5 予期せぬ出発
この声を……知っている。
「……マイア?」
わたしは恐る恐る訊ねた。マイアはわたしが祓いの仕事をしていたときの付き人だ。
「そうです! レティンソンの神殿で待ってたのに、何でこんなところにいるんですか!?」
マイアは少し体を離すと、吠えるように言った。金色の巻き毛と琥珀色の大きな目が愛らしい美少女だ。
「ええっと……どこから突っ込めばいいの?」
わたしにはなぜマイアがここにいるのか分からない。それに、あの変な乗り物は何なのだ。
「突っ込むところなんてありませんよ! まずはあたしの質問に答えてください!」
マイアはなぜだかものすごく怒っている。ぼろぼろの今の状態では太刀打ちできそうにない。
「マイアちゃん、ちょっと落ち着いて。ヒカルちゃん今、限界に近いから」
マイアはわたしから離れてフィルの方を見た。
「え!? フィル様何でこんなところにいるんですか!?」
マイアはさっきの勢いのままにフィルに問う。
「え?」
わたしは思わず声を漏らした。
「マイアちゃん、だから落ちついってってば。ヒカルちゃんが怪我してる。手当てできる?」
マイアが息を呑んだのが分かった。次の瞬間悲鳴が上がる。
「きゃーーー! よく見たら傷だらけじゃないですか! 何をどうやったらこんなことに……」
間近で叫ばれると耳が痛い。これ以上わたしにダメージを与えないでほしい。
「森の中を突っ切ったときの傷だよ。それより手当てを早く」
わたしの代わりにフィルが返事をしてくれた。マイアはゆっくりと息を吐き出す。
「分かりました。何が起こってるのかは謎ですが、今はヒカル様の手当てを優先します」
マイアはわたしの手を優しく取った。
「車の中に応急セットがあるので行きましょう。フィル様はここでお待ちくださいね」
マイアの手際は素晴らしく、10分ほどで手当ては終わった。深い傷はないようだ。
わたしは、もう限界だった。
「ごめんマイア、わたし、眠過ぎて……もう……」
何とか言葉を押し出し、わたしは後部座席に沈んだ。
目覚めたときに感じたのは、全身の痛みだった。あちこちの傷が痛む上に、変な体勢で寝ていたからか首と腰も痛い。
「うう……」
呻き声を上げると、マイアの声が降ってきた。
「あ、目が覚めましたか? テリーナの街に着きましたよ」
わたしは痛む体をなだめて、何とか上体を持ち上げた。目をこすって大きな欠伸をする。
「フィル様は大神殿でお仕事中です」
マイアはわたしが眠ったあとの状況を説明してくれた。
レティンソンから電車で30分ほど離れたダンブルで暮らしているというマイアは、ダンブル大神殿にしょっちゅう顔を出していてフィルとはすぐに知り合ったらしい。あれ? マイアは神官になった筈……ダンブルにいるのに大神殿で働いていないのだろうか……。
わたしが睡魔に負けた直後、車内でフィルはわたしと会ってからのことを詳しく話したのだという。後始末を頼むためにテリーナの大神殿に連絡を入れたいというフィルに、それならテリーナに直行した方が早いからと、マイアが運転してきたらしい。
この車はマイアが知人から借りた、水陸両用のソーラーカーなのだという。
マイアは以前サイカ大神殿で神官見習いをしていたので、当然フレミアを知っている。フレミアとの手紙のやり取りでわたしがレティンソンに行きたがっていることを知り、転位の日に現地で待ち構えていたそうだ。
なかなか到着しないわたしを心配していると、フレミアからレティンソン神殿のマイア宛に電話が入り、わたしが予定外の場所に転位してしまったことを知ったらしい。やはり猫のぬいぐるみはフレミアの仕業だったのだ。
半ば強引にこの車を借り、フレミアから聞いた地点に真っ直ぐ向かってきたそうだ。こんなにスピードが出るとは、どこかに魔法が使われているに違いない。。
「えっと、ヒカル様が起きたら伝えてくれって言われたんですが……レイとかいう人は無事に東大陸に転位したそうです」
マイアの口調はなぜか素っ気ない。ここがテリーナだと聞いたとき、もしかしてレイに追い付いたんじゃないかと期待したわたしは肩を落とした。レイのことを思えば喜ぶべきなのに、自分勝手なものだ。
「それは良かった」
わたしは沈んだ声で言った。せめてレイの探している人が見付かるように祈ろう。
「ところでマイア、神官服を着ていないのはどうして?」
神官は私室以外では必ず神官服を着ているものだ。マイアと再会してからずっと気になっていたのだが、訊ねる余裕がなかった。わたしの付き人をしっかりこなしたあと、マイアは西大陸で上級神官になるのだと聞いていた。
「ああ、あたし神官になるのをやめたんです」
「は?」
あっけらかんと告げるマイアに、わたしは言葉を失くした。マイアは上級神官を目指して幼い頃から修行していた。志が高く実力がなければ続かないことだ。それをどうして……。
「あたしには神官になること以上に、大事なものができたんです。それが何か、今は秘密ですけどね」
……言葉が見付からない。確かに見習いのうちは、神官以外の道を選ぶこともできる。しかし神官の道を捨てれば、長年の厳しい修行で習得した神術は使えないように封印されてしまう。全く普通の人になってしまうのだ。
