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心に傷を負った男  作者: 中野拳太郎
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第二章 触発

 



第二章  触発


     一、


名古屋鉄道は、愛知県・岐阜県を基盤とする大手私鉄であり、通称名鉄という。

民営鉄道としては日本で三番目の歴史を持つ老舗企業でもある。

その名鉄の名古屋駅から電車で一区間、金山駅で電車を降り、裏口へと廻り、細い路地を歩くと、居酒屋、スナックなどの飲み屋、それら雑然とした店が立ち並び、その奥の茶色のビル。

一階が駐車場で、二階がボクシングジムとなっている。それが十和ジムだ。

Tシャツとパンツを黒色で揃えた居出立ちの中西英二が、ナップザックを背にその階段を登る。

背が高く、百七十八センチのスラリとした体型だ。英二は扉を開いた。

玄関にはいくつもの汗の染み付いたシューズが、乱雑に脱ぎ散らされていた。それを避け、靴を脱ぎ、下駄箱の中に仕舞い込んでから、奥へと向かった。

 玄関口に大きな姿見鏡があり、その前に二人の男が立ってシャドーに勤しんでいた。じっとりと汗の匂いが鼻を掠めた。

「こんちわっす」

後輩が挨拶した。

「おう」

英二は後輩に視線をやり、微笑を浮かべた。

「やってるな」

 そして、さらに奥へ向かうと、その先に更衣室がある。

 だが玄関から右手にある応接室の中から、小柄な五十過ぎの男が現れた。頭のてっぺんが禿げ上がっているため、スキンヘッドにしている、会長の松尾だ。

「調子はどうだ?」


「まあまあ、かな」

英二は、笑みを浮かべた。

「何かあるんすか? わざわざ出てきて」

 その男は上に一列となった木で出来た名札を、一通り眺めている。

ずらりと並んだ一番左端に、別格で中西英二の名がある。

何か言いたいことがあるのだろう。だが、それを必死で堪えているようでもあった。

「ん、ちょつと、な」

松尾は一旦背中を向けたが、もう一度振り返り、

「部屋にきてくれ、神谷もいるから」

と意味ありげに言った。

 部屋に入ると、白色のテーブルがあり、その周りにある茶色のソファに、年は四十半ば。長髪で、背はあまり高くないが、筋肉質の引き締まった体つきの男がテレビの前に座っていた。 

「やっときたか」

神谷が眼鏡に手をやり、

「ついにでっかいビジネスを掴んだぞ」

と軽く笑みを浮かべた。


 その神谷はボクシングジムのマネージャーで、英二のチーフトレーナーを担っている。

「そのでっかいビジネスとは?」

目の色が輝いてきた。英二もソファに腰を下ろした。

「まあ、そんなにはやるじゃない」


少し間をおいた。

「お前は世界チャンピオンになりたいか?」


 唐突に言われ、力が抜けてしまった。一瞬時が止まるのを、身を持って感じた。待ち焦がれた、というよりも、信じられない気持ちでいっぱいだ。 

「こいつが相手だ」

 神谷は冷静に、そう言い、テレビを指差した。


 英二は、その画面に注視した。ゴムまりのような弾む柔軟性を持つ下半身に、黒光りした健康的な肌。それから筋肉の塊のような胸板に圧倒された。テレビに視線をやると、WBA世界ライト級王者ドナルド・ゴンザレスの戦いが流れていた。   

「今までお前が対戦してきた中で、これほどまでに優れた選手はいなかった」

神谷が険しい視線を向けた。

「いいか、これからはボクシングだけに打ち込むんだ。今までのようにチャラ、チャラしていると、酷い目にあうぞ」

 神谷の言ったように、そのチャンピオンは今まで戦ってきたどの選手よりも、レベルが高い。

ゴンザレスのスタイルを分析すると、離れてよし、接近してよしの右のボクサーファイターだ。

ガードが固く、パンチ力もある。連打を出した時のコンビネーションが早く、リズミカルで、強い。こんな迫力のある選手はそうはいない。

「お前はこの相手と戦うんだぞ」

 神谷は、英二の目を見据えた。現実感がまったく湧かない。

「これからは性根を入れて、と、その前に、お前に言っておくことがあるんだ」

神谷はここで間を取った。

「これからアメリカに行ってキャンプを張ることにした。いいな、期限は一ヶ月だ」


「アメリカ?」


「そう。ロサンゼルスだ。そっちでみっちり世界クラスの奴らと、スパーリングをやる予定だー」


神谷の真剣な眼差し。横にいる会長の松尾もまた。それは酷暑が薄れる夏の終り、九月に近づこうかという時だった。


     二、


 金山駅の南口に位置したスターバックスカフェ。

閉店間際ということから、店内は既にアルバイトの高校生二人も帰宅し、残ったウエイトレスは二人だけとなっていた。

一人は二十一歳の小柄な、ショートボブ風の髪型をした子。

もう一人は二十二歳の鼻梁の形がいい、目のクリっとした猫を思わせる風貌の女だ。小さな頃から可愛く、大人になって一段と魅力的になった。

「ね、もうそろそろじゃない?」

ショートボブが言った。年が一つ下ではあったが、タメ口だ。

「何が?」

猫のような風貌の子が訊く。

「あり得ない」

ショートボブがはしゃぐ。

「もう、いつもの人よ。今日もそろそろ来るかな、っていうか、名前くらい聞けばいいのに」


「なんでよ」


「気があるんでしょ。だっていつもその人がくると、ソワソワしながら見てるんだもん」


「そんなことないよ。気のせい、気のせい」

彼女は手を振りながら、慌ててダスターを取り、机を拭こうとする仕種を見せている。


 ―三日前。


いつものように残飯を片づけようと、店の裏口から出て、廃却所に向かう時だった。

彼女が両手にゴミ袋を抱え、裏通りを歩いていると、少々ガラの悪い学生服を着た二人組の男が近寄ってきた。

「店は何処にあるの?」

小太りの、見た目は中年を思わせる男だ。

「え?」


「スタバは何処にあるの、って聞いているの。ってか、もう何回も聞かせないでよ」


「ああ、この表にありますが」


「この表って、あんた従業員でしょ。もっと、親切に教えてくれてもいいのに、違う?」

 今度は相方の痩せ細った、まだ子供っぽさを残した男が話し掛けてきた。

「いや、ごめん、ごめん。ね、それよりさ。お姉さんは店、何時に終わるの?」


「どうしてあなた達に、教えなければならないんですか」

ダメだ。感情的になってしまった。軽薄そうな男を見、嫌悪感を抱いた。突然、小太の男に、腕を掴まれた。

「何するの!」


「なんだよ、その仕草は。俺達は客だぜ。一体何様のつもりなんだ、まったく、だから最近の店員は、なんて言われるんだよ。

ったく。俺たちだって、好きでやってるんじゃないって、こんなことは・・・・・・」


「え? 何?」


「おい」

隣の痩せている方が。

「あっ。何でもないよ。それより、早く。俺たち客だぜ」

小太りがいやに慌てていた。

「客って、まだ店の中に入ってもいないじゃないですか」

 今度は痩せ細った男に、反対の腕を掴まれた。

「大きな声を出さないの」

 どうしょう? 彼女が助けを求めようと周りを見渡した、その時だった。

「済みません」

背後から声が聞こえた。

 助かった、と思った。彼女は胸を撫で下ろし、後ろを振り返った。

その助っ人は髪の毛をツンツンに立たせた、背の高いがっちりとした男だった。

眼鏡をはめたその顔はとても紳士的に見え、まるで救世主のようだ。

「この辺りにスタバがあるって、聞いてたんだけど、何処ですか?」

つかつかとその彼が歩いてきた。「ちょっと練習の後で、喉がカラカラに渇いちゃって、コーヒーでも飲みたいな、って思ってね」

彼はニコリと微笑んだ。

「何だ、テメェ」

小太りの男がいきがって言った。

「ああ、君達でもいいんだ」

彼はいたって平静だ。

「スタバ、何処なの。教えてよ」


「あっちだ」

ヤセが言った。彼の雰囲気に負けたのか、表側を指で示した。

「っていうか、何、あんた?」


「あっちって? もっと、親切に教えてくれてもいいのに、違う? っていってたわけだけど、」

彼は喋りながら、彼女の腕にある高校生の腕を力強く引き放した。「本当は、君たち知ってたんだろ、スタバの在り処を」


「何すんだ、テメェ!」


「いいから、いいから。もう、そんなに怒ったりして。若いね、君たち」

彼は笑顔を浮かべながら、強引に二人の首根っこを掴み、振り解いた。

「スタバまでの道を訊いたのは、口実だったんだろ、違う?」 

 彼は、二人が立ち去るのを確認してから会釈をし、そして、スタバの方へと向かっていった。

スマートというのか、淡々とした印象で、まったく恩着せがましいところがなかった。

彼女はポカーンとした表情で、そんな彼の背中が見えなくなるまで眺めていた。不思議な人だ、第一印象は、そんな風に思った。


 だらしなく口が開きかけた時に、扉がゆっくりと開いた。

そして、そのスポーツマンタイプの彼が颯爽と歩いて来るのが見えると、自分でも胸がときめくのがわかった。

「いらっしゃいませ」

ショートボブが微笑んできた。「ほら、彼が来た。絶対、気があるよ。あ、さっき口が開いていたからね」


 ショートボブに煽られたからか、カウンターでその彼が来るのを待っていると、胸がバクバク、と鼓動が暴れ出した。

「先日は、どうも有り難うございました」

彼女は礼を言った。


「いえ、別に、たいしたことじゃないよ。でもそのお礼、何回も聞いてるな」


「ああ・・・・・」

もう少し何かいい言葉はないかなと思ったが、今の彼女の頭には浮かばなかった。

「で、あっ・・・・・・今日は何にしますか?」


「いつものスターバックスラテをお願いします」


「わかりました」

精一杯の笑顔を浮かべた。

「今日も練習ですか?」

今度は可愛らしく、小首を傾げながら訊いてみた。


「まあ、ね」


「毎日ご苦労様です」

私、バカ顔じゃないかしら。人は緊張すると口元がだらしなくなる、といわれるものだが。

「うちの兄貴もやっているんですよ、ボクシング」

緊張した時こそ、笑顔を封印すべきなのだ。


「え、そうなの?」

彼が興味深そうに見つめてきた。「なんか、奇遇だな」


「ええ」

ああ、駄目だ。恥ずかしくなったので、俯いた。

「そうですね・・・・・・」


「名前は?」

爽やかな彼はハニカミ、

「ああ、ごめん。自分の方から名乗らなきゃね。僕の名前は後藤義信」

と言った。


「え、あ、私の? それとも兄貴の名前?」


「お兄さんの方だったけど、君の名前も聞いていいかな」


「あ、兄は中西英二。私は瑠唯です」

顔が真っ赤になってしまった。それを悟られないよう、顔は絶対に上げない。

 瑠唯は名古屋女子短期大学を卒業後、貿易関係の仕事に一旦就職したが、デスクワークという仕事にどうも馴染めず、色々な人と接する仕事にやりがいを求め、思い切って今のスターバックスカフェに転職をした。

最初のうちはバイトの延長という感覚でやっていたが、次第に責任を与えられるようになり、前職のただ机に座って一日を過ごす仕事よりも、楽しく仕事が出来るようになってきた。

