの日に、こんな所になんか来るべきではなかったんだ。

そうしていれば気分を害することもなかった。

進むしかない。俺には、戻る所がないのだから。そう、俺の居場所はもう、何処にもないんだ。

 ジムの中は、ズンズンと腹に響く、大きな音楽が流れていた。

激しい練習の音が響き、活気に満ちていた。

吐き出す息使いに、サンドバックを打つ音、ロープを飛ぶ音に、コーチの怒鳴り声。

だが、この更衣室は、違う空間にいるかのように静かだった。もうこれらの音を聞くこともないだろう。  


 着替えを終えた義信が更衣室から出てくると、一瞬静まりかけた。

その時にまた彼と目が合った。自然と綾乃は二、三歩前に出ていた。「待って」

そして、声を掛けていた。

「話しを訊かせてもらいたいことがあるの」 


「断る」


「今日でなくてもいいから」


義信はいそいそと、玄関で自分の靴を履き、そして、扉を強い力で閉めて、外へ出た。

バターンという音と共に練習生が一瞬、その扉に視線を送るが、すぐにいつもの音が戻って来て、何事もなかったように練習は続けられる。

綾乃は、しばらくその扉から目が離せなかった。

その扉を開けば、それはこの場には存在しないものであるかのように無が広がる世界。

あるいは冷たくて、身を凍えさす、そう、そこは永遠に続く氷の上が広がる道なのかもしれないのだから。

どちらにしろ、その先の道には、いいことなど待ってはいない。


十、


 ヤバい・・・。約束の最低でも十分前には着いていたかったのに。

 名駅に着いたのが二時を過ぎていた。もう彼は着いてるかな。走った。額からは汗が滲み、背中まで熱くなっている。

電話をかけようか。それより早く行かなくちゃ。もう嫌だ。こんなに汗かいちゃった。メークが・・・。

それに汗臭いって思われちゃったら、どうしょう。歩くことにした。ややペースダウン。今日も暑いな、夏だからしょうがないけど。

太陽の日差しがジリジリとアスファルトを照りつけていた。中西瑠唯は一人焦りながら、近鉄へと向かった。


名古屋の待ち合わせ場所として有名な、ナナちゃん人形がある。巨大なマネキン人形だ。そこまで歩いていくと、彼が笑顔で待っていてくれ、自然と頬が緩む。


 ―初めてのデートはこんな風に誘ってくれた。


 その日は、スタバに彼が来なかった。用事ができたのか、それとも体調を崩して家にいるのか、そんなことを考えると、心配になってきた。


そして、次の日も、その次の日も彼は来なかった。毎日来ていたのに、三日も来ないと、彼のことが気になってしょうがない。

瑠唯は肩を竦め、着替えをし、その日も同じようにしょんぼりとスタバを後にした。

 外に出た。そして、トボトボと通りを歩いていると、コンビニの近くでその彼の姿を見かけた時には、思わず顔がニヤけた。

こっちに向かって歩いてくるではないか。長い間彼の姿を見ておらず、久しぶりの再会。

「あ、もう終わっちゃったんだ」

後藤義信は、息を切らしていた。

「はい」

その後、瑠唯は何を言っていいのかわからず、しばらく言葉が出てこない。

「ここ二日間、出張に行ってたから、スタバに来れなかったんだ」


「そうでしたか。体調でも悪くしたのかな、なんて思っていたんですよ」


「ああ・・・」

彼は照れた表情を浮かべた。

「体調はいいですよ」


「それはよかった」

心がこもってない、なんて思わなかったかしら。

「ええ。でも、今日は残念」


「どうして、ですか?」


「久しぶりのスタバだったのに、もう終わってたから」

彼は会釈した。

「じゃ、また明日にでも来ます」


「お待ちしております」

久しぶりに会ったというのに、何かあっさりとした感じだな。 

「それでは気をつけて」

彼はそう言ったが、立ち止った。

「あ・・・」


「何、ですか?」

瑠唯は行きかけた足を止め、振り返った。声が上ずる。

「いきなり、こんなこと言うのは、何かと思うんだけど、今度、その、違う場所で、会ってくれませんか?」


「違うところって?」


「どこでもいいけど、ちょっと話しがしたいな、と思って。食事とか映画とかでもいいですが・・・」

彼は俯いた。

「やっぱり、駄目ですよね」


「いえ、ちょっと、いきなりだったんで・・・。びっくりしちゃった。

ああ、その、食事でもいいんですが、私、見たい映画があるんですよね」

嬉しい気持ちがあからさまに出てしまったかと思ったが、後のお祭りだ。


「ごめんなさい」

瑠唯はハンカチで額を拭きながら言った。

「初めて会うのに、遅れちゃって」


「いいよ。実は、僕も今来たところなんだ。

それより、中西さんの見たいって言ってた映画、三時十分と五時四十分の予定だけど、どっちがいい?」


「どっちでもいいですよ。でも、本当にいいの、女の子向けの映画なのに。出てる俳優もミーハーだし、それにもろラブストーリー」

今来たところなんて嘘だ。慌てた様子もなければ、上映時間を確認する余裕すらあるんだもん。

「いいよ。ま、女の子向けではあるけど、あの監督が手掛ける作品には興味があるな。どんなストーリーになるんだろうって」


「ほんと?」


「ほんと」

彼がさり気なく、肩に乗っていた埃を手で払い除けてくれた。

「じゃ、その前にお茶でもしようか」


「ええ」

瑠唯は照れもあり、俯いたまま、肯いた。


 映画が終わり、外に出てくると、周りが灰色に変わり果て、暗くなっていた。

 昼間と違い、大分涼しくなってきた。ほんわかとした気分で、義信と瑠唯はJR高島屋の外にある広場の椅子に腰かけながら、夜空を眺めていた。

彼らと同じように周辺には二組のカップルがいた。

「なかなか途中の過程がよかったね」

彼が静かに言った。

「どんなところが?」


「主人公が出会った恋人と、自分の夢を天秤にかけて葛藤するところはベタだったけど、自分は何のために生き、誰のために生きるのか、って深く考えさせられたよ」


「うん、そうだね。私も好きな人の夢なら、それを応援したい。

そのために少しくらい会えないのは我慢できるけど、ずっと会えない、または別れる、なんてことになったら嫌だな・・・。

後藤さんはどう思う? それに夢ってある?」


「夢か、そんなものはないな」


「じゃ、後藤さんに、もしも夢があって、主人公のようにそれを追うために、そうだな、最低一年間恋人とは会えない、なんてなったら、それでも夢を追うのかな」

 彼はしばらく煌びやかな星が舞う夜空を眺めていた。


あるいはビル群に纏わるネオンの光を見ているだけなのかもしれないが、彼は他に、何かを考えているような、そんな気がした。

「夢か。俺だったら、目的があったら、一年間と言わず、何年も、いや、別れてでも、その目的を優先するだろうな」

最初から人を拒む、というのか関わりを持たないような人だな、とは思っていた。

そして、自分のはっきりとした考えを持っているのだが、それを隠しているような、そんな印象だ。


「お腹空かない?」

瑠唯は訊いた。

「レストランにでも行こうか」


「うん。でも、今から食事をすると、帰りが遅くなって、ご両親が心配するよ」


「まだ大丈夫。十一時までに、帰れればいいから」

瑠唯は、少し頬を高揚させ言った。

「それに、もう少し一緒にいたいから」


「そう、なんだ」

彼は立ち上がった。

「じゃ、行こうか。なるべく早く帰れるようにするからね」


「うん」

瑠唯も立ち上がった。そして、高島屋の玄関に向かい、大きな階段を登る。

「でも、気にしなくていいよ。少しくらい遅くなっても構わないんだから」

 彼が前を歩き、さっと左手を差し出してくれた。

瑠唯は一瞬戸惑ったが、その手をしっかりと掴んだ。自然と頬が緩む。ちょっとゴツゴツとしたボクサー特有の手だったが、ほっとする手だ。

彼は優しく、パンプスで歩くスピードの遅い瑠唯に合わせ、ゆっくりと歩いてくれた―。


 小鳥の囀る鳴き声。

それをかき消すような地面を踏みつける革靴の音やハイヒールの音。

そして、時折人と人がぶつかる音。騒々しい朝の始まり。

街を歩けば近くからパンやコーヒーの匂いが鼻を刺激する。


そんな一日の始まりの朝の音や匂いが瑠唯は好きだった。

だが今の瑠唯にはそのどれもが聴覚、嗅覚を刺激することはなく、むしろそれが自分の知らない世界で、それらは勝手に動いていて、自分だけが透明人間にでもなったように、そのどれをも体験することができなかった。


