あのあの純くん、ちがうんです
数年後のお話です。
あのあの純くん、ちがうんです、道路が渋滞していたんです。
そこで私は後部座席から車道に躍り出ました。車を運転してくれていたおとうさんには、本当に申し訳ないことをしたと思います。でも、純くんを待たせるわけにはいかないと思ったんです。
そんなわけで、車を降りて追いすがってくる追跡者の静止も振りほどいた私。純白のドレスを汚してしまうことも気にせずに、止まっている車の間を抜けていきます。そして、やっとこさ歩道に出ようとした時でした。
自転車に轢かれたんです。
ちがうんです。ちゃんと安全確認はしたつもりでした。不注意だったというよりは、白いベールで視界が遮られていたせいなんです。
「おのれッ、『夢魔の車輪』か!」
ええそうです。さすが純くん、その通りです。かつて純くんをこれでもかというほどに苦しめた『夢魔の車輪』が、何年かぶりに現れて私たちの邪魔をしようとしたんです。
「なるほど、それで合点がいった。だが、まやかが着ておるのは魔を寄せ付けぬはずの聖衣。此度の儀式のためにしつらえた特別製だというに、それほどまでに魔に蝕まれるとは……なんという魔科学力。ヤツめ、ついに本気を出してきおったか」
格好いい純くんのタキシードも、どういうわけか汚れて見えます。さては、純くんのところにも現れたというわけなんですね。
「いや、我が魔力に恐れをなしたのだろう。俺との戦闘は避けたようだ。弱き者を狙い轢くとは、卑劣な車輪よ。まして、儀式前の汚れてはならぬ聖なる女を轢くなど」
本当にその通りだと思います。痛かったです。
「だがな、まやか。なぜ聖衣の姿で駕籠なんぞに乗っておったのだ。聖なる誓いの祭壇に辿り着いてから着用する手筈ではなかったか?」
ちがうんです。遅れそうになったから家から装備していったというわけでは絶対にありません。では、なんで私がウエディングドレスを着て車に乗っていたかというとですね、一刻も早く純白の聖衣に身を包んだ聖なる私を、愛する純くんに見せたかったからに他なりません!
「まやか……!」
でも、私は本当に最悪ですね。せっかくおかあさんに作ってもらったのに、こんなに汚してしまって……。あんた汚れたらどうすんの非常識でしょアホという発言にムキにならずに耳を傾けておくべきだったと思います。
それで、どこまで話しましたっけ。ウエディングドレスで渋滞車道に飛び出して自転車にひかれたところまででしたね、そうでした。
私の純白ボディは宙を舞い、歩道をアクロバティックに転がりました。薄汚れになったところで、自転車の運転手が駆け寄ってきて、「きみ、大丈夫かい」と優しく手を差し伸べてくれます。私はすみませんと謝罪を繰り返して逃げようとしましたが、そこで男性の腕が伸びてきたんです。
掴まれる、腕。
――もしかして、結婚式から逃げてきたのかい?
ドラマの匂いを感じ取ったのでしょうか、男性はそう言って、きらきらした目を向けてきます。
あのあのお兄さん、違うんです。これから向かう途中なんです。こんなところで渋滞に巻き込まれてしまったので、走って行こうと思ったんです。
お兄さんは、なるほど、と頷きました。そして、親指で後部座席を指差して言うのです。
――乗りな、お嬢ちゃん。走っていくには、綺麗な靴が勿体ないぜ。
ちょうど、お父さんが車を止めて追いかけてくる姿が目に入りました。このまま捕まってなるものか。交通渋滞に見切りをつけた私は、「出してください!」そう言って、自転車の後輪に飛び乗り、見知らぬ男の肩につかまったのです。
私を轢いてきた男性は一転、私の味方になって必死にペダルを回してくれました。かなり長い距離を必死に走ってくれました。ところが、まだ道半ばだというのに予想外のことが起きたんです。
「魔笛の吹き手か」
ええ、そうです。おまわりさんです。街路樹の陰に隠れていて、いきなり飛び出してきて、「はいちょっとごめんよー」と言いながら、慣れた手つきでハンドルを抑えます。
やってしまいました。二人乗りは違反なのです。でもこのときは連れてってもらうしかないって思ったんです。自分の判断の悪さを呪いたくなりましたが、男の人は私の悪事など気にする素振りもみせず、私にこう言いました。
「ここは自分に任せろ! 君は早く行くのだ! 愛する男が、待っているんだろう!」
ありがとうございます、おにいさん! このご恩は一生わすれません!
