あのあの猫さん、いけません 後編
さて、無事にお会計を済ませた私は、帰り道をちくわさんと一緒に歩いていました。右手に持ったちくわさんを時折かじりながら、左手に袋をぶらさげてゆるゆると歩行していたのです。
そこに、縞々の猫さんが姿を現しました。車通りの多い二車線の道路の途中で静止し、つぶらな瞳で私を見ていました。とても、かわいらしいトラ猫さんでした。すこしメタボ気味で、のっしのっしと歩くような猫さんです。オレンジと白の縞々がとてもチャーミングです。
あまりのかわいさに、勢いよくしゃがみこんでしまった私を、誰が責められましょう!
荒々しい書体で『猫えさダメ』と書かれた看板の前で、ちくわを差し出した私を、誰が責められましょう!
「ひ、ひとくちだけですよ」
どきどきしながら、トラ猫さんがちくわの匂いを嗅いでいる姿を見守る私。
でも、トラ猫さんは、驚くべきことに、そのざらざらの舌でちくわを舐めることすらしなかったのです。
トラ猫さんが、ぷいっと顔を横に向けた時、私はひどく落胆しました。その際、普段は周囲を警戒していて死角なしの私に、隙が生じてしまったのです。結界が弱まった、とでも言えば良いのでしょうか。
……ちがうんです、普段から隙だらけって、それは家の中だけなんです。家の外に出たら、私すごいんですよ。魔を寄せ付けない聖なるシールドに包まれるんです。
それでですね、そのシールドが、隙を見せてしまったせいで弱まり、破られてしまったんです。
「あっ」
無意識に出た声。どうしてそんなびっくりした声を出してしまったかというとですね、何とその時、私の背後からもう一匹忍び寄っていたんです。
音もなく近づいた猫も、トラ猫でした。こちらはスリムで、最初に見つけた猫さんよりも少し鋭い目をしています。いかにも俊敏なハンターといった顔つきだったんです。
そいつは、ちくわを持っているのとは逆の手。すなわちスーパーの袋を持っていた左手を叩きました。するりと私の手を離れた白いビニールは、漆黒のアスファルトの上に落下したんです。
これが噂の美人局というやつでしょうか! かわいい姿を見せて油断したところに酷い攻撃を仕掛ける手口は、よくないと心から思います!
トラ猫二匹は、袋の両端をくわえ、びゅんと超特急。疾風のごとく駆けて行きました。
思い返してみれば、あんな重たい袋をたった二匹で持っていったんですよね。たぶん、あの子たちは魚泥棒のプロなんじゃないかと思います。
だけど、おかあさん、勘違いしないで下さい。私も、ただ指をくわえて見ていたわけでは無いんです。慌てて地面を蹴って追いかけました。
「待って、返してー!」
遊歩道の細い路地を行きます。
そのとき、私は、ちくわさんをバトンのように握り締めたり、あるいはちくわさんを丸めた新聞紙のように振り上げたりしながら、お魚くわえたトラ猫を追っかける愉快な人になってしまっていました。伝統ある河上家から、古典的な漫画チック場面をリアルで再現してしまうような恥ずかしい娘が誕生してしまったことは、非常に申し訳なく思っています。でも、泥棒猫たちに大事なものを奪われて何もしないような、そんな無気力な女のままで居たくはなかったんです。
猫さんと私は、むせ返るような緑のにおいに包まれたまちを走り回りました。
橋を渡ったところで、川沿いの小道に入ります。急な坂をのぼって、神社へ続く階段の前を横切って、ぜえぜえ息を吐きながら必死に走って、追いついた場所は、公園でした。
はにわ型のすべり台が目立つ以外は、何の変哲も無い公園広場……だったのですが。
え、はにわって、あれですよ。のっぺりした顔に、目と鼻の口のところに穴があいた可愛いやつです。「やあこんにちは」って感じに右腕を挙げていて、反対に左腕は下がっているタイプです。なんですべり台をそんな形にデザインしたのか謎ですが、はにわってけっこうセンスいいと思います。私は好きです。
って、はにわの話は、今はどうでもいいんですよ。おかあさん、話を聞く気あるんですか? まったくもう、話の腰を折らないで下さい。
さて、汗だくの私がテニスコート六面分はあろうかという公園に足を踏み入れた時、数多の影が物陰から飛び出してきたんです。あるものは草陰から、またあるものは特徴的なすべり台の中から。公衆トイレの中から。ペンキぬりたての木製ベンチの裏から。
そう、トラ猫さんの仲間たちです。三毛猫、黒猫、灰色猫など、色んな種類がいました。
「なんと! 伏兵ですか! アジなまねを!」
言っている間に、私はすっかり包囲されてしまったんです。正直に言えば、この時、猫まみれのシチュエーションに僅かばかりの幸福感を感じてしまったのですが……でも、それ以上に、魚を取り返せないという状況に焦っていたと言い張れます。
ふと視線を上げると、砂場の近くで、猫さんたちが戦利品を品定めしているようでした。にゃーにゃーとかわいい声を出しながら、ビニール袋を引きちぎっていきます。白い包みも、見るも無残に細切れです。
「ああっ、お魚さんがぁ!」
ぷりん、と剥き出しになったお魚さんたちを、五匹の猫さんたちが代表して肉球でぷにぷにしています。残りの猫さんは、私を取り囲んで動きを奪い続けます。
私は、悔しくなって、ちくわさんを千切れんばかりに力強く握り締めました。
「ああああ、ダメです。触らないでください!」
この時、私は、まだ取り返せる気でいたんです。本気を出せば猫さんたちから魚を奪い返せると思っていたんです。善良な私は、少しでもダメージ少ないままおかあさんに鮮魚を届けようと必死です。なのに、見ていることしかできないなんて……。
「にゃーにゃー」
アジと思われる魚、サワラと思われる魚に、猫さんたちはついにかぶりつきます。
噛み千切られていく魚たち!
