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心に傷を負った男  作者: 中野拳太郎
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第一章 発端


   第一章 発端


一、


―二年前

雨が優しく、窓を撫でるように降っていた。


誰もが寝静まる暗闇の中、少年の目だけは冴えていた。何度も目を瞑り、寝ようと心掛けるが眠れず、しまいには喉の渇きを覚える。

少年は居たたまれず、ベッドから起き上がり、誰もいない廊下に出てみた。

その少年は、これといって特徴のない子だった。病弱なため、痩せ細った男の子だ。

ただ、彼はこの病院に入院していたがために、見なくていいものを、目にしてしまう。この先苦しむことも知らずに。

偶然が重なると、それがいつしか必然に変わるように。 


 昼間の病院は人が行き交い、騒々しいが、このように皆が寝静まる闇の中では、蛇口からこぼれ落ちる水滴の音でさえ、クリアに聞こえ、まるで自分だけがこの静寂な空間に、取り残されたような錯覚を受ける。

そんな中、少年は自動販売機に向かい、上着のポケットから小銭を取り出し、コーラのボタンを押した。

ガコーンという大きな音に、ピクリと背筋に緊張が走った。後ろを振り返った。誰もいないし、何もない。


プルタブを開けて一気に半分ほど飲んだ。妖精でも現れないかと期待を寄せてみたが、何も起こらなかった。

それはそうと、看護師の巡回には気をつけなくてはならない。

こんなところを見つかったら、何を言われるか、わかったものじゃない。さっきからパタパタと、誰かの歩く音が聞こえたし、気をつけよう。


コーラを飲み干すと、外の雨の音が気になる。病室にいる時と違い、今では雨足が強くなっていた。

階段の踊り場にある窓に視線を移すと、叩きつける雨が見て取れた。


ヒューッッ、ガタガタガタ、扉を揺する騒々しい風の音。

病室から出てからが、まるで異質の世界に迷い込んだかのようで、心細い。

夜というものがこれ程までに暗く、音もなければ、静かで、恐々しい孤独の世界であることを知る。

そんな時だ。一人の男の姿が視界に入った。

こんな時間帯に人がいることが不思議だ。外部の者だろうか。

上下とも黒い服を着た、見かけない男だ。

その真っ暗な人影が近づいてきた。このまま見続けてはいけない予感がした。

だから咄嗟に自販機の前にある長椅子の後ろに隠れた。

風の音が大きくなっていた。

何かが起こる。そんな気がした。時折、ビニール袋の中にその風を押し込んだような、圧縮した音。

その男は周りを見渡すでもなく、前だけを見て歩いていた。大きな男だ。 

突然、後ろからパタパタと急ぎ足の足音がしたと思ったら、いつも見かける看護師がその男を呼び止め、二事、三事話しをした。

聞き耳を立てるが、まったく聞こえない。しばらくすると、看護師が、その男に白衣を着せたので、新しい医師かと思ったが、それにしても様子がおかしい。

 少年は通り過ぎいくその男の背中を目で追った。男は前々からある病室に向かうことに決めていたようで、後ろを振り返ることなく、ずんずんと歩いていく。

それは一定の動きで迷いのない、機械的で、ゴールだけを目指すブリキのロボットのようだ。

男は、個室の三〇二号室の前で一旦、足を止め、深呼吸をした。

そして、ドアを静かに開け、中に入った。やはり医師なのか。男の後に続いて、看護師も入っていく。

だが、見てはならないものを見たような、そんな気がした。

それでも少年は好奇心が勝り、気づかれないよう、その彼らの背中を追ったが、ドアはそこで閉じられた。風の音がピタリと止み、そして、静寂の世界が広がった。


    二、


車産業の街、愛知県 豊田市にあるに彼はいた。

中肉中背、顔はふくよかな頬で、人の良さそうな豊田署の刑事、

が被害者の病室から出てきて、自販機の前の長椅子に腰掛けて一息ついた。

 プルタブを引き、缶コーヒーを飲みながら会議で聞いた事項を、頭の中で反芻した。


 呼吸器外れ男性死亡。

愛知県豊田市増井病院、警報機作動せず。

二十六日、人工呼吸器を付けた入院患者の容態が急変し、死亡。

死亡したのは(四六)同市の会社社長。