そうは言ってみたものの、私はこの男性の住所も肩書も、名前さえも知らず、顔さえほとんど見ることがありませんでしたので、恩に報いようがないのですけどね。ということは、報いるあてもない恩を絶対に忘れないと宣言したことになります。お礼の品を期待させるようなことを口走ってしまった罪深い私です。
「あ、待ちなさい!」
おまわりさんの静止もきかずに、私は走り出しました。追跡の目をかいくぐるために、川沿いの公園に逃げ込みました。公園の林の中を必死で走ります。ところがウェディングシューズは、ヒールが高くて足が痛かったので、すぐに走れなくなりました。
しかも、お財布も携帯も、車の中に置いてきてしまったため、そもそも、どこにどう行けばいいのかわかりません。道筋もわからなければ方角さえわかりません。太陽を目印にしようと思っても、灰色の雲が立ち込めていて見えません。
制止を振り切って逃げだした手前、おまわりさんにも頼れません。
人目につかないように、林の中を歩いたら、ドレスが枝に引っかかって裂けてしまいました。清楚な白さを見せつけていたシューズも焦げ茶色の泥まみれ。ついでに根っこに足を引っかけて、ぬかるんだ地面に肩から倒れ込みました。もうどろんこです。
さすがの私も打ちひしがれます。
本当に最悪です。
記念すべき晴れの舞台となるはずが、この失態。ドレスも靴も泥だらけ。しかも頭上から大粒の雨が降って来てしまいました。
それでも私は、なんとかして会場に辿り着こうと頑張りました。こんな大事な日に、遅刻するわけにはいかないと。ずっとずっと必死に彷徨い続けて、足に血がにじんでいることに気付きました。
――ああ、もう歩けない。
私は川沿い公園のこのベンチに座り込みます。
新婦が会場に行けなかったのです、結婚式は中止になってしまったに違いありません。
式と名の付くイベントには必要以上に早く行くのがこれまでの私でした。意外に思われるかもしれませんが、実は入学式も、始業式も、終業式も、卒業式にも遅れたことがなかったのです。それなのに、よりによって、宇宙で一番大事な式の日に、こんなことになるなんて、最悪です。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。私が失敗ばかりだったからでしょうか。思えば、純くんと出会った学校でも失敗ばかりしてきました。遅刻常習というだけですでに大罪でしたが、転校して来たばかりの純くんを『夢魔の車輪』で轢きまくったり、お弁当をばらまいたり、猫に負けてお使いに失敗したり、純くんを何日か無視してしまったこともありました。その罰があたったとでもいうんでしょうか。それにしたって、あんまりです。
正義の人になると、何度も誓ったはずなんです。それなのに、こうなってしまいました。純くん、どうか、おしえてください。本当に、こんな私でいいんですか? こんな私を、許してくれますか?