やはり兄妹揃って体を動かすことが好きなのかもしれない。


三、


 天井に固定されたテレビを見つめる者。

一眼レフカメラの手入れに余念のない者。

自分の席でひたすら電話を見つめ、動こうとしない者。

あるいは入り口辺りでファイルを手に颯爽と歩く女。

中区、三の丸にある茶色の高層ビル。

東海新聞社ビル七階にある運動部はいつも慌しく、ざわめき立っていた。

そんなところに彼女はいた。二十七歳とまだ若いが、いかにもやり手という印象の女だ。

黒のショルダーバッグを肩に引っ掛け、男ばかりのこの部屋を後にする。

「皆川さん、何処にいくの?」

少し太り気味で、度のキツイ眼鏡の男が、彼女を呼び止めた。机に座り、電話を待っている男だ。

「うん、ちょっとね」


「ちょっと、って何処?」

眼鏡の男は訊いた。

「また社会部にでも行くのかい」


「違うよ。何で用もないのに社会部なんかに行かなきゃなんないの」


「だって、皆川さん言ってたじゃない。チャンスさえあれば、社会部に移りたい、と」


「そりゃ、社会部は花形よ。事件があればそれを追って、いい記事を書く。

カッコいいとは思うけど。今は、この運動部で頑張るのが、私の目標であり、生活の一部なの」


「生活の一部ね・・・・・・」

眼鏡の男は言った。

「じゃ、プライベートの方は、彼氏は?」


「ああっっ、その質問は、セクハラよ」

彼女は人差し指を左右に振ると同時に、踵を返した。

学生時代は陸上部の短距離選手だったということもあり、颯爽とこの部屋を出ていく。

肩まで伸びた薄い茶髪のストレートの髪の毛が風に靡いていた。

背は、百六十五。体型もスタイリッシュだ。 

愛知大学を卒業した彼女は、東海新聞社に就職した。

配属された部署は運動部で、何にでも挑戦していくといった、とてもポジティブな女だ。

主に格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当している。

ラグビーやサッカーはわかる。だがはっきり言って、ボクシングは未だに興味のあるスポーツとはいえない。

あんな乱暴で、野蛮なスポーツ。やる方にしても、なんであんなに痛い思い、それからきつい減量を強いられてまでやるのか、未だに理解できないのが正直なところだ。


 外に出た。

灼熱の炎に道端に浮かぶ陽炎。それを見ただけで額に汗が滲む。

体に纏わりつくこの熱気。道路がユラユラと揺れ、眩暈を起こしそうだった。

最初は遠くの方で耳鳴りのようにして入り込んできた、蝉の鳴き声。気のせいか今ではすぐ近くでジンジンと、鼓膜を揺らすように鳴いている。

「ああ、うるさい」

皆川綾乃みなかわあやのは独り言を口にしながら、中西英二のことを考えていた。

彼を取材した時、自分の思っていることを素直に口に出して言える人間なんだな、と第一印象でそう感じた。

それに、ルックスもいいし、と綾乃は自分の顔が自然に、にやけるのを知る。

 金山駅の近くに位置した十和ジムに向かった。

いくら六回戦デビューといっても二年で日本タイトルを手にし、その後すぐ世界戦の話が浮上するとは。

陣営はすぐに日本タイトルを返還し、世界戦を視野に入れた。少し早いのではないか、というのが多くの見解だ。

だが彼らは動き出した。一度ノンタイトル戦を行い、それを世界前哨戦として、見事その戦いに中西は勝利し、この世界戦を決定付けた。

 ジムの手前まで行くと、女子高生二人が騒いでいるのが見えた。その彼女らの前で、一人の男が応対している。時折笑いながら喋る彼を、後ろから眺めた。

やがて背の低い女の子がバックからノートを取り出す。彼は微笑みながらそのノートに何やら書き込んでやる。サインだろう。綾乃はゆっくりと近づいていった。

「世界戦が決まったのに、随分と余裕があるのですね」

微笑みながら言った。


「お久しぶり。確か、日本タイトルを手にした時、取材にきた人だったよね。名前は・・・・・・」


「覚えていたんだ。でも、名前は忘れたようね。皆川綾乃と申します」


「綺麗な人だったから、覚えているよ、ちゃんと。皆川さんだろ」


「今名乗ったからよ、皆川綾乃って」

彼女は二度もアピールし、苦笑いをしてから、舌を出した。

すかさずインタビューに持ち込もうとしたその時。ジムの扉が開いた。 

「どうしたんすか?」

中から二十くらいの青年が出てきた。

 男はファンの女の子らに目をやり、それから一瞥した後、

「女はダメっす、今はダメっすよ、中西さん」

とまたチャラチャラしているな、という具合に笑った。

 英二は、彼女達にじゃあ、と言いながら階段に足をかけ、ジムの中にその男と共に入ろうとしてから、「で、あなたは?」

と、振り返って声をかけてくれた。


「世界戦が決定して、今の気分なんかを聞かせてもらおうかと思って」

ここで帰られては、来た甲斐がなくなる。綾乃は、慌てて英二の背中に言った。 

「最高だよ」

微笑みながら左手でガッツポーズをした。


「そのようね」


「もういい?」


「ああ、ちょっと待って」

綾乃は、階段に上がりかけた彼を引き留めた。

「訊きたいことがあるんだけど」


「何?」


「色々あるんだけど、時間なさそうね」


「まあね、一つか二つにして」


「んー。何にしよう。ああ、ええっと、じゃ、あなたの名前は中西英二。

英二って普通、次男に付ける名前でしょ。なぜ親は、長男であるあなたに、英二って付けたんだろう・・・・・・」 

だって、急に訊くんだもん。何、バカなこと訊いてんだろう。


彼がキョトンとした。

「ああ、そのことか。ま、いいか。なんだかね、しょうもない理由らしいんだ」

「どんな?」

恥ずかしくなってきた。こんなの、ボクシングと関係ないじゃない。

「言わなきゃダメ?」

それでも英二は微笑み、少しおどけて反応してくれた。

「そのしょうもない理由、聞きたいな」

俯いたまま、言ってみた。

「しょうがないなあ。昔、親父が学生の頃に流行った映画があってね、その主人公の名前が英二っていうんだ。

その主人公に憧れたんだって。で常々、自分に息子が生まれたらその名前を付けようと決めていたらしいんだけど、あり得ないよな、そんなの。

俺練習あるから。あ、このことはオフレコで。じゃ、またね」

そう言うと英二は踵を返し、階段を登る。

綾乃はその背中を見送ると共に、彼の背中を眩しく感じた。


 ジムに入る英二を見送った後、不穏な空気というか、今までの風とは違うものを感じた。

それは、こっそりとこちらの様子を窺う怪しげな男がいたからだ。視線を向けた。見るからに怪しい。

年は五十くらいか。マスコミ関係には見えないが・・・・・・。ストーカーに見えなくもない。綾乃はジムの中に入らず、その男に近づいた。

「もしかして、板垣さんじゃないですか?」

 その男は、綾乃を見て、慌てて背中を見せ、逃げ出そうとしてから、石ころに躓いた。

「待って下さい。何してるんですか?」


「いや、ちょっと中西選手を見たかったのだが、女の子がいたから・・・・・・」


「それじゃ、中に入ればいいじゃないですか」


「いや、いいんだ。世界戦が決まっている最中、俺が入れば、迷惑だ」

綾乃はその年配の男の顔を覚えていた。

四年前のことだ。プロサッカー選手が起こした殺人事件。

それは中京フロンターレの売り出し中のFW佐伯が、当時付き合っていた女性の首を絞めて殺害した事件だ。その事件は世間で騒がれ、マスコミが日々取り上げた事件である。

東海新聞も綾乃を始め、運動部の何人かが取材にいった。

その事件の捜査を担当したのが、この豊田署刑事の板垣敬三だ。

階級は警部補。綾乃は、警察の捜査内容を聞き出そうと足を運んだのはいいが、板垣にいいようにあしらわれ、結局追い払われたものだった。

「君は確か、東海スポーツの・・・・・・」


「皆川綾乃と申します」


「ああ、覚えているよ」

板垣は軽く微笑んだ。

「いや、あの時は君にしつこく聞かれたものだったな」


「その節はどうも、お世話になりました」

綾乃は、板垣に会釈した。

「いや、別にこれといったことじゃないんだ、今日は」

見られたくないところを目撃されたようで、取り繕っていた。

温和な顔。一見、人の良さそうな顔をしているので、とっつきやすそうだが、時として険しい目つきに変わるのが刑事の習性だ。

「でも、なんで板垣さんが十和ジムなんかに来てるんですか? マスコミでもないのに」


「ちょっと、ね」


「調べ物ですか?」


「そうじゃないんだが・・・・・・」

どうも歯切れが悪い。


「おかしいな、なんか。事件ですか?」

 板垣はしばらくしてから背中を見せ、腕を組んだ。考えている様子だ。言っていいものか、どうかを。

「君、覚えているかね?」


「何を、ですか?」


「二年前のことだよ」

どうやら、話してくれるみたいだ。

「二年前のこと?」

思わず前に乗りだし、訊き返した。

「ほら、中西選手の父親が病院で亡くなった事件のことだよ」

 板垣が何を言おうとしているのかがわかった。

「あまりよく覚えていませんが、あれは確か、呼吸不全で亡くなった事件でしたよね?」

微かに記憶の断片に残っていた。

「慢性閉塞肺疾患だよ。新聞なんかでは、人工呼吸器のチューブが外れた、と書かれていただろ」

板垣の目が険しくなった。

「それも覚えているかね?」


「ええ、まあ。そういえば、新聞はこぞって病院側の過失ではないかと、そうでしたよね?」


「よく覚えているね。名古屋高裁は、急性の低酸素状態を、患者の死因と制定し、病院側の過失によって、裁判は閉じられた」

板垣は一人で肯いた。

「しかし、私はあの事件が、どうも解せないんだ」 


「まだあの事件のことを追っていたんですか?」

綾乃は、そんな板垣をしばらく見た。

「しつこい男だ、と思ってないかい?」


「いえ」

すぐに否定した。

「私も、あの事件に関しては気になる、というか、引っ掛かるものがあるんですよね・・・・・・」


「ほう、君もか」

と言ってから、板垣はなぜか顔を赤らめた。

「いや、それは、そうと俺は、女性と、話をするのが苦手でね・・・・・・」


「そうなんですか」

綾乃は、顔を真っ赤にし、俯いた板垣を見ると、自然にクスッと笑みが零れた。


「ああ、なんだ、」

板垣は咳払いした後に言った。「それで、私は、事件のあった二年前から、単独で捜査を続けている。

事件現場、増井病院での聞き込みは勿論、今でも被害者周辺関係者の聞き込みを続けてね。

でも、これといった証拠は、上って来てはいない」


「もしかして、板垣さん個人的には、他殺ではないか、と疑ってるのですか」


「そうとは言ってないが、充分有り得るんじゃないかな。

だから、被害者に対する怨恨なんかがないか、と歩き廻っているんだが」


「板垣さん、今忙しいですか?」


「どうして?」


「いや、中西さんの事件について、板垣さんの知っていることなんかを訊きたいんですが・・・・・・」

綾乃は、手を揉みながら近づいていった。

「君ね、そんなことを言って、記事にするつもりじゃないのかい?」


「いえ、個人的に興味があるだけですから」


    四、


   ―二週間前の朝。

小雨がぱらつく朝の通勤ラッシュ。車はいつものように混み合っていた。

車内には一人でいる者が多く、髭を剃る年配の男、パンを齧る若者、信号が赤に変わった瞬間に化粧をする女、あるいは窓を開け、煙草を吸い、その煙りを鼻から出す豪快な女、様々だ。

それらを見ながら歩くと、立ち込める車の排気ガスが鼻を刺激し、くしゃみが二度出た。

 後藤義信は、不快感に駆られながら会社へ向かっていた。

義信は夏でも長袖を着る。それは寒がりから着ているわけではない。

二年前に出来た傷を隠すためにだ。その袖を捲れば、未だに薄いミミズ腫れが顔を覗く。

その傷を見る度に、あの時の男の恐怖の顔を思い出すようになる。それは鬼のような、この世のモノとは思えぬ歪んだ男の顔だった。

二四八号線を左に曲がると、コンビニがあり、その横に一人の女が待っていた。その女は右手でピンクの傘を差し、左手をブンブンと振りながら、笑顔で嬉しそうに義信の到着を待っていた。

義信は、その眼鏡の下に隠された、釣り上がり気味の女に近づいていく。

「久しぶりね。いきなり呼び出すんだもん。びっくりしちゃった。でも、嬉しい」

女はコーチのハンドバックから錠剤を取り出した。

「はい、頼まれてたもの。これでしょ、排卵誘発剤」


「ああ、ありがとう」

義信は、周りに視線をやってから、それをポケットの中に素早く仕舞い込んだ。

「友達から頼まれているんだ。本当は病院にいけばいいんだが、ほら、恥かしがりやだし、何かと問題があるんだ」


「いいの。何か考えがあるんでしょ、他に。だから、そんな嘘なんかつかなくてもいいよ」

女は弾けるような笑顔で制し、義信の腕を取った。

「私、あなたには感謝しているんだから。理由は言いたくなければ、言わなくてもいいよ。

私は、あなたのためだったら何だってするって決めてるの。

だからあなたが言ったように病院を辞め、産婦人科に移って、その錠剤を手に入れたのよ」

 義信は、優しそうな目でその女を見つめた。

「今からカフェに行って、お茶でもしない?」


「ごめん。仕事に行かないと」


「そうよね」

女は淋しそうに俯いた。

「ごめんなさい」 

 義信は歩き出した。

「二年前の私は、ほんとバカだった」

突然女が、一人で喋り出した。

義信は立ち止まり、女を見つめた。元々無口である。だからいつも女の方がよく喋る。

「そんなことないよ」


「いいの。この話し、あなたにしたかしら」

女は首を振った。そして、

「実際にそうなんだから。私は、バカだったのよ。

今から三年前に両親を交通事故でいっぺんに亡くしたでしょ。ほんというとね、淋しかったんだ。

私はこの世に一人ぼっちなんだ、ってね。毎日の暮らしも平凡でつまらない。朝から晩、それから深夜の二交代制の仕事をしているとね、ストレスだけが溜まっていくのよ。

で、それを発散しようと煙草を吹かし、酒を飲み、下らない男と遊んで、悪ぶったりもした。

そして、高価なブランド品を買うような衝動買いを始めるようになってしまったの。

その欲求は貯金が底をつき始めても止まることなく、気づくと金融会社に足を運ぶようになっちゃった。

だって、友達のいない私にでさえ、高級店の店員が何度も私に頭を下げ、愛想を振りまいてくれるのよ、嬉しかったな。

買う物は何でもよかった。でも・・・・・・生活できるわけ、ないよね。そんな身の丈を超えた生活なんかしてると」

女は手振りを交え、話していた。義信は、時折相槌を送るだけだ。

「それがいいことに、金融会社から借りたお金は、看護師の仕事だけでは返せない程になっていたわ。

借りた会社がいけなかったのね。最初の入口は銀行のカードローンだった。

使途が問われず、無担保で借りられるのをいいことに、借りるうちに借金は雪だるま式に増え、返済に苦しんだわ。

回収も銀行がやるのではなく、消費者金融が請け負うのよ。

やがて、私は消費者金融で融資を断られた利用者を取り込む、闇金融に足を踏み入れるようになっちゃった。

借りるときには手っ取り早く、簡単だったのに、返済には身を削るような思いよ。

だって今じゃ一パーセントにも満たない住宅ローンと違って、金利が二十パーセントを超える高さなのよ。もうどうすることもできなかった。―煙草吸うね」

ここで女は一旦話を中断し、バックからメンソールを取り出し、手早く火を点け、慣れた手つきで煙草をくゆらす。

「そして、闇金融の強面の人に無理強いされ、私は借金を返すべく、風俗に売られた。好きでもない男の人に自分の体を売って儲ける仕事。

私の人生、とうとう行き着くところまできちゃった。

昔の私だったら、絶対にそうはならないと思っていたのにね。人間の欲望ってほんと恐ろしいわよ。

だって一歩そこへ足を踏み入れてしまえば、どんどんとその欲望は膨れ、泥沼に入り込んでしまうまで気づかないんだもの。

そこまで落ちて、初めてわかったわ。結局のところ人間なんてダメな生き物なのね、そして、脆くて、弱い・・・・・・」

女は、溜息混じりに、疲れたように言った。実際疲れているんだろう。額に皺が出ているし、年の割には頬も弛んでいる。

彼女が吸うメンソールの臭いがどうにも好きになれない。吐き気がしたが、ここは堪える。

「そんな時あなたと出会った。

最初はホステスと客としてだけど。あなたはとても優しかったわ。

私、今までにこんなに優しい人に出会ったことなんてなかった。

だって、私に借金があることを知っても付き合ってくれたし、そればかりか訳も聞かずに、黙って最後の返済金五十万円を無利子で貸してくれた。

そして、私を金融会社、それから・・・・・・風俗の仕事からも手を引かせてくれたよね。

ほんと感謝してる。あなたは私の詳しい事情、私が言いたくないこと、それらを絶対に聞かないでいてくれた。ただ黙って、優しく、私に接してくれた」

 女が濡れた瞳を義信に向けたが、義信は小雨降り注ぐ空を、恨めし気に眺めているだけだった。

排気ガスの臭いと、女のアルマーニの香水、それからメンソールの臭いとが混ざり合い、眩暈を起こしそうだった。

「だから私も聞かない。あなたが何をしているのか、そして、その錠剤をどうするのかも。

私、あなたのためなら何だってする。でも、お願いがあるの」

 義信は、女に視線を向けた。

「私、とても疼くの」

女は義信の腕を掴んで、引き寄せた。

「あの時のように、私を激しく抱いてほしい・・・・・・」


 だが、義信はその腕をゆっくりと振り解き、冷たい目で、掴まれていた腕をパンパンと払った。

もう、この女には、用がない。

「ああ、そのうちに、な」

そう言って義信は、女に背を向け、小雨の中を歩き出していた。

 女はいつまでも義信の背中を見ていた。少しくらい振り返ってくれるかも、という儚い望みがあったが、その背中は遠くにいってしまい、見えなくなる。


しばらくして、女はピンクの傘を手許から落としてしまい、頬に涙ともしれない、雨の雫が滴り落ちる。

そして、女は、

「私は、あなたのなんなの?」

そう呟いていた。


     五、


―日々、義信は目立つことなく、八時のチャイムと同時に、寡黙に仕事を始め、五時のチャイムと同時に仕事を終える。

残業はやらなかったが、就業時間内は上から言われたことを守り、きっちりとこなす真面目な従業員、という印象を周りの者に抱かせていた。

母親を早くに喪ったのもあり、資金不足から中卒と学歴はなかったが、元々彼は頭と感が良く、仕事は出来る。

少し見ただけで、また少し体験しただけでも、大概のことを把握し、改善してしまうほどの能力の高さを持っていた。

 いつものように八時十分前、会社の入り口にあるタイムカードを通し、工場の中に入り、長く薄暗い通路を通って突き当りまで歩く。

油が飛散されているので、靴で歩くとネチャ、ネチャと気色の悪い音がする。

その先に地下へと続く階段があり、降りていくとロッカーがある。

そこで長袖の作業服に着替える。油の染み付いた作業服に袖を通すと、決まって吐き気を催す。

何度洗ってもこの汚れが取れることはないし、重くて、何よりも暑い。チャイムと同時に自分の担当する機械、プレスの前にいき、仕事に取り掛かる。


「後藤君」


背後から声がした。

 義信はその声がした方に視線を向けた。背が高く、少し腹の出た三十過ぎの男が視界に入った。

その男が急ぎ足でやってきた。班長だ。だが素知らぬ顔で自分の担当する四百トンプレスを起動させた。ガシャーン、ガシャーンと大きく、耳障りな音が反響するが、この音が俺にバリアを張る、と思えば苦にはならない。

