放課後、古本屋で雨宿りしたんです
とても困りました。
雨だというのに、傘を学校に忘れて来てしまったんです。
学校を出る時には降ってなかったのに、降り始めてしまいました。
もしも純くんが横に居れば、彼の傘に入れてもらう絶好の機会だったに違いありません。
ですが純くんは進路についての面談および昼間の唐揚げ弁当事件に関する事情聴取があるそうなので、久しぶりに一人で帰ることになったのです。
私は鞄を頭の上に載せて、ウァーだとかアヤヤーなどと言いながら走ります。
だんだんと雨が強くなってきます。まずいです。雨音がポツポツという旋律からザァザァという雑音へと変化する前に、雨宿り先を発見しなければなりません。
ふと顔を上げた時、大きな古本屋がありました。
私はそこで、雨が止むまで待ってみることにしたのです。
高校生でありながら、初めての古本屋です。
「いらっしゃっせー、こんちはー!!」
男性の、威勢の良い声が響いてきました。それで私は、間違えて魚市場にでも入ってしまったのかと勘違いしそうになりましたが、明るい照明の下で本たちが整然と並べられていたし、生臭くもなく強いて言えば雨の匂いとおじいちゃんの書斎みたいな匂いが僅かにするくらいでしたので、やっぱりそこは古本屋です。
多くの人で賑わっており、音楽CDやトレーディングカード等、古本以外も陳列されていたりと、不思議なお店だと感心させられます。
「いらっしゃいませぇ、こんにちはー!」
今度は女の人の声でしたが、至近で発声されたために、私は、ビクッと体を弾ませました。心臓に悪いです。
そんな感じで、ひとしきり立ち読みする人々の密林を抜けたり、ふらふらと店内を見て回った後、私も立ち読みをしてみることにしました。初めての古本屋で、立ち読み初挑戦です。
ふと、ハードカバーコーナーで、高いところにある本が目に留まりました。
作者の名前が、ナントカ正義さんだったからだと思われます。
私は正義を目指す人間なのです。あの本を書いたのは、正義という名前を持っている人なのだから、さぞかしジャスティスな人なのでしょう。私は今後の身の振り方の参考にしようと思い、その人の本を立ち読みしてみることにしました。
「んっ、うぅん……」
身体をめいっぱい伸ばしてみましたが、なかなか書籍を掴むことができません。ギリギリ指先は触れているのですが、ちゃんと引っ張り出すには至らないのです。
なんとか本を掴もうと、爪先立ちを頑張ります。
「んしょ、んしょ……」
呟きながら、手を伸ばします。
ああ、なんだか段々とイライラしてきました。どうしてこうも正義と名のつくものは掴みがたいものなのでしょうか。
ふと、私の頭の上から手が伸びました。ごつごつした手でした。
男性が、私が取ろうとしていた本に手をかけようとしたのです。
近付く手。男性の手が今にも正義さんの本に触れようとしています。
しかし、その時でした。
「いってっ!」
男性が苦しそうに声を上げました。
「あぅ!」
と私も声を発しました。
要するに静電気が走ったんです。バチっとして痛かったです。私が痛かったのだから、相手も痛かったはずです。静電気とは、えてしてそういうものです。
私は、やばいと思いました。
静電気が溜まっているというのは、不健康の証左だという話をどこかで聞いたことがあります。もしかしたら私は不健康なのかもしれません。考えてみれば、思い当たるフシが無いでもないのです。朝にテレビを見ながらボンヤリしているうちに遅刻確定してしまうのも、不健康がためかも知れないのです。
つまり、こんなことになってしまったのは、不健康な私のせいです。
「あのあの、おにいさん、すみません!」
スーツ姿の男の人に向かって頭を下げました。サラリーマンの方、というよりは、もっと若く見えます。就職活動中の大学生さんかも知れません。いずれにせよ、私よりも年上であることは確実だと思われます。
つまり、年上の殿方に静電気をくらわせてしまったというわけです。大変です。
「いや、いいけど……」