でも誰かに強いられたのでもなく、本人の強い意思で決めたことならわたしにどうこう言う資格はない。
「マイアがそう言うなら、わたしは何も言わない。でもそれなら、これからは友達として、もっと気楽に接してほしいんだけど」
わたしが言うとマイアは鼻でふっと笑った。
「ヒカル様と、友達になる気はありません」
すっぱりと言い切ったマイアに、わたしはがっくりと項垂れた。心が悲鳴を上げている。
「だってヒカル様はあたしにとって、永遠に憧れの祓い師なんですもの」
マイアの口調はうっとりとしていて、憧れのアイドルの話でもしているようだった。
わたしは愕然とした。嫌われてはいないらしいと安心するが、とても複雑な気分だ。
「ええっと……マイア? わたしはもう祓いをする気はないんだけど……」
わたしが言うと、マイアは怒った口調になった。
「その気がなくても、できることが大切なんです! あたしにとっては魔導師としてのヒカル様の方がついでです!」
あまりの言い様に、今度はわたしが怒る番だった。
「勝手な思い込みで憧れないで! わたしが魔法を使うところを見たことないでしょ?」
見て分かるほどマイアの肩が下がる。
「ごめんなさい。ヒカル様を馬鹿にしたりとか、そんなつもりは全くないんです。ただ……」
マイアが言葉を続けようとしたとき、こんこんと助手席側のドアがノックされて開いた。
「遅くなってごめんねー。森の中の違法着鏡の件は、ここの神官に説明して、後片付けを丸投げしてきたからもう終わったよ。場所から言ってここの管轄だしね」
フィルが頭を車内に突っ込んで言った。
わたしは目覚めてから初めて、窓の外を覗き見た。光が弱まり濃い青に移ろう空、ここはだだっ広い駐車場のようなところで、他にも車が数台停まっている。駐車場の向こう側には一目で神殿と分かる武骨な建物があった。
世界中どこの神殿にも共通するのが、上から見ると正方形の平屋の建物ということだ。
テリーナ大神殿は石造りのようだった。灰色の壁に四角い窓が等間隔に並んでいる。ここからはドアは見えない。
「どうかしたの? 二人とも疲れてるのかな?」
空気が重いことに気付いたのか、フィルは心配そうに訊ねた。
「ええっと、確かに疲れてますけど……」
わたしは語尾を濁した。
「この車は日が沈むと動かないみたいだし、タクシー呼んだからとりあえずホテルに行かない?」
フィルの言葉とほとんど同時に、駐車場に静かに黒い車が滑り込んできて隣に停車した。機転の利く人だ。
わたしたちはタクシーでフィルが手配してくれたホテルに到着した。わたしは部屋に入るなり、森での汚れを落とすために浴室に飛び込んだ。このホテルは格式が高いようで質の高いアメニティが取り揃えられている。
服を脱ぐと、手足を中心に貼られた絆創膏や湿布が目に入る。
『あれ? そういえばもう痛くない……』
わたしはぺたぺたと体中を触ってみた。やはりどこも痛くない。試しに顔の絆創膏をぺりっと剥がしてみる。
「いたたた」
剥がすのが痛かったが、鏡に顔を近付けて確認しても傷はない。触ってもすべすべの肌があるだけで……いや、わたしの記憶にある自分の肌はこんなにすべすべではない。
慌てて絆創膏と湿布を全部剥がし、触って確認する。傷はきれいに治っているし、乾燥してかさかさだった膝や踵もつるつるだ。
震えが来た。何だか怖い。
わたしは全裸のまま客室に戻り、ベッド脇の電話に飛び付いた。
「もしもし、フィル様大変なんです!」
「ええっと、その声はヒカルちゃんかな? どうしたの?」
「体が……体が変なんです!」
「まあ、落ち着いて。深呼吸してから話して」
わたしの剣幕に全く動じる様子がなく、フィルは穏やかに言った。わたしは素直に一度深呼吸をする。少し落ち着いた。
「森でできた傷が全部治ってるんです。それに肌がびっくりするくらいつるつるすべすべになってて……」
「ああ、それはレイの治癒術の副産物だよ」
「え?」
「レイの治癒術は全身に作用するから、肌や髪もきれいになる。それに多少個人差はあるけど術後一ヶ月ほどは自然治癒力が大幅に上がる」
わたしは何も言えずに黙り込んだ。
「ああ……でもレイの正体はマイアちゃんには内緒だから、傷が治っちゃったら説明が面倒だなあ」
フィルはその後もしばらくぶつぶつと何やら呟いていた。
「うーん、この手は使いたくなかったんだけど、僕はレイを守りたいし仕方ないよね。ヒカルちゃん、今から1時間後に部屋に行くから、荷物をまとめて外出の準備をしといて」
「え!?」
わたしの叫びと共に電話は切れた。数分間呆然としていたが、自分が全裸なのを思い出し、慌てて浴室でシャワーを浴びた。
1時間後、部屋にやってきたフィルはこう宣言した。
「マイアちゃんには悪いけど、内緒でここを発とう。夜行列車のコンパートメントを2つ押さえたんだ。明日の夕方にはダンブルに着くから、通常傷が治るまでにかかる日数、マイアちゃんに見付からないように僕の知人宅に潜伏してて」
「ええ!?」
わたしはまた叫ぶ羽目になった。
次回の更新は3月16日の予定です