 瑠唯は中区のカフェドクリエにいた。結局昨夜は眠れなかった。

それで、朝になると家にいることが嫌になり、飛び出してきて、カフェで物思いに耽っていたのだ。

私がこんなに悩んでいるのに、最近の彼は、仕事が忙しっていって、会ってくれない。

 このままの状態は辛い。誰かに相談したい。私のこれからのことを・・・。

でも、友人にするには抵抗がある。いくら仲のいい子でも。

それじゃ身内? 兄には一度話しをしたけど、今はボクシングのことで頭がいっぱいのはず。

母にしたって会社のことで、それどころじゃない。

逆に心配をかけるだけ。どうしょう。なんでこんな風になっちゃったんだろう。

瑠唯はエスプレッソを飲み干した。今日は思いっ切り苦いコーヒーを飲みたかった。


 ―あの人に、相談してみようかな。瑠唯の脳裏にその人の顔が浮かんだ。全然付き合いはないけど・・・。しっかりしてるし、頭も良さそう。何より、その方が気は楽だ。

それに、あの人に話せば、事態が好転するような、そんな気がした。

ダメもとで行ってみよう。いつも受け身であった瑠唯には珍しく、この日だけは行動的になっていた。


十一、


綾乃は職場で資料を揃えていたが、気になっている事もあり、仕事に集中できなかった。

気づくと仕事を手放し、昨日十和ジムの会長から教えてもらった後藤義信の住所を基に、彼の家に向かおうとした矢先のことだ。

皆川さん同僚の男が声を掛けてきた。綾乃は、その男に視線を送った。

「来訪者ですが、どうします。会いますか?」

その男は受話器の口元部分を手で覆い、相手に聞こえないようにして綾乃に訊いた。


「もう、こんな時に」

綾乃はイラついた。

「誰?」


「女性です。中西瑠唯と言っていますが」


「えっ? え? 今、何処にいるって」

いつの間にかイラつきが消え、それが疑問へと変わった。


「下の受付です」


「わかった」

綾乃は立ち上がった。

「今から降りていく、と伝えて」

 そう言うと同時に出かける準備を手早く済ませ、すぐに部屋を後にした。


廊下に出て、少し歩き、左手の丁度止まっていたエレベーターに飛び乗った。


 ドアが閉まると同時に考えた。中西瑠唯、一体何の用があってここまで足を運んできたのか。

しかも私に会いに。いくら考えても彼女が自分に会いに来る理由なんか、思いつかなかった。

エレベーターの扉が開くが、綾乃はしばし立ち尽くしていた。

「ああっ」

ようやく箱から出た。


下には様々な人間がおり、社会部の記者が、どういった類の人間なのかわからなかったが、背広を着た品位の高い男性を前にし、取材に当たっている姿が目についた。

綾乃もその記者を知っていて、彼らの会話の邪魔にならないよう、軽く会釈をしながら急ぎ足で、お客の基へ向かった。

 受付けの隣に長椅子があるが、そこに彼女がちょこんと居づらそうに座るでもなく、立っていた。

やや速足で近づくと、彼女が会釈したので、会釈を返す。この館内ロービーは暗い印象を受ける。天井が高いため、照明の光がいき渡っていない。

それも手伝ってか、中西瑠唯もどこかしら不安気な表情を浮かべていた。

「こちらへどうぞ」

 エレベーターの前方に接待スペースがあるので、そこに案内し、彼女を先に座らせてから、自分も座った。

「どうしたんですか? こんな所にまで。それに私なんかを訪ねてきたりして」


「先日中部国際空港で、あなたが兄と親しそうにしていたし、それに中西家の事情にも詳しそうだったので、窺ったわけでして・・・。

実は、友人にも出来ない、相談したいことがあって、来ました。突然済みません、訪ねてきたりして」


「別にお兄さんとは、それほど親しいとは思わないけど、でもどうしたの、一体?」


「私、悩みがあるんです」


「悩み?」


「はい」

瑠唯は身を小さくし、俯いた。「今、忙しいですか?」


「まあ、いいですよ」

綾乃は言った。

「なにかしら?」


「良かった」

安堵したのか、瑠唯の表情が和らいだ。

「先日、刑事さんから話を訊いたのですが―」 


「何を?」


「彼のことです」


「彼って?」


「後藤義信です」


「後藤義信?」

綾乃の顔がその名を聞いて、真剣な顔つきへと変わった。


「ええ。刑事さんは、二年前に、ああ、うちの父親が病院で亡くなった事件のことを調べているんですが、どうやら、彼のことを、疑っている、ようなんです・・・」

瑠唯の口はしどろもどろであった。

「それで、本人に事情聴取をした、とのことだったんですが、まさか、彼が、私の兄だったなんて・・・」

ホール内の空間は忙しく時間が動いていたが、この言葉により瑠唯と二人だけの時間が、ピタリと止まった。


「そうよ。実は私も知っているわ、そのこと」


「やっぱり、そうだと思った。刑事さんと一緒だったから・・・・」


「私もある人から聞いたの。昔あなたの父、守さんが若かった頃、一人の女性と知り合い、その女性を妊娠させたことがあった。

その相手の女性は豊田市に住んでいた後藤春江さん。

もう彼女は亡くなってしまったのだけど―」


 案の定、瑠唯の顔が曇っていく。だがいずれはわかることなんだ。


「警察の捜査によって、春江さんの子供が二十九歳であり、豊田市に住んでいること、それから名前が義信であること。

その他にも数々の証拠から事情聴衆を行ない、義信本人の証言も取れたのよ」


「はい。刑事さんから訊かされました。でも、私には、そんなこと一言もいってなかったのに・・・」

 綾乃は、瑠唯にどう言葉を掛けてやればいいか分からず、彼女の様子を見守ることにした。

「今日、相談にきたのは、実は、わ、わ、私のお腹の中に、その人の子供が―」

蚊が泣くような声で、彼女は言葉を振り絞った。


「え?」

思わず聞き返した。動き出そうとした時間がまた止まり、今度は耳鳴りを感じた。


「彼の子です」

瑠唯の体が小刻みに震え出していた。

「どうしたらいいのか、兄も母も今はそれどころじゃなくて、だから、

私一人だけで、考えて・・・。

気づいたら、ここに足が向いていたんです。

マスコミ関係のあなたに話していいものか迷いましたが、他に相談する人もいないし、あなたなら悪いようにはしない、と思ったから。済みません・・・」


「あなた、妊娠? 後藤義信の子を、そのお腹の中に。それが一体、どういうことなのか・・・」

綾乃は周りを見て、それから声を落した。

「そのことを彼に言ったの?」


「ええ」

一瞬のうちに瑠唯の顔が、さっーと青くなった。元々青い顔がさらに青く、今では完全に血の気が失せていた。


「じゃ、今までの経緯、自分が兄妹ということを知ったことも、後藤に伝えたのね?」 


「それは、言っていません」


「じゃ、後藤は、あなたに子供が出来たことは知ったけど、自分が妹だという事実を知った、ということまでは知らない、ということ?」

瑠唯は小さく肯いた。


「何で言わないの?」


「最近忙しいって、彼、いつも会ってくれないから・・・・・・」


「家にいってみればいいのに」


「知らないんです、彼の家を」


「どうして? あなたたち、付き合っているんでしょ」


「何回も言いました。あなたの家に連れてって、と。でも彼は―」


「それを拒んだ?」

 瑠唯の目は赤く、涙が滲んでいた。

「それに、今は音信不通で、何処にいるのかもわからない・・・」


「音信不通?」

 綾乃はしばしの間、考えた。

「一緒に行きましょうか? 実は、私も今から後藤義信の家に向かうところだったの。

昨日ね、十和ジムの会長から後藤の住所を教えてもらったから、わかるのよ」


 ブラウン色のガウチョパンツにセーター、そして、ボルドー色のコートを羽織ったラフな格好の綾乃。


それとは対照的にこれから面接にいくかのような紺色のビジネススーツを着た瑠唯。


二人は、後藤義信の住むアパートに彼を問い詰めるべく、また不在であったのなら、手懸りがないかと訪れることにした。

「結構、田舎ね」

綾乃が、瑠唯の表情を見ながら言った。

「こんな所に住んでいるんだ。でも、私、ここ来たことあるかも・・・」


「え?」

 瑠唯は顔を上げ、周りを見渡した。気づくと田圃風景が広がっていた。


そんな道を二人で、てくてくと歩いていくと、ようやく家がポツリポツリと見えてきた。

昔ながらの酒屋や駄菓子屋があり、町工場を通り過ぎた所で、綾乃が立ち止まった。 

「あ、あそこじゃない」

綾乃が指差した所は、丘の下にある新興住宅地の中、少し浮いた感のある古い建物だった。

「この住所を確認すると、あの赤漕げた木造の建物よ」


「あれ、ですか?」

瑠唯は意外に思った。彼がこんなところに住んでいたなんて。


「まるで、貧乏学生が住んでいるところね。

それに、彼のアパートを囲うようにして高い建物が建っているじゃない。これじゃ全く日が差さないよ」

綾乃が、ブザーを鳴らした。 

「彼があなたを呼ばなかった理由がわかった。

だってこんなおんぼろアパート、これから付き合おうと思う人に、見せたくないもの。何だろう? 

でも私、この辺り見覚えがあるわ」   

何の応答もない。誰も出てこない。昨夜の彼の背中が脳裏で蘇った。

「留守か。もう戻らないわね、この場には。そんな気はしてたけど・・・。

あ、ちょっと待って。迎の家。やっぱ、そうだ。足田町下林山で亡くなった佐竹さんの家だわ」

綾乃はそう言って、迎の家に廻る。そこは立派な二階建ての白い壁の家が建っており、表札が案の定、佐竹と記されていた。

なんというこだ。まさかここに住んでいたとは・・・・・・。

「瑠唯さん、やっぱりこの家は亡くなった佐竹さんの家よ。

だって実は私、この場に一度来たもの。ごめんね。私、方向音痴だから、一回来ただけじゃわからなかったんだけど、改めて来て、わかったわ」

 後から瑠唯も表に廻ってきた。

「―後藤のアパートの向えに、亡くなった佐竹さんの家が。あの時に、わかっていたら・・・状況が変わっていたかもしれない」


「どういうことですか?」


「いや、別に。ま、今日は後藤のアパートに用があってきたんだから。本人がいないからって帰るのもしゃくじゃない。取り敢えず部屋を見てみましょうよ」

 綾乃は一人肯き、そう言ってつかつかと歩いていった。

「先ずは大家さんのところに行きましょう。もしかしたら案内してくれるかもしれないから」

ここで帰るわけにはいかない。


 このアパートの大家は親しみの持てる老婆で、こっちが新聞記者ですが、と名刺を渡すと物珍しそうに見、それからいくつかの質問にも答えてくれ、後藤義信の部屋の中を見せてあげる、とまで言ってくれた。

最もプライバシーというものには疎いようだ。

「後藤さんとは、まったくといってもいいくらいに、交流がなかったのよ。だからはっきりとしたことは言えないんだけど」

 少し腰の曲がったその老婆が、後藤の部屋のマスターキーでドアを開けてくれた。

 ドアが開けられると、日当たりの悪いこの部屋は、湿った空気が充満していたが、その室内は整理整頓がなされていた。

先ず目に飛び込んできたのが鉄アレイやロープといった、トレーニング道具。

それから多くの本が整然と並べられた本棚に、パソコンを始めとした電子機器が整理され、置かれていた。そのどれもが意味をなしているようで、この部屋を見ただけで、神経の細かい、綺麗好きな人物である、ということがわかる。

綾乃は早速そのパソコンを見た。老婆は興味なさそうに、しばらく色々なところに視線をやっていたが、やがて外に出て行き、景色を眺め、あとは勝手にやって、という感じだ。

 瑠唯の方は、しばらくその綾乃の行動を見ていたが、それにも飽き、机を眺め、その内、机の引き出しを片っ端から開けてみると、二段目の引き出しの中から黒色のリモコンのような電子機器を見つけ、取り出した。

「何だろう?」


「何、それ。ちょっと貸して」

綾乃がスマートフォンを取り出し、検索する。

「もしかして、盗聴器? え? 発信器が盗聴に使われ、その信号音をはっきり受信できるのが受信側。

ふむふむ、そして、VOX機能。

これは音声起動機能という。盗聴発信器にとって極めて重要な機能の一つで、VOX機能を搭載した発信器は、周囲に音がある時のみ電波を送信し、発信器周辺が無音の時には電波の送信を停止し、待機状態に入ります。