「おにいさん、どのようにお詫びをすれば良いのでしょうか。痛みを与えた罪を償うには、どういう方法が良いと思われますか? やはり私も椅子に座って電流を浴びるくらいしないといけないでしょうか?」
「いや、たまにあることじゃないか。気にしなくていいよ。それよりも、上にある本が欲しいんでしょ?」
スーツの人は正義の本を指差しました。
「いや、あの、ちがうんです。欲しいわけではなくてですね、ただ立ち読みがしてみたいというか……ところで、立ち読みというのは、正義に反するでしょうか?」
「ん?」
しかめ面をされました。
うまく伝わっていないようなので、懸命に説明を試みます。
「おにいさん、私は思うんです。本というものは、作家さん、それから出版に関わる多くの人たちが精魂込めて作っているものだと思うんです。それを古本屋でホイホイ立ち読みしてしまうのは、どうなのでしょう。やはり新品で購入し売り上げに貢献しなければいけないのではないでしょうか」
「別に、いいんじゃない?」
乾いた笑いを放った後、それじゃあね、と言って男の人は去りました。
私はスーツの人の背中を見送って、再び正義の本と相対します。
頑張って身体を伸ばしてみます。もしかしたら右腕より左腕の方がうまくいくのではないかと考えてやってみましたが、どうもギリギリ届かないようです。
その時、膝のあたりにあった本たちを圧迫しており、十冊ほどバサバサと落下しました。
「うあ!」
私としたことが、大事な商品を!
慌てふためかざるをえません!
誰かに見られていやしないかと思ったら、店員のアゴヒゲメガネ男さんと視線がぶつかったではありませんか。
湾曲したガラス越しではありますが、しっかりと見られていました。
しかし、私が謝罪の言葉を口にしようとした瞬間に、店員さんは私が散乱させた本を整理しながら言いました。
「す、すみません、すみません、すみません、申し訳ありません、ただいま整列いたしますので!」
ペコペコしています。
どういうわけでしょう。
私が悪いことをしたはずなのです。それなのに、私ではなく彼が謝っているわけです。よくよく考えてみると、この状況は、実は大変なことなのではないでしょうか。
アゴヒゲメガネ男さん、略してアメオさんには何の罪も無いのです。それなのに、私が謝るべきなのにアメオさんが謝るということは、つまり……私の罪が奪われてしまったということではないでしょうか。
盗まれてしまったのです。大変です。このままでは私の罪悪感が臨界を迎えてしまいます。悪いことをしたら謝らないと気が済まないのです。
「あのあの、店員さん、ちがうんです。私が悪いのです。店員さんが謝る必要など、何一つ無いはずです」
しかし店員さんは、まるで私の声などきこえていないかのように、「すみません」を繰り返して古本たちを並べ直しています。
やがて、全てを整え終えたアメオさんは、エプロンで手を拭いてから、朗らかに、
「失礼いたしました、ごゆっくりどうぞ~」
と言った後、
「いらっしゃいませー、こんにちはー」
透き通った声で言いつつ、私の前から去ろうとします。
しかし、私は釈然としません。
「まってください!」
アメオさんのよく手入れされたスベスベの腕を掴みました。
「どうかしましたか?」
「あのあの、店員さん、おかしいです」
「はい?」
「よくないと思うのです。私が謝るべきところでした。なのに店員さんが謝罪の言葉を繰り返すのは、いわば私の罪を窃盗して庇ったことになると思うんですよ。犯罪者を庇った人もまた、犯罪者になると思いませんか? それを見逃しては正義に悖るのではないでしょうか。私たちの頭上にある正義という文字が泣いてしまいます」
「何を言ってるんだ、君は」
「わかってくれないようなら、仕方ありません。私はあなたを捕まえなくてはいけません。現行犯です。その上で、あなたに罪があるのか、それとも私だけが罪を背負ってしまったのか、第三者に判断してもらおうではありませんか」
「え、いや、何言ってるんだ。ていうか腕、放して――」
「だめです」
アメオさんは、正義や罪に対する考え方がおかしいので、啓蒙する必要があると思うんです。