私はそこで話を終えました。あとは純くんの反応を待つばかりです。でも、どういうわけか純くんは心の痛みに耐えるかのような苦し気な顔で黙ってしまいました。
★
「ふっ、この姿を見たら、我が迷える子羊の精神は耐えられぬかもしれんな」
俺は鏡の中の自分にほれぼれしていた。我ながら漆黒式服がよく似合っている。
「封魔蝶襟締の結界でも防ぎきれぬほど、己が魔力の高まりを感じるぞ……フフ……」
それにしても、早く来すぎたようだ。まだ儀式までは時間がありすぎる。一度脱ぐか、いや、聖なる花嫁がいつ到着するか読めぬからな。我が魔装を見せつけるために早く来たのに、脱いでいるときに聖女が降臨してしまえば台無しだ。
などと、まやかのことを考えていたら、携帯が着信を告げた。もしやと思い画面を覗き込んでみれば、やはり『河上まやか』と表示されている。
「儀式前だというに、すでに魔力同調が起きているとはな」
俺は携帯を手に取った後くるっと回転させてから通話した。
「どうかしたか、まやか。どのあたりまで来ている? よもや、魔物に襲われたなどということはあるまいな」
ところが、その電話の主はまやかではなかった。まやかの母親がイライラした声で現況を報告してきたのだ。
「え、なっ、まやかが車から逃げた? 思いっきり逆方向に? しかも男と逃げただと? どういうことだッ! あっ……いや、どういうことですかお義母さま」
そんなのコッチがききたいわよ、と怒りが収まらない様子であった。
「いえ、その、まやかは、たぶん、道に迷っておるのでしょう。ときどき迷子になりますから……。いえいえそんな……ええ、ええ、そうでしょうとも、大丈夫、大丈夫……ははは……」
携帯をポケットに入れる頃には、着替えが必要なくらいに大量の冷や汗があふれ出していた。
「いかん、いかんぞ……。こうしてはおれん! 迎えに行かなくては!」
俺は小さなチャペルを飛び出した。
「どこにいる! まやか!」
★
恩師、という立場で結婚式スピーチをする予定だった伊藤は、式場の駐車場にいた。車の中で本番に備えた練習をしていたのだ。
「ご新婦のまやかさんは、クラスの中でも大変に目立つ存在でした。皆を引っ張るようなことこそありませんでしたが、いつもにぎやかな出来事の中心には、まやかさんの姿があり、人知れず盛り上げ役を……いや、こんなこと言ったら、『ちがうんです』が始まっちまいそうだよなぁ……」
伊藤は缶コーヒーを手に取って、プルタブを開けた。
「ご新郎の純さんは………………いや、なんだ……池之端は、どう褒めたらいいのかわからんな。面白いヤツではあったが」
伊藤は缶コーヒーを一口飲み、ホルダーに置いた。
「教師生活の中で、これまで多くの生徒と出会い、送り出してきましたが、お二人を送り出した時ほど肩の荷が降りたと感じた時はありませんでした……いや、この言い方は非常に良くないな。まるで厄介だったみたいで、正直すぎる」
煮詰まってきたので、少し昔のことを思い出しながらシートを傾けて寝転がった。
遅刻を繰り返した河上も、厨二病の問題児だった池之端も、伊藤にとってはすでに良き思い出になっていた。
不意に、どこかで激しく扉の開く音がした。
「――どこにいる! まやか!」
池之端の声だ。
身体を起こした伊藤は、運転席の窓を下ろし、通り過ぎようとする池之端を呼びとめる。
「おい、どうした、トラブルか?」
「まやかが……」
「その様子だと、結婚間際になって花嫁に逃げられたのか。痛恨だな」
「ば、ばかを言うな! そんなわけがなかろう!」
「あ、いや、すまん。今の発言は確かに良くなかった。だから、とりあえず落ち着け、深呼吸だ」
「ふぅ、これだから魔の眷属に魅せられし者の手先は……」
かつての担任に向かってこんな言葉を未だに吐く男が、これから嫁を迎えようというのだから、世の中ってやつは不公平だ。伊藤は呆れや憤りを通り越して心配さえ抱いた。
「俺はまやかを探すのだ。……案ずるな、儀式の刻限には間に合わせてみせる! だから止めるな!」