メリットとして、電池を無駄に消費しないこと。

また個人や業者により、盗聴発見の際、発見されにくいこと、か。

これが盗聴器か。何者かを監視するために使っていたのね」


「佐竹、さん?」


「そう。きっとそうよ」

綾乃はそのサイトを閉じた。


「だけど、ここにあるということ

は、もう用済みということよ。なぜなら監視対象である佐竹さんは亡くなった。

そして、このように、証拠を残す、ということは・・・」


「ということは?」

 綾乃は頭を振った。


「わからない。これじゃ警察に、俺を捕まえてくれ、といわんばかりじゃない。こんなものを残したりして。うっかり置き忘れたとも思えないし・・・」


「やはり、これは」

そんな時、瑠唯が呟いた。

「彼は、私の家、中西家に恨みを抱いていて、全ての者に復讐をしょうとしているのでしょうか?」


「充分あり得るわね。その復讐に佐竹さんを利用した。しかし、何らかの理由で邪魔になったので、殺した」

その話を聞き、瑠唯は信じられない、と思った。

自分が好意を抱いていた男が、実は自分の家族に復讐の念を抱いていたのだから。

義信は私に近づき、中西家に復讐する術として、彼が計算的に、ある種の方法として、利用しようとした・・・。

こみ上げるものがある。目頭が熱くなってきた。

今まで心を寄せていた彼に、疑心が生まれ、それが悪夢の現実へと近づいていくのだから。


 綾乃はしばらくパソコンを見ていたが、首を傾げるだけだ。

「何をしてるんですか?」

瑠唯は不思議そうな顔をした。

「この沢山あるファイルの中から一つだけでもいいから開けることができたら、きっと何らかの容疑が深まっていくと思ったのにな・・・」

 綾乃はそのパソコンを諦めた。やはり駄目だ。専門家が見ないことには・・・ぬかりはない。

それなのに後藤は、証拠になる盗聴器を置いていった。なぜだろう? 

改めて部屋の中を見渡した。他に彼の手懸りを掴むべく、何かを探して。


「彼は、」

そんな時、瑠唯のか細い声がした。


 綾乃は振り返った。

「彼は一体何を考え、何を狙い、そして行動し、事件を引き起こしていくんだろう・・・」


「ここにきて、」

綾乃は言った。

「はっきりしことは、いや、その前から思っていたんだけど、中西守から受けた母親の被害。

これが彼の本質であり、その憎しみを盾に、これまで一人で生きてきた。誰にも頼らず、一人だけの力でね。そんな気がする。

よくわからないけど、この彼の動きは止まりそうにない。

それどころかこの先もっと、とんでもないことが起こりそうな気がする。彼の行動はまだ序章にすぎないような・・・」

 綾乃は目を瞑り、腕組みをし、天井を見上げた。


「序章、ですか・・・うん?」


そんな時、瑠唯が机の下、よく目を凝らして見ないことにはわからないような死角に、ハラりと落ちていたような、あるいは行為に、そこに置いたと思われる新聞紙を見つけ、拾い上げた。

「これ、何でしょうか」

瑠唯は何気なく捲った。そして、何ページか捲った後、スポーツ欄のところで手が止まった。

「これ、」


「何を見ているの?」


「兄貴が・・・・・・」


「え?」

 綾乃は瑠唯の隣に立ち、そのページを見た。

それはアメリカから帰国した中西英二の記事で、彼が中部国際空港に到着した時の写真が載っていた。

だが、そこにある中西の顔は、真っ黒だった。

なぜなら黒色のマジックで、顔を塗り潰されていたからだ。

なぜ後藤は、これら、盗聴器に新聞記事を残していったのか? もしかしたら、この二つには何らかの理由が隠されているのかもしれない。


十二、


モスグリーンのコートに黒のパンツスタイルの綾乃は、臆することなく豊田署の中に入っていった。

「また来たのかい?」

丁度受付けのところにいた警部補の板垣敬三が、綾乃に気づき声を掛けた。


「また、はないんじゃないですか」

綾乃は、この豊田警察署の雰囲気に慣れていた。


「で、今日は何の用なんだい?」

人の良い、包容力のある顔がそこにはある。


「後藤義信の所在は掴めましたか?」

だから気兼ねなく、ここに来ることができるというものだ。


「まだだよ」

板垣は近くにあった書類を丁寧に揃えていた。

「今日は、勝田さんと一緒じゃないね」


「はい。勝田は他の仕事で、鳥取の方にいっていますから」


「そうかい。忙しいね、相変わらず。ま、いいや。

だけど、君は運動部だろ。なんでここまで首を突っ込むんだい? 社会部ならまだしも」


「ええ、まあ。私は、ただ興味があるので。ああ、板垣さんのように個人的に動いているだけですから」


「俺のことをいっているのかい?」

板垣は唇を歪ませた。

「いえ。そういう訳ではありません」


「あまり、関わらない方がいいよ」

板垣は書類をファイルに閉じ終えると、改めて綾乃の顔を見た。

「君は、後藤のアパートにいってきたようだね」

そして、鋭い目つきに変わった。


「はい。昨日、瑠唯さんと」


「女性二人だけで、犯人がいるかもしれない所にいくなんて。君という女は・・・・・・」

 ここで嘘をついたとしても、刑事の目を誤魔化すことはできない。

なぜなら、彼らはその人物の身なりから考えていることや、日々の生活の仕方などを推測できる目を持っているからだ。

それに、恐らく後藤の家を刑事が張っていたのだろう。


「瑠唯さんが会社に来たので・・・。

それで案内したのですが、やはり後藤はアパートに帰っていないようですね」

ゆっくりと板垣のいるカウンターへ足を運んだ。

「冷蔵庫の中身を調べましたが、賞味期限切れの品があり、玄関には新聞紙なども重なっていました。

でも出て行ってから、それほど日は経っていないと思います」


「ああ、それはわかっている」

板垣は言った。

「後藤は今何処にいる、とは確定できないが、どこかのホテルに滞在している、という情報も入ってきている」


「そうですか。今日来たのは、私の見解を伝えたくてきました。そして、それを捜査の参考にしてもらいたいと思いましてね」


「君ね、相変わらずお高く・・・」


「それはいいとして」

綾乃は制した。

「やはり、佐竹さんは自殺ではなく、他殺ではないか。

そして、その犯人が後藤ではないかと思うのです。なぜなら、後藤の家の前に・・・」


「佐竹さんの家がある」


「はい」

綾乃は頷いた。

「あの時、なぜ気づかなかったのかしら。気づいていたら、状況は変わっていたはずなのに・・・」


「終わったことは、しょうがない。それよりも、早く後藤の行方を掴まないとならない。それが先決ではないか。そうだろ」


「はい」

綾乃は言った。

「私の推測は、後藤は中西家を陥れる罠の計画に、佐竹さんを利用した。

これは事実です。だけど、その佐竹さんがなぜ亡くなったのかはわかりません」


「ほう。なぜ、後藤は、佐竹を利用した?」

板垣は、綾乃に厳しい目を向けた。

「それは、理由として中西工業の所得不明金を隠し持っていた佐竹さんに、後藤は目をつけた。

それで、彼を使って社長である光子さんに接近させ、更に所得不明金を増やさせた。もしかしたら、その金を自分に廻していたのかもしれませんね」


「それくらは警察も掴んでいるさ。じゃ、後藤が、佐竹さんを利用する根拠は?」


「そう言い切れる根拠は、彼の部屋に盗聴器がありましたので。

恐らく、普段からそれで佐竹さんの電話を、盗み訊きしていたことは間違いありません」 


「な、な、ちょっと、待ってくれ、今、何と言った? 