「おい、」

やがてその男が、義信のところにやってきて肩を叩いた。

「後藤君」


「なんっすか?」

こうなればバリアの意味を成さない。

「今日、西条が休んだんだよ。そこで、急で、悪いんだが・・・・・・」

歯切れが悪い。男の妙に優しいその言葉、意味あり気な顔つき、それから口から漏れる鉄くさい臭い、それだけで嫌気を感じた。

「西条の担当する二百トンプレスを受け持ってくれないか?」

 予感的中だ。

「それでは、今私がやっているプレスはどうするんですか?」


「ああ、それはちょっと停めておいてくれ。生産予定には間に合っているし、二百トンの方が遅れているんだから」


「停める、って今日の分を打たないことには・・・・・・。もしかして残業しろ、ということですか?」

 男は何も言わなかったが、顔がそうだと肯いている。

「今日は済みません。用事があって、残業ができないんですよ」


「そんなこと言われても、こっちだって急な欠席者が出て、ローテーション組むのに困っているんだよ。

そこのところは、ちょっとはわかってくれないか」


「よりによって、今日・・・・・」

なるべく穏やかに言った。

「今日は大事な用事があるんです。どうしても抜けることの出来ない用事が」


「かといっても、君はいつも残業をしないんだから、たまにはやってもらわないと、こちらとしても困るんだよな」


「明日ならよかったのですが、よりによって、今日・・・・・・。いいでしょう」

義信は言った。

「今日残業をやる代わりに、明日一日休ませてもらえないでしょうか?」

 しばらくは沈黙が続いた。こいつの言いたいことくらいはわかる。

だが俺には他にやることがある。相手にとって、もっと不利益な提言を出してやったまでだ。

「それは、困る」

彼は根負けしたように言った。「じゃ、仕方ないが、田川にやらせるよ」

どうやら色々考えを巡らせても、俺を言い包める言葉が見つからなかったようだ。

「彼に任せるのは不安だが・・・」

男は、義信の顔を覗き込むようにして見た。

「だけど、君はいつも定時で帰って、その後一体何をしているんだ?」


「それは、言わなければならないですか?」


「別にいいが、さては彼女でもできたのかなって」

諦めたのか、次に嘲笑う顔を見せた。

「いえ」その嘲笑うお前と、喋る時間は、俺にはない。


「じゃ、一体何を?」


「私は中卒です。給料も安いし、普通の人とは違い、苦しい生活を強いられます。それはわかりますよね。

だから様々な資格を手に入れ、皆に追いつこうと考えているのです。いけませんか」

義信は、指で眼鏡を上げてみた。「先ずは興味のある英語。今度トーイックを受けてみようかと、勉強している最中です。

社会人でも留学する人の平均点は七百点です。それを超えることができたら、次はパソコン。ワードやエクセルなどの基本コンピューター利用設計システム、CADや 出版物のレイアウト、DTPなどのパソコン技術を使いこなすことは勿論―」


「そっか、そっか、ま、」

彼は踵を返すようにして、

「頑張って。でも会社は辞めないよな、そんな資格を習得したりしてさ」


「ええ」

相手が興味をもちそうにないことを、延々と語ってやれば、このように離れていくもの。

ところで、俺はもうすでにその英語も、パソコンも全て習得している。

資格を所得する、しないは別として、本を読み漁り、英語はトーイック満点九九〇点中、俺は八百点を超す。

パソコンの方は、今ではネット犯罪を手がけるハッカーとしての知識を独学で学び、裏社会ではそれなりの名を上げる程になっている。

 これから先、いつ何時、そのような知識が必要になってくるかわからない。俺には目的がある。

そのためにはいかなる場面にも対応できる知識が必要で、体力にしたってそう。だからボクシングをやっている。

しかし、今はそれを、その鍛錬してきたものを人に知られるのは賢明ではない。

だから自分の仕事をもくもくとこなしているに過ぎない。チャンスがあれば、いつでも動く準備は出来ている。義信は、指で眼鏡を上げた。


 義信は急いで名鉄の駅へ向かった。生暖かい秋風を頬に感じ、少し額に汗が滲んできたが走った。

 あれからまだ一ヶ月ほどしか経っていないが、こうなることが意外に早かったように思う。

あの暑い夏、スタバで出会ってからというもの、週に何回か会うようになり、土、日には何処かに出かけ、映画を見たりと、まるで恋人のような付き合いをしている。   

 名鉄と地下鉄を乗り継ぎ、指定した名古屋市、栄にあるシティーホテルに到着したのが、待ち合わせ時刻の九時を三十分も過ぎていた。

ホテルの中に慌てて走っていくと、フロントに待ちくたびれた顔をした瑠唯の姿を確認した。

彼女は、義信に気付くと瞬く間に顔が明るくなったが、それを知られたくないのか慌ててふくれっ面をつくってみせた。

「ごめん、ごめん。こんな時間になっちゃって」


「もう、待ちくたびれたぁ」


「お腹空いただろう? こんなに待たせちゃったから」


「ううん、大丈夫。義信は?」


「俺も大丈夫だけど、何か食べようか」


 瑠唯は可愛らしく肯き、もう甘えていた。フロントに何人かの人がおり、外人の姿も見かけた。

二人は身を寄せ合うようにレストランに入っていく。

客はそれほどいないので、ウエイターも暇そうにしていた。

「今まで、会社の人と会ってたんだよね、誰と会ってたの?」


「上司だよ」

義信は言った。

「飲みに誘ってくれたんだけどね。で、指定された店に行ってみると、案の定、君は、残業をやらないから、って小言を言われたよ、ネチネチと」


「嫌味な人だね。いるよね、そうゆうネチネチした上司」


「ああ。まったくだ」


「何処で飲んでたの?」


「豊田市の欄っていうスナックだよ。薄汚い店だった」


「拷問だね。根暗な上司と二人で」

「いや、でも、俺の考えていたとおりに、ことが進んだから。それはそれで・・・・・・」


「え、何それ?」


「何でもない」

そう、予定通りにことが進み、義信はいつにないほど上機嫌だった。

「機嫌がよさそう」

瑠唯は言った。

「教えてよ」


「サラリーマンにしかわからないことだよ」

今日は、俺のプランを進めて行く上で、重要な駒を手に入れることができたのだ。

「もう。思わせぶりにして・・・。気になるじゃない」

二人が窓際の席に落ち着くと、ウエイターがすぐにやってきたので、コース料理を頼んだ。

少し奮発したが、これも瑠唯のため。ウエイターが去ってから、彼女は水を口にした。

「今度、私アメリカに行くことにしたの」

反応を確かめたかったのか、少し悪戯っぽい顔で、見つめてきた。

 このことが言いたかったのだろう。先程のこと、上司と飲みに行ったことを、とやかく訊かれることはなかった。

本当は、もう少し粘ってくれても良かったのに、とは思ったが、これでいい。

余分な話をする必要はない。今は彼女とのことが重要なのだから。

「アメリカ?」


「驚いた?」


「いや、別に」


「友達と二人で行くんだ。前から約束してたからね。

でね、丁度その時は、兄貴もロスにいるんだけど、そっちでちょっとの間合流することにしたのよ」


「兄貴?」

顔を少し強張らせた。

「ああ、今度世界戦が決まったんだよね」


「うん。兄貴は、遊びじゃなくて、キャンプなんだけどね」

 ウエイターが注文の品を運んできたので、一旦話は中断。

先ずはスープ、それからサラダと続く。しばらく二人は、黙ってそのコース料理を楽しんだ。途中ワインを飲みながら。

こんな料理、普段は口にしない。サラダが新鮮で、シャキシャキと美味しく、全てが珍しくて、出される料理に興奮を覚え、それを必死で押さえ込むのに一苦労だった。

前菜とメインの肉料理に差し掛かってくる頃にようやく慣れてはきたが、肉料理の柔らかくて、噛むと肉汁が溢れてくるのには驚いた。

 この女は、いつもこんな料理に舌鼓しているのだろうか。

慣れた手つきでシルバーを操り、マナー良くコース料理を楽しむ様子に嫉妬した。

どうせお前らは何の苦労もなく、ここまで育てられた口だろ、と。

「私たち海外旅行は初めてじゃないけど、英語がヤバいの。この前、義信言ってたよね、少しは出来る、って。だから・・・・・・」

言葉が耳の奥に残った。瑠唯がアメリカに行ってしまう―。

しばらく考えた。やはり今日何とかしなければ・・・・・・あれも、そろそろだ。タイミングを逃せば、来月に持ち越しとなってしまう。

 そう、今から二週間前から始めて五日間。いつも瑠唯と会うようにしていた。

それは、今生理だと彼女から訊いたからだ。そして、ある目的を達成するために、瑠唯にクロミフェン製剤を飲ませていた。

それはホルモンの状態を整える目的を持ち、妊娠のチャンスを高める薬だ。排卵率は七十から八十パーセントに昇るとされる。

デート前に、その錠剤をハンマーで叩き割り、粉々にして、それをレストランで、飲食物にそっと気づかれないように混ぜて飲ませた。

なるべく味が濃いものの中に入れたため、少しくらい異物が入っていてもそう気づかれるものではない。

案の定瑠唯は何の疑いもなく薬を飲み続け、その五日間は過ぎていった。

「まあ、少しはわからなくもないが」

義信はそう答えた。

 あと、瑠唯がアメリカに行く前までに何回かヤルだけだ。飲んだらすぐに出来るというわけでもない。

ただ確立が高くなるだけの話だ。計画通りにいけば、今日辺りがいい。

「え?」

瑠唯の顔が薄っすらと赤く染まっていく。


「ん?」

その顔を見ると、自然に自分の顔も火照ってきた。


「え、あ、今日せっかくだから少し教えてほしいと、思っているんだけど・・・・・・」

 彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「今日って、もう遅くない?」

心配なのは、俺の理性を抑えられるかだ。


「大丈夫。お母さんには、直美の家に泊まるかもって言ってきたから」

 答えは決まっていたが、少しの間考えるフリをし、ジラしてみた。

「嫌なの? まだ義信の家には一度もいったことがないよ。

彼氏なんだから。連れてってくれてもいいのに・・・・・・」


溜まりに、溜まっていた今までの不満を、彼女は堰が崩れたように吐き出した。


「え、ああ、家はやめておこう。俺の家は豊田市だ。ここからじゃ遠い」


「いいよ、そんなの。私は・・・・ただあなたに英語を教わろうかと」

盛りの付いた猫のように、論理が合わなくなってきている。


「それじゃ、ここは?」

義信は上を指差した。


 瑠唯は顔を真っ赤にし、

「いいわ」

と一言、いうと恥かしそうに俯いた。男と女というものは、結局のところ好きになった方が負けだ。

だから大概のことに目を瞑る。若しくは、いや、きっと、自分の言った言葉に確証が持てなくなっているのだろう。

 イチゴのショートケーキにバニラ、そして、フルーツといったデザートを食べ終え、しばらく寛いだ後、伝票を手にし、レジに向かった。

「予約してあったんだ」

 義信は返事をすることもなく、歩いた。

「もし、私が帰ったら、どうするつもりだったの?」

 瑠唯は、義信の腕に抱きついてきた。


「一人で淋しく寝るだけさ」


「一人でね・・・・・・」

そして、彼女は、頭を義信の肩に寄りかけた。

清算を済ました後、瑠唯の腰に手を回しながらフロントに行き、部屋のキーを受け取った。

そして、キーを手にエレベーターに乗り込む。瑠唯は緊張しているようで、何も喋らない。

エレベーターを降り、廊下を歩き、部屋の前までやってくると、義信も緊張してきた。

初めてだった。こんな高価なホテルに女と一緒に来ることが・・・・・・。

 オートロックのドアを開けると、圧倒された。

高価なシャンデリアがあり、大きなテレビにふかふかの絨毯。

そこを歩くと、キングサイズのダブルベッドが目に飛び込んできて、頬というよりも、顔全体が高揚してきた。

近くには巨大な窓があり、燦々と輝くネオンの街を見渡すことができた。

ネオンが優しく波のように漂い、まるで夜の海にいるかのようだった。自然と目が合い、最初に瑠唯の方が照れながら俯いた。

「何か飲もうか?」


「それじゃ、ウーロン茶。ああ、でもいいか、今日は特別だから」


「特別?」


「そうよ。だって初めて、義信とお泊りするんだから。緊張してきちゃったな」

彼女の顔も高揚していた。

「今日はやっぱ、アルコールでも、もらおうかな。いい?」


「いいよ」

 冷蔵庫を覗き、取り敢えず赤ワインがあったのでそれを手にした。「これでいい?」

 瑠唯は肯いた。

 義信はワインと二つのグラスを手に、瑠唯が座るベッドに戻り、テレビをつけた。

ボリュームは少し小さく、何かが耳に入ってくればそれでいい。

下らないテレビ番組だったが、瑠唯はじっと見ていた。ふと、俺と横顔が似ているかもしれない、そんなふうに思った。

 瑠唯の頬にキスをすると、彼女は驚いた顔を向けた。

「英語はいつ教えてくれるの?」


「後で」

次は唇に軽くキス。

「シャワーでも浴びてくるよ・・・・・・。少し汗ばんでいるから」


 瑠唯は赤い顔を隠すようにして肯いた。


 シャワーを浴び終えると、瑠唯にも勧め、今は一人でベッドに裸のまま横になっていた。

目的がある。ただ瑠唯とセックスをすればいい、それだけではない。彼女を妊娠させる目的があるのだ。

コンドームにも、ちゃんと細工をしてきた。

 でも、本当にいいんだろうか。こんな事をしても―。

少し迷いが生じた時に、バスルームからタオルを身に纏っただけの瑠唯が現れた。

白い艶のある柔らかそうな肌。胸の膨らみに、ウエストの引き締まった、女を感じる曲線が暗闇の中で優雅に戯れていた。

「何を考えていたの?」


「君のことだよ」

これでいい。全てがプラン通りなのだから。


「どんなこと? フッフフ」

 瑠唯がベッドの中に潜り込んできた。


どうやら彼女は初めてではないらしい。そうであれば救われる、そんな想いとは裏腹に、正直、少し、嫉妬のようなものを感じていた。そして、洗い立てのシャンプーの匂いが我を忘れさす。