「誰も止めてないぞ。探すにも手伝いが必要だろう。乗れよ。運んでやる」
「ほう、ようやく我が軍門に降る気になったというのだな」
「勘違いするなよ。協力するのは今だけだ」
もはや真面目に答えるのも面倒になったようで、伊藤は池之端の設定に付き合ってやることにした。助手席に乗せて走り出した。
顔面蒼白で不安そうな池之端を横目で見ながら、アクセルを踏んだ。
池之端純は車のドアを開けた。なぜなら渋滞していたからだ。
カーラジオによれば、急に降ってきた大雨で、土砂崩れが発生したのだという。
「まやか!」
「あ、おい! お前なにしてんだ!」
「見つけたんだ! まやかを!」
止める伊藤の声に従わず、池之端は開いたドアから出て走っていく。焦りで汗まみれのタキシードが車道に躍り出て、さらに濡れた。ゆっくり動く車の間を縫って進んでいく。
「……人違いか」
肩を落とす池之端。大雨で視界がさらに狭まり、彼の目には、どんな通行人でも、河上まやかに見えてしまうようだった。
「おい池之端! さっさと戻れ」
伊藤は車を路肩によせてから、助手席の窓をあけて大声で呼びかけた。ところが、池之端は戻らない。
「さっきの電話で、まやかはこの辺で降りたと言っていた! ここからは俺の足で探す!」
そうしてガードレールを勢いよく飛び越えて、伊藤の視界から消えてしまった。
「おいおい……無理だろ……。だって、お前が言ってたのと全然違う場所だぞ」
伊藤は携帯電話を取り出した。
「手は打っておくか」
そして、路肩に停車させたまま、新郎新婦のかつてのクラスメート、委員長にメッセージを送った。
すぐに返信があった。
『お金がないから家族中心の小さな挙式にすることも、それで伊藤先生だけが呼ばれたことも、委員長だったのに何の連絡も来なかったことも、すべて把握しました。納得はしていません。河上さん捜索のためのグループを作りましたので、先生も入ってください』
河上まやかも、池之端純も、仲良くしていたクラスメートに結婚のことを何も伝えていないようだった。
「河上さん捜索グループ」という名称のメッセージグループに参加してみると、すでにメッセージのやり取りが始まっている。
『てか結婚て。ぅち聞ぃてなぃんだケド、ぁりぇなくね?』
と不満を表明したのは、池之端や河上と仲の良かったギャルっぽい女子だ。
伊藤が思い出を掘り返している間にも、メッセージグループには次々と人数が追加されていく。
高速で流れていくやりとりを眺めていると、ものの数分で大きな手掛かりが得られた。
『これ河上ちゃんじゃね? 晒されてるょ』
さっきのギャル女子が、しつこいくらいに並べられた絵文字とともに、画像をアップした。ウェディングドレスで自転車に二人乗りする画像だった。
『てか男のほう池ぴょんじゃなくね? ぉかしぃ』
画像には、多くの反応があった。
『河上ちゃん可愛い!』
『ああ、この道知ってる。海のほうに向かう道だよ』
『河上が池之端を捨てるとは思えない。何か事故でもあったのか?』
『待って、土砂崩れのニュースある。これにハマったんじゃね?』
『じゃあ、河上さんの乗ってた車が事故か渋滞にハマって、居てもたってもいられずにヒッチハイクで式場に向かってるってこと?』
『それだな!』
この時、ネット上では「逃げる花嫁」として話題になっていたのだが、元クラスメートたちは、河上まやかが結婚式から逃げたとは微塵も思わなかったようである。
『写真の場所が特定できたよ。近くにいる人は捜索を開始して』
地図が添えられた委員長の指令にも、十件以上の返事があった。
けれど、肝心の池之端は、グループへの招待にも気づいていないようだ。
伊藤は、「何やってんだ、あいつは。携帯持ってったはずだろうに」と呟いたのだが、このとき池之端がメッセージを確認できなかったのには、実は理由があった。
少し前に、池之端はガードレールを勢いよく飛び越えた。そこまではよかった。ところがガードレールの向こう側には陸地がなかった。図らずも四メートルの高さからアスファルトまでを空中遊泳した池之端。着地ミスもあって左足と右手を骨折。そして、のたうち回り続けて、やがて意識が飛んでしまったのだ。
