36 懐かしい人
ミリヤはゆっくりとわたしの背中を撫でてから体を離した。
「ヒカル様、椅子に座ってお話ししましょう。レイ様、よろしいですか?」
ミリヤはわたしの背後にいるレイに訊ねた。
「ミリヤというと新人の教育係として、フェリーゼ様がレティンソンから呼んだという神官か?」
レイはわたしの腕を引っ張って立たせた後、跪いたままのミリヤに訊いた。ダンブル大神殿の内情に相当詳しいようだ。
「はい、光栄にもフェリーゼ様にお声を掛けていただき、現在ダンブル大神殿におります」
レイは一歩ミリヤに近付いた。
「そうか、次からは俺やヒカルに会っても、跪く必要はないぞ。堅苦しいのは嫌いなんだ」
レイはミリヤに手を差し伸べて立ち上がらせた。
「ヒカルとは旧知の仲のようだし、好きなだけ話してくれ」
ミリヤは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ヒカル様、こちらへどうぞ」
ミリヤが引いてくれた椅子にわたしが座ると、レイは本棚の方に戻って行った。
「ヒカル様のことはずっと気に掛かっていたので、フレミア様と手紙のやり取りをしてずっと様子を伺っていたのです」
自身も椅子に腰掛けると、ミリヤはゆっくりと話し始めた。
「あまり細かいことは教えていただけませんでしたが、ヒカル様が西大陸に転位する予定だと伺い、またお会いできるかも知れないと楽しみにしておりました」
パオンがわたしたちの前にそっとカップを置いた。飲んでみると優しい味わいのカフェオレだった。
「先月の転位日の後、王族の方がダンブルにお見えになったりして何事かと思っておりましたら、ヒカル様が祓いをされるとのことで、大変驚き心配もしました」
ミリヤはカップを口に運び、喉を潤した。飲んでいるのは色と香りから判断してブラックコーヒーのようだ。
「当日は私もフェリーゼ様の随員として、間近で祓いを拝見しました。とても美しく感動的な祓いで涙が止まらず、しばらく動けなくなったほどです」
祓いが行われる時神官たちは舞台近くで跪き、終わるまでずっと祈り続ける。あの酷い天気では大変だっただろう。
「祓いが成功したのは、わたしだけの力ではありません。付き人をしてくれたディー様や神官の皆さん、ヴェルデ家や地方庁の職員の皆さん、遠い場所から支えてくれたレイ、祓いを見にきてくださった皆さん、それにこのバングルをくださった細工師の方も……あ、細工師の方のお名前を訊くのを忘れてた!」
バングルに刻まれていた細かい文字は、祓いの途中で空中に流れ出て魔法陣に吸収されて消えてしまった。残ったバングルは特殊な力はなくなったものの、非常に美しく華奢な作りなのでそのままアクセサリーとして身に着けている。
「そのバングルを作った細工師なら、知っていますよ」
ミリヤが浄化石に軽く触れながら言った。わたしは身を乗り出して訊ねる。
「どなたですか!? その方の弟子は、わたしが東大陸で祓いをしていた時の付き人なんです」
ミリヤは胸のポケットから手帳を出すと、ページを開いて読み上げた。
「東商店街の奥に店を構える元神官のデレク・ワットです。ヒカル様が行けば、弟子共々喜ぶのではないでしょうか?」
マイアの師匠も元神官とは知らなかった。不思議な縁もあるものだ。
「ありがとうございます! 天気が回復したら訪ねてみます」
現在わたしたちが外出禁止なのは話せないので、尤もらしいことを言っておく。
「お役に立てて何よりです。ところでヒカル様は以前から読書がお好きでしたが、もうレティンソンには行かれましたか? この店に置いてあるのは、学問に関するものが多くて少し堅苦しいのです。レティンソンなら世界中の本が集まっていて、読書家にとっては楽園のような場所ですよ」
ミリヤの言葉が終わると、少し離れた場所から控えめな咳払いが聞こえた。
「西大陸一の規模を誇るレティンソン図書館群と、ダンブルの街角にあるちっぽけな古書店を比べるのは間違いですよ。でもヒカル様、レティンソンは本当に素晴らしい場所なので、時間ができたら訪問されるといいかも知れません。ただし街全体が迷路のように複雑なので、案内人は必ずお付けください」
パオンはミリヤの背後に立ち、静かな声で言った。レティンソンにあった筈の創世記が、今はダンブル大神殿にあると聞いてから興味は薄れていたが、やはり魅力的な場所のようだ。
「私はレティンソンにいる間、足繁く図書館群に通っていました。ボランティアガイドの資格も取りましたので、私が休みの日でよければ、ご案内致しますよ」
嬉しい申し出だけれど、月に2日しかない神官の休日を奪ってしまうのは申し訳ない。わたしが悩んでいると、いつの間にか側にきていたレイが提案した。
「図書館群は魔窟のような場所だから、案内人がいないと確実に迷う。行く時はフェリーゼ様に正式に依頼して、仕事としてミリヤを貸してもらおう。そうすれば休みを潰さずに済む」
わたしは思わずレイの腕を掴んだ。
「レイ賢い! ありがとう!」
レイはわたしの頬をむにっと引っ張った。……痛い。