盗聴器? そんなものがあったのか。君という人間は、警察でも踏み込めないことを容易く、警察はまだ家宅捜索の許可が下りていないというのに。

よりによって君みたいな素人に先を越されるとは・・・」


「家宅捜索ですか・・・」


「そう。家宅捜索には、証拠物を捜索して、差し押さえるための捜索差押許可状というものを持参し、被疑者や立会人に提示してから執行がなされるんだよ。

現在警察は、裁判官に対し、許可状を請求中だ。それなのに、君は」


「ありがとうございます。それより、瑠唯さんです。

こっちは推測なんかではなく事実なんだけど。後藤は予め、中西家の長女ということを知っていた。

それから自分の血と同じということも。

だから後藤は彼女に近づき、親しくなり、そして恋人になった。

ここからは彼女のプライバシーに関することですので申し上げられませんが、とにかく彼女を深い奈落の底に突き落としたことは事実です。

彼に、瑠唯さんへの愛はありません」


「そのプライバシーの内容は?」

板垣は訊いた。


「今は、詳しいことは控えさせてもらいます。先を聞いてください」


「わかった」

意外とあっさりと引き下がってくれた。


「とにかく、これで守さんの妻光子さんと、その娘の瑠唯さんに、痛手と屈辱を負わせることに成功した。

最後に残ったのは長男の英二さん。きっと彼も、何らかの形で狙われることでしょう。今現在は何もなされていませんが。これから―」

板垣は、先程までの半信半疑な目ではなく、綾乃の目を真剣な目つきで見るようになっていた。


「警察の方も、後藤義信を容疑者として上げているんだ。

君自身、後藤のアパートにいってきたわけだろ。他に、受けた印象、または確信を得たことがあれば、詳しく話してくれないか」

板垣は、近くにあったパイプ椅子を綾乃に勧め、自分も腰を下ろした。


「ええ」

綾乃は長い髪の毛をかき上げ、背筋を伸ばしながら言った。

「中西英二さんが狙われるだろう、という推測が確信に繋がるものを押収してきました」

 板垣の細い眼がまん丸く広がった。

「これです」

綾乃はバックの中から押収してきた新聞紙を取り出し、板垣に手渡した。

「そこに中西さんの顔写真があるでしょ。後藤はその中西さんの顔を黒いマジックで塗り潰していたのです。

この彼の行動を、どう見ますか? その消し方には怒りを感じますよね。あまりにも何回もペンを押し付けていますから、所々破れています」


「そんなものがあったのか。君ね、こんなものは警察が持つもので・・・」

板垣はそれを直視した。


「ま、それはそうと。私の見解では、後藤は中西家に対する復讐の最後に、中西英二さんを狙うはずです。

一番年が近く、男であり、そんな彼を、自分と比較してみると、それはまるで陰と陽。まるっきり違う。

同じ血を受け継ぐ人間なのに、こうも違う道を歩かされているのか、そういう思いがあるのかもしれない。

だって自分は暗く、ジメジメとした日の差さない道を歩いているというのに、英二さんは、いつも光り輝くにいる。

だから後藤は、英二さんに嫉妬し、それが深い、憎悪へと変わっていった」


 板垣は、綾乃の話を真剣な眼差しで訊きながら肯いていた。

「陰と陽、ね」


「だから、クリスマス・イヴの世界戦に後藤が会場に現れる可能性は高いのでは、と思うのです。

なぜなら、その日は英二さんにとって大切な日、初の世界戦です。

だから警察の方で、レインボーホールを厳重に警備して下さい。後藤がそれを潰そうと、計画しているのではないか、と思うのです」

綾乃は渇いた唇を少し舐めてから続けた。

「私の方は、気になっていることがあるので、もう少し調べてみようと思います。

これさえ解明できれば、事件の核心が掴めるのではないかと」


「調べるって何を?」


「板垣さんは、今、身動きがとれないでしょ。県警などが入り込んできて。

それに、女性と話をするのが苦手でしたよね。いいから、私に任せておいて下さい」


「君ね、一体どういうつもりなんだ? そんなこと容認できんぞ」


「いいから、いいから、私に任せておいて下さい。

今度は、うちの勝田を連れていくので、ご心配なく。危険はありませんから」


 板垣は腕組みをし、難しそうな顔で考え込んだ。

「何を考えているだ。ったく。くれぐれも危ない橋は渡らないでおくれよ」



十三、


 身体がじわじわと冷え、体の芯から凍える。

小さな電気ストーブでは身がもたない。しかも寝る時には消さなければならないのだ。

ストーブだけではない。ここにある全ての電気、それから水道も。

なぜなら深夜に料金が嵩むと、誰かがいることを察知されてしまう。

それだけは避けなければならない。まるでモグラのような生活だ。

だから夜が来るのを恐れた。

昔からだ。日が暮れて、またあれが、喘息が自分の体を蝕んでいくようで、暗闇の世界にどっぷりと浸かることが怖かった。

いくら眠くても、寝付くことなどできない。

こんな所なんかにいるからなのか。それに隣では小六の坊主、浩太がいるが、彼もまた眠れずに夜を過ごしているようだった。義信は、彼を見た。

「いつの日か、熟睡できることを切に願う。でないと、このままでは自我が崩壊する」


「え?」


「何でもない」

義信は言った。

「眠れないのか?」


「うん」

彼は布団を払い除けた。そして起き上がった。

「お兄ちゃんって何か、自分から好んで、暗い道ばかりを歩いているようだね」


「そうかもな」

ふと思った。俺はもしかしてこのまま奴の陰として、生きていかなければならないのだろうか。


奴は生まれついた時から燦々と降り注ぐ太陽の日が差すところで生き、そして、俺みたいに日の差さない、ジメジメとした日陰に佇む者を蔑んできた。

いつだって奴は、上から俺のことを見下していた。あの目、俺は奴の目を好きになれないし、許せない。

もとはといえば俺とあいつは、本当は同じ人間だった。

しかし、今ではどうだ。日が差すところと、差さないところに分れている。義信も起き上がり、そして、蝋燭を点けた。

 部屋が少しだけ明るくなった。お互いの顔がわかるくらいに。


「世の中には日陰の道を好んで歩く者と、日向の道を好んで歩く者がいる。

だが結局のところ、どちらも同じ人間だ。本質は何も変わらない。どんな人間だって、心の何処かでは人に認めてもらいたい、そう思っているに違いない」


 浩太は首を傾げながら、話に聞き入っていた。


「お前には、難しかったか。ま、いずれわかる時がくる」


「じゃ、好まないのに、その道を歩く人もいるの?」


「そうだ。世の中というものは、不平等にできているものだ」

義信は言った。

「好まないのにその道を歩いている者もいる。いや、大概の人間はそうだろう。

だが一握りの人間だけは、本当の道を正すために何らかの形によって、軌道修正を行なう。今の自分を捨て、新しく生まれ変わろうと、な」

 義信は熱くなっていた。他のものが目に入らないくらいに。

「お前はいつもそうだった。努力もせず、やることなすことすべてうまくこなし、皆の注目を一心に受けていた。

俺だって本当は才能があるんだ。何をするにも。野球だって、俺はグローブさえ買ってもらえなかった。だから試合にも、ましてや練習にさえ参加させてもらうことはなかった。

ボクシングだってそうだ。俺がこの道を選んだばかりに、試合に出ること、表彰台に立つことも叶わず、お前のように世界戦のリングになど、立てるわけもない。

その気持ちがお前にわかるか? お前がそうやっていつも陽の道を突き進んでいけるのも、おれが、この俺がずっと陰の道を歩んできたからだ。

待ってろよ。必ずお前を、陥れてみせるからな」


「お兄ちゃんは、一体何をしようとしているの?」


「今いるこの立場を、ある奴と変わるつもりだ」

義信は言った。

「人間は、な、やるべきことがはっきりと明確化されている者が強い。お前にはそういうものが一つでもあるか?」


 浩太は、しばらく考えた。

「僕には、これといって・・・」


「それでは駄目だな、そんなことでは」


「どうして? ぼくはまだ小学六年生なんだ、そんなことわからなくても。これから徐々にわかっていけばいいじゃない」


「いや、小さな時から目標というものを一つは持っておくべきだ。

そして、それを持ったら迷うな。迷いは人の行動を鈍らせるだけだ」

 孤独だった。今までの人生の中、これ以上に孤独だと感じたことはない。

きっと今の俺は、誰でもよかったのだろう。ただ、喋り相手が欲しかったー。


「迷いのある人間は、弱いの?」


 義信は肯いた。そして、彼の顔を見た。しばらくすると彼の顔が明るくなっていく。


「何だ?」


「僕は、お父さんとキャッチボールがしたい」


「お前の父親は、死んだじゃないか」

 当て付け? 嫌味か? そんなことを考えていると、浩太の顔色が一瞬のうちに曇っていった。


「俺にも一人切りの母親がいたよ」

 義信は立ち上がって、ジャケットのポケットから煙草を取り出し、そして、火をつけた。

「俺も小さな時は身体が弱くてな。お前のように喘息発作がよく出たものだ。

夜になると発作が出て、母親に病院に連れて行ってもらった時もある。

車がなかったから、いつも自転車だったよ。母親の背中にしがみつき、夜の街を一緒に走った。

気管支が、咽にへばりつきそうなくらいに苦しかったよ。それでも母親の背中にしがみつき、振り落とされないように踏ん張った。

病院に行けば、吸入器で、喘息が治まると思ってな」


 煙草を吹かすと、ボッとその個所だけが明るくなった。

そして、テーブルの上にある蝋燭。ゆらゆらと揺らめく弱々しいその火。風に吹かれれば、たちどころに消えてなくなってしまう俺たちの命のような火。

それを見ていると確かに俺たちは生きている。それと共に、今の俺たちの弱々しい、この命を痛感せざるをえない。 


「でもな、俺の母親は弱かったんだ。いつも誰かの顔色を伺い、そして、家に帰ってくれば溜息ばかりつき、疲れ果てた顔を浮かべる。

それはしょうがない。俺のために働いてきてくれたんだ。いつ頃からかな、それがわかったのは。

おれの気持ちが。そうだ、母親が死んでからだ。母親っていうものは、必死だよ。

自分の子のことに対しては。だから子供のために働く母親は疲労が重なり、それで暗くなるもの。そうなった性格、状況がわかり、それを理解すると、とても愛おしくなってきて、な。

夢の中でもいいから会いたいと何度も思うようになった。親というものはそういうものなのかもしれない。お前もそうじゃないか?」


浩太は突然立ち上がった。 


「父親が生きている時には、それほど思っちゃいなかった。

お前がさっき言った、キャッチボールがしたいなんてことは。

なぜなら父親はいつも家に帰ってくるのが遅く、お前は、いつも一人で留守番を任されていた。

それで淋しく、一人泣きながら、レンジにコンビ二で買ってきた弁当を入れ、それをチンして夕食を一人で済ます。

実際のところはそんな父親なんて嫌いだったはずだ。そしてこう思った。

なぜ自分はこんな生活をしているのだろう、と。同級生はどこそこに行った、お父さんと、お母さんに何々をしてもらった、これを買ってもらった、なんて言うのに、自分にだけは、両親が揃っておらず、母親がいない。母親の優しさを知らないんだ」


浩太の背中が少しだけ震えているのに気づいた。


「俺がガキの頃もそうだった。何の思い出もなく、他に愛する人も、それから友人もいなかった。

だがな、俺には一つだけあった。憎しみだよ。憎しみが俺を今まで生かしてくれたんだ。

喜怒哀楽の中で人間を一番強くする感情は、怒りだ」


 突然、彼が振り返った。憎悪のこもった顔で。

「お兄ちゃんが殺したんだ。お兄ちゃんが!」

 浩太は顔を真っ赤にし、堰が崩れたように泣き出した。


「そうだ。怒りだよ。怒りがお前を成長させてくれるんだ。

怒りによって、生かされろ。他人が自分に何をしてくれる。

こっちがいくら苦しんでいても、知らぬ存ぜぬだ。だから自分で何とかするしかない、そうだろ。人生というものは、そういうものだ」


 義信は自分の何とも言えない感情に、体の中でふつふつと湧き起こってくるこの感情、これが何なのかわからなかったが、自分でも気づかずに、両手を前に差し出していた。

俺は、この俺は一体、何をしようとしている? 自分でもこの感情を静めることができず、浩太に手を差し伸べ、抱き締めようとしていた。


 日付が変わった瞬間、テレビを見ていた人には、このニュースが耳に流れてきた。

『警察の話しでは、十一月二十日の愛知県足田町下林山で起きた事件、中西工業株式会社、会社役員の佐竹宣夫さん四十六歳の死亡事故についてですが、当初の見解と違い、佐竹さんは自殺ではなく、他殺の線が強いと見て捜査を続けており、新たに(足田町下林山殺人事件)として捜査を進めることになりました。

この事件は更に二年前の増井病院で亡くなった中西守社長変死事件と関連が深いとみており、同会社に勤める後藤義信二十九歳を二つの事件の重要参考人として、指名手配することになりました。