板垣敬三いたがきけいぞうは、すっと立ち上がったところで、コーヒーをズボンの丁度股間のところに落としてしまった。

「アチっ!」

静まり返った院内に声が響き渡った。

慌てて周囲に視線をやると、周りの病院関係者の冷たい視線が突き刺さった。

しかし、何事も無かったかのように振る舞う。 冷や汗をかいた。

昔からそうだった。

なぜ、俺はいつも、このように三枚目に出来ているのだろう、と溜息をつく。

そして、気持ちを入れ替え、板垣は、看護師に何やら囁いている、白衣を着た三十過ぎのイケメン医師に近寄っていった。

「ちょっと訊いてもいいですか」

板垣は訊ねた。

「二号室の患者ですが、チューブが外れた時に、鳴るはずの警報が鳴らなかった、ということを訊いているのですが、これは一体、どういうことでしょうか」


「ええ」

顎髭を蓄えたイケメン医師が、曖昧な様子で答えた。

「ですから、その点に関して言えば、医療事故である可能性は充分に考えられますが、今は事実関係を調べている段階でして、はっきりしたことはお答えできません」

イケメンにありがちな、少しめんどくさそうな溜息交じりの答え方だった。


「そうですか」

板垣は言った。

「医療事故とまでは言いませんが、こちらは調べることが仕事でして、ご協力下さい」

板垣は、しばらくして看護師に顔を向けた。二十代半ばの女に尋ねる。

「それで、患者が死亡しているのを発見されたのは、あなたですか?」


「いえ」

髪を茶髪にした少し派手目の女は否定した。

「私は、午前六時十五分に病室に入っていき、男性の顔をタオルで拭きましたが、その時はなんとも・・・・・・」


「そ、そ、そ、それでは、その際チューブは正常だった、と?」

板垣は改めて確認した。いかん、さっき零したコーヒーで、股間が温かくなってきた。喋れない・・・。

 彼女は、不審げな趣で肯きながら、

「その十五分後に、別の看護師が巡回にいったのですが・・・・・・」

と言い、後ろでこの様子を静かに見守っていた看護師に、目で合図した。板垣は、その視線の先を追った。

「京子さん、お願いします」


 派手目の女が次に託したのは顔がシャープで、顎の絞まった、三十に近い、しっかりとした感じの女だ。


印象的なのは、彼女は眼鏡を掛けているが、その下に吊り上がり気味の目が隠されていることだった。

「私が入っていったのは六時半頃だったと思いますが、その時に男性の気管内に入れてあったチューブと、人工呼吸器のチューブとの接続部分が外れていたのを発見しました」

喋り方もそつがなく、ハキハキとしていた。


「それでどうなさりましたか?」

ようやく喋れるようになった。

板垣は、相手の表情を見逃すまいと、彼女の顔を真剣な目で見た。調子も出てきた。

「疑問には思いませんでしたか? チューブが外れていたわけですよ」


「ええ。それよりも、すぐに当直の橋本医師を呼ぶことが先決だと思いましたので。

その時は、疑問に思う余裕すらありませんでした」


「そうですか。それで、その当直の先生を呼んだ」


「はい。先生は容態の急変に心臓マッサージを施しましたが、男性は午前七時十一分に死亡しました。

尚、その橋本医師は、今はこの場にはいません」

こんな時にでさえ、冷静でいられることに感心した。

前の看護師より経験豊富で、頭もキレることがわかった。

「ところで、中西守さんは、慢性閉塞肺疾患による呼吸不全で、入院をした、そうですね」


「ええ。気道炎症を起こしており、暖徐進行性及び不可逆的に息切れを起こしておりました」

この人は、刑事と話すのに抵抗を感じないのだろうか。

早口で、切り返しが早い。だが、人の顔を見ていないのが気になった。

「そうですか。それで、入院して、治療を受けると、快方に向かわれた、と聞いておるのですが、そんな中、なぜ急に容態が悪化したのでしょうか?」

 板垣は、彼女の目を見て話す。

だが彼女と視線が合うことはなかった。

「私は担当ではないので、はっきりとしたことは存じません」


「くどいようですが、それでは、なぜ、チューブの接続部が外れていたのでしょうか。

それに、鳴るはずのアラームも停止されいた」


「先程もいいましたが、その件については、分かりかねます」


何か、おかしい・・・。


「快方に向かわれていたのですよね。それなのに容態は悪化し、死亡した。なぜですか? 