伊藤がグループメッセージに『池之端も行方不明だ』と告げると、グループ名は、すぐさま「池之端夫妻捜索グループ」となり情報収集が加速していった。
しばらくずっと汚れた花嫁の姿ばかりがアップされ続けた。時が経つにしたがって、目撃写真の花嫁が汚れていく。その姿を見て、伊藤は心がひりついて仕方なかった。
そのうちに、『池ぴょん発見』というギャルからの連絡。ピンクのハート図形で縁取られた画像が貼りつけられた。車道の壁際に池之端純が倒れている姿。その頭上にはガードレールがあった。
やがて捜索を展開していたクラスメートの運動部員たちの手によって河上まやかの現在の居場所が突き止められると、グループ名は最終形態、「池之端夫妻ご案内グループ」に変化した。
その頃には、雨は気にならないくらいに弱くなっていた。
★
「ここは……」
目を覚ました俺は、屈強な男の背中に背負われていた。
「お、起きたか池之端」
視界はぼやけていたが、この声には聞き覚えがある。元クラスメートのラグビー男が、俺を運んでいるようだ。
「何故、貴様がここにいる!」
「待て待て、暴れるなって。怪我してんだから落ち着け」
「そんなのはどうでもいい! まやかは、まやかはどこへ行った!」
「落ち着けって。河上のところに連れてってやるから」
「何? 居場所がわかるのか?」
「お前の意識がない間に、みんな動いてくれてたんだぞ」
「この俺が邪気に負けていた? どれくらいだ? 今、何時だ?」
「さあな、だが、見ればわかるだろう。どう見たって暗いから夜じゃないか?」
「夜? そんなっ……」
「結婚式なら諦めろ。もうお前らの親がキャンセルしちまったよ」
「ばかな。祭壇での聖なる契約の儀式は……もう……」
「まぁ、そうなる運命だったって受け入れるんだな。あらためて式を挙げる時には、おれたちも呼んでくれ」
「あ、ああ……」
それにしても、なぜまやかは突然に車から飛び出したりしたのだろう。もしかしたら、このラグビー男なら何か知っているかもしれない。そう思ったが、理由を聞くのが怖くて結局口に出せなかった。
思えば、最近のまやかは、幾度となく「本当にこれでいいんでしょうか」だとか、「本当に私でいいんですか?」などと口にしていた。そのたびに「我が導きによって安寧を得るがよい」みたいな言葉を放っていた。もしや、それがよくなかったとでもいうのか。じゃあ、どうすればよかったっていうんだ。
「ほら、着いたぞ。見えるか。河上だ」
見えた。俺の愛する人が、川沿い公園のベンチにて、微動だにせず、虚空の一点を見つめ続けるような姿勢になっている。薄暗い街灯の下に一人ぼっちで。
泥に汚れたベールも罪悪感で顔を隠すために装着しているかのようだった。あの裏には、愛する人の、虚ろな瞳があるのだろう。
まやかをあんな風にしてしまったのは誰だ。
探し出せなかった情けない俺だ。
「おろしてくれ」
「いや、そうは言うけどな、池之端。お前の足めっちゃ腫れてんぞ。とても歩ける状態じゃねえよ。見たところ右腕もだな。変な風に着地したんだろう」
「いいから降ろしてくれ。ここからは自分の足で、まやかのところに行かせて欲しいんだ」
「……わかった。気をつけろよ」
俺が男の背中から地面に立つと、脳の奥に響くような痛みが襲った。
ああこれはまずい。痛みでショック死するレベルだと言っても大袈裟じゃないくらい痛い。
だが、こんなものは当然の報いだ。
愛する女を見つけ出すこともできず、雨に濡れる女に傘を差しだすこともできず、挙句、こんな虚ろな目をさせてしまうような史上最低の男だ。本当に情けない。だからせめて、どんなに身体中が痛くても、彼女のもとへたどり着くと決めた。
「くっ……はぁ、はぁ……」
苦しい。脂汗を拭う。
一歩ずつ、足を引きずりながら進んでいく。
意識が遠のきそうになるのを緊張の糸で引き戻しながら、ついに俺は泥だらけの彼女の前に立った。
絞り出すように声を出す。
「さがしたぞ、まやか」
