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38 真・月影の塔

 途切れ途切れに窓の方からピアノの音が聞こえる。ゆったりとして柔らかいメロディは、わたしの心を優しく撫でた。

 ゆっくりと目蓋を持ち上げる。窓の方に視線をやると、カーテンの隙間から薄暗い空が見えた。夜になる一歩手前頃だろうか。意識を失うように眠ったのは朝だったのに、こんな時間まで眠り続けるとは自分自身に呆れてしまう。

 部屋には誰もいなかった。暗さを増していく空と、時折聞こえるピアノの音色に少し切ない気分になる。

 支度を整えてからバルコニーへと足を向ける。外に出るとピアノの音がさっきよりはっきりと聞こえるようになった。そう言えば髑髏舘(どくろかん)の1階に白いグランドピアノがあったのを思い出す。誰かが演奏しているのだろう。

 わたしは部屋に戻ると、靴を履いて玄関を出た。

「ヒカル様、何かお食事をご用意致しましょうか?」

 ルーシャがドアの前にいて、声を掛けてくれる。

「お腹がペコペコなんだけど、ピアノを聴きに行きたいの」

 どちらを優先するべきか決められずに言うと、ルーシャはさらりと言った。

「ディーレノール様が演奏されているのですが、あのお部屋にはテーブルもございますので、お食事をご用意してお持ち致しますね。何がよろしいですか?」

 わたしが何でもいいと答えると、ルーシャは一緒にエレベータに乗った。1階に着くとわたしに一礼してから厨房の方に消える。わたしは厨房とは反対側の廊下を進み、ピアノのある部屋のドアを開けた。