尚、後藤容疑者は最近会社に出勤しておりません。それに自宅の豊田市のアパートにも戻っておらず、行方がわからず、逃亡している可能性が高いとみて、警察は愛知県一帯に八百名の捜査員を動員して、捜査を進めていくとのことです。

更に佐竹宣夫さんの長男、浩太君十二歳も依然として行方がわからず、同署では、その後藤容疑者により誘拐、監禁、若しくは殺害されたのではないか、という見解を出しております―』


十四、


 路線バスに、大型トラック、それから乗用車などが犇めき合い、道路を埋めている。

この交通量の多さにある種感心する。そして、どの車の運転手も、まるで何かに取り憑かれたように前を見、規律正しく、同じ方向へと走っていくのだから。

そして、ある時。

全員が示し合わせたかのように静かに停車した。

信号が赤に変わったのだ。勝田の運転する車も静かに停まる。

綾乃は、その赤信号をぼーっと眺めていた。不思議だと思った。

こんなに多くの車が走っているのに、たった一つの赤信号だけで全ての車が一斉に停まるのだ。

これが秩序の上で成り立つ社会というのだろう。それでも、中にはその秩序を乱し、犯罪に手を染める者もいる。

「何で最初は、一人で動いたんだろうね。ちゃんと俺に話しを持ってきて欲しかったよ。中西と同級生なんだからさ。俺は関係者なんだよ」


勝田のいきなりのフリで綾乃は身構えた。バカなことを考えている暇などない。綾乃は頭を振った。

「済みません。勝手に動いたりして。でも、この件は、とにかく急を要したものですから」


「そうは言っても、板垣警部補から連絡が入ったんだからね。綾ちゃんが何か企んでいるから、監視して下さい、って」


「あの人、意外に口を滑らしちゃうタイプね」


「そういう問題じゃないだろ。それに、こういうことは、警察に任せなきゃ。なまじっか素人が首を突っ込んでも・・・ま、いい方向には、向かったとは思うけど」


「向かいましたよ。ちゃんと事件の解明ができたんですから。

それにしても警察の動きは鈍い。だって、最近の中西選手の暗い顔、見ました? 

十和ジムでの彼の練習を見ていてわかるんですが、体が重くて、動きが悪い、それに覇気もない。

そんな彼の今の顔は、試合前に見せる緊張の顔だけじゃないわ。何かに迷っている。いや悩んでいるといってもいい。このままの状態で世界戦に挑むことに、どうしても不安が付いて回るの。

だからそれを取り除いて上げるためにも、事件を解決してあげなくちゃ、って思ったんです」


 ようやく信号が青に変わったので、勝田がアクセルを踏んだ。

「その綾ちゃんの行動力には感心するな。

でも、その行動力を、もっと仕事の方に生かせてくれると、有り難いんだけどね」


「勝田さん」

綾乃は口を尖らせた。


「これも仕事ですから」

 綾乃は、二年前の中西守変死事件。豊田署の板垣が言っていた、あの十五分間の空白が気になっており、それを解明しようと単独で、先ずは事件現場の増井病院に行った。

そして、当時働いていた看護師に、色々と話しを訊いて廻ると、ある情報が手に入った。

それは年配の看護師から訊いた情報だった。その話の中から、重要人物として、当時の中西守の病室に、二回目の巡回に行った八草京子という人物が上がってきたのだ。

その人物は増井病院を既に辞めており、現在吉田産婦人科に勤務している。

そこで彼女に会うべく、今日は勝田と共に、もう一つの病院、吉田産婦人科に訪れて来たのだった。

それは事件解決に向け、大きな進展に成りうるものがあった。


勝田の運転で会社に戻っていたが、知多半島道路からこの名古屋高速に乗り換えたところで、ラジオからニュースが流れ、それで綾乃の耳に気になるものが飛び込んできた。


『警察によると、十一月二十日の足田町下林山殺人事件の容疑者、後藤義信の所在は依然として不明であります。

先日入った有力な情報を基に、警察が安城市のビジネスホテル、オークラに捜査に出向きましたが、同容疑者を確認する事はできず、身元、足取りを掴むことはできなかったとのことです。

また、海外に逃亡する恐れもあるので、全国の空港や港を全て手配し、容疑者を発見した場合、即刻身柄を確保する、という態勢を敷いておりますー』


「やはり後藤の行方は不明ね」


「そうだな。これからは後藤の行方の捜索が、最優先だ」


「勝田さん、有り難うございます」


「え?」

勝田はいきなりの礼で、戸惑いの顔を見せた。

「何だよ、そのしおらしさは」


「私は、二年前のことを吉田産婦人科に行って、調べてみたいと思いました。板垣さんの言っていた、ずっと気になっていた十五分間の空白を解明したくて」

綾乃は言った。

「勝田さんは、それに付き合い、他の仕事があるのにも関わらず、その行動を許可してくれました」


勝田は肯いた。

「ああ。そのお蔭で十五分間の空白を解明することができたじゃないか」


「そうですね。人工呼吸器を付けていた中西守さんの容態が急変し、死亡した事件。

問題となっていたのは、患者に付けていたチューブが外れても警報機が作動しなかったことです。

これは、当初午前六時十五分に病室に入り、男性の顔をタオルで拭いた看護師がいたのですが、彼女はその際人工呼吸器のチューブは正常だったと供述しています。

ですが、その十五分後、六時半に別の看護師が巡回にいった時には、中西守さんの気管内に入れてあったチューブと、人工呼吸器のチューブとの接続部分が外れていたわけです。

その後すぐさま当直の橋本医師を呼び、容態の急変により、心臓マッサージを施すが、呼吸器が外れたことによる低酸素状態で死亡」


「と二年前の供述はこんなところだった」


「ええ」


「だから、当初我々は、最初の巡回が六時十五分。その後六時半の巡回との間の十五分間に何者かが侵入し、中西守さんを殺害した者がいる、と踏んでいた」


「そうです。それで、最初の巡回にいった看護師に話を訊くことはすぐにできたのですが、その後の六時半の巡回の看護師は、現在辞めていて、その時は訊けず、ずっとモヤモヤしていました」


「そうだったよな。でも、綾ちゃんは諦めることなく、病院関係者の聞き込みを続け、名前を八千草京子。

年齢三十二歳。現在、違う病院吉田産婦人科に勤めていることを掴んできた」  

綾乃は、髪の毛をかき上げ、息を吐いた。

「そして、今日、私と勝田さんは、その彼女に会いに吉田産婦人科に行ってきました。

最初は口が堅くて、何も答えてくれませんでしたね。

それでもなんとか粘ると、彼女は根負けし、というか本音は、心を寄せた後藤のことを、もう諦めかけていたのでしょう。

それと私たちが尋ねた時期が良かったのかもしれません。彼女は色々なことを話してくれました」


「そうだな。そして、彼女はずっと二年間。あの時隠していた虚偽を、証言してくれた」


「ええ。彼女は、あの後藤義信とできていたのです」 


「そうだ。だから彼女は、今までずっと後藤の思い通りに動かされていた。

それがいいことに、実は六時半の巡回。これは正確な時間ではなかった」


「はい。彼女が二回目の巡回は、最初の証言でいっていた十五分後ではなく、もっと後で、正式な時間は不明瞭だった、と新たに証言してくれました。

なぜなら、その当時は、要は、嘘の証言を作りたかっただけなんですから」

 綾乃は続けた。

「あの事件の日。先ず、午前六時に非常出口の扉を彼女が開け、そこから後藤を病院内に招き入れた。

そして、毎日大体、午前四時と六時に巡回があるので、前もって計画していた六時の巡回が終わるのを見計らい、後藤を、六時半過ぎに中西守さんの病室三〇二号室に案内する。

その時に人に見られた時のことを考え、後藤に白衣を着せた。

そして、白衣を着た後藤が病室に侵入し、チューブが外れた時に鳴る警報を解除し、そのチューブを抜いて、中西守さんを殺害した」


「そうだ。十五分間の空白というものは、実際には存在することのない架空の設定だったわけだ。

なぜなら看護師と後藤が創り上げた虚偽だったのだからな」


「はい。実際、犯行の間、彼女はずっと外にいて、見張り役をしていました。それで、後藤が犯行を終了し、逃走した後に、病室に入る。

その時間が六時五十分頃ではないか、と。そして、守さんの容態を確認し、義信の入室した痕跡がなくなったことを確認してから、医師を呼ぶ。まさに息の合った二人の犯行だったわけですね」


「死亡時刻は七時十一分」


「病院内には防犯カメラがあるわけですが、それに後藤の姿は映っていませんでした」

 赤信号で車が停まった。


「それはなぜか」

勝田はハンドルから手を放し、髪の毛をかき上げ、その後掻き毟った。「病院内では少ない職員で、多くの入院患者や見舞客、外来患者などの対応を行う必要がある。

そのため防犯カメラを設置してはいるが、どうしても死角になる場所があるんだ」


 綾乃が後を引き受ける。

「はい。当直時間帯、ナースステーションのある四階にいる看護師は二人ですし、時折患者対応で空になる時もあります。

それからプライバシーの問題もあって、実は、そのナースステーションには、監視カメラが設置されていなかった。

これが盲点だったわけです。だから、院内関係者、即ち病院内を把握している八千草京子さんがカメラに映らない通路を通って、後藤をエスコートできた、というわけです」


「それが不可解であった、空白の十五分間の真相なわけだ」


「そうです。このように病院内を熟知した関係者を使って行われたから、できたことで、それだけではありません。

ちゃんと二人は、予行演習もしていたのですからね」


「ああ。そこまでやることに、正直驚いたよ」


「だからすんなりと行動ができた、というわけです」

綾乃は言った。

「そして、彼女は二年間。ずっと後藤に寄り添い、嘘の供述をし、こうして真相を隠していたわけです」


「それから、綾ちゃんの言っていた、あれ、」


「え?」


「彼女が、後藤のために一役かったのはこれだけじゃないだろ。他にもあるじゃないか」


「ええ、はい。彼女が、現在産婦人科に勤めているのも、後藤のためで、最近、中西瑠唯さんが妊娠したのと繋がっていることですよね。

勝田さん、このことは絶対に外部には漏らさないで下さいね」


「わかっているよ」

勝田は頷いた。


「八草さんは病院で、排卵誘発剤をクスね、瑠唯さんの生理日を逆算し、それを後藤に、アドバイスと共に渡した。

その薬を貰った後藤は、計画的に彼女から訊いた日時などの予定を守り、瑠唯さんに何らかの形で服用させ、妊娠させることに成功をしたのです」


 勝田は肯いた。


「でも、八千草さんは、なんで後藤のためにあれ程までに骨を折ったんだろうか。

本人も言っていたが、自分のためにもならない、見返りもない、とわかっていてもだ。悲しい女だよな」 

 