 その時―。 右腕にサワサワという柔らかい手の感触を覚えた。ビクンとした。

「触るな」

鳥肌が立ち、身体が強張った。


「え?」

瑠唯は慌てて手を引っ込めた。「どうして?」


 義信は、瑠唯を睨みつけた。

 しばらくは沈黙が広がった。


「義信って、いつも、長袖着てるじゃない」

瑠唯がようやく口を開いた。

「だから傷か何かがあって、それを隠すために長袖を着てるのかな、って思ってた。でも違った」


「え?」


「ね、何で長袖をいつも着てるの? 義信って、ただの寒がり?」


「いや、そうでもないが、ただ、夏でも日に当たりたくないから・・・・・・」


「へぇ。何か女の子みたいなこと言ってるね」


こいつは惚けているのか? 俺の両腕には、二年前についたミミズ腫れの傷が残っているはずだ。


なのにー それとも俺に気を遣っているのだろうか・・・・・・。多分そうだ。

 義信は、瑠唯の髪の毛を撫でてやった。

できるだけ腕に視線を移させないように。それがよかったのか、彼女は気分を直し、気持ち良さそうに目を瞑った。そして首筋に唇を這わせ、徐々に上へ昇り詰めていき、舌を絡め合って、口付けを交わした。

 右手で首筋を抱き、左手で胸を揉みしだき、キスをしながら瑠唯をベッドに横にさせた。

そして、左手をゆっくりと、曲線を確かめるよう下へ向かわせ、茂みの中に手を這わせた。

「あ・・・・・・ゴム・・・・・・持って、るの?」

彼女が濡れた声を出してきた。

「ああ、勿論」

義信は唇を歪ませた。

 様々なことが頭に浮かび、訳のわからない感情が頭の中に広がる。

遂に義信は、瑠唯の中に入っていく。

体は熱く、熱っぽく、それでいてとろけるような快感が背中を駆け抜けた。

揺れている。身体が大きく揺れていた。穏やかな波に身を任せ、揺れるのを感じた。

まるで海面に浮かんでいるようなこの感覚。潮の匂いがしたー。

身体が軽くなったような気がした。 

―だが、突然。頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。天国から地獄に突き落とされたように。

お前も、俺の母親のようになればいい。俺の母親は女としての楽しみや喜びといったことを知らず、お洒落だってすることなく、生涯を終えたんだ・・・・・・と、黒くて歪んだ、思い出したくもない感情が甦ってきた。やはりそうだ。

こうなると自分自身でいられない。 

気づくと義信は今、目の前にいる女の首を自分の両手で絞めていた。知らず知らずのうちに、自分でも抑制が効かず、欲望と理性が頭の中で闘い、力だけがそこから抜け出し、あらぬ所で暴れまわる。

お前も苦しめ、お前も苦しむんだー と心の中で唱える。


「く、くるしいよ・・・・・・」


 耳元でか細い声が聞こえてきた。急速に頭の中が冷めていく。


「ご・・・・・・ごめん」


 義信は慌てて、両手を放した。そして、その自分の手を見つめた。


「びっくりした。いきなり、首絞められんだもん。冗談でしょ?」


「ああ・・・・・・。ごめん」

勝手に動いていた。この込み上げる衝動。それは怒りからきたものなのか、それとも痺れるような感覚からきたものなのかは、わからなかった。

義信は、時々自分でも理性をコントロール出来ない時があるのを知っていたはずだ。今回も制する事は出来なかったようだ。

「義信、もしかして、Sっ気があるの?」

 義信は、自分のこの感情に理解できずにいた。風船の空気が萎んでいくように、ただ俯くだけで、瑠唯と目を合わすことさえできなかった。 

「今日のは、我慢するけど、私、その気ないからね。これからは、こういうのやめてよ。ほんと苦しかったんだから」


     六、


 十月の半ばに入ると、朝晩は肌寒く感じるようになった。

暑い夏のジリジリとする陽射しと違い、柔らかな風が頬を撫でるような、そんな心地良さを感じる季節になってきた。

 その中年の男の名は、佐竹則夫さたけのりお。眼鏡をかけた、インテリ風な顔をした、小柄の痩身タイプだ。

彼は十二歳になる息子の浩太こうたを連れ、デパートにやって来た。 

 三年前の四十三歳の時。前の会社で、二十歳下の女子社員と不倫関係を結び、細心の注意を払ってはいたが、それを妻に知られ、離婚を申し出された。

その不倫による離婚が原因で、今の中西工業に出向してきたともいえる。

部署は総務課で、役職は重役に留まっている。 

離婚調停時、財力のない妻が息子を引き取るといったが、佐竹はそれを阻止すべく、息子の親権を取るために精力を費やした。

妻に息子を取られれば息子の将来はない、そう思い、名の通った弁護士を用意し、裁判に力を注いだ。

その甲斐あり、家裁が親権と監護権を佐竹に与えている。 

 しかし、親権者でない親が、同居している子供を引き渡さなかった。

つまり別れた妻が子供を引き渡さなかったのだ。

そして、あいつは最後に多額の慰謝料を請求してきた。

だからあの男が言ったように、俺には金が必要だった。

こうでもしなければ、仕方がなかったのだ・・・・・・。そして、俺は、気づくと、会社の金を横領するようになっていた。

最初は五十万、それが上手くいくと百万、知らず知らずの間に莫大な金を横領した。

正直、それが公になるとは思いもよらなかった。だが、あの男に知られてしまったのだー。

 

名古屋駅にあるJR高島屋に佐竹は用があった。

それはある女と接触して、親密になることを指示されたからだ。

その女の名は中西光子。中西工業の現社長だ。夫の中西守を亡くして二年。今では買い物をすることが彼女の密かな楽しみだ、とあの男は言っていた。

佐竹は白のセーターに紺色のパンツ、まるで妻とはぐれた夫という感じで、アクセサリーや婦人服コーナーを廻っていたが、漠然と指示を受けただけで、困ってもいた。

具体的に何処で会えとか、彼女は必ずここに来る、ということを知らされていないのだから。

一体、あの男は何を考えているのだろう。男は言った。

詳しいことを話せば、あなたはこの作戦に失敗する恐れがある、だから何も知らなくていい。ただ私の指示に従っていればいい、のだと。


     #

「折り入って頼みがあります。それは社長の中西光子に接近してもらいたいのです」

 と彼は切り出してきた。

「彼女は週末決まって、名駅の高島屋に一人で買い物に行きます。

そこへ、あなたは子供と一緒に行き、先ずは彼女と親しくなって下さい。

前にも申し上げましたが私は、あなたが三年前に離婚したこと、裁判で息子さんを引き取ったことも知っている。

その子供を使えば、なんとかなるかもしれません。

女は子供に弱い生き物ですから。あとはあなた次第です。社長はいい女ですよ、ああ見えて。あなたはそんな社長を引っ掛ければいい。

例の事を公にされたくなかったらね。ま、せいぜい頑張って下さいー」


 日曜日のデパートは若者ばかりだ。男一人だけでは少し抵抗を感じただろうが、このように息子と一緒であれば左程、気になることはなかった。

浩太と共に四階にあるスポーツ用品店に行くと、沢山のお客で賑わっていた。

入口で野球のバットを持ち、品定めに忙しい小学生の子供に、何やら指示を出す父親。

その隣でサッカーボールを床につく小学生の息子を叱る母親。

あるいは、ランニングシューズをじっくりと選んでいる女子高生に、ナイキの上下のジャージを手に、レジに向かう中年男と。

店は様々な人で賑わっていた。佐竹のように父親と子供だけの姿もある。 

 そんな中、浩太は興味深そうにスケートボードを眺めていた。

一つくらい買ってやろうか、そんなことを思いながら、浩太の肩を叩いた。

「お父さん。ちょっと喉が苦しいんだ」


「大丈夫か?」


「うん。いまのところは」


「吸入器は持っているな? 発作が出たら、使うんだぞ」


「うん。それより、」

浩太はデイスプレーに飾られた黒色のスケボーを指差した。

「これ、ずっと前から欲しかったんだ。ね、ねぇ、お願いだよ、買ってよ」


 佐竹は肯いた。これくらい、いいだろう。俺に付き合ってここまできてくれたのだ。

「仕方ない、買ってやる。でもそんなに長い時間はやるんじゃない、お前は喘息もちなんだからな」


「イエッス!」

浩太はガッツポーズをして喜んだ。

「わかってるよ、そんなこと」


「本当にわかってるのか」

あどけない息子の笑顔を見ながら、佐竹は次に何処へ行くか迷った。

「ほら、レジにいくぞ」


 そんな時だ。レジで清算をしていると、女の姿が視界に入った。

なんと、自分が探していた女が、様々なところに視線を巡らしながら歩いて来るではないか。

「あら、佐竹さん」

中西光子も気づいた。白のブラウスに紺色のカーディガン、そして、緑色のスカートを履いていた。

顔をよく見ると、メークが少しばかり派手な気がした。会社で見る彼女と違い、垢抜けている。


「こんなところで、偶然ですね」

佐竹は眼鏡を少し上にやり、テレを隠した。


「ええ。お子様ですか?」

彼女は、浩太に目線をやった。「こんにちは」


「こんにちは」

佐竹も浩太を見、

「ほら、挨拶しなさい」


「こんにちは」

しかし、浩太の方は父親に目をやり、しぶしぶといった感じで中西光子に挨拶をしたが、恐らくこの子は人見知りもあり、恥ずかしいのだろう。

「お名前は?」 


「佐竹浩太です」

浩太は正しい姿勢をしたまま言った。


「小学生?」


「はい」

光子の優しい笑顔に、ドキリとしたようだ。前の母親はいつも何かにイライラしていたのもあり、対応に苦労しているようだった。

「六年生ですよ」

佐竹は言った。

「ここにはよく、見えるのですか?」


「ええ、大体日曜日には。あれ、確か佐竹さんは豊田市にお住まいでしたよね」


「ええ、まあ」

佐竹は、曖昧に答えた。

「今日は久しぶりに名古屋にでも行こうかと思いましてね」

そう言いつつ、横にいる浩太の異変に気づいた。

咳をしている。喉がいがらっぽいようで、少し苦しみ出していた。

人が沢山いるため、埃にやられたのだろう。


「あれ、どうしたの?」

光子が心配そうに、浩太の額に手をやった。

「熱はなさそうだけど、顔色が悪いわ」


「どうした?」

佐竹は、浩太の顔を覗き込むように心配した。

「また、喘息が出たみい・・・・」


「ポケットの吸入器は? ほら、出してごらん」

横目でちらりと光子を見ると、心配そうな顔を向けている。

「大丈夫ですよ」

息子のズボンのポケットをまさぐりながら言った。

「この子は喘息持ちで。二年前に入院したのですが、その当時と比べると少しは良くなっているんです。それに今では病院から、ほら、」

佐竹は、息子のポケットから白い吸入器を取り出した。

「吸入ステロイドです。気管支の緊張を緩め、狭くなった気管支を拡げて空気の通りを良くし、呼吸を楽にする働きがあります。これがあれば、なんとか治まるんです」

 そして、息子の口にそれを押し込みながら言った。

「ほら、大きく息を吸い込んで」

 浩太は深呼吸をするように吸入器からエアーを吸い込んだ。

「喘息は気管支に炎症が生じて、気道が狭くなり、呼吸が苦しくなる病気です。

原因はアレルギー体質の他、ダニ、花粉、カビ、煙草の煙、排ガス、ストレスなど様々の要因が絡むと言われています。

発作が酷い時には、死亡する時もあるんですよ」


「大変な病気ですね」

光子の心配そうな顔。そんな彼女の顔と、それから徐々に楽になっていく息子の様子を交互に見た。


浩太の身体も心配だ。だがこの薬をやれば今までは大概良くなった。それより、彼女といきなり親密になれたことが有難い。これも息子のお陰だろう。

「大分楽になってきたよ」

案の定、浩太に笑みが戻ってきた。

 光子はそんな浩太を見、ほっと胸を撫でおろした。

「良かったわね。もう苦しくないの?」


「うん、大丈夫。この吸入器をやれば、嘘みたいによくなるです」


「よかった、よかった」

佐竹も一安心した。

「喉渇かないか?」


「うん」

浩太は肯いた。

「お父さん、ジュースが飲みたい」


「そうだな」

佐竹は、光子を見た。

「発作が出ると喉が渇くんですよ。もし良かったら・・・・・・一緒に喫茶店で、お茶でもしませんか?」


光子はしばらく考えてから、

「ええ。連れもいませんから、喜んで」

と答えた。


 佐竹は自分の思っていたよりスムーズに事が運び、思わずほくそ笑んだ。

やはり子供がいるということは、使いようだな。三人はエレベーターに乗り、十二階にあるファミリーレストランに入ることにした。

日曜日ということもあり、多くの客で賑わっていた。それも若年層が中心だ。

一体自分たちは彼らにどのように見られているのであろう。父親に息子。それから女房・・・・・・。自然と頬が緩んだ。

「どうかしました?」


「いや、べつに」


 光子にそれを見られ、一瞬どうしていいかわからず、下を向いた。妻と別れ、三年もの間、女っ気なく、生活してきたのだ。

確かに飢えている。今になってそれを感じる。

「浩太、購入したスケボー、ちゃんと持って、落とすなよ」


「うん」

浩太は、嬉しそうにスケボーを抱きしめていた。


「なんだか会社にいる時の佐竹さんとは、全然違う気がします」


「そうですか。普段からこんな感じだと思いますが」


「フフッ」


上品な微笑だ。佐竹も微笑みながら、最初は子供の話をした。

浩太が入院したことを話すと、彼女の夫と同じ時に、しかも同じ病院にいたことを知り、奇遇ということから話は進んだ。 

だが彼女は、夫に先立たれた経緯から最後はどうしても暗い顔になっていく。

まだ二年しか経っていないのだからしょうがない。それを察知すると、終始和やかな会話をするよう心掛けた。週末は何をするのか、どんなことに興味があるか、あるいは常に会社のことだけを考えているのか、などを。

