序章
元プロボクサーが描くミステリー、
をキャッチフレーズに頑張っていきたいです。
序章
人を殺したい、と思ったことはあるか。
そう老人に言われた。
言葉の意味は分からない。
でも、それが自分にとって重要な言葉に思え、頭から離れることはなかった。
その老人の言葉が、自分の心を、ここではない、何処かへと、導き出してくれるようで、一緒にいることを望んだ。
口数は少ないが優しく、温かい。父親がいないのもあり、その人といると、安らぎを感じることができた。
家から十分程歩けば川がある。
緩やかな流れの川で、春夏秋冬、いつだって鳥が群れを成して水を飲みにやってくる。
その鳥の囀りに癒されながら、河川敷にポツンと一人で座り、その川の流れを眺めるのがは好きだった。
日が陰るまで、そうやって川を眺める。何を見るでもなく、また、何かを考えるわけでもない。ただぼぉっと。
そうすれば貧窮という、少年にとって辛い日常を忘れることができた。
「よう。今日もいるな」
しわがれ声が聞こえたと思ったら、背中を軽く叩かれた。
「ああ」
後ろを振り向く。
いつもと同じ時間。だから安心できるのかもしれない。同じ仲間として。
「おかえり」
「よっこいしょ」
白髪の老人が隣に座った。
「今日も疲れた。わしも年を取ったものだ。大した仕事などしてないのに、クタクタだ。ところで、喘息はもう治まったのかい?」
「うん」
赤ら顔で、ちょっと目つきの鋭い男だ。この老人も会社帰りに、こうして川を眺めるのが日課になっていた。しばらくはいつものように二人して、黙ったまま川を眺める。
「じいさんはどこで、どんな仕事をしているの?」
「名古屋で、用務員、所謂雑用をしているんだよ」
「なごやのどこで?」
「レインボーホールっていう所なのだが、そこは広くて、コンサートや、スポーツだってやるんだ。
バレーボールとかバスケ、プロレス、それからボクシング。
そこにはたくさんの人がくる。だから、わしみたいな者が掃除をしなきゃならんのだよ」
「そうか」
後藤義信はそう呟くと、膝を抱えるように座った。
「おや、いつものように興味を持ってくれないのかい?」
「うん。きょうみはあるよ。じいさんの仕事だからね」
「いつもだったら、もっと根掘り、葉掘り聞いてくるのに。なんか元気がない。やはり体調が悪いようだな」
義信は膝に顔を埋めると、しばらくすると背中を震わせた。
「お母さんが、たおれたんだー」
「なんだって?」
老人は、顔を引き攣らせた。
「今日、ぼくだけの卒業式をしてもらったんだ。先生と二人だけどね。三日前の卒業式は、ぼく、ほら、喘息で休んだから出られなかったから。
でね、今日、後からお母さんもきてくれたんだよ、学校に。
そして一緒に写真をとったんだけど、その時に、とつぜん、お母さんがたおれたんだ」
「なに! 病院にはいったのか?」
引き攣った老人の顔が更に歪んだ。
「うちには、そんなよゆうなんかないよ」
「じゃ、今、お母さんの状態はどうなんだ?」
「休んでいるよ」
義信は言った。
「今はなんとか、おちついている」
嫌な風が二人の頬を撫でていく。それは川からの湿り気を含んだ生暖かい、不快感を兼ねた風だ。
「そうか。きっと疲れだな。お母さんは一人で、働き過ぎだ」
老人は、義信を見た。
「もし、また倒れたら、俺に知らせるんだ。分かったな」
義信は肯いた。それからは、沈黙が続いた。
西に落ちゆく夕日を眺めていると、そこに向かって歩く、一匹の白い猫を見かけた。
その動きはしなやかで、優雅で、気品があった。
小さな身体ではあったが、逞しく思った。
ぼくもいつかは、あんな風に一人で歩いていかなくてはならないんだ、とその猫の背中を見ながら、そう思った。
人を殺したいと思ったことはあるか、
この一言が義信の人格を怖した。
まだ世間を知らぬ、子供にいい、
その気にさせた罰はとてつもなく、
大きい。
そして、人は環境によって変わるもの
だと思います。
気軽に読んでもらえれば、幸いです。