打開策
山形県N市
「ただいまー」
グラウンドに到着後、いつものルーティンを熟したN`Carsのメンバーは、全員自宅に帰っていた。松浪も、酒田から長井に引っ越して以来住んでいる職場近くのアパートの自分の号室に帰って来た。
アパートは2階建てで、駐車場も数台分のみと、全体的にこじんまりとしていて決して大きくはない。だが高卒以降独身の彼にとっては、この位の規模でも十分なのだ。
自分以外に誰も住んでいない部屋ではあったが、本能で挨拶を言った後、家でのいつものルーティンに入った。
まず、玄関のドアを閉めた後、靴を両足揃えて踵を部屋に、爪先を玄関のドアにそれぞれ向くように置く。荷物を置いた後、洗面台で手洗いと嗽をする。近くに洗濯機と浴室があるので、ユニフォームの汚れを洗濯板を使って取れるだけ取った後、洗濯表示に従って処置を行ってから洗濯機で洗濯する。その間に自分は浴室でシャワーを浴びる。着替えとタオルは前日に用意していたのでそれを使う。
だが、松浪はシャワーを終えて着替えても尚もやもやとしていた。それは自らの先輩の状況である。AMラジオで聴いていた時は、結構苦戦していた。同郷の身とあって、自分でも何か出来ることをしたかったが…、自分だけ1人で車で戻っても、戻っている間に試合が終わってしまっているだろう。こうなればテレビ観戦しかない…。松浪は覚悟を決めて、テレビのリモコンの電源ボタンを押した。
―また更に酷いことに…、ん?
4ウラ
村山K 7
酒 田 10
―…10対7…? あれ、ちょっと大人しくなった?
テレビ画面の右下に書かれてあったスコアを見て、そう思った。自分の予想では、もう少し酷くなっていると思っていたが…。
キィン!
『これは打ち取った、セカンド正面! 1塁へと渡って3アウト。ランナー1人残塁、しかしこの回、酒田ブルティモアズは初回、2回に続く集中打で3点を勝ち越しました。酒田ブルティモアズの打順はこの回で既に4巡目に入っています』
―4巡目って凄いな…、あっ。
洗濯機から、洗濯が完了したことを告げる音が鳴った。松浪は立ち上がって、洗濯物を取りに行った。
―てかもう5時過ぎてんだな…。5時半前じゃん。日暮れも近いからなあ…、思い切って部屋干しにするか…。これ全部干したらスパイクシューズとアップシューズの手入れして、それから夕飯の準備だ。
気付けば陽はだいぶ西に傾いていた。松浪は次以降にすべき行動を決めた後、すぐにてきぱきと行動を開始した。
再び山形県H郡N町 羽前球場
「大分遅くなったな…」
「何時間位経った?」
「多分100分位」
「時間で言えよ。1時間40分位だべ?」
この試合を観ていたお客さんからも、段々とそのような声が聴こえて来た。そんな声をよそに、荒瀬はこの回もマウンドに上がる。
「4回は抑えたけど、3回までと何か変わった?」
永田の質問に、平山はマウンド上での荒瀬の投球練習を見てから答えた。
「やっぱりな…、間違い無い。荒瀬は投球モーションと配球を変えて来ている」
「えっ?」
「良く見てみ。今投げている時のモーションは4回からやっているモーション。本来ピッチャーズプレートに掛けた軸足からステップすべき幅が5~6足分とされているところを1足分短くして、右腕のテイクバックも小さくしている。投げているボールも4回の時と同じで、スピードをかなり抑えている…。多分本来の2/3位だろう。その代わりコントロールを重視して、打たせて取る配球に切り替えている」
「だもんな…。3回まではもっとステップ幅があって、テイクバックも大きめで、何ならスピードだって結構あった。最上オールラインズ戦はそれであのベストピッチングだったが、今日はそれが駄目だったのでこれに切り替えたんだろう。少なくとも、4回の登板前にキャッチャーの飛島から耳打ちされる辺りまでには言われているだろう」
情野が会話に加わったことで、平山の説明に深みが増した。しかしながら、永田他大多数のお客さんには、荒瀬がまた複数失点するのではないかという懸念があった。
再び山形県N市 松浪のアパート
『これから漸く5回の表の攻防に入るところです。そしてマウンド上、荒瀬の投球練習中に内外野の照明灯が全て灯りました、これから点灯試合です。同時にレフトとライトのライン際に線審2人も加わりました、この後は6氏審判の体制で試合を進行します』
洗濯物を室内に部屋干ししている松浪の傍で、点けているテレビの実況アナウンサーが言った。松浪は全ての洗濯物に出来るだけ皺が寄らない様に伸ばしつつ干した後、玄関へと向かった。荷物を入れているバッグからスパイクシューズの袋を取り出した後、スパイクシューズを取り出して、刃が玄関の床に着かず、且つ両足の刃の面がお互いを向き合う様に、帰って来た時に揃えて置いた靴、則ちアップシューズの右隣に置いた。そのまま松浪は両方のシューズの手入れを始めた。
再び山形県H郡N町 羽前球場
差し込む西日で西側がオレンジ色に、無数に設置された照明用の電球から放たれたカクテル光線でそれぞれ空が照らされる中、長い試合は漸く5回の表が始まった。
確かに平山の言う通り、荒瀬のモーションは4回からステップを1足分短く、テイクバックも小さくしている。そこからスピードを本来の2/3程に抑えたボールを投げる。
キィン!