話を聞いているうちに自分と似たような環境にあるのだな、と思った。お互いが淋しかったのかもしれない。だから同じ会社にいるということで、話が盛り上がったのだろう。

佐竹は、彼女と話しているうちに知らず知らずの間に、魅かれていくのを感じた。

「私、」

そんな時、光子の言葉で我に返った。

「最近ちょっと太ってきたように思うんです」


「え?」

佐竹は、彼女を見た。

「そんなこと全然ないじゃないですか」


「服の中が太っているからわからないんですよ、外からは」

 彼女は苦笑いを浮かべた。

「それはそうと佐竹さん、昔言っていたじゃないですか」


「なんと言いましたか、覚えがありませんが」


「佐竹さんが一時期、昼休みにマラソンをしていた頃のことですよ」


「まあ、そんなこともあったな」

佐竹は天井を見上げ、昔を思い出した。

「今じゃ、やっていませんがね」


「ほら、あの時、私にこれでもスポーツマンの端くれだからって、いったじゃないですか」


「ああ、そんなこともありましたね」

佐竹は苦笑いした。


「私趣味も何もないですから、この際スポーツでも始めようかと思っているんです。

丁度いい機会かなと思って。何がいいですかね。痩せられるスポーツって」


「んー何でしょうかね。私はたまにテニスなんかをやりますが、あれは結構いい運動になりますよ」

佐竹は足を組んだ。

「もし良かったら、今度一緒にどうですか?」


「え?」


「実は私、足田の方によくテニスにいくのですよ。そこには景色のいいコートがあるのですが、どうですか、一緒に? 気分転換になりますよ」


「テニスですか・・・・・・」


「大丈夫です。私が教えますから」


「でも・・・・・・」


「スポーツは楽しむものです。上手いだとか下手だとかは関係ありませんから」


「そんなことじゃないんです」

光子は辺りを見渡し、恥かしそうにした。


「ああ、そうそう。もし会社の人に見つかったら、なんて思っていませんか? 

それでしたら大丈夫です。あんなところで中西工業の人に会ったことはないですから。何しろ遠い」

ちょっと強引すぎやしないか。俺の悪い癖が出てしまったようだ・・・・・・。


「違います。本当は、テニスをやると主人のことを思い出しそうで・・・。

実は私、大学の時に、テニス部に入っていましてね、そこで主人と出会ったものですから。

だから、その、思い出が詰まっているんです、テニスには・・・・・・」


「そうですか。残念です。無理やり誘ったりして済みませんでした」

佐竹は少し残念そうに項垂れた、というより恥ずかしくなってきたのだ。

年甲斐もなく・・・。俺の悪い癖だ。こうなると収拾がつかなくなる。


「そんなこと・・・。お気になさらないで」

 

 日が陰り始めるのが早くなったのか、家に着く頃にはすっかり暗くなり、肌寒さを感じた。

あの男に言われた指令。中西光子に接近して、親しくなれ。

これからどうするのか。また来週、白々しく高島屋に行くか?  

どの面、どんな理由を引っ提げて行けばいい、というのだ。とにかく、会社では社長と重役の関係だ。あの男は、俺に男と女の関係になれとでも、いうのだろうか。

わからない。一体この先どうなるのか。佐竹は様々な思いを頭の中で巡らせた。

―突然、何の前触れもなくそれは現れる。


「どうでしたか?」


浩太と共に家の中に入ろうとした時、玄関先で大きな男が立っていた。大きいわりには存在感がないので、びっくりとした。

「ずっとここにいたのか?」


「いや、今さっきですよ」


「ずっと尾行していたのでは・・」

心臓が止まるのではないか、と思った。

「そんな悪趣味はありません。ま、それはあなたのご想像にお任せしますが」

紺色のジーンズに黒の薄手のジャンパーといった格好の後藤義信が立っていた。


やがて、浩太がいることに気づき、視線を向けた。

「あっ・・・・・・」

浩太が短い声を発し、そして、慌てて口を塞いだ。

そんな息子の様子が気になったが、今はそれどころじゃない。


「ん、どうした? 小学生かい」

義信が、浩太に近寄った。

「何年生だ?」

 様子がおかしい。明らかに浩太は、この男を恐れていた。

膝がガクガクと小刻みに震えている。佐竹は自分の息子を、背中に隠すように遠ざけた。

「何もしないですよ。それより早く家に入れて下さい。こんなところで立ち話なんかしていると、かえって近所の人に怪しまれますから」

義信は、声を落して言った。

 

 招かざる客を家の中に入れると、どちらの家なのか、またどちらが上司なのかわからないくらいに彼は、ふてぶてしく、ふんぞり返っていた。

「浩太はもう寝なさい」

佐竹は危険な男から、遠ざけることにした。

「はい」

浩太は素直に返事をし、洗面所の方へと向かった。

「あの子、なかなか使えたでしょ?」


「どういう意味だ?」


「見たところ、ひ弱だ」

彼はビールを一気に飲み干した後、大きなゲップをした。

「そんな子供がいれば、女というものはそう拒否はできない。それにあの女は相当な男好きだ。

過去何回か会社の人間と不倫している。ここだけの話だがな」


「君は何を考えているんだ?」


「前にも言ったじゃないですか」

彼は溜息をついた。

「それを言えば、きっとあなたは失敗する、と」


「だから、何を失敗するというんだ?」


「ま、いいでしょう。この話は私の気分を害する。そうなればあなたにもよくないことです。

止めましょう。いいからあなたは、今日あったことを全て話して下さい」

佐竹は溜息をついた後、仕方なく、今日あった出来事を、きめ細かく説明した。

だが緊張のためか途中、トイレに行きたくなったので、席を外す。

やっかいなことになった。これから俺は、この男にこんな風に、ずっと監視されなくてはならないのか。

そもそもなぜ、横領の件がこの男にバレてしまったのか不思議だー。

トイレから戻ってくると、彼が部屋の中を歩き回り、様々な物に、勝手に手をつけている姿を見かけた。

やがて佐竹に気付くと睨んできたが、すぐさま顔色を変えた。

油断も隙もありゃしない。一体何を考えているんだ、この男は。

「いい電化製品が並んでいたので、色々と見させてもらっていました。

私は電化製品オタクでしてね、ま、そんなことはどうでもいい。

それよりも、これからのことを話し合いしましょうか。では掛けて下さい」

彼は次にどのように動けばいいのか、指示を出しながら思う存分寛いだ後、ようやく帰っていった。

気づくと、部屋に飾っていたお気に入りの年代物のウイスキーが開けられていた。今更どうしようもない。後の祭りだ。

 部屋の中がシーンと静まり返っていた。張り詰めた緊張の糸が緩み、佐竹は頭を垂れ、弛緩した。

しばらくは動くことができない。浩太の様子を確かめようと立ち上がりかけたはいいが、腰が砕けたように倒れ、自然と、微睡の中に落ちていった。


 えらいものに引っ掛かったようだ。

蛇に睨まれた蛙のように、委縮するばかり。どうすることもできない。

あの男に弱みを握られ、何も言えやしない。動くことも、ましてや拒否することも。

まるで遠くの山奥に連れて来られた小学生だ。

 俺の人生、一体何処で、何を間違え、こんな迷路の中に入り込み、苦しむことになったのか。

人生、駄目になるのはいつだって女だ。女というものは、男の足を引っ張ることしか考えていないのだろう。

その魔物に手を出さなければ、こんなことにはならなかった。一時の快楽に身を委ねたばかりに。今、後悔しても遅い。それは分かっている。でも・・・・・・。


―どれくらい眠っていただろう。物音を感じ、目が覚めた。居間に誰かが入ってきたのを感じた。

意識が混沌としながらも、浩太の顔を確認することができた。

「どうした?」

眠い目を擦った。

「今何時だと思っているんだ」


「うん、なかなか眠れなくて・・・・・・」


「また喘息でも出たのか?」


「違うよ」

浩太は俯いて、ドア口に突っ立っていた。

仕方なく、佐竹は重い腰を上げ、ソファから起き上がる。体がソファに根付いたように身体が重かった。


「さっきの人、誰?」

息子は俯いたままの状態で、少し震えていた。


「会社の人だよ」

佐竹は、ようやく浩太の前にいく。

「あの人の前では言えなかったけど、僕、さっきの人、病院で見たことがあるんだー」



七、


 この場には、遊びに来たのではない。キャンプに来たのだ。

徹底的に身体を虐め、鍛え、そして、強い選手との実戦練習を行うためにやって来た。現役世界チャンピオンとの激しいスパーリングに、連日ハードなトレーニング。

それらに根を上げそうになるが、世界戦に勝つためには、避けては通れぬ過程であることを知る。

体がパンパンに張り、そこらじゅうが筋肉痛で、身体が悲鳴を上げている。

だからホテルにいる時にはなるべく身体を休ませるよう心がけている。

せっかくのアメリカだが世界戦を控える身だ。

下手に動けば疲れるし、本格的な食事制限はまだ先だが、外に出ると喉が渇き、腹が空き、無駄な物を口に入れてしまいかねない。こうしていることが賢明だ。

 

 ―今朝。瑠唯が友達と共にロサンゼルスにやってきた。一週間バカンスを楽しむ、ということで、早速ツアーに参加したようだが、前々から夜遅くに出かけるな、と言っておいたのに、まったくあいつときたら、俺の心配をよそに遊びほうけている。

ふと時計に目をやった。瑠唯の奴、遅いな。


「夜のロサンゼルスを一望できるナイトツアーに参加する。そして、帰ったら必ずここに顔を出す」


と言ってはいたが、もう夜の十時を過ぎている。どういうことだ。心配になってきた。

いい気なもんだ。こっちは何処にもいけず、練習に明け暮れる毎日。世界戦を控え、ナーバスになっているにも関わらず、昔から、あいつは空気が読めない、というのか・・・・・・。無神経な女だった。

 瞼が重くなり、うとうとしてきた頃に、ドアを激しくノックする音で目が覚めた。英二はベッドから起き上がり、頭を掻き毟りながらドアを開けた。

「ごめん、ごめん。もう寝てた?」

瑠唯がやや高揚した顔で、中に入ってきた。

「チョーヤバい! まるでね、」

天井を見上げた。そこには空が広がっているようだった。

「宝石を夜空に散りばめたようで、綺麗だったよ。ほんと良かったんだから。

それでね、ガイドが写真を撮ったらいけない、って言ってたのよ。だって操縦士の目に、光が入ると眩しいからってね。

でも、ちょっとくらい、いいかなってスマホで撮ってみたら、思いの外、光っちゃってて、それで睨まれたのよ。もう怖かった。あの時はどうしょうかと思ったわー」  

瑠唯は笑みを浮かべていた。


「お前な、俺がどれだけ心配してたか、知ってるか?」

英二は舌打ちした。

「あれほど夜の街は危険だって言っておいたのに」


「だってツアーなんだよ」

瑠唯は少しムッとし、口を尖らせた。

「ちゃんとガイドだっていたし、ホテルまでこうして送り届けてくれたのよ。何が危険だって言うの」


「ここはアメリカだ。犯罪の街ロスなんだぞ。何が起こるかわかったもんじゃない。

いいか、この辺りはビジネス街で、夜は昼間と違い、誰一人としていない、そうだろ。

だからゴーストタウンなんて言われているところなんだぞ。それを、お前・・・・・・」


「それはわかったから。もう、おにぃ、まるでお父さんみたいだよ」


「ああ、そうだ。それのどこが悪い。父親を亡くしてからは俺が代わりだ」


「はぁあっ」

瑠唯はうんざりしたように、溜息を漏らした。


「何が不服だ?」

英二は眉間に皴を寄せ、眉毛を吊り上げた。

「それに、お前、ここに何しにきた? 」

と言い、ベッドに腰掛けて足を組んだ。


「観光だけど・・・。おにぃ、今一人暮らししているでしょ。

だから、あまりこうやって話しをする機会がなくなったから、丁度いい機会かと思ってね。お母さんもいないし・・・」


瑠唯の顔が突然、雨雲のように暗くなったような気がした。

「どうした?」


「実は話しておきたいことがあるんだ。

本当は、私もこんなところに来る身分じゃないけど、一年も前から友達と来よって約束してて、予約も早めに入れちゃってたの。

だからしかたがなかったのよ・・・」瑠唯は髪の毛を掻き上げ、溜息をついた。

 英二は、そんな瑠唯の表情を眺めていた。

「会社のことなんだけど、お母さんにはちょっと荷が重いかな、会社経営。今微妙な状態。赤字らしいし。それでお母さん、とても苦労してるの。自分では一言もいわないけど私にはわかるんだ」