「女って、そうゆうところがあるのよ」


「もしかして、綾ちゃんは、」

勝田が突然綾乃の顔を、ニヤニヤしながら見た。

「中西英二が好きなのかい?」


「な、な、何言ってんですか」


「図星かな」

勝田は頭の毛を掻き毟った。


「違います」

綾乃は慌てた。そして、顔が朱色に染まっていく。

「と、と、とにかく、ですね。やはり、私の思っていた通りの男だった。

どんな手を使ってでも後藤は、中西家に恨みを晴らしにいく。そのために彼は今まで生きてきたのですから」


「ハハッ。分かり易いな」

勝田は、微笑みながらボリボリと頭を掻く。

「そうだね。でも、解せないことは、後藤は、なぜ佐竹を自分の掌に収めることができたかだよ。これが不思議だ」


「何ですか、その笑みは?」

綾乃は、さも汚いものを見るかのような目を向けた。

「それに、勝田さん、さっきから頭ばかり掻いて、頭洗ってんですか」 


「失礼だな。洗ってるさ」


「佐竹さんを掌に収めることができたのは、やはり報道でもある通り、会社の金を横領した、その証拠を掴んだからじゃないですか」


「どうやって? 彼は経理出身でもない。

果たして、素人がそんな簡単に、掴めるものでもないだろう。

それと二人の元々の関係性が不明だ。接点がないじゃないか。

それに、後藤の移住地と佐竹殺害の犯行現場がかなり離れていることにも不可解な点は残る。そうじゃないか」


「ん・・・。そうですよね。私にはわかりません」

綾乃は言った。

「とにかく、あとは警察の力が必要です。後藤の所在を掴まなくては、中西さんが危険です」


「ああ。わかっている。だが、肝心な奴の所在はまったく掴めていない。

綾ちゃん、早く、板垣さんに連絡した方がいいよ。八千草さんも警察に証言、自首する、と言っているんだ。

その段取りをつけてやるためにもー。それから俺の責任もあるんだからね、板垣さんから頼まれたこと。そう、綾ちゃんの監視役」


「東海スポーツの皆川綾乃です」

綾乃は、警察に電話を掛けた。


「ああ、君か」


「今、ラジオで後藤がホテルに滞在している、ということが流れていましたが、一体何処から情報を掴んだんですか、以前もそんなことを言っていましたよね」


「うん、マスコミには流せないんだが、簡単にいえば、実は、ゴトウヨシノブ、という同姓同名の四十六歳の男が愛知県に出張で来ていていただけ、ということだよ」


「どういうことですか?」


「最初は名古屋市のヒルトンホテルから、ゴトウヨシノブが泊まっているという報告を受けたので、その現地に赴くも、男は急な用事で急遽、チェックアウトをした後でね、行方は分からず仕舞いだった。

で、次に安城市のビジネスホテルに、その男がチェックインした、という報告を受けたので、すぐさまホテルに向かったよ。やっとのことで、その人物と接触することができたんだが・・・そこで初めて同姓同名の別人だった、ということが発覚したわけだ」


「そうでしたか・・・」


「で、今日はどうしたの? まさか警察のしくじりを訊きたいがために、掛けてきたわけじゃないだろうね・・・」


「いえ、違います。この前話したことですが、覚えていますか?」


「この前?」

だが板垣は唐突に言われ、曖昧な記憶を手繰り寄せているようだった。


「私の推測ですが、後藤容疑者の行く末に、最終的には中西英二がいるのではではないか、と。

そして、会場の警備を強化してほしいといったことですよ」


「ああ。この前、そんなことを言っていたね」


「思い出してくれたようですね。よかった話は早い。

ラジオのニュースを聞くように、空港や港の警備も重要ですが、会場の方が手薄ではどうにもなりませんよ」


「まあね、警備に関しては、話は進んでいるよ、ちゃんと。でもね、他は・・・」


「そんなことでは困りますよ」


「何言ってんだか。また上から目線か」


「上から目線って・・・だって、私は、重要な手懸りを掴んできたんですからねー」


「重要な手懸り、だと?」



  十五、


今頃は、街はイルミネーションによって着飾れているはずだ。

そして、クリスマスの足音が近づくのを感じ、皆どこか浮かれていることだろう。でも、このように中にいては、気配すら感じることもない。

どんなことがあろうとも日は昇り、どんな人間にも様々な一日を授ける。だがその一日は必ずしも、平等に与えられるものとは限らない、この二人もしかり。

暗い部屋。灯りの差さないこのジメジメとした部屋で、二人は寝起きを共にしている。

布団の中で、浩太が何やらゴソゴソとしていた。

「少しは辛抱できないのか?」

その隣で寝ていた義信は、その気配で目が覚めた。

「もう起きたのか?」


「うん」

頭を掻きながらテーブルの上にあるローソクに火を灯した。

明るくはなったが、電気のようにはいかない。体中が痒い。脛、それから手の甲に何百匹もの虫がうようよいるようで、たまらなく痒かった。

何回も手を洗うが、どうしても治まらない。言っちゃ悪いが、この部屋は不潔で、汚い。ダニの温床だ。

溜息をつき、義信はじいさんから貰ったラジオをつけた。タイミング良く丁度ニュースが流れる。 


『ここで朝のニュースをお伝えします。

愛知県足田町の下林山で起きた殺人事件の容疑者後藤義信の所在は依然として不明ですが、警察によると、同容疑者の家宅捜査から、事件性の高いものが発見されました。

そして、二年前に起きた増井病院で亡くなった中西守さん変死事件と結び付け、後藤容疑者は、中西家に何らかの恨みを持った計画的な犯行だったのではないかと踏んでおります』

 このニュースを聞き、体がジンジンと火照ってきた。俺が容疑者?

 ついにここまで来たのか・・・。予測していたことと言えども、実際、このように目の前に突き付けられると、動揺を隠しきれない。

『その証拠として押収されたものの中には、ボクシング世界タイトルマッチの決まった中西英二さんの写真に、黒色のマジックで顔を塗り潰した新聞記事がありました。

このことからも中西さんに恨みを持っていることが窺え、今月二十四日。南区レインボーホールで行なわれる世界タイトルマッチの日に後藤容疑者が現れるのではないか、と推測を立て、名古屋市一帯に大掛かりな捜査網を敷くことになりましたー』

―あの部屋に、ああして新聞記事を残してきても、結局マスコミは、俺の身辺をオブラートに包み、公にしなかった。

警察は、中西守と俺の血が同じである事を掴んでいるのにも関わらず、公表は控えた。

きっと、それをマスコミに流したくなかった、いや、流せなかったのだ。

そう中西英二の暗い過去、それを警察は隠さなければならないのだから。

俺は、あいつにプレッシャーをかけたかった。世間に俺が兄だということを、知らしめたかったのだ。

もし、そうなればあいつは普通ではいられず、落ち込んだはず。しかし、週刊誌でさえ掴み切れなかった、というより、報道規制だろう。

いいさ。こうなれば、俺自身がそれを公表してやる。そう十二月二十四日に。 

「ね、いつまでここにいるの?」

浩太は、まだ布団の中にいた。


「当分ここにいる」


「ね、ねぇ、外にはいかないの。もうすぐクリスマスなのに、ちょっとくらい行こうよ。

せっかくだからさぁ、一年に一度きりのイベントなんだよ」


「いい加減にしてくれ!」


義信がヒステリックに、大きな声を出した。

「我がままいうんじゃない」


 浩太はびっくりして、口を閉じた。


静けさだけが広がった。


義信はしばらくして、バッグの中に隠していたものを取り出す。そして、重量感あるものを左手で掴む。拳銃だ。スミス&ウエッソン、通称S&WM19、三十八口径、装弾数は六発。これさえあれば、怖いものなどない。

あまりの静けさに、

「悪かった」

と、義信はぽつりと言った。

 だが浩太は何も言わず、テレビを見るともなく、視線を向けているだけだった。そろそろ限界かもしれないな。

こんな所に閉じ込めておくことも。浩太の淋しそうな小さな背中を見て、そう思った。


     十六、


 寒い夜だった。室内にいてもそれを感じる。

気温の低下により、外には白いものがちらほらと舞い始めていた。

 ジム内にある二台のストーブをガンガンにつけていても体は温まらない。

練習生の吐き出す息で、窓が真っ白に曇ってはいたが、それでも体が冷えている、そんな気がした。

無口になっているというより、誰とも喋らなくなっていた。

人と話すことが煩わしい。練習量を減らしているが、疲れのピークを追いやることはできない。

英二はふらつきながら体重計に乗った。ろくなものを口にしていないが、まだ六十三キロある。

 辛いのはこの減量だけではない。帰国後、自分本来の動きができなくなってしまったことだ。

初の世界戦のプレッシャー、あるいはプライベートの中の未だ見えない敵との戦い、その恐怖から精神的にも追い詰められていた。

 そんな中、ジムに顔を出すと眩いばかりのカメラのフラッシュに曝された。

その光を遮るようにして手で隠すが、それでも眩しい。今までストイックに練習し、マスコミから逃れてきたが今日予定される公開練習だけは、マスコミをシャットアウトできない。

「調子はどうですか?」

記者がすかさずインタビューに持ち込んでくるが、それに答えることなく、黙ったままその記者の顔も見ない。

次にTV局の人間がカメラで、英二の顔をアップにし、下から舐めるようにして撮ってくるが、それも無視した。

「このところ調子が悪いと訊いているのですが」


「減量は順調ですか?」


 カメラのフラッシュがうっとうしかった。それを横で見ていた神谷がやむを得ず、間に入った。

「済みません。公開練習は予定通り行ないますが、質問の方は控えて下さい。今が一番疲れのピークですから」

 そして神谷は周りにいるマスコミを遠ざけてから、英二に訊く。

「体重は?」


「六十三キロです」


「まだまだだな」

そして、神谷は小声で囁くようにして、

「今日のパートナーは一階級下の六回戦ボーイに頼んでいる。軽く流すだけでいいぞ。公開スパは形だけでいいからな」

と言った。

 英二はバンテージを巻き終え、ストレッチをしながらリング上を見た。

相手の男は既に臨戦態勢が整っていた。

次にその周辺に視線をやると、三人のアメリカ人が目に付いた。二人は黒人で、一人が白人だ。

チャンピオン陣営の偵察だ。ようやく体が暖まってきたので、リングに登り、シャドーボクシングをした。

軽く足を使い、フッワークをする。それからジャブ、リードを出していき、左、右と返すが、何かがおかしかった。

全体のバランスが悪い。こんなことは今までになかったことだ。三ラウンドのシャドーを終え、リングを一旦降りた。

「オーケー。用意してくれ」

神谷が合図を送った。

 既に相手のボクサーは、ヘッドギアとグローブをはめて、先にリングに登っていたが、リング下の英二は、顔にワセリンを塗られ、ゆっくりと準備に取り掛かる。身体が重い、そんな風に感じた。

「三ラウンドだ」

神谷が、英二の尻を叩いてリングに登らせた。

 

 スパーリングが行なわれ二分が過ぎると、リング下がいやに騒々しくなってきた。

「体が重いな」


「どうしたんだ」


「いつもと違うじゃないか」


「ベタ足で、まったくフットワークを使っていない。いつもの華麗なるフットワークが成りを潜めているじゃないか」


「あ、パンチもらっちゃったよ」


「まただ。ダメだなこりゃ。減量失敗か?」


 記者たちも、ジム内にいつもと違った風が吹いていることに気づき、ざわめき始めた。

一ラウンド終了のゴングが鳴った。英二は自分のコーナーに戻るが、それを待ち受けるセコンド陣営も調子が上がらない。

バランスが悪いし、タイミングも合わない。なにより呼吸が苦しい。自分の思い通りにいっていないからだ。一体、どうなっているんだ?