 中庭に向かって大きく開け放たれた窓から少し冷えた風が吹き込み、咲き誇る春の花々の香りを運ぶ。ディーレノールはチラリと顔をこちらに向けたが、そのまま演奏を続けた。

 部屋には他に誰もいなかった。円形のテーブルがいくつか並び、その周りには椅子が置かれている。わたしは一番ピアノに近い椅子に座り、ディーレノールの演奏に聴き入った。

 10分ほどすると、ルーシャが食事を運んできた。大皿に盛られていたのは大量の握り寿司だった。わたしが驚愕するのを見て、ルーシャが小声で説明する。

「ディーレノール様が手配したリューテ島出身の寿司職人が握ったものでございます。存分にお召し上がりくださいませ」

 色とりどりの握り寿司に頬が緩む。わたしはルーシャに小皿に取り分けてもらったものを夢中で食べた。

 フジミヤ家にいた頃は、記念日や何かの節目の度に寿司を食べた。離れに住んでいたので賑やかな食事とは言えなかったけれど、父と一緒に楽しい時間を過ごした。

「ヒカル、大丈夫か!?」

 突然ピアノの音が止んで、ディーレノールが駆け寄ってきた。わたしが不思議に思って首を傾げると、いい香りのするハンカチを差し出してくれる。

「涙が出てるぞ」

 わたしは自分の頬に触れ、初めて泣いていることに気付いた。自覚すると涙が止まらなくなり、しゃくり上げてしまう。

「寿司はいっぱいあるから、とにかく食え」

 ディーレノールはハンカチをわたしに持たせると、隣の席に座ってわたしに寿司を取ってくれた。

 わたしはハンカチで涙を拭うと、数回深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

「ディー様、約束通り寿司職人を見付けてくれたんですね。ありがとうございます」

 頭を下げるわたしにディーレノールが言ったのはたった一言だった。

「食え」

 わたしは夢中で食べた。基本的に生魚を食べないエール島で、これだけたくさん新鮮なネタを用意するのは大変だっただろう。職人に感謝しながら食べる。

 わたしが小皿を空にすると、直ぐにディーレノールが新しいものを取ってくれる。涙は一度引いたのに、時間が経つとまた溢れ出して泣きながら食べ続けた。

「ご馳走様でした」

 30貫以上のの寿司を食べ終え、わたしは満足して背もたれに寄り掛かった。さっきまで寝ていたのにまた目蓋が重くなってくる。

「レイの強烈な抱擁は、かなり体力を消耗する。栄養も摂ったし、我慢せずに寝ろ」

 わたしは睡魔への抵抗をやめた。


 自室のベッドで目を覚ますと、辺りは闇に沈んでいた。サイドテーブルから腕時計を取って確認すると、午前2時を回ったところだった。

 あんなにたくさん寿司を食べたのに、空腹でお腹が鳴った。でもこの時間に使用人を呼ぶのは申し訳ない。わたしは食べ物を探してキッチンに行くことにした。

 寝室からリビングダイニングに出ると、何か柔らかいものに躓いた。

「わっ!?」

 何とか転ぶのは回避できたが、なぜドアの前にこんなものがあるのか。怒りを感じつつ照明のスイッチを押した。

「……」

 クッションに座り込んで眠っているレイがいた。わたしはクッションを邪魔にならない場所まで押しやってから毛布を掛けた。

 起きる様子がないので、そのままにしてキッチンに向かう。冷蔵庫の中には、ドリンク類とデザート類が大量にあった。

 チョコレートケーキとペパーミントティーで深夜のおやつを食べる。最近食生活が乱れている気がするが、今のところ変えるつもりはない。

 爽やかなミントティーは、濃厚なチョコレートケーキととても相性がいい。濃いチョコレートの味もさらりと洗い流されて後味が残らない。

 空腹が落ち着いたので、食器をシンクに運んで置いておく。わたしには食器の洗い方がよく分からないので、ルーシャに任せることにしている。

 リビングダイニングの照明を消してから、寝室のベッドに潜り込んだ。何か忘れている気がする。遠ざかる意識の中で、わたしはそう思った。


 小鳥の歌声は、いつ聞いても心が休まる。わたしはゆっくりと伸びをして、ベッドから立ち上がった。

「ヒカル様、おはようございます。レイ様がリビングダイニングにいらっしゃるのですが……」

 軽快なノックの後に現れたルーシャは、困惑した様子で言った。

「あ、忘れてた!」

 深夜に目が覚めた時レイが寝ていたので、誰かに頼んで部屋まで運んでもらおうと思っていたのをすっかり忘れていた。

「レイ、起きて」

 クッションの側まで行って声を掛けるが、反応が返ってこない。

「レイ!」

 少し大きな声で肩を揺すりながら言っても効果がない。わたしは少し考えてから口を開いた。

「あ、フェリーゼ様!」

 まるで魔法のようだった。今までびくともしなかったレイが突如立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回す。わたしがレイを起こす方法を見付けた瞬間だった。

「レイ、おはよう」

 笑いを押さえ切れずに言うと、レイは戸惑ったような声で言った。

「……おはよう」

 何が起こっているのか理解していないようだ。

「レイは昨日、わたしの部屋のリビングダイニングのクッションで寝てたんだよ」

 レイは足元のクッションを見てから、わたしの方を向いた。

「ふわぁぁ……ヒカルが起きたら、塔を見せてやろうと思ってドアの近くに陣取ってたんだ。……寝室に入ってまた無意識にヒカルを苦しめたりしないように……」

 大きな欠伸の後に告げられた言葉はだんだんと小さくなり、最後にはわずかに震えていた。

「塔?」

 レイの不安を打ち消すように明るく訊ねる。

「屋上に行こう」

 レイはわたしの手を取って言った。

 髑髏舘で生活して1月ほどになるが、屋上にきたのは初めてだった。花壇には可愛らしい花が咲き、東屋まで建てられている。

「こっちだ」

 レイに導かれて屋上の端に向かう。

「あれだ」

 レイが指差した方向には、天を衝く黄色い建物があった。ここからそれほど離れていない場所にあるので、上層を見上げると首が痛くなる。

「え? 矢印じゃなくなってる!」

 雲一つない青空に浮かぶのは、ピラミッドを失った月影の塔の姿だった。雰囲気まで今までと違うように感じる。

領主館(マナーハウス)はヴェルデ家の私有地である近くの公園に無事に下ろされた。あの時塔にいた人間も全員無事だ……ただし」

 レイは一呼吸置いてから続ける。

「神気が戻ったから、一般人は塔のある丘にも立ち入れなくなって、1階のダンブル市役所と2階のエール地方庁のオフィスが使えなくなった」

 住民サービスの窓口が停止してしまっては、大変な混乱状態に陥ってしまうだろう。

「地方庁の臨時オフィスはピラミッドのエントランスとか食堂で代用してるけど、市役所の方が大変で……」

 レイは深い溜め息を吐いた。

「結局塔から1番近い小学校の体育館に仮設オフィスができたんだけど、地方庁の分も含めて書類がほとんど塔に残ってるから、運び出す作業に駆り出されて昨日は大変だった」

 神気を取り戻したという塔には、上級以上の神官、魔導師と光導師しか入れない状態に戻ったのだろう。

「その作業、1日じゃ終わらないよね? 今日はわたしも手伝うよ!」

 勢い込んで言ったが、レイに却下されてしまった。

「今日は大陸中の神殿から応援が到着するから、必要ないって言われた。俺が行かないからヒカルも駄目だ。昨日は仕方なかったけど、王子に肉体労働をさせるのは、かなり心苦しかったみたいだぞ」

 レイは何かを思い出したのか、小声で笑った。

「久し振りに外に行けると思ったのに……」

 わたしが俯き加減に言うと、レイに肩を叩かれた。

「安心しろ。明日からレティンソンに連れて行ってやる」

 わたしは複雑な気分になった。レティンソンには行きたいけれど、レイと猛勉強をすることを思うと心が重い。

「嬉しくないのか?」

 レイがわたしの顔を覗き込んで訊いた。

「嬉しいけど、勉強が……」

 嫌だ、と続ける前にレイが言葉を割り込ませた。

「あんまり詰め込んでも頭に入らないだろうから、勉強は午前中だけにしてやる。午後は好きにしていいぞ」

 わたしは思わずレイに抱き付いた。

「レイ、ありがとう!」

 レイもわたしの背中に腕を回す。

「2人での初旅行だな」

 わたしは驚いて顔を上げた。

「レティンソンってダンブルから電車で1時間って聞いたけど、毎日通うんじゃないの?」

 レイは苦笑した。

「ヒカルは何にも知らないんだな。レティンソンは特殊な場所で、図書館群に入場するには高い金がいる。入場料は入る度に必要だから、毎日行ったらとんでもない額になる。でも入ってしまえば滞在日数に制限はない」

 理屈は分かったが、気になっていたことを訊いた。

「案内人はどうするの? ミリヤ様はお忙しいだろうし……」

 なぜだかレイが笑顔を見せる。

「ミリヤよりも信頼できて、レティンソンにも詳しくて、気楽に使える人間がいるんだ」

 わたしは首を傾げる。髑髏舘の使用人だろうか。

「それは誰?」

 レイの笑みがますます深くなる。

「ディー兄貴だ」

 



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