「もしかして、潰れるのか?」


「そこまでじゃないみたいだけど。一つの要因として会社の帳簿がまるっきり合わないみたい。今度内部監査を入れるらしいんだけど」


「どうして?」


「はっきりしたことはわからないわ。でも、会社の中で誰かが横領しているみたいなのよ。

ひょっとしたら一千万円にもなるんじゃないかな」

瑠唯は腕組みをした。

「架空の接待や、カラ雇用にカラ出張。それらもろもろのことが重なり合っているらしいの」


「母さんに訊いたのか?」


「ううん」

瑠唯は首を振った。

「母さんが言うわけないじゃない」


「じゃ、何で、働いてもいないお前がそんなことを知っているんだ?」


「実は、おにぃに言わなければならない、と思っていたんだけど私、彼氏ができたんだ」

先程までと違い、瑠唯の顔に光が差す。

「何?」

英二は思わずベッドから勢い良く立ち上がった。


「二ヶ月くらい付き合ってるんだけど。彼ね、うちの会社で働いてるのね。だからその話は彼から訊いたのよ」


 思いがけないことを訊き、頭の中を整理しようと、まずは落ち着くことに努めた。

瑠唯も年頃だ、彼氏ができてもおかしくない。今まで何人かの男と付き合っていることは知っている。だが・・・・・・。

「どんな男なんだ?」


「あ、おにぃ知ってるよ、きっと」


「何?」

思いもよらぬ言葉に、身構えた。


「だって十和ジムにいってる人だもの、彼」


 英二は眉間に皴を寄せた。俺の知らないうちに・・・・・・こいつは。何処で出会ったというのだ。

「名前は?」


「後藤義信っていうの、知っている?」


 ―喋るのも忘れた。その男のシルエットが脳内に広がる。

「―そんな男、知らんな」

 そう口にするのが精一杯だった。

 しかし、英二はその男のことをよく認識している。

なぜなら時々そいつの視線を、背中に感じることがあったからだ。それと、随分前に、こんなことがあった。

―ジムで階段を降りようとした時だ。後ろから突然衝撃を受け、前のめりになった。危うく転げ落ちるのをなんとか体勢を整え、堪えた。

後ろを振り返ると、背後に大きな男が立っていた。

それが奴だった。奴は、なぜあんな狭いところで急いで階段を降りなければならなかったのか。

少し待っていれば、そんな危険なことにはならなかったのに。今でも思う。あいつはしきりに謝ってきたが、あの時の目、普通じゃなかった。ある意味、殺意を持った危険な目をしていたような気がした。

今まで直接関わったことはないが、英二は昔から知っていた。あいつが中西工業で働いていること、そこでウロウロしていたことを。

その時に見た、あの暗く沈んだ目、第一印象から嫌な目だと思っていた。

「そう、じゃ時間帯が違うのかな」

だが、瑠唯はそんな英二の様子に気付かない。

「おかしいな。同じジムなのに」


 こいつはその男とどうするのだろう。そして、どうしたいのだろうか。今、ここで妹の話を訊き、英二の中で、自分でも不可解な黄色の信号が灯り出しているのを感じていた。


八、 


閑散とした住宅地の中に、立派な白い二階建ての家。

そのすぐ裏に老朽化の激しい、今にも傾きそうな棟割り住宅がある。

そこに義信は住んでいた。このボロアパートに二ヶ月前に引っ越してきたのだ。なぜならその白い建物には、佐竹が住んでいる。

 みすぼらしい義信の部屋は六畳一間。そんな狭い部屋でも大鏡を置いている。

それは自分の鍛え抜かれた体を確認するためにだ。その大鏡の前でいつもの日課をこなす。腹筋二百回。背筋百回。

そして、両方の指先を外側へ向け、脇を絞めて腕立てを二百回。こうすることにより背筋が鍛えられ、パンチ力がつく。

一通りの日課をこなし、上半身裸の背中を見ると、自分でも惚れ惚れするくらいに筋肉が発達している。割れた腹筋に、盛り上がった上腕二頭筋。

幼い頃から強い男に憧れを抱いていた。自分でもナルシストだとは思う。自分が一番好きであり、また自分しか信じない。

それに人が上にいることを嫌う性格だ。だからあの男が気に入らない。絶対にあいつだけは、何としてでも引きずり下してやる。


 タオルで顔を拭い、冷蔵庫から缶ビールを取り、プルタブを引いて飲んだ。冷えた液体が喉を伝い、胃の中に染みていく。そんな時だった。

「こんばんは」

突然女の声が聞こえた。最初は遠くの方で、まるで鈴虫が泣いているような声だった。

「こんばんは」

今度は男の声だ。段々と近づいてきた。

 タイミングよく中西光子から佐竹の家に電話がかかってきたところだ。日によっては何もないこともある。

「―先日はどうも ー有り難うございました。楽しかったです」

 女の声が聞きづらい。

「私もです。浩太なんか、すっかり社長に懐いちゃって、というか喋り方が砕け過ぎというのか。でも本当に済みませんね」


「え?」


義信は初めて佐竹の家に訪れた時、部屋に盗聴器を仕組んできた。受信距離は百メートルから四百メートルといわれている。 

「いえ、マフラーなんか貰ってしまって」


「ああ、あれね。いいんですよ。たまたまバーゲンセールで見かけたものですから。気に入ってくれましたか?」


「浩太のやつ、気に入って早速首に巻いています。それを見てると、何ていうか、私も嬉しいです」


「良かった」


「それで、是非お礼がしたいと思っているのですが―」


「やだ、お礼だなんて。そんなに気を使わなくていいですよ」


 そこで佐竹は少しあらたまって言った。

「今から会えませんか?」


「え? 今からですか?」


「ええ。都合がつかなければ、無理にとは申しませんが・・・・・・。実は、少し、明日の仕事の件で相談がありまして、」


「相談? 月曜日の経営会議のことですか」


「ええ。そうです。具体的に申しますと、二十日に購入した設備の件です。あれをなぜアイユー産業から購入したのか。

公表を控えてほしいのです。なぜなら公になれば・・・。社長も我が社の帳簿が合っていないことは知っていますよね」


「それはわかっていますが・・・事実を公表しなくては、経営会議ですから」


「それは、そうですが、混乱が起きますよ」

佐竹は声を落した。

「安心下さい。私が何とかします。ですから、ぜひとも今晩中に意見交換、摺合せをしておきたい、と思いまして。

社長にも耳に入れておいてもらわないことには、話しも進めません」

 それを耳にして、急いで服を着た。パソコン台からデジカメを引っ掴み、それから小型テレビの前にあるテーブルから車のキーを手にした。

計画通りだ。俺の指示通りに奴は動いている。義信は、笑みを浮かべた。


その時。また電話が鳴った。


 佐竹宣夫は出かける準備をした。息子の浩太は既にベッドに向かったので、起きてくることはない。

起こしてしまうのは悪い気持ちと、後ろめたさもあり、何も言わずに出かけることにした。

 しかし、ドアノブを捻ったその時、電話のベルがけたたましく鳴った。何だろう、言い忘れ?

「はい。佐竹です」


「豊田署の板垣と申します」


 警察? ゴクリと唾を飲み込んだ。


「夜分遅く、申し訳ございません。七時頃にも電話したのですが、御在宅ではなかったようで。

実は、少しお伺いしたいことがありまして電話をしたわけです。今、時間は宜しいでしょうか?」


 呆然とした。警察? なぜ? 自分が悪いことでもしたのか。もしや、あのことが―。 

短時間の間に様々なことが頭を過り、不安が募った。

「突然そうおっしゃられても・・・・・・」

取り敢えずは、相手の出方を窺う。


「今は都合がつかないと?」


「いや、そうではありませんが・・・・・・」

少々どもってしまった。

「今から出かけなくてはならないので」


「どのような用事で?」


何と答えていいものか・・・。

「あ、これは失礼しました」

刑事は続けた。

「それでは五分だけでもお時間を頂けませんか?」


「はあ、どのようなご用件で?」

断れない雰囲気があった。

「実は二年前にも一度お伺いしたと思うのですが・・・」


「二年前?」


「ええ。二年前増井病院で、当時四十六歳でお亡くなりになった中西守さんについてです」


「ああ、思い出しました」

佐竹は受話器を左手に変え、強く握り締めた。

「うちの社長をしていた者です。確かその病院の医療事故で亡くなった事件でしたよね」


「まあ表面上はそのように」

刑事は少し言葉を濁した。

「その時期に、あなたの息子さん、佐竹浩太君当時は十歳、その増井病院で、入院していましたよね。喘息でしたかな?」


「ええ。その件は二年前にも話したはずですが」

受話器を握り締めた手が、汗ばんできた。

「ええ。私は個人的にあの事件が病院側の過失だけではない、と踏んでおり、単独で捜査を続けておりまして、当時の増井病院のスタッフ、それから入院患者を、再度、話しが訊けないものかと、尋ねているのですよ。

ですから、もう一度会わせてもらえないでしょうか、息子さんに?」

 悩みの種を解決すべきことが、自ら出向くこともなく、向こうからやってきた。

高速で脳を回転させ、考えを纏める。時間は止められないのだ、そう実感した。

「わかりました。では月曜日の午後八時なら都合がつくと思います。

それで宜しいでしょうか。きっと有力な証言が得られると思います」


「有力な証言?」

刑事は少し間を置いた。

「ええ、結構です。では月曜日の午後八時にそちらに伺いますので、宜しくお願いします」

 約束を交わし、電話を切った。突然刑事から電話が掛かってきたことに驚いたが、息子の話を訊いた時からずっと、まるで魚の骨が喉元に引っ掛かったようなこの問題が、解決するのかもしれない、と思うと嬉しさが込み上げる。

 刑事と会えば・・・。俺は、あの蟻地獄から抜け出すことができるはず。

後藤義信、これでお前の勝手はさせない。息子の有力な証言により、お前を葬ることができる。

お前はもう終わりだ。月曜日に刑事がくる。その時に俺は、全てを話す。

でも、これは慎重にことを進めなければ、えらいことになる。

自分の身に災難が降りかからないとも限らない。

刑事が後藤を調べれば、俺に捜査が廻る恐れもある。

二日後の月曜日まで、時間を稼ぎ、慎重に考えるのだ。どうしたら自分が無傷のまま、あの男を警察の手に引き渡せるのかを。


九、


その日の朝は晴れていた。

十一月に似つかぬ、暖かい陽気で、思わず欠伸が出そうな天気だった。

佐竹は七時四十分に会社に到着し、白い壁の南館、その二階にある席に腰を降ろした。

入口から左手の奥が自分の席となっている。サイフォンで淹れたコーヒーを手に取り、飲もうと、マグカップに手を付けたと同時に電話が鳴った。

事務員の女が受話器を取り、佐竹の顔を見た。

「日本精機の前田様です。保留二番でお願いします」


「はい?」

受話器を取ると、窓から差す光が薄れ、暗くなったような気がした。

「佐竹か?」


「ああ」

聞き覚えのある声。日本精機の時の同僚だ。

「前田か?」


「ああ」


「久しぶりだな、どうした?」


「お前、どうした、じゃないぞ」

マグカップを大きく揺らし、コーヒーを零してしまった。

前田とはプライベートの付き合いがなく、あくまで同僚としての付き合いだ。それなのになぜ、ここに電話をかけてくるのか不思議だった。 

「いいから中西工業のホームページを見ろよ」

前田の声がいやに高かった。

「今日な、中西工業の製造方法について調べたいことがあって見たんだが、あれは本当か?」


「どういうことだ?」

外を見ると、先程までの空が嘘のように、厚い雲に覆われていた。


「やはりまだ見てなかったか。いいからすぐに開けてみるんだ。今あるお前の状況が、更に悪くなることが載っている」

と前田は言い残し、早々電話を切ってしまった。

 早速佐竹は、そのホームページを開く。

ただ事ではない。あいつがわざわざ電話をかけてきたのだ。


一体何が載っている―。


焦りが背中を押す。パソコンがなかなか立ち上がらない。

時間が経つのを長く感じ、もどかしい。

落ち着くために周りを一度見渡した。そして、再び画面に目を戻すと、目が点になった。

その後、思いの外瞬きを何度も繰り返した。掌が湿り気を帯びた。


なんと、その画面には光子と自分の写真が仲睦まじそうに、でかでかと映し出されているではないか。

わなわなと小刻みに震える己の身体。背中から溢れ出す冷や汗。顔が熱く、赤くなっていく。


そんな時だ。背後に人気を感じたので、慌てて振り返ると、事務の若い女が青色のファイルを片手に立っていた。よりによって 今・・・。

彼女は探るような目で、こちらの様子を窺っている。

怒りが込み上げてきた。顔が、自分の抑制しようとする意思とは裏腹に引き攣っていく。目が釣りあがり、口元が引き締まり、その後、歪んだ。

佐竹は、後ろにいる女を睨み、舌打ちした。未だ彼女は突っ立っていた。そして、よりによってそのパソコンの画面を見つめているではないか。

女という生き物は、なぜこれほどまでに好奇心が強いのだろうか。

「何をしている?」


「あ、あの昨日用意しておけ、と言われた資料をお持ちしました・・・」


 ホームページを隠すようにし、女の前に立った。

「そこに置いて、早く行け!」

 女は慌ててファイルを机に置き、逃げるように去っていった。

もう一度そのホームページを見た。その画面には、土曜の夜、名古屋市内のラブホテルから自分が光子と揃って、出てくるところが映し出されていた。

こんなものは記憶にない。だがこれではどうにも言い訳などできない。

 あいつだ。絶対にあいつだ。俺と社長がさも二人してホテルから出てきたかのように撮った写真を、ホームページ上に載せたのだ。

勿論、合成だ。こんな所にはいっていない。だが、奴は何らかの形で写真を合成させ、会社のホームページを勝手に書き換えたのだ。

 あいつは、中西家に恨みを持っている。それは事実だ。二年前に、増井病院で中西守を殺したのは奴だ。

そして、今度はじわじわと俺を将棋の駒のように動かし、光子に攻撃を仕掛けていく。

ひょっとすると、奴は会社に恨みを抱いているのだろうか。

なぜ奴は、中西家、若しくは会社を恨むのだ? 

