第1章 始まりの船.3
彼はこのまま火だるまとなり、その熱さにのたうち回り、酸欠で死ぬ。そうなる筈だった。
だがネルソンには大きな誤算があった。
ゴンザレスのスキルは相手を干からびさせる能力ではない。そもそも誰もそんなことは言っていない。奴隷達からの話と、能力を使用している様子から勝手に推測しただけだ。人を干からびさせているように見えたのは、水分を吸い取っていたからに過ぎない。生物以外のあらゆるものを吸収し、蓄えることの出来る力、それが〝太古の骨〟。
「危なかった…あと数秒早かったら吸い取れんかったよ。のろまな技を繰り出してくれて感謝する」
炎を一瞬にして消し去り、彼はむくりと起き上がった。服の所々が焦げ付いてはいたが、ほぼ無傷である。ネルソンは絶望と屈辱を同時に味わうこととなった。と同時に右腕を力無く下ろした。剣を握っているのがやっとだった。
ゴンザレスがネルソンに左手を向けた途端、掌底が青白く光った。吸い取り、蓄えた炎を放出することも可能だが、吸収のインターバルが長くなる欠点もある。しかしこれで眼前の生意気な餓鬼を始末出来るとなれば、ためらう余地などなかった。
避けようとしたが、先ほどの大技で体力を消耗し、膝を付いてしまった。最早反撃の術は残っていなかった。
「「ネルソン!」」駆け付けたマナティーとヴィクターが彼を助けようとゴンザレスに飛び掛かるが、マナティーは剣を避けられた挙句膝蹴りをまともに食らい、ヴィクターは銃身を引っ張られバランスを崩し、がら空きの脇腹に肘鉄をお見舞いされ昏倒した。
他の奴隷達はすっかり意気消沈しており、誰も彼らを手助けしなかった。ゴンザレスを邪魔する者は誰一人としていなかった。
「これで終わりだ!」
彼はそれだけ言って、改めてネルソンに向けて炎を発射する。彼は勝利を確信していた。だから、低空を高速で飛翔する赤い物体には全く気が付かなかった。
それは、いや彼女は素早くネルソンを捕捉し、すんでのところで彼を無造作に掴み取り、船尾楼の上へと退避した。
死を覚悟し目をつぶっていたネルソンは恐る恐るその目を開けた。そして自らを救ってくれた者の名を嬉しそうに呼ぶ。
「エリー!助けてくれたのか!」
エリーはこちらを一瞥し、「これで貸し借りなしよ」と小さく笑った。「助けられっぱなしじゃ気持ちが悪いから」
「恩を売るつもりはないと言っただろ?それにいいのか、人間を助けちゃって」ネルソンがよろけながらも何とか立ち上がった。
「私も恩を売るつもりはないわ。あとごめんなさい、あのとき酷いことを言った。あなたには何の関係もないことなのに」彼女がうつむく。
ネルソンは首を横に振った。「気にしないでくれ、それに」再び剣を握りしめ、ゴンザレスがいるであろう方向へ向ける。「悪いのは全部あいつさ。いや、その方が分かりやすくていい」
そして彼女を正面から見据えた。「エリー、もう一度だけお願いする。俺達に力を貸してくれ」
エリーは強く頷いた。「喜んで」
「全く、こんなにも歯ごたえがないとは驚きだな、雑魚どもが!」
悲鳴を上げて逃げ回る奴隷達を次々に切り捨て、ゴンザレスは叫ぶ。逃げおおせたネルソンを討ち取りに行くより先に、近くにいる哀れな反乱者達を倒す方を優先したようだった。何とか対抗できているのはマナティーとヴィクターくらいのもので、その2人すら先ほどのダメージが抜けきっておらず、じわじわと追い詰められていった。厄介なのは、降伏した筈の乗組員達までが船長の孤軍奮闘ぶりを見て再度、奮起してしまったことだ。形勢は完全に逆転してしまった。
「まずいな、アテが外れたぞ」息を切らしながらマナティーは文句を垂れる。「あいつがさっさと船長を倒さねぇからだ」