「純くん、どうして……」
どうしてここがわかったのか、という問いであろう。正直に答えるならば、友人の導きで、ということになるのだろうが、ここは少し格好つけさせてもらいたい。
「愛する女の頬に、涙の流れる微かな音がきこえたのでな」
無理をして、格好つけた。そうしたら我が迷える子羊は言うのだ。
「あのあの純くん、ちがうんです」
★
私が「純くん、ちがうんです」から始まって、「許してくれますか?」で終わる悪事の告白を果たしたというのに、純くんは心の痛みに耐えるような苦し気な顔で黙り続けていました。
どうして黙っているのでしょう。どうして許してくれないのでしょう。
いつもなら、「よかろう、我が導いてやる」みたいなことを言って格好つけてくるのに。
やはり、それだけのことをしでかしたということなのでしょう。高い屋根の上でひとり、ハシゴを外されたような不安感が襲ってきます。
とても逃げたい気持ちになりました。逃げようと思えば逃げ切れるような気がします。でも、ここで逃げてしまうのは正しいでしょうか。いいえ、絶対に正しくないはずです。
私は、今回の悪事を、ちゃんと許してもらわなければならないのです。
「純くん、こんな私でも、お嫁にもらってくれますか?」
私は左手の甲を差し出します。薬指だけ少し浮かせながら。
ところが、すぐに私は、それがあまりにも最低の蛮行であることに気付いてしまったのです。
私が渋滞を我慢できず車から飛び出したばっかりに、服をぼろぼろにしてしまい、結婚式が当日中止になったのです。自分で原因をつくっておきながら、許されるどころか、自分だけ良い思いをしようなどと浅ましい思いを抱いてしまっていたことに気付いてしまったのです。
他の誰が許しても、この状況で自分で自分を許す事など絶対にできません。
私としたことが、正義の人になると誓ったはずなのに、正しくないことをしてしまいました。
私はすぐにもう一方の手を添えます。さあどうぞ、逮捕してくださいとでも言うように。
「すみません……私としたことが、正しくないことを」
ところがその時です。
物陰から何人かの知り合いが飛び出してきました。
ギャルさんが委員長が止めるのを払いのけて出てきて、委員長が溜息をつきながら続いて姿を現し、ラグビー部の人も出る流れだと判断したのでしょう。そのうえ先生もいるとは驚きです。
「ぃゃ、正しぃくね?」ギャル。
「そうだね。この状況なら正しいと思うな」委員長。
「今のは正しい」ラグビー部。
「珍しく正しかったぞ」先生。
どうしてここにいるのかと戸惑いましたが、とにかく、みんなが私を勇気づけようとしてくれて、それで少しだけ救われた気がしました。
ところが、少しだけ元気を取り戻しかけた私を、思い切り地獄に突き落とすかのような声が響き渡ったのです。
「……いいや、正しくない! 正しくないぞ、まやか!」
「純、くん……?」
これまでにない予想外の展開に戸惑いを隠せなかった私です。こういう場面では、純くんが一番の味方になってくれていました。私のすべてを肯定してくれる恋人のはずでした。
正しくないって、なんなんですか。
「こんな私でも、だと? もらってくれますか、だと? それは、迷いであろう! 俺の選んだ女が、聖なる儀式に際して未だに迷いの中におるなど……情けない。俺の魔力はこんなものだったのかと本気で落ち込むぞ!」
「え、落ち込むって、どうしてですか……」
「聖なる純白の花嫁を不安にさせているということは、俺のはち切れんばかりの想いが十全に伝わっていないということだからな」
「そんな、こと――」
「よくきけ、まやか、正義は一つではない。世の中には夥しいほどの正義があるものだ。だがしかし! 俺にとっては、まやかと共にあり続けること、これが正義だ!」
それは正義と言っていいものなのでしょうか。正義というのは、もっとこう、社会規範的なもので、信賞必罰的なもので、あるいは格差是正的なものであるはずです。個人の愛が実は正義だった、などと勝手に読みかえて良いものなのでしょうか。