「どうした?」

神谷が早速、心配顔を向けた。

「動けないのか?」

 コーナーに立ったままの姿勢で、いつになく荒い息遣いをしていた。そんな中。


「どうしたのかなあ」

リング下から女の声が耳に入った。

「まるで精彩がない」


聞いたことのある声。東海スポーツの女だ。


「そうだね。いつもの中西ではない」


 その女と目が合った。


「それに顔色もよくないなあ」


「よく見ているな。ヘッドギアつけているのに」


「今、ちらっと見えたんです。なんか視点が合ってない、っていうのか」


 気付くと、二ラウンド目のゴングが鳴った。

 彼女はいつ頃からあんな風に、俺の近くにいるのか。

最近か、いや、かなり前からのような気がする。

いかん、いかん、そんなことはどうでもいいことだ、なぜ気になる? 考えるな、今はこのスパーリングに集中しろ。英二は頭を振って前へ出た。


「どうしたのかしら?」


 また同じ言葉だ。今、彼女はどんな顔をしているんだろう。思いっ切り右のフックを振り回した。


「まったく冷静さがない」


 空振りだ。相手が外にいるということは、俺が中に入ってしまったのか?


「ええ。リング中央で、そこで六回戦ボーイと打ち合っている。これじゃ、アメリカ陣営も驚いてるよ」


 どうしたんだ? 彼女が言うように、まるで自分じゃないみたいだ。そんな中、その相手が出した右ストレートをもらい、顔面に衝撃を受けた。

顔が後ろに吹き飛ばされた。信じられなかった。こんな相手に―。普段なら寸前のところで、ダッキングで避けれたじゃないか。

なぜいつもの動きができない。次のパンチは、なんとか後ろへステップバックでダメージを殺したが、何たる様だ、自分でそう腹の中で罵った。

こんなはずじゃない。こんなはずじゃ。頭に血が昇り、パンチが大振りになった。

ダメだ,ダメだ。自分の動きが何者かによって封じ込められようとしている。俺の邪魔をしている者は・・・。

そんなことを考えると、あいつの顔が脳裏に浮かんだ。妹と楽しそうに笑う奴の顔が・・・。

 ガッーン! 

 今度は下から顎に衝撃を受け、顎から首筋を通って頭の芯に響いた。

危うく倒れるところを、ロープを掴んで踏ん張った。こんなところで倒れるわけにはいかない。

なんとか体勢を整え、返しの右フックを振るったが、相手の方がそれをダッキングで避けてしまった。

英二はバランスを崩し、前のめりに一歩、二歩とつんのめってしまった。

ヤバい、完全に相手の内側に入ってしまった。今まで積み上げてきた経験、それに自信やプライド、それらまやかしのガラス細工が粉々に砕け散っていくようだった。

 丁度その時、視界にアメリカ陣営が入った。彼らが笑顔を交え、仲間同士で何やら話している画像が脳裏を埋め尽くす。

そして、上から右が飛んできた。英二はうずくまって、頭を抱えるようにガードを固めた。

脳内に響き渡る拳の衝撃。そして、ここで画像が停止した。

それからはどうやってスパーリングをこなしたのかわからない。


 いつもの動きには、ほど遠かった。弱い、俺はこれ程までに弱い人間だったのか・・・。

その散々たるスパーリングを終え、リングから降り、柔軟体操もせずに座り込み、溜息交じりにバンテージを解いた。

こんなんじゃ、勝てない。もう、駄目かもしれない・・・。


「どうしたんですか?」

いの一番に彼女が訊いてきた。


 そんな彼女の顔をしばらく見つめた。普通の記者とは違うな、そう思った。何が違うのかと言えば、それは定かでないが・・・。


「まるで精彩がなくて」

彼女は言った。

「いつもと違ったよ」


 しばらく彼女の瞳を見ていたが、それに耐えられなくなり、目を反らし、

「女にはわからない」

と答えた。


 パンチの影響か、まだ脳内がぐしゃぐしゃに何かが、そう、無数の小さな虫、蟻がうようよと、合っているようだった。頭の中がミシミシと軋み出した。

「何が、ですか?」


「君にボクシングのことが、だよ」


「そんなことないです。私は相手の試合のビデオも見たし、あなたの今までの試合だって、傍らで見てきました」


「そんなことくらいでボクシングのことを理解できるのであれば、誰だってチャンピオンになれる」

激しい頭痛に襲われた。誰か、この真っ黒な蟻の集団を蹴散らせてくれ。

「女っていうのはちょっと学習したからって、すぐに何かを会得した気でいやがる」


「全て会得したとは思っていないけど、でもそれなりにボクシングのことが少しはわかったような気がするの。

ボクサーの辛さや過酷なところなんかを。それにサンドバックを何も考えず、一心不乱に打っていると、気分がすっーと気持ちが良くて。

ま、これは私の解釈だから、おいといて。とにかくボクサーの試合前の心境は大切よ。

今のあなたのような精神的不安定な状態では、本番で力を出し切ることなど先ず出来ないわ」

 彼女の瞳が、俺の目を包み込むようにして見ているような気がした。

自分のこのどうしょうもない気持ちを見透かされたようで落ち着かない。

「あなたの今日の動き、いつもと違ってたわ。だから肉体的にも、精神的にも参っていることが私にはわかるの。それが心配なのよ」

 脳内に、先程までいた無数の蟻が静まると、我に返り、その後、頭が混乱した。


この女は一体何が言いたい? 

俺のことが心配? 

英二は頭を振り、俯いた。上を向くとまだ眩みそうだった。


「少し、黙っていてくれないか」

英二は俯いたままそう呟いた。

「そうだよ。君が言うように、俺は今疲れているんだ。だから今はそっとしておいてくれ」


 勝田が、綾乃に近づいていく。

「もうやめないか」

勝田は、彼女の耳元で囁いた。

「中西選手はとてもナーバスなんだから」


「わかります。ただ私は、そんな中西さんがちょっと心配になって」


「君が心配する必要はないだろ。だからムキになるな」


 ようやく英二は立ち上がった。少し立ち眩みを感じたが歩けないことはない。

「ああ、ちょっと待って」


 振り返った。まだ頭が重い。


「最後に一つだけ」

綾乃は言った。

「後藤義信という男を知っている?」


 後藤義信、あの男だ。すぐに脳裏に蘇った。さっきのスパーリングでも奴の顔が浮かんだ。

今、俺の頭の中にある悩みの種。奴は今、何処にいて、何をしている? 

気になる。そして、俺に何をしようと・・・。なぜ、警察に捕まらない? 警察は一体、何をしているんだ。

英二は、肩を竦めてから歩き出した。今は、もう、何も喋りたくない。


「あなたは、その男のことで悩んでいるのよー」


 一瞬立ち止まるが、そのまま立ち去った。


十七、


 二日前から降ったり、止んだりを繰り返した粉雪は、今では大粒の雪となり、街は白い雪化粧を纏っていた。

朝の気配を薄っすらと感じとった頃に、ゆっくりとベッドから起き上がった。

昨夜でジムワークも終了。今日一日は完全休養に充てる。

あとは決戦に挑むまでだ。それでも残された不安はウエイトだ。昨日から絶食に入っているが、果たしてそれが項を要したか・・・。

尿意は催さなかったが、それでもトイレにいき、小便を出すことに努めた。身体の中にある水分が乏しく、肌がカサカサで、干からびているし、口腔内もカラカラで唾も出やしない。 

 シャワーを浴びた後、居間に戻り、テレビをつけると、その画面に、自分の顔が映っていた。明日の世紀の一戦と題し、ずんぐりむっくりの中年がフィリップ片手に案内を始めた。

 名古屋市レインボーホール

 会場十五時、ゴング十六時。

 WBA世界ライト級タイトルマッチ

 チャンピオン ドナルド・ゴンザレス(米国)

       VS

   同級三位 中西英二(十和)

 

 そのフィリップ、それからアナウンサー、ゲストらの会話、自分のことが取り上げられても他人事に思え、英二はただぼんやりとテレビを眺めていた。

緊張しているのだろう。時間が自分の知らないところで流れているようだった。

 どれくらい時間が過ぎたであろう。画面は、気づかないうちにニュースが流れていた。


『愛知県足田町下林山で起きた殺人事件の容疑者後藤義信の所在は依然として掴めず、捜査は難航しております。

尚、警察は明日のボクシング世界タイトルマッチに出場する中西英二さんを狙って、同容疑者が会場に現れるという推測を持っており、捜査員二千人態勢で、名古屋市一帯に巨大な捜査網を敷き、道路などの検問を強化していくとの事ですー』


 ―何で長男なのに、俺の名前に二、がつくのだろう、と常々思ってはいた。

それは、親父にとって違う女ではあるが、俺は二人目の子供だから英二と名付けたのだろうか。

これで説明がつく。それでも、納得なんてできない。

 明日、奴は本当にレインボーホールに忍び込み、俺を狙うのか? 奴は何らかの武器を手に、俺に向かってくるのか。その時、俺はどうしているか。

体格のいい、いかつい顔の男が画面に映っていた。あの忌々しい顔だ。なぜこの男と自分が―。

 

