8 漂泊の王子
わたしはふうと大きく息を吐いた。ここは領主館の領主一族居住エリアにある、クレア自慢のリューテ風呂だ。
リューテ風のこの風呂は浴槽が深くて大きく、壁にはリューテ島の最高峰であるリューテフジの絵が描かれている。あまり行ったことはないが、リューテ島の銭湯にいるような感覚だ。
クリームを溶かし込んだような入浴剤入りの白い湯が、ぬるりと肌に絡み付く。足を伸ばし浴槽の端にもたれてぼんやりしていると、眠くなってきた。
「……ヒカル様、そろそろお上がりになった方がよろしいかと……」
びっくりして目を覚ますと、ヴェルデ家のメイドがわたしのすぐ側にいた。声を掛けてきたということは、時間が結構経ってしまっていたのだろう。
「あ、すぐ上がります」
わたしの言葉を聞く、とメイドは静かに出て行った。
脱衣所で部屋着に着替えた頃、さっきのメイドが再び現れ髪をブローしてくれた。最後にとても香りのいいクリームを髪に付けてもらい気分が上昇する。
「それではお部屋までご案内致します」
わたしはメイドに誘導されて、あてがわれた客室に戻った。
「夕食は今から1時間後でございます。お支度をお手伝い致しましょうか?」
わたしは少し考える。着替えは大丈夫だが化粧はうまくできない。
「お化粧だけお願いできますか?」
「畏まりました。30分後にもう一度お伺い致しますので、それまでごゆっくりお寛ぎください」
メイドは丁寧に一礼して出て行った。広い部屋に一人残される。
二間続きのこの客室は一つが寝室、もう一つが居間となっている。
寝室には大きなベッドとクローゼット、ドレッサー、机があった。ドレッサーにはいつ用意したのか各種化粧品と道具が揃えられ、わたしの肌色に合うファンデーションまであった。
居間にはソファとローテーブルがゆったりと置かれ、壁際には本棚とミニバー、テレビが並んでいた。
外に面した壁一面を覆う大きな窓からは、空しか見えなかった。窓を開けるとバルコニーに出られると説明されていたが、出てみる勇気はまだ沸いてこなかった。
わたしは冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し一気に飲み干した。火照った体に染み込んでいく。
ミニバーコーナーは扉付きの棚と冷蔵庫で構成されている。棚には食器やカップ、グラスに加えナイフやフォーク、箸などの食卓用道具も備わっていた。冷蔵庫には各種ドリンク類はもちろんのこと、菓子や軽食も入っていた。わたしの好みが分かれば、それに合わせて入れ替えてくれるそうだ。
空腹を感じつつも夕食前なので我慢して寝室に向かう。キャリーバッグの中からフォーマルな席にも着用可能な紺色のワンピースと黒のパンプスを出した。キャリーバッグをクローゼットに押し込んでからさっさと着替える。
何の飾りもないスクエアネックのワンピースは、地味だが他に持ってきていないのでどうしようもない。他の服も転位後のごたごたでぼろぼろになってしまったので、何とか早めに服を買い揃えたい。
居間に戻り本棚を物色していると、部屋の外が騒がしいことに気付いた。話し声は聞こえないが複数の人が急ぎ足で行き交っているようだ。
気になって部屋のドアを開けて廊下の様子を窺う。きょろきょろしているとメイドが近付いてきた。
「お騒がせして申し訳ありません。予想外の方が急にお帰りになったので、館内がざわついているのです」
入浴時とは違うメイドがわたしを室内に戻してから言った。
「予想外の方というと?」
好奇心に駆られて訊ねてみる。
「クレア様の2番目のご子息のユート様です。訳あって別の場所でお育ちになったのですが、3年前にこちらにお帰りになりました。でもまたすぐに旅に出られて、ずっと西大陸を放浪されていたのです」
領主の息子が放浪とは自由過ぎるのではないだろうか。それにユート……?