「愛のない正義など無力! そのようなもの、俺は正義とは認めぬ!」
それは、全く厳密でなく、根拠などなく、科学的でも実証的でもなく、とことん自分勝手な解釈を垂れ流しているだけのように思えました。だというのに、どうしてでしょう。そこに輝く夢があり、確かな希望があり、私が求める光がある。そんな気がしたのです。
この愛こそが俺たち二人の正義なんだ、と彼は力強く言ってくれているのです。
「まやか、お前はどうしたい。今一度、お前の正義を教えてくれ」
応えたい。心から。でも、こんな私が――
そんな思考を抱いた時、卑屈な思いを見透かしたかのように、彼は叱るように言うのです。
「――ええい、いつまで悪夢にとらわれておる! 俺には、まやかが必要だと言っておるのだぞ!」
真剣な眼差しで、次々にジェスチャーを変えながら彼は続けます。
「俺とまやかは、この約束の日に、ちゃんと出会えたのだ。かつて俺たちに歪な出逢いをもたらした『夢魔の車輪』が、再び俺たちを引裂こうとしても、まやかは、この俺のもとに辿り着いた! ならば! お前を縛り付けるものなど、もはや何もないはず! 我らを引裂かんとする悪魔的引力に、二人の魔力が勝ったのだ! まやかの気持ちは解っておるつもりだぞ。お前も、俺と一緒にありたいと思ってくれている! だから今ここに! 真の聖なる契約を交わそうぞ!」
どうしましょう。ああ、どうしましょう。私は胸が貫かれたように感じました。そしてすぐさま、胸がいっぱいになり、顔をおさえて黙り込んでしまいます。
応えたい。心から。なのに、言葉が形になってくれません。今、何かを言ってしまったら、私の心を十分に表現できない気がして、嘘になってしまう気がして、どうしても声が出てきてくれないのです。
「え……あーっと……どどど、どうした、まやか、なぜ返事をくれないのだ。まさか俺とは一緒になれないとか、よもやそういう……そういう……」
これは大誤解です。どうしましょう。なんとか……なんとかしないといけません。
そうして人生最大の焦りのなかで、新しい私が選んだ最初の言葉が、これでした。
「――あのあの純くん、ちがうんです」
その産声は、これでもかってくらいに、くぐもって、震えてしまったんです。
「あ、え、ちがうって何だ。何が……」
私は顔を覆っていた手を外して、不安そうな彼を見つめます。
「嬉しくてです。何かを言ってしまったら、嬉しくて、どうにかなってしまいそうで……涙が、止まらなくなりそうで……」
「そ、そそ……そうか。実は嫌になったから逃げたとか、そういうわけではなかったのだな。よし」
心の声が、だだもれです。
ホッとした純くんは余裕を取り戻し、優雅なポーズをしながら言いました。
「ふっ、そのようなこと。聖なる花嫁の幸福の涙であれば、俺は喜んで溺れてやるぞ」
ああ、こんなに想ってくれる純くんに、私の言葉は響いてくれるでしょうか。私の心は届いてくれるでしょうか。私は震えた声で必死に思いを形にします。
「この私の正義も、純くんと永遠に一緒にいることです。私はずっとずっと、何が起きても、正義の人でい続けることを誓います。これが私の、最初で最後の聖なる誓いなんです」
「まやか!」
「純くん!」
私たちは、強く抱きしめ合いました。
やがて、池之端純くんが河上まやかのベールをめくり上げます。
お互いにじっと見つめ合い、そして、ついに大いなる契約を交したんです。
クラスメートたちからの拍手に祝福され、私は――。
池之端まやかになりました。
★
その後のことを、少しだけ。
皆が引くくらいの嬉し涙を流し続けた私のところに、おとうさんがやって来ました。普段は優しいおとうさんですが、この時ばかりは怒りに身を任せている状態だったんです。
「まやか! お前は皆さんに迷惑をかけて!」
そして、私の頬を目掛けて平手を振りかぶりました。
「危ない! まやかっ!」
今にも殴られる。その瞬間に、純くんが私に飛びつきました。
バランスを崩して、抱き合いながら転がり、さらに泥まみれになった私たちです。