チューブの接続部分が外れていたことと、関係があるのではないでしょうか」


「まだ、医療事故という認識はされておりませんので、その件に関しては何もお答え出来ません」


「刑事さん、この辺りで・・・・・・。看護師も困っています」

 医師が仲裁するかのように割って入った。

板垣は、彼女の顔を見つめると、彼女はその視線から逃れるようにさらに俯いた。


     三、


―あの日は特に暑い日で、自分にとって、決定的な日となった。 


日が陰る頃に家に着き、玄関を開け、いつものように、真っ先に母の顔を見にいく。

これが最近の日課だ。だが、そこで足が止まる。

母の様子に違和感を受けたからだ。そっと近づいてみる。

だが、いつもの苦しそうな息遣いが全く聞こえない。 

実際は、わかっていた。前々からいつかはこうなることが。

でも、その現実に目を背けていたかった。いざ、それが実際に起こると、背中が熱く、血液が逆流する。

生まれて初めて経験するこの不安、何とも捕えようのない悲しみ、それらをこの小さな体で抱えることで、自分の体が奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。

身体が震え、全くゆうことを利かない。

義信は勢いよく布団をたくし上げた。

その布団の下にある現実を受け入れることができずに叫んでいた。


アッアアアアアッ! 


そこには苦悶に歪む顔があった。血の気の失せた肌に、冷たい頬。

すでに死んでいることがわかった。嘘だろ、こんなことって― 

それでも体を揺すり、脈を取り、見よう見まねで心臓マッサージをした。

「しっかりしてよ。お母さん、お母さん。お願いだから、帰って来てよ・・・・・・」 

今までの母との思い出が走馬燈のように蘇ってきた。

小さなケーキを買い、それを二人で食べた誕生日会。

部屋に装飾を飾り、楽しんだクリスマス会。

手を繋ぎ動物園を散歩したこと。

それから、二人で商店街を歩いていた時。

突然雨脚が激しくなり、鞄を頭にやって、雨宿り出来るところを探し、必死で走ったこと。その必死さに二人は、同時に互いの顔を見ながら笑い合ったこと。

いずれも母は笑顔で、優しく接してくれた。その笑顔が歪み、やがて壊れていくー。 

この狭い部屋、すぐ後ろには壁がある。義信はその壁に後頭部を打ちつけた。脳内にまで痛みが走ったが、義信は二度、三度、四度、五度と打ちつけていた。

どうしようもない、この理解できない怒りを壁に向けて。まるでスイッチが入ってしまったかのように。


母は一人で苦しみ、のた打ち回って死んだ。言葉を失う。叫ぶことも、唸り声すらも上げることができなかった。

体の力がスーっと抜けてしまい、取り残された抜け殻だけがこの空間に、まるで浮遊物のようにして漂っている。

辛かっただろう、淋しかっただろう。義信は、その現実を直視できず、両肩をワナワナと震え上がらせた。誰にも看取られず、あの世に逝ってしまった母は、孤独だったはず。あの男は―。 