メイドは考え込んだわたしには気付かない様子で話し続けた。
「クレア様の他のご子息も素敵な方々なんですが、ユート様は別格でして……。行く先々で話題になり、モデルなどの芸能活動もされていたのです。それで領主のご子息ということもあって、付いたあだ名が【漂泊の王子】なんです。素敵ですわ」
まだ年若いメイドは夢見るようにぺらぺらと話す。わたしは少しひきつりながら訊ねた。
「そのユートさんが帰ってきたんですね?」
メイドは大きく頷いた。
「はい! 元々奔放な方なのですが、先ほど何のご連絡もなくふらりと帰ってこられて……」
わたしはこのメイドが少々面倒になってきた。事情が分かったのでもう用はない。
「お忙しそうですし、もう仕事に戻ってください」
わたしの言葉にメイドは頭を下げて足早に去って行った。
「全く何が【漂泊の王子】なんだろうね」
わたしは飛び上がった。どこから湧いて出たのか、メイドが消えたドアから男性がするりと入ってくる。
「ヒカル、久しぶり」
わたしはその男性を見上げて動けなくなった。何というか……滲み出るオーラが違う。顔の作りなどはかなり近付かないと見えないわたしだが、この人が並外れて美しいのは分かる。メイドが騒ぐのも無理はない。
「どうしたの? まさか俺のこと忘れた?」
男性はぐっと顔を近付けてきた。焦げ茶色の瞳がわたしを射る。後退ろうとしたが腕を捕まれた。
「ななな何ですか!?」
動揺のあまりどもってしまった。男性は呆れたように言う。
「ほんとに覚えてないなんて、信じられないよ。俺のお姫様は残酷だなあ」
俺のお姫様という言葉が頭の中に引っ掛かり記憶を呼び起こした。
「ユート……って、え!?」
わたしをずっとお姫様と呼んでいたユートという人物は一人しかいない。ユートはわたしのはとこに当たる父方の親戚だ。さっき領主の息子がどうとか聞いたが……。
「え? ええーーーっ!?」
わたしは大声を上げた。
「ヒカルうるさいよ」
ユートはわたしの口を手で塞ぎ残った手で体を押さえ込んだ。じたばたと暴れようとしたがびくともしない。
「静かにするなら、離してあげる」
わたしは首を何度も縦に振った。ユートが手を離す。わたしは空気を求めて大きく呼吸を繰り返した。
かちゃり。何か金属音がした。
「誰も入ってこられないように、ドアをロックしたよ。これでしばらくは誰もこない」
ドアをロックしている間は使用人は誰も近付かないのだと、予め説明されていた。
ユートはわたしの前までくると片膝を付き、流れるような仕草でわたしの右手を取った。
「俺の父親はユータ・フジミヤ、母親はクレア・ヴェルデ。二人はリューテ島でしばらく一緒にいたけど、母さんは俺を産んでから一人でエール島に帰った」
優しくわたしの手を握るユートから仄かな熱が伝わってくる。じっとこちらを見つめて言葉を続けた。
「俺は15歳になって直ぐに、弾丸船に乗って西大陸にきた」
わたしは目を見張る。転位鏡を使えない大多数の人が大陸間を移動するには、危険な大洋を渡るしかない。弾丸船は大陸間を結ぶ唯一の船だが、危険が大きいために滅多に出航しないと聞く。魔物が出たときのために腕の立つ人たちを用意する必要があり、乗船費も法外な値段らしい。
「母さんや兄弟としばらく過ごした後、俺は旅に出た。強くなるために」
柔らかいものが手の甲に触れた。キスされたと気付いて、反射的に手を引こうとしたが許してもらえなかった。
「すべては俺のお姫様、ヒカルを守るために」
頭の中が真っ白になる。こういう経験がなさ過ぎてどうしていいのか分からない。
「だから、俺は王子なんかじゃなくて騎士なんだよ」
ユートが立ち上がった。
「俺が側にいることを許してほしい、この命を懸けて守ると誓うから」
歯の浮くような言葉をユートは真剣そのもので淀みなく話す。わたしは頭がぼうっとして、ただユートを見つめることしかできない。ユートはくすりと笑った。
「ヒカル、顔が真っ赤だよ」
ユートはわたしの手を離すと両手でわたしの頬を包んだ。
「すごく肌がきれいだね。他も触っていい?」
ユートの声は甘くわたしを呪縛する。無言を肯定と取ったのか、ユートは顔を近付けるとそのままわたしの唇にに口付けた。
「っ!?」
唇に触れる柔らかいもの……わたしはそれを嫌だと思った。早く離してほしいのに、体が言うことを聞かない。感情が高ぶり涙が溢れた。
「……嫌だった?」
わたしの涙に気付いたのか、体を離してユートは訊いた。
涙が止まらず言葉にならない。わたしは床に座り込み手で顔を覆って泣いた。
「ごめん、ちょっと急ぎ過ぎたみたいだね」
ユートの口調は優しいが、沈んでいるようだった。
「……ちょっと待っててね」
ユートがドアを開けて出て行く音がした。わたしはよろよろと立ち上がり、寝室に入るとベッドに突っ伏した。
ユートが嫌いなわけではない。キスされるまでは、王子のようなユートの言葉に酔っていた。唇と唇が触れ合った瞬間、呪縛が解け嫌悪感が全身を貫いた。
「ヒカル、今すぐ許してとは言わないから話を聞いて?」
寝室のドアの向こうからユートの声がした。
「ヒカルのことが好きだよ、一人の女性として」
……嬉しかった。でもなぜかまた、新たな涙が溢れる。
「ずっと好きだったよ、初めて会ったときから」
ドアの向こうからでくぐもっていても、ユートの声は甘くて優しかった。
「ヒカルが男に免疫がないのは分かってたけど、顔を見たら余裕がなくなって……本当にごめんね」
わたしは涙が止まっていることに気付いた。
「今は側にいることを許してくれればそれでいいから……側にいさせて?」
ユートの声が切なさを帯びる。わたしは体を起こした。
「大好きだよ、ヒカル」
心臓がどくんと大きな音を立てた。わたしは立ち上がると、ゆっくりと寝室のドアに向かった。
「ユートの阿呆!」
わたしは叫びながら、勢いよくドアを開いた。確かな手応えと共に、どさりと音がした。
「……っくっ!」
何だろうと思って確認すると、ユートが顔を押さえて踞っていた。
「……っ! ごめん、ぶつけるつもりはなかったの!」
相当強くぶつけてしまったのか、ユートは動かない。
「ほんとにごめん! 大丈夫?」
恐る恐るユートに近付く。ユートはゆっくりと顔から手を離した。わたしの目でも鼻が真っ赤になり、鼻血が出ているのが分かる。
「ヒカル、阿呆はどっちか一緒によーく考えてみようか」
甘い口調のまま低められた声に背筋がぞわぞわする。ユートは鼻血を垂れ流したまま、凄絶に微笑んだ。