 その日はとても穏やかに一日が過ぎていった。


まるで嵐の前の静けさのように。夕方までベッドの中で体を休ませていると、四時に神谷がマンションにやってきて、彼の車で計量が行われるTCBホールへと向かった。


黒色のジャージ姿に、黒の帽子を目深に被り、サングラスをはめ、そして、マスクを付けた完全武装で、神谷の車に乗り込んだ。

こうすることによりマスコミから顔を隠すことができる。表情を読まれたくなかった。


そんな英二の風貌は、顎鬚を伸ばし、髪の毛も長く、少し不衛生で、不恰好だった。外見を気にする余裕など、今はない。


 部屋の中と違い、外は物騒で、道は物々しく、そして混み合っていた。回転する赤色灯が廻り、誘導灯も振られいた。


その誘導する制服の男に案内されるまま、神谷は近寄り、そして、車を寄せた。何人かの警察がいて、そこで検問だと初めて知った。パトカーが横並びになっていて、バリケードを作っている。

「免許書を見せていただいてもよろしいですか?」

とでっぷりとした警官に免許書の提示を求められた。


中区にあるそのTCBホールへは、普通であればマンションから十分程で到着するが、今日ばかりはニュースで伝えられたように、至るところで検問が実施され、道は渋滞し、スムーズに進むことができなかった。結局TCBホールに到着したのが五時を十分ほど過ぎていた。


「明日の試合、キャンセルするか?」

 神谷は車を停めると、運転席の中で、突然口にした。


「どうして?」


「お前の、命の危険が脅かさるからだ」

神谷は、英二を見た。


 英二も神谷を見た。温かいような目、それでいて諦めにも似たものをその目から感じとった。今まで、二人でやってきたものを惜しむような、そんな目だった。


「今更、中止になんかできないよ。どれだけの人がこの試合に関わってきたと思ってるんですか。

十和ジムのスタッフだけじゃない。海を渡って来た俺の相手に、その取り巻き。多くのボクシング関係者に、レインボーホールの会場スタッフ。なにより、お金を叩いてチケットを購入してくれたファンたち。そんな人たちを裏切ることはできない」


「それでも、明日はあの犯人がレインボーホールに忍び込み、お前を狙う。見ただろ、あの道路の混雑に、鬼気迫った顔の警察の検問」

神谷のその弱々しい目、初めて見たような気がする。

「お前にもしものことがあったら、どうするんだ」 


「俺は行きますよ、レインボーホールに。誰も夢の邪魔はさせない」


 英二がそう言うと、しばらく神谷の暗かった顔に、徐々に赤みが差していく。

「神谷さんが言ったように、明日、レインボーホールに行けば、俺はあいつに殺されるかもしれない。

でも、今まで何のためにあんな苦痛と節制。まさに血の滲む練習に、身を削る減量。それらを乗り越えてきたと思ってるんですか。

それは世界の頂に昇り詰めるためのもので、そこに行ける人は選ばれし人なんです。

俺はどうしても、選ばれし人になりたいし、その景色が見たい。そして、この掌に掴んだものがどんなものなのか、見てみたいんです。

だから今、このチャンスを逃してしまえば、一生後悔するような気がする」


 神谷は、真剣な眼差しで英二を見た。英二も鋭い目つきで、返す。

「よし。わかった。それでいいんだな。俺だって、後楽園で、お前と出会って、夢を見たんだ。お前を世界に連れて行くことを」

神谷は言った。

「そうと決まれば、俺は最高のバックアップをするぞ。行くぞ、一緒に」


「はい」


やっとのことで六階のホールの中に入ると、一番前に会長の松尾、真木らが陣取っていてくれ、その輪の中に入った。


室内は簡易机に椅子、それから前方に白板があり、会議室のようだ。皆の顔を見ると、少しだけ安心出来た。

「計量が済んだら、これを食べて下さい」

真木が弁当箱のような物を差し出してきた。

 受け取ってみたが、本音を言えば今は見たくない。

それを見たために腹が空き、喉が渇いていることに気づかされる。唾液が口の中で広がる。

飢えていた。この飢えをリングで相手にぶつけてやる。

と英二は目を獣のように血走せたが、なんとか我慢し、パイプ椅子に腰掛けた。

それからは誰とも一切言葉を交わさず、帽子を目深に被り、目を瞑って、時がくるのを待った。

二十分程時間が過ぎると計量室へと導かれた。部屋を出て、廊下に出ると静かであったが、その冷え切った廊下を長い時間かけてゆっくり歩くと、

徐々にざわざわとした声が耳に入ってきて、それで緊張した。

全身に鳥肌が立ってきた。減量で、腹が空いている時には、同時に五感の全てが鋭く、研ぎ澄まされるもの。


 扉を開けた。いきなりカメラのフラッシュで身を刺されると、身体が震えた。必死で耐えた。

前方に目を向けるとゴンザレスが全ての衣類を脱ぎ捨て、パンツ一丁で秤の上に乗っていた。

 均整の取れたバランスのいい肉体に、眩しさを感じた。胸板が厚く、足の筋肉に目をやると、まるで競走馬のようなバネのある筋肉だ。

黒人特有のその褐色の肌にフラッシュが照らされ、よけいに彼の体調の良さを物語っている。一発でパスした。チャンピオンは大きくガッツポーズをして、マスコミに応えた。

 次は英二だ。ここでようやくサングラスを外し、帽子を脱ぎ、衣類を全て脱ぎ捨て、パンツ一丁で、恐る恐る秤の上に乗った。

そんな自分をちっぽけに思った。今まで纏ってきた自信や誇り、あるいは名誉といったもの全てを剥ぎ取られたかのように、まるで辱めを受けているようだった。

寒さを感じ、身体の震えを止めることができない。

 シーンと静まり返ったこの会場。誰もが固唾を呑んで見守った。

前方に椅子に座った係員の男、白髪がかなり後退した銀縁の眼鏡の男が、英二の顔を見てから、笑みを浮かべた。

「六十一・二キロ。百三十五ポンド」

オオオッというどよめきが起き、一斉にカメラのフラッシュが焚かれた。これで正式に闘いが始まる。


十八、


 辺り一面真っ白。まるで北国を彷彿させるこの雪景色。

上空を見上げると、いまだ白い綿菓子のようなものがハラハラと舞い降りてくる。

何所かで、誰かが私をつけているような、そんな気がした。前方、左右、それから後ろを何回も見たが、それらしき人物はいない。気のせい? 


最近、自分でも、物事に注意深くなっていると思う。

溜息を一つついた。それからゆっくりと街を眺めながら歩いた。トナカイにサンタクロース。雪だるまに、巨大なクリスマスツリー。それら数々のお決まりの光り輝く装飾品にイルミネーション。この時期はどの店もクリスマス一色だった。

 今日はいつにもましてロマンチックな土曜の夜だ。

九時を過ぎても人は多く、居酒屋帰りの若者の団体が、大きな声を出してはしゃぎ、悪ふざけをしている。そして、何組ものカップルが体を寄せ合いながらこの寒空を仲良く、歩く様が目に入ると、明日、日曜日はクリスマス・イヴなんだな、とそう実感させられた。


瑠唯は仕事が終わり、金山総合駅から電車に乗り、自宅へと向かっていた。おにぃはどうなったんだろう。

間違いなく計量をパスしているはず。そういう性格だ。それに引き換え私は―。

 あれからもう四ヶ月が経ち、お腹だって少し出てきた。このお腹の中に結果はどうであれ、新しい生命が宿ってしまった。だが、それを素直に喜ぶことなどできない。正直いまだ納得できずにいる。

何せこの子には、自分のもう一人の兄の血が流れているし、その血は犯罪者のものであるのだから。

もし、このままこの子を産んでしまったら、どうなるのか。また、どんな目に合うのか心配で、不安が尽きない。それに、このことを母親に話してからは、一言も口をきいてくれない。自分は一人ぼっちなんだー。

冷たい風が身体を突き刺す。体温を上げるため必死で両手を擦り合わせ、その両手に息を吹きかける。

そうすることにより少しだけ暖かくなってきた。あの人は、今どこで何をしているんだろう、私がこんなにも苦しんでいるのに。

瑠唯は商店街の方へと向かった。行き交う人だかりを縫い、何処に行くのかわからぬまま、これから自分はどうするべきか、何をするべきかを考えた。

しばらくは夢遊病者よろしく歩いていると、人が集まっているところを見つけた。

書店だ。皆一人で本を手にとり、眺めていた。ここが一番落ち着くな、そう思った。

自分の世界に浸れるところだから。その目の前の安らぎに足を踏み入れようとした瞬間。

その時だ。スマートフォンの呼び出し音が響いた。


「―今から、俺がいうところにきてくれ」

男の声だった。まさしく、あの人の声―。


「あなたなの?」

瑠唯は訊いた。色々な想い出が脳内を駆け巡り、数々の思い出がフラッシュバックする。

楽しかったこと、悲しかったこと、そして、自分がされたこと。でもそれらがまるで見当違いで、収拾がつかないほどに動揺した。


「警察に付けられていないか? もしそうなら、気づかれないようにきてくれ―」

 男は質問に答えることなく、指示を出してきた。


「今、何所にいるの?」


しばらくは沈黙が広がった。

先程から何者かに監視されているような気がしていた。それは、彼がいうように警察かもしれない。私は、重要参考人?

 被疑者と接触の恐れがある、とでも思われているのかしら・・・。

今振り返って、その警察に助けを求めるか。

 でも、あの人に会いたい。もう一度あの人と会って、相談がしたいし、それよりも確認がしたいの、私とのことを。だから―。

私の身体をこんなふうにして、あの人は平気なの。本当に私のことを利用しただけなの? 

映画を見ている時、レストランで食事をしている時に見せたあの笑顔は嘘だったの。あんなに楽しそうにしてたのに・・・。嘘だ、嘘だ、嘘だー。

お腹が動いたような気がした。痛い、というより、なんか変な気分だった。私のお腹の中には、確実に何かがいる。こんな感触はたまにある。生きているんだ、私の赤ちゃんー。 

あの人に会えば、答えが出るの? あの人に会えば、この子のことを認めてくれるの? 

そして、今までのことを謝って、けじめをつけてくれるというの? 

 甘いかな。でも、瑠唯は後ろを振り返ることなく、前を向いて、歩き出していた。そして、小道を見つけると足早に先を急いだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