それを背中越しに聞き流したヴィクターは、敵を銃床で殴り倒しながら「ネルソンは大丈夫かな?」と彼に問いかける。苦笑したりネルソンを弁護する余裕もないらしい。
「大丈夫だろ。あいつは以外とタフだよ、弱っちいが」とマナティーが答えると、
「俺に剣の稽古で勝ったこともないトンチキ野郎が何言ってんだ」と怒鳴り声が聞こえ、皆が振り向くと舵輪の前方にある柵の上にネルソンが仁王立ちしていた。「マナティー、お前はあとで覚えとけ!」
と彼に向かって釘を刺し、本来の敵を上から見下ろして「来いよゴンザレス。第2ラウンドと洒落込もうぜ!それとも、もう降参か?」とあざけった。
その一言でゴンザレスは完全に頭に血が昇りきった。彼の完璧な人生の中で、年下の他人に何度も罵倒され挑発されたことなど、ただの一度もなかったのだ。
あの餓鬼をそこから引きずり降ろして、入念に裂いて千切って細かくしてから魚の餌にしてやる。彼の心はそれだけに支配された。ネルソンだけを眼中に据えて走り出した。
ネルソンも彼めがけて突進した。互いにスキルを使うことなく、がむしゃらに剣を振るう。突き、切り上げ、払う。鍔迫り合いを起こしたかと思えば、相手を腕力のみで押し返す。そして再び切り結んだ。ゴンザレスがネルソンの右脚を蹴り飛ばしたが、彼は脚を瞬時に後ろに下げ衝撃を減らす。追撃を試みるが、今度は彼の銛がゴンザレスの利き腕を貫こうと飛び出てくる。すんでのところで腕を外側に逃がし、その勢いのままネルソンの頭部を切り裂こうとするが、右耳を掠めたのみに終わった。そしてネルソンが反撃する。
膠着状態が続いた2人だったが、ついにネルソンがそれを破った。隙をつき、剣を握った拳でゴンザレスの顔面を殴りつけ、のけぞり数歩後退した彼に、容赦ない銛の刺突を繰り出す。ゴンザレスは辛うじて弾き、カットラスを振るが、マナティー達を蹂躙していた時のような動きのキレはなかった。〝太古の骨〟の使い過ぎだ。ネルソンが知る由もないことだが、あれを一度使うごとに半日ぶっ通しで砂浜を走り続けるのと同等の体力を消費する。並みの人間ならば一回の使用で動けなくなるほどのハイリスキーなスキル、それを短時間で何度も使うことの出来るゴンザレスは、間違いなく一流の戦士である。血反吐を吐くような鍛錬の末に、この領域に達したのだ。身体を鍛え上げても彼の短気さが治ることはなかったのだが。
鼻骨をへし折られ、鼻血を噴き出しふらつくゴンザレスを見て、ネルソンは剣を高く上げる。次の瞬間、剣が発火した。しかし青い炎ではなく、燃え盛るそれは、奴隷達の憤怒を表しているかのような赤色だった。
それはネルソンの〝六等星の夜〟ではなく、後方に待機していたエリーの噴いた炎。彼女はおとぎ話の住人とされる獣人族の中でも特に希少な『竜』の一族だ。彼らは大空を舞い、火を吐く生きた伝説そのものである。
燃え盛る剣を持ち、ゆっくりと近づいてくるネルソンに、ゴンザレスは初めて恐怖を覚えた。吸収したネルソンの青い炎を放出しようと彼に向け掌をかざすが、ネルソンは全く臆さず鼻で笑った。
「撃ってみろよ、ゴンザレス」
彼の放った炎は、ネルソンへ向けて一直線に飛んでいったが、ネルソンが剣を構えて横薙ぎに払うと、たちまち消滅した。何故、とゴンザレスが考える間もなく、今度は彼の頭上に剣を持ち上げる。
「さよならだ」
一閃。
切り口が発火し燃え上がり、日の出間近となっていたストケシア号の甲板を明るく照らした。奴隷達も乗組員達も、誰も何も言葉を発することはなかった。ただ静かに、残虐だった〝前〟船長の死を見続けていた。
第1章完結。次回、『第2章 大嵐と楽園島』始動!