俺の父親は何をしているんだ、こんな時に。

「なぜ出てこない! なぜ助けてくれないんだ!」 

義信は、今度は固く、固く拳を握り締めていた。

そして畳の上に拳を振り下ろす。何度も、何度も。

一度付いたその破壊的リズムは止められず、畳を殴りつけた。

そのうち両拳はヒリヒリし、内出血を帯びたが、それでも構わず、叩き付けた。

止められなかった。この痛みに血が熱くなり、それが真っ赤に染まっていく。

後頭部と拳がジンジンと痺れていた。義信は笑った。

声を上げて笑っていた。これが生きている証拠なのだ。

でも・・・・・・母親には、もう、それが、ない。その後、泣いていた。ひっそりと、憎しみを抱へー。


「中西工業で働いてみないか。考えが、ないわけではない」


と気づくと、義信はじいさんの言葉を口にしていた。


―義信は、暗い過去を思い出していた。母親のことを思い出すと、それと同じく、じいさんの言葉も一緒になって頭に浮かぶ。

母親の春江を喪い、十二年が経っていた。

 その間、人には言えない苦労をしてきた。誰のことも信じられず、細い目は吊り上り、更に人相が悪くなっていた。

そのため真面目を装うべく、眼鏡をはめ、後藤義信は、中西工業で働く。

中西工業はプレス加工とを用いて、自動車部品を中心とする機械部品を製造する会社である。

プレス加工とは、板材に力を加え、曲げ、絞り、打ち抜きなどにより所望の形状に成形する加工法だ。

そして、鍛造とはバルク材、所謂かたまりの材料に力を加え、所望する形状に成形する加工法であるが、加工の際材料に熱を加えるか否かにより、冷間鍛造とに分けられる。

先ず熱間鍛造は、金属が溶け始めるぐらいの温度まで熱する。

そのため金属が軟らかくなり、変形はさせやすいが、設備は大掛かりになり、高熱のため金属は傷みやすい。

そこで中西工業の加工法は冷間鍛造が用いられている。

これは材料に熱を加えず、室温のまま加工する方法だ。

そのため金属は硬いままで、非常に大きな加工荷重を必要とする。

また、あまり大きな変形を与えようとすると、所望の形になる前に材料が割れてしまうデメリットもあるが、熱間と比べると加熱のための設備は不要で、安く加工できるという利点を生かしている。

この工場で働くようになり、十二年が過ぎれば義信もベテランの域に達し、大概のことは一人で出来るようになっていた。

今まで組織の一員として、言いたいことを我慢し、歯車を壊すことなく、働いてきた。

なぜならそうやって毎日を送ってさえいれば、ちゃんと給料が入ってくる。

今はそれでいい。少しずつ進めばいいのだから。

昼休みの終りを告げるチャイムが鳴った。

この音を聞くにつれ自然と体が動く。義信は自分の持ち場に戻り、四百トンプレス(プレスが加工中、安全に発生しうる最大能力のことをいう)の前に立つ。

シャー、シャー、シャー、ウィーン、ガシャーン。

機械の加工音が耳を劈く。それから油の異臭。まるで雨の日の溝の中から臭ってくる異臭そのもの。

あるいは単調に続く、プレスの上下する可動のリズム、それらは永遠に終わることのないものに思えた。

 耳元で風の音を感じたので、振り返った。自分の横をすり抜けていった一人の男に視線をやる。

その男は、隣の二百トンプレスを可動させる男に向かい、大声で喚くように喋りかけた。

「社長が倒れて、増井病院に運ばれたそうだ。前々から悪いとは、訊いていたんだが等々・・・・・・。意識もないみたいなんだよ」


 背中に電流が流れた。眼鏡の奥に隠された義信の目が光を帯びる。

どうやら惰性の日々から卒業のようだ、義信は機械を停め、そして、歩き出していた。

偶然とは、必然への道しるべでもある。この降って湧いたかのようなチャンスをどう生かすのか、義信は考えを巡らせた。


     四、


 中西工業社長、中西守なかにしまもる息子英二えいじは、何不自由なく、育てられた口だ。文学の方は、あまり出来る方ではなかったが、元々運動神経が良く、高校でボクシングを始めると、全国大会に出場し、高成績を残した。