ところが、実はこの時に限っては、純くんに守られるまでもなかったようです。伊藤先生がおとうさんの腕を掴んで止めてくれていました。「暴力はいけません」と言った姿は、史上最高に先生っぽかったのです。
ところが次の瞬間に、怪我なんかものともせずに勢いよく立ち上がった純くんが、
「はっはっは! 貴様、魔の眷属に魅せられし者の手先よ。さんざん黒く四角き魔剣で俺を殴り抜いてきた男が、言うようになった。さては、我が愛する迷いなき女神の神性にあてられて、正気を取り戻しおったな?」
などと言ったものだから、「こんな時にふざけるんじゃねえ」と言った先生のゲンコツが彼を襲い、そのうえ、おとうさんの矛先も純くんに向きました。
先生、暴力はよくないんじゃなかったんですか。
そして純くんは、二人のコンビネーションアタックを、腫れた右腕で咄嗟に防御して、そして、あぎゃああああと聞いたことない大声で叫んだんです。
意識を飛ばすのと引き換えに救急車を召喚する緊急呪文でした。
そんなわけで、純くんと次に会えたのは、二日後の病室ベッドの上でした。
淡い水色のカーテンを背景に、包帯やギプスにまみれた純くんがいました。左足なんか吊られてしまっています。お医者さんが言うには、痛々しい姿ではあるものの、見た目ほどの怪我ではないのだそうです。
純くんの命が助かって本当によかったけれど、私は少し、もやもやです。それというのも、保険が下りることになってしまったからです。純くんが大けがをしていて、「不慮の事故での入院」扱いとなり、その事実によって結婚式保険というのが下りたのだと両親から聞かされました。いいことじゃないか、得したじゃないか、と思う人もいるのでしょう。でも、これはよくよく考えるとおかしい気がします。
「純くん、これって正義だと思いますか?」
「愚問だな。何度も言っておろう、俺とまやかが共にあることこそ、何よりの正義なのだと」
「でもでも、こういうのは誤魔化してはいけないと思うんです。たしかに純くんは入院しましたけども、不慮の事故や病気というわけではなく、もとをただせば、私が自家用車からの華麗な脱走劇を繰り広げてしまったことが原因だったわけですよね。そのせいで、純くんはこんな大怪我をしましたし、皆さんにも多大なご迷惑をおかけしてしまいました。正直に申告して、式場さんへの更なるキャンセル料や、皆さんへの迷惑料を支払うのが正義なんじゃないかと思うんです」
「うん? まやかの両親が土砂崩れ事故に巻き込まれかけたからではないのか?」
「え、何ですそれ。初耳です」
「襲い来る土砂の数十メートル寸前で止まったが、通行止めのため会場に辿り着けなかった……という話だったから保険が適用されたと聞いていたが」
「そうだったんですか?」
「ああ、奇跡的に怪我人の一人も出なかったという話だ。ご両親から聞いていないのか?」
「ええ、二人から、ずっとずっと叱られ続けてましたから……何時間も……ストレスで死ぬかと思いましたよ」
「まぁ無理もないが……」
「でも、どうして、おとうさんとおかあさんは土砂崩れのことを言ってくれなかったんでしょうか。そんなに私のことを叱りたかったんですかね?」
「どうだかな。ともかく、そういうわけで、どのみち保険をもらう権利はあったわけだが、追加の恩返しがお前の正義だと思うのなら俺も付き合おう」
「いいんですか?」
「無論だ。ただし、金を払う形で恩返しというのも、なんとも愛が無いと思わないか?」
「愛……? ではでは純くん、どうするんですか?」
彼はゴホンと咳払いをして、痛いのを我慢しながら包帯の腕でポーズを決めて言いました。
「かの祭壇には借りができた。ならば、まやか、新たな策謀として、結婚披露宴をド派手に開催するってのは、どうだろう。今度こそ、ちゃんと世話になった盟友を全員呼んでな」
その次の言葉は、二人で同時に言ったんです。
「約束の地ですね」「約束の地だ」
こうしてまた一つにこやかに、新しい大いなる契約を重ね合ったんです。
【完】
お読みいただきありがとうございました!