「ギール学園の第3学年程度の学力しかないヒカルに、賢いって言われても嬉しくない。今ある諸々が片付いたら、レティンソンに籠って徹底的に指導する。あそこなら参考書や問題集も各種揃ってるだろうからな」
わたしはがくりと項垂れた。やはり学力テストの結果はあまりよくなかったらしい。
「勉強やだ」
レイを見上げて訴えたが、鼻で笑われただけだった。
「ヒカルが学校に行けなくなるだけだから、別にいいんだぞ?」
レイを見上げる目に涙が滲む。
「じゃあ、頑張る」
レイはわたしの頭を優しく撫でた。
「そういうわけだから、依頼した時はよろしく頼む」
レイの言葉を聞いてミリヤは頭を下げた。
「畏まりました。ご案内できる日を、楽しみにしております」
レイは軽く頷くとわたしに向き直った。
「そろそろ本館に戻ろう。ヒカルが喜びそうな本を見繕っておいたから、後で読んでみるといい」
わたしはレイに笑顔を向けた。
「ありがとう! レイは意地悪だけど、優しいよね!」
さっきと反対側の頬を引っ張るレイ。……かなり痛い。
わたしたちはミリヤとパオンに礼を言ってから本館に戻った。
自室に戻るとスニーカーとソックスはもちろんのこと、パオンの店にあった古書も数冊届いていた。時間がないので夕食後に読むことにする。
「カフェのメイドたちがヒカル様にご無理を言って、申し訳ございませんでした」
リビングダイニングにいたルーシャが、突然腰を深く折って謝った。意味が分からずに呆然としていると、ルーシャが顔を上げて続ける。
「ヒカル様にカフェの制服を着させてしまったことでございます」
わたしはやっと納得して口を開いた。
「わたしが着たいと思ったから、着ただけだよ。ミーシャたちもレイも喜んでくれたし、わたしも楽しかったよ」
ルーシャはカフェには興味がないらしく、別館に行くことはほとんどないという。
「使用人の服を着させてしまったのが、問題なのでございます。でも今回はレイ様が喜ばれたというなら、よしとしましょう。でもこれからは十分お気を付けくださいね?」
わたしは大きく頷いた。
「レイはここの使用人全員を信用してる。だからわたしも普段そんなに接点がない人でも、全面的に信じられる。わたしだって信用してない人には警戒するよ」
ルーシャは息を吐いた。
「ヒカル様はとても素直でいらっしゃいますが、その分危うく見えることがございます。レイ様がお側にいらっしゃれば大丈夫だと思いますが、悪い人間に利用されないよう、本当にお気を付けくださいね?」
こうやって心配してくれるのは、嬉しい反面むず痒くもある。わたしはルーシャに言った。
「うん、気を付けるよ。心配掛けてごめんね」
ルーシャは一拍置いてから答えた。
「分かっていただけたならよろしいのです。もうすぐご夕食のお時間でございますので、ご準備をお願い致します」
ルーシャはわたしの部屋を出て行った。
夕食のために着替えてレイの部屋に向かおうとすると、エレベータ前でルーシャに呼び止められた。
「本日のご夕食場所は、地下の特別室でございます。ご案内致します」
ルーシャが案内してくれたのは、地下倉庫の近くにある部屋だった。
「私はこの部屋には入れませんので、ヒカル様お1人でどうぞ」
特別室という響きに緊張しながらドアを開けると、現れたのは高級レストランの個室のような部屋だった。天井から下がる小振りのシャンデリアが、上品な光を落としている。奇抜な部屋ではなかったので、肩の力が抜けた。
「ヒカル、待ってたぞ」
1人で座っていたレイが立ち上がり、わたしの手を引いて1つしかないテーブルに案内してくれた。
「この特別室は特殊な造りになっていて、どんな魔法も通さないんだ。内密な話をする時はここを使う」
再び神経が張り詰めた。大事な話なら食事の後にすればいいのにと密かに思う。
「ここには後、フィンとディー兄貴がくる」
ディーレノールに会えると聞いて、少し心が弾んだ。祓い以来まともに会話をしていないのだ。
「兄貴は俺が書いた塔の件の報告書を持って1度王宮に戻り、父上の意向を確認してきてくれたんだ。場合によっては今後の俺たちの行動が制限される可能性もあるから、覚悟しといてくれ」
ますます緊張の度合いが上がった。神王陛下の意向に逆らうことなどできない。わたしはテーブルに置かれていた小さなグラスの水を飲む。
「……っ!?」
水に見えたのに水ではなかった。かなりアルコール度数の高い酒だ。空腹の身には辛過ぎる。
「これは王宮で作られている穢れを落とすための酒だ。一気に飲むときついぞ」
そういうことは飲む前に教えてほしかった。生理的な涙が溢れ、鼻も詰まる。10秒ほど苦しんだ後、全ての苦痛が見事に引いた。
「何これ!?」
頭がすっきりとして気分も体調も最高だ。
「普通に生活してるだけで、穢れはどうしても付いてしまう。それを強制的に落とすんだから、少々飲みにくくても効果は抜群なんだ」
わたしはグラスの残りを飲み干した。酒の成分が体の隅々まで行き渡り、全身が光に包まれた。
「え!?」
光は直ぐに収まったが、何だか不思議な感じがする。
「今の光は神の祝福と呼ばれてる。初めて飲む奴の、半分以上に出る現象だから心配するな」
わたしは肩の力を抜いた。