そして、卒業後、迷うことなく上京し、ボクシング強豪の東邦大の門を潜った。

初めて親元を出、大都会の東京でもまれながらの同じ仲間たちとの寮生活。その仲間は皆、全国から選ばれたエリートばかり。

隣を見ればインターハイや国体である程度の成績を残してきた強者ぞろい。

高校の時と違い、日々のハイレベルな練習。スパーリング相手も事足りた。

生活、環境、何もかもが名古屋にいた時と違い、彼は大きく成長をした。

そして、四年生の時には全日本選手権優勝という実績を上げている。


その日は陽気も良く、そよ風の気持ちいい、穏やかな日だった。

単位はしっかりと取っており、あとは卒業を待つだけ。

これから授業をサボり、何処かへ行こうと考えていた矢先に、いきなり目の前で暗雲が広がった。

 それは東邦大の校庭を歩いていた時だった。鞄の中に入れておいたスマートフォンが鳴り、受信すると、母親の上ずった声で現実に引き戻された。

「何!」

英二は周りの目を気にすることなく、大声を出していた。


「お父さんが倒れたのよ」

もう一度言った。母親の光子みつこだ。


「どうして?」


「慢性閉塞肺疾患よ。呼吸不全で倒れ、増井病院に運ばれたの」


「なんで、そんなことに・・・・・・」


「このところ帰りも遅く、忙しくて、ちょっと無理をしてしまったの。

ストレスも重なり、煙草の本数も増えてね。それで、お医者さんが言うには、喫煙は呼吸器の病気には外因性危険因子であり、発症に関与することも立証されてるって、」

光子の声は弱々しかった。


 新幹線で東京から名古屋まで帰り、駅からタクシーに乗り、守の病室にその日のうちに飛び込んだ。



茶色の床、白い壁、その壁には薄汚れた染みが所々に広がっていた。

端には真新しいベッドが設置されており、シーツからは酸っぱくて、湿った臭い、あるいは消毒液のような刺激の強い、臭いが鼻をついた。

周辺には人工呼吸器、点滴など沢山の機材が置かれ、電気は灯っていたが、それでも暗く感じた。 

「容態は?」

項垂れた母親。虚ろな目をした妹の。


「おにぃ」

瑠唯るいがいち早く気づいた。


「もっと、早くから入院していればよかったのよ。肺機能が低下していたことはわかっていたのに・・・。

この人、何も言わず、頑張りすぎたから。それで、倒れて、意識を無くしてしまってね」


「まだ、意識はないのか?」


「今はとり戻してはいるけど、薬で眠らされている」


「そうか」


「お父さんは(IPPV)所謂、気管挿管の侵襲的陽圧換気療法がとられているのよ」


「え?」

英二は理解出来ない、といった表情をした。

「先生がいうには、人口呼吸、陽圧呼吸よ。

目的はガス交換、酸素化、換気を改善することで、主に人工呼吸の必要な症状に値するのは肺炎、心不全、ARDS,喘息発作、急性増悪、そして、お父さんの慢性閉塞性肺疾患(COPD)に適応されるわけで、外から陽圧をかけることで圧較差をつくり、肺へ空気を流す役割になっているのよ」  