しかしそのボールを早いカウントから捉えられる。打球は右中間へ鋭く飛ぶ。
バシッ。
しかしこれはライトの本楯が頭上へ左腕を伸ばしながらランニングキャッチ、ライトライナーで1アウト。
キィン!
次の打球はセンター後方へ大きく上がる。しかしセンターの新堀が背走の後、センターフェンスの1、2m手前でこちらを向く。
パシッ。
ライトの本楯に続きセンターの新堀も外野へ飛んだ大きな当たりを守備範囲で収めて、早くもこの回2アウト。
「早いなもう2アウトか…」
「打たせて取る投球が巧くいってるな…ステップとテイクバックを小さくして球威を抑えただけでこんな巧くいくのか…」
「いや、そんなに巧くはいかないよ」
永田と情野の会話に、平山も加わった。
「普通は少し改善しただけでこんなに巧くはいかない。どんな投手でも状態が悪ければ修正は入れるけど、だからってこんなにほぼ綺麗に抑えれるとも限らない。おそらくこのモーションでも練習して来たに違いない」
平山の分析を聞いた2人だが、情野は一瞬疑問に思った。
「でもオレもそうなった時あるけど…、その3つを直しても巧くいかなかったよそん時」
「それはその3つ以外に原因があったからだと思う。例えば体の開きとか。ただ今日の荒瀬に関しては体の開きは初回から同じなので、さっきから言っている3つに原因があると読んで、そこを重点的に変えたら、巧く嵌まりました、という」
「でも結果がでしょ?」
「結果はね。でもそういう結果になっているということは、何パターンかモーションを用意して、その何れにもモーションのうちのどこを重点的に意識して投げるか、って言うのをやって来たんだと思う」
はー成る程…。平山が情野と永田にそれぞれ自分なりの分析を基に説明したのを聞いて、2人は納得した。
パシィ!
「ボール!」
永田がスコアボードの球速表示を見遣る。
「本当だ…。110km/h のボールでモーションも小さかったけど、ちゃんと構えたとこに投げられてる。今のボールも最初からそこに外すテイで構えてたんだろうからな…」
「いや、結構ギリギリだよ。ちゃんと見られてるだけ打者の勝ちだけど、あれだけの際どいコースに確りと入れられてるだけバッテリーの勝ちだよ。つまりはそれだけの際どい球で確りと打ち取る配球だったんだ…」
「あ、そっか。打たせて取る配球だもんな。すまんすまん」
平山に反論されて、この配球がそもそも打たせて取る配球だったことを思い出した永田は、素直に詫びた。
「でもたとえはっきり外すとしても確り構えたとこに投げなきゃ意味無いもんな…。本来145km/hの重みのあるストレートを投げる彼が100とか110km/hとかのボールを投げるのはそれだけで苦心するんだろうけど、これだけ確り投げられているんだからな…」
「それはね。30~35km/hも遅いボールをコントロールするのは逆に難しい、ってのはわかる。けどそれをコントロール出来ているのはその手のボールもマスターしたという証拠。そして村山キーストーンズの各バッターがそのボールを投げ始めた途端打ち取られ続けているのは、スピードを遅くしたことによる錯覚だけで無く、バッターに打たせて取れるコース、つまり打っても…、どんなに良い当たりをされてもバックの守備範囲で打ち取れるコースに投げられているという証拠だ」
情野の言葉に平山がもう一歩踏み込んだ分析をする中、
キィン!
痛烈な打球が飛ぶ。しかしサード広野の守備範囲。三遊間へ飛んだ低い打球を捌いてファーストの平田へ、3アウト。
「もう3アウトか…」
「この回早かったな…」
「ああ…」
情野、平山、永田の3人が三者三様に5回の表が早く終わったことに呆気に取られる。平山がお茶を少し口に含んでペットボトルのキャップを締め直した時、5回の表の村山キーストーンズのスコアボードに0が灯った。その中を西日を背に、酒田ブルティモアズの選手たちが3塁側ベンチに戻って行く。
再び山形県N市 松浪のアパート
『4回まで毎回ランナーを背負っていた荒瀬投手ですが、この5回はこの試合初めて3者凡退に抑えました』
―あれ、三凡だったんだ…。いけね、次の行動。
テレビから聴こえたアナウンスに一瞬止まっていた松浪だったが、すぐに切り替えた。アップシューズとスパイクシューズの手入れに使ったであろう古い布巾と古い歯ブラシを持って洗いに行った。