調べてやる、絶対に。そう、警察を使ってでも、な。佐竹はホームページを閉じ、急ぎ足でその場を離れた。


 長い時間が過ぎ去り、やっとのことで昼休みになった。

 周りを気にしながら、食堂で定食を運び、席に座るが、まったく食欲がない。

本当は、別の場所で食べようとしたが、いつもと違う行動をとると、余計に注目を浴びるのではないかと思ったし、それよりも状況を確認しておきたかった。浅はかな望みではあるが、まだ誰もホームページを見ていないことを願い・・・。

 佐竹は大概一般従業員より早く食堂にくるので、席は空いているが、五分が過ぎると現場の者たちがどっと押し寄せ、気が気でなくなり、落ち着いて食べられる状況ではなかった。

箸は進まない。視線だけが動く、というより、泳いでいた。

 いつものように冷鍛課の部長小橋が目の前に座る。

その横に課長の大前。二人は何事もなかったかのように佐竹に会釈し、今日あったことを二、三話しながら食事に入る。

変わらぬ日常がそこにはあった。やはりホームページなんかは、そうそう見るものでもない。気分が弛緩していく。 

 そんな風に思っていた時。若い男たちの声が耳に入ってきた。

「おい、今度のボーナスはカットされるらしいぜ」

油の染み付いた作業服の腕を捲りながら、長身の男が言った。

「なにぃ?」

少しずんぐりとした眼鏡の男が訊いた。

「本当なのか?」


「ああ。なんでも会社が多くの負債を抱え込んじまってな。無駄な設備投資とかで」

長身の男は社員証を機械に通してからトレーを手にする。

そうすることによって、自動的に給料から天引きされるシステムとなっている。

「冗談じゃないぜ」

眼鏡の男は顔を真っ赤にして怒った。

「俺、ボーナス貰ったら、新車を買うつもりだぞ」


「よせよ」


「よせって? どういう意味だよ。そのために俺は一生懸命働いてきたんだ。

人間、何か目的がなければ、こんなふうに働かないだろ。そうじゃないか?」


「ま、そんなカッカしなさんな」

長身の男は、眼鏡の男を宥めた。

「しょうがないだろ。会社が赤字なんだから」 

そんな時、その長身の男と目が合った。そして、鋭く睨まれた。

 佐竹はさっとその目から逃れる。


背中に悪寒を感じた。


「あいつよ、あいつ」


「何だ? どうした」


「俺たちが必死で働いているのに、あいつは、あの男は、社長と不倫してたんだよ。

ん? 不倫じゃないか。社長は未亡人だし、あの男はバツ一だ。とにかく、男と女の関係なんだよ、あいつらは」


「本当なのか?」


「ああ」

 長身の男は肯いた。

「パソコンで、会社のホームページを開いていたんだが、俺は目を疑ったよ・・・。

なんせ、あの男が社長の中西光子とお揃いで、ホテルから出てくる写真が掲載されていたんだからー」

 結局、佐竹は定食に箸をつけることもなく、浅はかな望みを捨て、席を後にした。


     十、


 義信は、今日一日、有給休暇を取って休んでいた。 

白浜小学校が終わる三時過ぎに、黒の帽子を目深に被り、黒いジャンパー、ジーンズ姿で、向えの家の少年が帰宅したのを確認してから、アパートを出た。

閑散としたこの街は静まり返っていた。運よく、辺りに人影を見かけることはなかった。

 門の前で立ち止まり、一度深呼吸をしてから手袋をはめて、インターホンを押した。

まるで街が眠っているかのように静かだった。

「はい」

子供の声が聞こえた。


「すみません」

義信は優しい口調でいった。

「お父さんいるかな?」


「いません。まだ会社から帰っていませんから」


「そうなんだ。僕は中西工業のヨシカワという者です。ちょっと用事があるんだけど、どうしょうかな。参ったな」

偽名を使った。


「今日は七時まで帰ってこないって、いってましたけど」


「どうしてもお父さんに渡さないとならない書類があるんだ」

義信は困った様子で言った。

「君が渡してくれないかな。そうしてくれないと、僕は本当に困ってしまうんだ」


 しばらくは何の応答もない。迷っているのだろう。しかしここで急がすことはせず、じっと待つことにする。追い返されたら、もともこもない。

 二、三分待ったところで、中から薄明りが差し、そして、玄関の扉がゆっくりと開けられた。

その時を待っていた。素早く上体を中に侵入させ、少年の口にハンカチを当て、彼が暴れないように両手を掴んだ。

そしてドアを閉め、錠をかけた。少し抵抗されたが子供の力だ。なんのことはない。

上がりあがりかまちで靴を脱ぎ、少年を抱え、中に押し入った。

ハンカチに覆い被された少年の口から、苦しそうな呻き声が漏れてきたが、構わず廊下を進み、最初の部屋に入った。

少年の呻き声は徐々に激しくなり、ゼェィ、ゼェィと唸り声を上げ、急変した。背中が波打ち、首筋の血管まで浮き上がっていた。

「どうした、苦しいのか?」

 口に当てたハンカチをどけてやると少年は咳をした。ゴホン、ゴホン、ハア、ハア、ハア、ゼェィ、ゼェイ,ゼェイ。

「お前、もしかして喘息なのか?」

 脳裏で、昔の自分の姿が蘇ってきた。

うつ伏せで背中を丸め、苦しむ幼き日の自分の姿とダブった。

 その時。ジャンパーのポケットにあるスマートフォンが振動を起こした。バイブにしているので音は出ない。舌打ちをした。

指を右にスライドして、受話器をとった。

「はい?」


「もしもし、私」

瑠唯だ。

 そういえば今日帰国予定だった。しまった。こんな時に・・・。

「ああ。今日帰国だろ? ごめんな。仕事で迎にいけそうにないんだ。もう中部国際空港なのか?」


「うん。そうだけど。七時頃までなら待てるかなって」


「いや、残業で、行けそうにないな・・・・・」


「何か最近、忙しそうだね」


「いや。そうでもないんだが、今日は、たまたま・・・。ど、どうだった?」


「楽しかったよ、色々と、話しもいっぱいあるし。写真沢山撮ってきたから、見せてあげるね」


「ああ・・・」

金持ちの道楽写真なんか見たいとも思わなかったが、そう答えておいた。

「楽しみにしてるよ」


「本当に、今日は、会えないの?」


「ごめん」

イラつく女だ。近くにあった熊の人形を足で蹴り上げてやった。


「じゃ明日は?」


「今週は無理だ。週末なら空くが。とにかく今忙しいんだ。また今度かけるよ。じゃあね」


「うそ、さっき、そうでもっっっー」

 義信は溜息と共にスマートフォンを切った。

なぜかはわからないが、歯車のようなものが少しずつ狂い掛けているように思えた。

義信は前方の苦しみ、喘ぐ、少年に目をやると、しばらくはそんな彼から目を離すことができなかった。


    十一、


 豊田署の刑事板垣敬三と東海新聞の皆川綾乃は、約束の時間よりも早く、佐竹の家に向かっていた。今日の午後八時に会うことになっている。

「中西守さんの夫人、光子さんは大学の卒業生で、その大学のテニス部の先輩と後輩の仲だったそうです。

二人の出会いは、新入生の光子さんを、四年生の守さんが部に誘ったのがきっかけで、積極的にアプローチをした、とのことです」 


「何で君がそんなことを知っている?」


「私も光子さんに訊いてきましたから」

 綾乃はしらっと言った。

「それに、何で君がここにいるんだ?」


「いいじゃないですか」

綾乃は微笑んだ。

「交換条件ですよ」


「何を?」


「私だってタダでとは言いません。板垣さんの情報も知りたいわけです」


「ふん」

板垣は前を向いて歩いた。

「いい青春を送ったんだな」


「え?」

突然何を言い出すのだろう、そう思った。


「嫉みにも似た感情が湧いてくる」


「何がですか?」


「私は、四十八年間、そんな青春を謳歌することなく生きてきた。そりや、私にも彼女が今までに二、三人はいた。いや、一人だ・・・。悪いか」


「いえ」


「その彼女にも見事フラれたのだが・・・。とにかく私は独身だ。

だが家庭を創るというものに憧れていなかったわけではない。そういう環境に恵まれなかっただけのことだ」

板垣はしんみりと言った。

 綾乃は何も言わず、聞き流すことにした。そして、

「それはそうと、光子さんに言わせると、その当時の中西守さんは随分と遊んでいる、という印象を抱いていたそうです」


「それくらいは俺でも知っている。何だ、俺の話しは訊きたくないのか」


「では、この話し、訊きたくないですか?」


板垣は、綾乃を見て、その後変な顔をした。

「いや。続けてくれ」


「はい。光子さんは、過去にも沢山のガールフレンドがいたのを知っていましたが、守さんから真剣に交際を申し込まれ、半信半疑ながらも、付き合ってみると、実際その遊び人の影はなかったそうです」

 綾乃は言った。

「二人はデートを重ね、交際を深めました。やがて同じ道を目指すようになり、自然の成り行きに任せていると、光子さんのお腹に小さな命が宿り、最初こそ親に反対されたようですが、二人の絆は固く、学生結婚を貫き通したそうです。

そんな彼らの結婚生活は順風でした。大学を卒業し、そのまま中西工業に就職。

そして、三年目には副社長に就任。

すると、二人目の子供ができ、やがて、父親の順三が亡くなると、守さんが社長に就き、受け継いだ会社を順調に経営し、売上を上げていった、というわけです。

それがいいことに、二百人いた従業員も四百人に膨れ上がり、二棟の建物を四棟に増築しましたから」


「やはり女性は、女性同士だよな」


「ええ、まあ、それから守さんは、運動神経も良かったとのことで、高校生の時に、テニス部に所属しており、インターハイに出場した程の腕前だそうです。

この運動神経の良いところを受け継いだのが、きっと長男の英二さん。

しかし、頭のキレに関しては娘の瑠唯さんも受け継いだとは思えない、と光子さんは言っていました」


「他には?」


「生前、守さんの家での言動は、仕事場で見せる顔ではなく、よく喋り、笑い、普通の父親だったそうです。

子供の教育を本人の自主性におき、長男の英二さん、妹の瑠唯さんには、やりたいようにやらせてきた。

そんな中西守さんの性格は、温厚で優しい。

そして、細かいところに目を向ける癖があり、何にでも綿密に計算し、行動する、という性格を持ち合わせていたようです。

でも、それが崩れるようなことがあると、もろく、一旦キレてしまうと止まらない一面もあったそうですよ」 


「よく、訊き込みをしてきたね」


「有難うございます」 

だが、板垣が知りたかったことは、そんな中西守の過去や性格だけではない。今までに憎しみをかった人間がいたか、否かである。

「俺はね、あの二年前に起こった増井病院での事件、あれは単に病院側の過失だけではないような気がするんだ」

 綾乃は、板垣を見た。

「当時の午前六時十五分。その時、看護助手が中西の病室にいき、タオルで顔を拭いたが、その際チューブは正常だった、と証言は取れている。

だがその十五分後別の看護師が巡回にいくと、そのチューブは外れていたと、このようにその二人の証言から、十五分の空白時間が成り立つわけだが。

勿論、その時間帯に不審者を確認することはなかった、ということだ。わかる?」

 綾乃は肯いた。

「だから、その十五分間の間に何者かが、そう、中西を憎んでいた人物が病院に忍び込み、病室に侵入し、そして、人工呼吸器のチューブを抜いて、中西を死に陥れたのではないか・・・」


「やはり、板垣さんは他殺と踏んでいるのですね」


「でも、当時の捜査本部の見解では、十五分間での犯行は不可能に近く、その時間帯に不審者を見かけたという証言も取れてはいない。

また病院内にある防犯カメラにも、怪しい人物は写っていなかった。勿論、エレベーターの中にも防犯カメラはある。

それに、西側には非常階段があるのだが、一階から三階まで走って昇り、廊下を走り、守の部屋に忍び込んだとしても、実際、殺害は無理だ。

シュミレーションをしたが、時間的にも無理だった。

だから捜査線上、事故となったに過ぎない。解せない。果たして、本当に怨恨の線はなかったのであろうか。

仮に私が思うように、何者かの犯行であったのなら、犯人はなぜそんな時間帯を狙ったのか。

たとえば午前二時頃であれば、誰も巡回にはこなかったはずだ。

なぜ、巡回と重なる時間帯の六時十五分から六時半という時間帯なんだろう」


「確かにその十五分の空白は気になりますね。

まともに考えれば出来ない。でも、あえてその時間帯を狙って、行動したとしたら、できないかしら・・・」


「あえて、ね。君が言うように、その時間帯を狙って行動すれば、そりゃスムーズにいったかもしれないな。その行為だけを目的としたのならば、ね」


「犯人は、巡回時間を把握していたのではないかしら。

事件としては不可能に見せかけ、事故に見せかけるための、偽装? だから、その時間帯を狙った」


「それも考えられるな。いいか、看護師の証言では、患者の巡回は、大体午前六時頃に行うとのことで、犯人はあえて、その時間帯を狙った。

そして、その空白時間を狙ったことにより、他殺の線を消した―。 

そうなれば病院内のことをよく知った病院関係者の中で、何者かが行なったという可能性も出てくる。

それとも、空想が膨らみ過ぎかもしれんが、例えば、まったく別の人間が、病院関係者を金で雇い、殺害させたのか・・・」


「そんなことが、あるのかな」


「正直わからないよ。考えれば、考えるほど真相は闇の中に沈んでいくのだから」


「そうですね」


「でもな、私も光子さんには、話しを訊いたんだが、その時、ちらりと光子さんが言った言葉が気になるんだ」


「どんな言葉ですか?」


「それは、あの人には、私や家族に言えない、隠し事があるような気がする、という言葉だよ。

私はその言葉が今でも頭に引っ掛かっていてね。

あれから二年が経つが、その現場にいた人物を尋ね廻り、訊き込みを続けているんだ。

いいか、内科の病室は三階にあり、全部で三部屋。大部屋は、一部屋に四人が入り、個室は二部屋ある。そのうちの一部屋を中西が使っていた。

原則的に午後九時以降は、関係者以外は出入りが出来ないことになっている。

その当時、フロアーの入院患者は六人。看護師二人、医師一人、それから常駐している警備員が一人いたことは確認している。

捜査はこの男性八人、女性二人を対象に行われたが、全員に、アリバイがあったし、それに動機の問題もクリアーされている。

それでも、私は納得がいかず、病院でもらった患者の家族のリストを虱潰しに調べてみたが、結局これといった手懸りは掴めずじまいだった。

いくら追っても容疑者の陰を踏むどころか、見ることさえできない。もしかしたら、自分の捜査方法が間違っているのか、と思い始めた矢先だったんだ」

 板垣は大きく呼吸をした。

「そんな時に、佐竹宣夫と会う約束を取り付けた。

二年前に一度事情聴取をしているが、その時は確固となる証拠を引き出すことはできなかった。

しかし、先日の再度の依頼に、彼は了承し、そして、有力な証言が得られることでしょう、と言ったんだ。

この言葉が何を意味しているのか。二年前には気づかなかった小さなことでもいい。

私はその言葉にすがるように、僅かな手懸りに有りつくためにいくんだ。それで、私は一人で行くつもりだったのに、君が署に来たものだからー」


「光子さんに訊き込みをしてきたんですが、って私が豊田署に行ったら、板垣さんが出掛ける、って言うんで、付いてきただけですよ」


「ま、そんなことはいい。ちょっと静かにしてくれ」

 ようやく目指す家が見えた。そして、白い建物の前で立ち止まる。

表札に佐竹と書かれている。板垣はインターホンを押しながら周辺に目をやった。静かで閑散とした、落ち着きのある街だった。


「おかしいな」


しばらく待ってみたものの、中からは何の応答もない。

「時刻は約束した八時五分前で、時間よりも少しだけ早い。

だが、家の中には誰もいないし、気配さえも感じ取れない。おかしいな」

板垣はしばらくその場で待つことにした。


 シーンと静まり返った住宅街。

結局十分が過ぎていた。

「誰も帰ってくる様子はないですね。一体どういうことかな。

子供が何処かに行ってしまい、それで探しにいったのでしょうか。そうであれば、電話を入れることくらいできるでしょうに。

もしかしたら、何らかの事件に巻き込まれてしまったのではないかしら」


「縁起でもないことをいうものだな。仕方ない。昨日教えてもらった携帯電話にかけてみるよ」

そう言って、板垣は電話を掛けた。

だが予想通り何回かけても、繋がる気配はなく、留守電にも繋がらない。

―どういうことだ? 