光子の不安そうな顔。

「わかる?」

 英二は首を振った。

「それで、親父はずっと、このままなのか?」


「いずれは、この人工呼吸器も外れることになるとは思うけど、今はまだ予断を許されない状況だわ」

 ベッドに横たわった守の姿。守には人工呼吸器が当てられ、痛々しい姿がそこにはあった。

「このところ帰りが遅い、って言ってたけど、いつも何時ごろまで仕事をしてたんだ?」


「十二時を過ぎたこともしばしばで・・・・・・」


「なんでそんなに遅くまで・・・・・・。親父は社長だろ」


「ええ。でもね、今度親会社の日本精機から出向してきた人と、経営に関する折り合いがつかないのよ。

だって、その人は、前の会社で経理を担当していたこともあり、数字に関することに詳しくて、中西工業に無駄な経費が多いということを察知してしまった」


「それと親父の帰りが遅くなったということに、どんな意味があるんだ」


「ええ。いいから聞いて」

光子は続けた。

「無駄な経費の埋め合わせ、というか必死だった、この人は。

なにせ親会社の日本精機でしょ。今までの慣れ合いの経営が明るみに出てしまえば、取引までが危うくなる。だからお父さんはその整理に追われたのよ」


「何で、親父だけが抱え込まなければならない、部下は何をやってるんだか・・・・・・」

 英二は揺れる心境を覗かせた。


「必死だったのよ、お父さんは。従業員を四百人も抱えているのよ。

その人たちを路頭に迷わすわけにはいかないでしょ」

 しばらくは皆が黙り込み、ただ瀕死の大黒柱を見つめるだけだった。

時計の針だけが、機械的にコツコツと時刻を刻んでいく。

時折、ちょっとした音、例えば衣服の布が擦れる音や、足を組み直す時に上手くいかず、靴が床とぶつかる音。

何かを言おうとして、口ごもる。ただ単に出る溜息。

そんな音に皆が視線をやるが、ただそれだけだった。

何も起こる気配はない。この部屋にあるものといえば、嫌な空気が蔓延しているだけだった。

それでもその重々しい沈黙を破ろうと、光子が顔を上げた。

「英二、」

眉間に皴を刻み、言った。

「あなたもうすぐ卒業でしょ。どうなの? この前、プロになる、と言ってたけど」


「そうなんだ。そのことについてはちゃんと話さないといけないな。

この前、俺は後楽園ホールにボクシングを見るために行ったんだけど、そこで名古屋にある十和ジムのトレーナー、神谷さんに声を掛けられたんだ」


「東京で?」

瑠唯が訊いた。


「フライ級の日本タイトルがあってね、神谷さんは、その前座に十和の選手が出ていたから、付き添いできていたそうだ。

そこに、俺がたまたま居たから、声をかけてきたんだ」


「そうなんだ。で、その会話は何だったの?」


「ま、途中の会話を省略して言うと、スカウトだ」


「おにぃ、スカウトされたの?」

 英二は肯いた。

「君はプロで絶対にやっていける、俺と手を組んで世界を狙わないか、と言われたよ」


「それであなたは何と答えたの?」


「とりあえずは、いいお話ですね。でも将来のことだから両親と相談をしなくてはならない、と言っておいた」


「相談、といってもお父さんがこんな状態だし・・・・・・」

光子は守の顔を見ながら呟いた。「あなたはどうしたいの?」


「俺はやりたい」

英二は断言した。


「でもあなたは中西家の長男で、うちの会社を継いでもらわないといけないのよ」

光子が畳み掛けてきた。


「その件についてだけど、俺は敷かれたレールに乗るつもりはない。

親父がこんな状態で、いうことではないことくらいわかってはいるが、でも・・・・・・」


「私が・・・・・・」

そんな時、瑠唯が口を挟んだ。

「おにぃの立場でもそう思ったかな、きっと。

いくら家のこと、といっても、やっぱり自分のやりたいことをやる、それが一番いいことのように思う。

だからそれを犠牲にしてまで、家を継ぐというのは、そういうの、荷が重すぎるな・・・・・・」


しばらく光子は、下を向いたまま守の顔を見ていた。そして、

「あなた達、勝手ね」

と溜息混じりに呟くと、その言葉で再度静けさだけが虚しく広がった。

どよどよとした梅雨空のような重々しい空気が漂うこの部屋の中で、三人は守の姿を眺めることしか出来なかった。

何かをしてやりたいのだが、その何かがわからないもどかしさに、三人はただ、ただ時間を過ごしていた。


     五、


「―え、なに?」


「大学って面白いですか?」

その女は興味深そうに、訊いた。「私、中卒で就職しちゃったから。大学って憧れるんですよ」


「大学なんて、君が思っているほど、面白いところじゃないよ」


「そうですか? でも、ドラマなんか見てると、いいなって、いつも憧れるんです。

色んなことにチャレンジ出来て、視野も広くなれて。

だって私みたいに早くから就職すると、あんな経験できないですから」

その女は小さくて、ガラスのように弱々しくも、陶器のように美しい、白い肌の持ち主だった。

「だからね、あなたの大学生活を聞かせてくれるだけでいいんです。友達にも自慢できるし・・・・・・」


「自慢、ね。わかった。俺はね、大学でテニス部に所属していてー」

 いつも彼女は、何にでも興味を示し、瞳を大きく開き、俺が喋る言葉に一喜一憂してくれた。

彼女は心が澄んでいていて、一緒にいるだけで癒された。


「へぇ~守さんって凄いんですね」

肩をそっと抱くと、それでしばらくは沈黙が落ち、彼女はその肩を小刻みに震わせた。


「そんなことないよ。誰にでも出来るさ。それより、ちょっと疲れたでしょ。そこのベンチに腰掛けようか。堅くて、冷たそうだけど、立っているよりはましだ」


「そうですね。じゃ、座ります」

素直な彼女。


「お尻、冷たくない?」

最近の女の子は挑んでくるというか、自分を強く持ち、こうしたい、という自己表現をすることに何の抵抗も感じないようだが、彼女は違った。

「いえ、大丈夫です」

ちょっと照れて、ハニカム彼女。


「良かった」


「また、来てくれますよね。私、あなたがここに来て、それで一緒にこんな風に河辺を歩いて、お喋りをしてくれるだけで、幸せな気分になれるんです」

多くを望まぬ彼女。


「ああ、また来るよ。でも、今日は寒いから、早く家に帰って暖かくして寝た方がいい。

だって、君は無理をしてしまうようだからね」

その女の額に掌をやると、熱かった。

「ほら、熱が出てきたみたいだ。君の頬、こんなに寒いのにリンゴのように赤いんだもん」


「え? あ、有難う。守さんは優しいな・・・・・・見ていてくれたんですね、私のことを」

女は舌を出して、それから俯いた。

「早くよくならなくちゃ」


 可愛かった。ただ、守ってやりたい、とその時は単純にそう思った。

「ああ。見てるよ。だから早く風邪を治して、クリスマスには名駅のイルミネーションを見に行こう。

あそこは毎年派手でね、とにかく豪華なんだ。名古屋に来てくれたら、案内する。

そこだけじゃない。他にも案内したい所は沢山あるんだ」


「はい。楽しみにしてます」


 今まで付き合ったことのない純情な子だ。自分の心が洗われるようで、それが新鮮な気持ちで、彼女を魅力的に思った。あの時はー。

きっとその時は彼女もおらず、奇遇なシチュエーションにより、出会った彼女との仲に、酔っていただけなのかもしれない。

だが、なぜ、今、この身体のゆうことが利かない状況の中、あの女のことを思い出しているんだろう。

自分でも不思議に思った。


―外はいまだ暗闇の中。守はあの女のことを思い出していた。

あの時は楽しかった。でも、今は・・・・・・・。むしろ自分にとって間違った過去であったのは確かで、負い目を感じずにはいられない。

どれくらい眠っていただろう。ほんの小一時間だろうか。そんな時。

ギィッという木が軋む音がして、病室の扉がゆっくりと開けられる気配を感じた。


何だ? 誰だ? なぜ、こんな時間に? 


未だ意識が朦朧とした中、最初は看護師の検温か何かと思ったが、違う。

扉付近に大柄な男が立っているのが薄らと視界に入った。

カーテンが開かれ、その残像がはっきりと浮かび上がった。忍び寄る危険。背筋が凍った。 

 気づくと同時に声を上げようとしたが、できるわけもない。

その男の左手が伸びてきて首を絞められた。死を感じた。

金縛りにあったことなどなかったが、きっとこんな感じなのかもしれない。

呼吸ができず、人工呼吸器のチューブをもどかしく感じた。

相手からはっきりとした憎しみを感じた。

それも巨大な、今まで蓄積された怒りの数々が憎悪となり、この弱り切った身に襲いかかる。

だが、苦しくても、目の前にいる大きな男の手を掴み、引っ掻いてやった。そうすれば、この苦しみから逃れられると思った。

相手の腕から血が出るまで引っ掻いた。そして、その男の首に手を廻し、力の限り、絞めた。

これが僅かな抵抗だった。己の力が残っている限り、その抵抗する手を緩めない。

「あっあああ・・・・・・」

弱気な姿を曝せば、殺られる、そう思った。意識が朦朧としていく中、光子のこと、英二や瑠唯の成長、それから会社のことが頭に浮かんだ。

それでも、やがては力が完全に抜け、両腕が垂れ下がった。もう、力が、入らない。

だが、俺は、ここで死ぬわけには、いかない。ここで・・・。

顔が引き攣る。ピクピクと自分の顔ではないかのように。ウグッッッ。

声にはならない声を絞り出し、それから、また男の腕に爪を立てて掴んだー。

実際にはそんな風に動けることなどできず、この動かぬ己の身体に、想いを込めることしかできなかった。

だが目の前の男には、その守の想いも届かなかった。

男は淡々と流れ作業のように、工場のラインで作業をするかのように、接続部分からチューブを引き離していた。


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