「嫌な予感がする。もしかしたら彼が言ったように、二年前のことで何か重要な手懸りを掴んでいたのかもしれない。だとしたら・・・ 。

どうしても佐竹氏を探さなくては。そして会わなければならない」


十二、


 眼鏡を何度も指で持ち上げ、血走った目で、周辺を必要以上に見渡す仕種から、いつものインテリ風の顔は消えていた。

佐竹宣夫は仕事が終わると、真っ先に事務所を後にした。今日昼食を食べそびれているが、今のところ食欲はない。

 そんな時だ。彼の行く手を遮るようにスマートフォンが鳴った。

佐竹は舌打ちして立ち止り、それを手にした。

「はい?」


「佐竹さん、ホームページを見ましたか?」

社長の声だ。声が不安で、裏返っていた。 

「はい」


「ど、どうしましょう?」


「どうすることもできないですね」


「どうすることもできない、って?」

光子のヒステリックな声。

「あれ、消すことができないのかしら。わ、私、あんなホテルなんかに行ってなどいないわ」


「ええ。あの日我々は確かに二人で会いました。

しかし酒を一杯飲んだだけで、帰宅しました。そうですね?」


「はい」


「だがある人物が我々のことを監視していたのです。

それで、場所を変え、設定を変え、合成写真を作成したのです」


「ご、合成写真。なんで? 意味がわかりませんわ」

光子の動揺が受話器を通し、伝わってきたが今はそれどころじゃない。

「もう既にホームページの写真は消してきました。

ですが、コピーをとっている者がいるかもしれません。それに、噂はとっくに広がっていると思います。

現に違う会社の人間が見ていて、私に伝えてきたのですから。

どうすることもできません。それでは、私は急ぎますので・・・」

先を急いだ。

「私は急ぎます、って、さ、佐竹さん。ちょっと、待って。わ、私は、どうしたら、いいのですか?」


俺だって、どうしていいのか分からないのだ。ようやく駐車場が見えてきた。愛車のレクサスが待っている。

取り敢えず家に帰るのだ。そして、刑事に会わなくては・・・。ワイヤレスキーでロックを解き、ドアに手をかけたその時―。


 車の陰に隠れていた義信は、素早く佐竹に接近し、スマートフォンを奪ってから、その電源を切った。

「有名人ですね」


「貴様・・・・・・」


 義信は有無を言わせず、助手席に乗り込んだ。

そして、佐竹に向かって、手招きをする。


佐竹は顔を歪ませ、周りの目が気になるのか、仕方なく運転席の方に乗り込んだ。


「家に帰るのですよね」

義信は、ジャンパーの胸元のポケットから煙草を取り出し、ふてぶてしく火をつけた。

「早く、車を出して下さい」 


 佐竹は、義信を見ながら、アクセルを吹かした。時刻は六時半。


「ま、お互い話があると思うので、私も家路まで付き合いますよ」


 佐竹は苦虫を噛み潰したような趣で、黙ったまま、車を発車させた。


「あなたには、もう用がありません」

義信は、ゆっくりと言った

「よって、今から死んでもらいます」

無表情で、淡々とした口調だ。


「な、何を言っている。お前は一体、何を企んでいるんだ」

強がっても、佐竹の膝が震え始めているのがわかった。 


 義信は、その質問には答えず、「少し、ドライブでもしませんか」

と言った。

「あなたの最近の行動からして、思い悩み、自殺した、としてもおかしくはない。

ところで、例の横領の件ですが、もうそろそろ全てをネット上に暴露させてもらってもいいですか?

 もし、このことを私が暴露すれば、余計に自殺の線が浮上することになるでしょう。違いますか?」

 

 佐竹は歯軋りをし、苛立ちを見せた。

「何が言いたい。俺に何をしろというんだ。それとも、もう俺は用なし、ということか?

 昨夜だって、俺を外出させ、社長を連れ出させたのは、晒し者にするのが目的だったんだろ」


「勝手に想像して下さい。ところで、今日伺ったのには、わけがあります」


「何だ?」


「あなたを、刑事と会わす訳にはいかない」


 佐竹は目を見開いた。

「な、な、なぜ、それを知っている?」


 義信は両唇の端を僅かに上げ、微小を浮かべた。

 そして、バタフライナイフを取り出し、それをちらつかすと、佐竹は喉元を密かに動かせた。

恐怖で生唾を飲み込んだ。その喉元をナイフでチクリと刺した。


「ひっ・・・・・・」

佐竹の顔が引き攣った。

「傷を残せば、他殺だと、疑われるぞ」


「心配いりません」

義信はナイフを器用に扱う。

「私には考えがありますから」


 佐竹はダッシュボードを開け、青いタオルを取り出し、喉元の傷をそれで塞いだ後、確認した。

その青いタオルに赤い染みが広がっていく。


「そこの交差点でUターンして下さい」

義信は、二四八号線を東に向かわせた。

「お子様は、今のところ無事ですので安心して下さい」


「お子様は?」

佐竹は、義信を睨んだ。

「馬鹿なことを言うな」


 義信が途中でそれを遮り、

「浩太は家にいる、とでも言いたいのですね。よろしい。それでは確かめましょうか」

 義信はそう言い、スマートフォンを手にした。

何回かの呼び出し音が鳴り、相手が出るまでしつこく電話を鳴らし続けた。

しかし、留守番電話に繋がり、何の応答もない。 

「あなたの家にかけてみたのですが、どうやら無人のようですね。おかしいな。こんな時間帯に誰もいないとは。」

義信は言った。

「もう一度かけてみますか」 


「貴様! 何処にやったんだ、息子を何処に―」


「車を停めろ」

義信が厳しい声を出した。


「なぜだ?」


「いいから停めろ」

 佐竹は車を路肩に寄せてから、停車させた。


 ゴン! するといきなり義信は、佐竹の頬を殴りつけた。

「さ、早く走らせるんだ」

淡々とした口調で義信は言った。

何事もなかったかのように。


 佐竹は切れた唇を、タオルで拭った。震える体を止めることができないようだが、何とかハンドルは握っていた。

やがて川が見えた。河川敷が広く、そこは広場となっており、日中であれば、サッカーや野球をやっている人で溢れているが、暗くなった今では誰もいない。

さらに東の方へと向かう。道は段々と狭まり、田舎に向かうにつれ、暗くなってきた。

たまに出てくる街灯も暗い。もうとっくに刑事との約束は過ぎている。


さあ、どうする? 佐竹さんよ。最大のチャンスだっただろ、俺を警察に突き出す。 

義信は助手席で、前を見ていた。

窓の外には、とした樹林の向こうにピラミッド型の黒くて、雄大な山並みが見えた。

まさに暗黒の世界が広がっている。苦しいだろう。

この恐怖と緊張が体力を奪うはず。もうハンドルを握る握力さえないはずだ。

なぜこんなことを、なぜ俺は車を運転するんだ、そして、どうすればこの拷問から解放されるのだろう、とな。苦しめ。そうだ、もっと悩め。


そして、自分の考えを無くし、俺の言いなりになるんだ。

人間、疲れれば、疲れるほどに考えることを放棄し、相手の言いなりになる。それにこの暗黒の世界がより不安をことは間違いない。

今まで山の中をひた走らせてきたが、暗くて、周りに走っている車をまったく見なくなった。洗脳させるには、丁度いい。

途中、コンビニで、食料を買い込んだが、勿論義信がそれを口にするだけで、佐竹には何一つ与えなかった。車の中に充満する甘い匂いに佐竹は、何を思うー。


一定の速度、そして、同じような景色が並ぶだけで、ついには欠伸が出た。それで眠気を催す。

どれくらい車を走らせただろう。今まで直線であった道がカーブになっていることに、義信は気づかなかった。

レクサスはペースを落とすことなく、目の前のガードレールがあるのにも関わらず、吸い寄せられるようにして近づいていった。

それは静かに、黒色の山が手ぐすねを引き、すっぽりと車を包み込むように。

光に照らされた目の前には、白色の壁、いや違う、ガードレールだ。その先には幻想的な美しさを醸し出す紅葉の木が迫ってきている。

ヤバい! と思った時には遅かった。 

 ガシャーン! 暗闇の中、派手な音と共に車が停まり、我に返った。

前方に視線をやると、真っ暗だが、ガードレールの下に谷底が広がっていた。かなりそこは深かいー。


 やはり歯車は狂っている・・・。何処かでボタンを掛け間違えたのだろうか。予定通りに、ことが進まなくなってきている。


「何をしているんだ?」

正直、焦った。

ちょっとナイフで傷つけただけなのに、佐竹は意識を無くし、誤ってガードレールに車をぶつけたのだ。   

と、その時。突然、ポケットの中のスマートフォンの振動を感じた。

それを取り出すと、瑠唯からだ。取るか、取らぬか、迷った。横では動物の鳴き声のように、唸る佐竹がいる。

パニックに陥った。

ナイフを翳し、

「静かにしろ」

と脅した。

そして、ゆっくりと深呼吸をし、一度、首を大きく回した。

それで気持ちを沈めてから、電話に出る。無視すればいいものを。出てしまった・・・。

「はい?」

少し声がかすれた。


「今何処?」


「ど、どこって、今は、ちょっと、ええっと、岡崎の方、だよ」


「え、どうして?」


「ああ、ツレのところに、いるんだが、」

必死で頭を振って、正気に戻ろうとした。

「どうしょうもなく、急用な用事で・・・来ているんだ、が」

何でこんな時に、電話なんかをかけてくるんだ。おかしくはないか。

自分の言った言葉は不自然ではないか。必死になって正気に戻ろうとした。

横を見ると、佐竹が気を取り戻そうとしている。頭を振り、眉間に手をやっていた。

「その用事も終わったよ」


「じゃ、今から会える?」


「え? 今からか? 何言ってんの」

時計を見た。十時を過ぎていた。「もう遅いじゃないか。今日は会えない」


「普通、彼氏だったら飛んできてくれるのにな。違う?」


「今忙しんだよ。そう虐めないでくれ、よ」


「エ~」

いつまでも耳に残るこの甲高い声。それが形を変え、ストレスの化け物となり、鼓膜を貫通し、体に侵入してくる。

「冗談、冗談。じゃ、今ちょっと話があるんだけどいい?」


「どんな?」


「兄貴のことで」


「兄貴のことで?」

鸚鵡返しに聞いていた。後悔した。お兄さんのことで、というべきだったのだ。

冷静でいられない。自分が、自分でないように思い、それで指先が震えてきた。 

「兄貴が、今度ぜひ会いたいって言っているの。会ってくれる?」


「俺が、お兄さんに会うのか?」


「うん」

少しの間考えた。

車の横を黒い物体が通り過ぎていった。カラスか何かだろう。

暗闇でそれを目にすると、何とも不気味だ。


その時だった。突然佐竹が扉に手をかけたと思ったら、転がるように車から飛び出し、脱出を図った。

「わかった。じゃ、今度喜んで、会わせてもらうよ」


 慌ててスマートフォンを切った。頭に血がのぼった。どうする? 

考えろ。逃がすわけにはいかない。こいつを警察に引き渡すわけにはいかない。

そのためにここまで連れてきたのだ。子供だって使い、脅したのに、ここから逃がしてしまったら・・・。

ひょっとしたら、俺の計画は、収拾不能なバラバラの状態に陥ってしまったのかもしれない。


―この男は、子供の身の安全を願っていないのか? どうなってもいい、というのか? 佐竹を追って、車から出た。

もう十メートル先を走っていたので、ダッシュで追った。逃がす訳にはいかない。

 その十メートルあった差は徐々に詰まった。

体格、運動神経、それから年齢的にも若く、全てに対し上まっている。

頬が緩んだ。佐竹の肩に手をかけようとしたその瞬間。

 それはいきなり横へ移動し、ガードレールを飛び越えていく。

佐竹は勢いよく崖を転がり、木の切れ端や石などにぶつかり、身体を回転しながら落ちていく。

予測不能なことが起き、パニックになりかけた。

それでも、その後を追ってガードレールを飛び越え、佐竹を追った。


「止まれ!」


そう叫んだ時。

佐竹は、進行方向の先に大きな石があるとも知らず、勢いを止めることなく、転がり落ち、そのまま物凄いスピードで、頭から突っ込んでいく。


「危ない!」


 ゴン! という短くて、鈍い音がした。信じられない。

ど、ど、どういうことだ、どうすればいい?


 何が起きた?


佐竹は動かなかった。

そして、後頭部からじわじわとどす黒い血が流れていた。只事ではない。義信は慌てて降りていった。砂利を避けながら走るが、草に足を滑らせ、もつれ、転がるように落ちていく。

ようやく倒れている佐竹のところに辿り着き、慌てて彼を仰向けにしてから、脈をとった。


これは現実に起きたことなのか?  


死なしてはならない、死なしては。今日、こいつは警察と会うのだぞ。なのにこんな所で死体が発見されれば・・・一体どうなる? 

車には、俺の指紋が残っている。

佐竹の頬を軽く叩いた。するとそれが、かーっと目を見開いた。

鬼の形相で、義信の首に手を廻し、絞めてくる。

義信は、その手を払いのけようとするが、それは爪を立て、鋭く義信の腕を引っ掻いた。あの時のように。そう、あの二年前に起きた過去。

悪夢のような残像が甦った。その顔が中西守の顔へと変貌していくと、腰が抜け、動けなかった。


ハァハァハァハァハァ、荒い息遣い。この静かな山の中で義信は喘いでいた。


気づくと、まるで背中に水を被ったかのようにシャツが濡れ、背中にへばり付いていた。

義信は、額に浮き上がった玉のような汗を腕で拭う。

両腕のミミズ腫れの古傷に目をやると、それが一段と濃くなっていた。

本当にミミズが生きているようで、クネクネと動き廻り、怖かった・・・。


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