いよいよ私は、周囲をドーナッツ状に取り囲んでいた猫さんたちを蹴散らす決意を固めました。心を非情な鬼にして。
「今晩のおかずを返してください!」
カツオの切り身パックが、爪で引っかかれて開封されてしまいました。
「どいてください、どくんです! いいですか、やりますよ、本当にやりますよ! 蹴飛ばしてしまいますからね! 痛い思いをしたくない子は、逃げてください!」
と、私が叫び、猫の群れを軽く蹴飛ばそうとした時です!
私の覚悟などというのは、かまぼこよりも柔らかいものだと認識させられる瞬間でした。
「ナァ~ん」
仔猫、あらわる。甘い声を発しながら。
真っ白い小さな猫が、あまりにも無垢な目で私を見ているのです。
おかあさんならできますか? 仔猫ちゃんの額に、硬い爪先を振りぬくことができるというんですか? もしできるのだとしたら、そんなの人間じゃないです。悪魔です!
私は、蹴り出そうとした足を引っ込めました。さてここでクイズです。私の身に何が起こったか、おかあさんにならもうわかると思います。私の服が汚れていることと関係あるんですが、それは一体何でしょう!
はいその通りです、見事に転んでみせました。バランスを崩してごろごろ転がった私は砂埃を舞い上げました。青空が見えました。
次の瞬間には、私の右腕が肉球で踏まれまくっている感触。軽くもなく重たくもなく。くすぐったいような感じが、いくつも。
――ああ、これはダメだ。ちくわさんまで奪い去る気なんだ。魚目のものは、すべて自分たちのものだと考えているんだ。極悪だ。
私は、必死に抵抗を試みますが、大勢の猫たちの圧力に耐え切ることは叶いませんでした。
「あのあの猫さん、いけません、これだけは。せめてこれだけでも河上家の食卓に届けたいんです! このちくわさんは、おにいさんからのサービスなんです!」
飢えた猫さんたちが聞く耳を持ってくれるわけもなく、私は右手から最後の希望を手放しました。
空中に投げる形です。
黒い猫さんが食べかけのちくわを華麗に空中キャッチする光景は、きっと一生忘れられないでしょう。
こうして、私は全ての魚っぽいものを奪い取られてしまったのです。
もらうものを全てもらった猫さんたちは、次々に草むらの中に飛び込み、やがて公園には私一人が残されました。
――おかあさんに合わせる顔がない。
私はそのまま、青空を見つめたまましばらく動けませんでした。まるで冷凍されたマグロさんみたいにぐったりしていたんじゃないかと思います。
とにかく、そういったわけなんです。私は悪い獣たちに蹂躙されて……。
……嘘じゃないです!
本当にねこねこパニックでした!
だって、ほら、服が汚れてるじゃないですか。それから、獣くさいにおいや猫さんの毛が私の服に沢山ついているかと思います。あと、この腕の爪あとも見て下さい。これらの物的証拠の数々は、非常に激しい闘いが行われたことを物語っているとは思いませんか?
悪いのは猫さんたちなんです。できることなら、この場に全員を連れてきて謝罪の言葉を言わしたいです。
何度でも言います、激怒されるべきは猫さんなんです!
いくら猫さんといえど、やっていいことと悪いことがあります!
かわいい顔して、とんだ悪鬼どもでした!
だから、その、何が言いたいかというとですね、私に責任は無いと思うんです。そりゃ、野良猫にエサをあげようとしてしまった報いじゃないかっていう見方もできるかもしれませんけど、でも、そもそも何で野良猫があんな風に盗賊団みたいのを結成しているのでしょうか。
猫たちをきちんと管理運営する人は誰なんですか。少なくとも、私ではありませんよね。
……そんな。四の五の言わず取り返してきなさいって言われても、すでに猫さんたちのおなかの中に入ってしまったものを、どうやって戻せばよいのでしょう。
それに、前向きに考えるなら、今回、エサをめぐんであげたことで、猫が恩返しに来てくれるかもしれないじゃないですか。
……え、なにそれ。ひどい。そのまま猫の嫁にでもなってしまえなんて、娘に向かってよくもそんなことを言えたものですね!
おかあさん、もう許してください。いつもは、こんな失敗は無いって、おかあさんだって知っているはずです。完璧におつかいを完遂する娘だと、我が家に名を轟かせてきたではありませんか。
ええ、わかります。高校生にもなって、おつかいに失敗することは、万死に値すると理解はしています。でもでも、今回は、さっきから話してるとおり、イレギュラーが発生した結果なので、罰の大いなる軽減が適用されるケースだと思うんです。
……ば、晩御飯抜きって、えぇっ!?
あのあのおかあさん、どういうことでしょう。私の耳がおかしくなってしまったのでしょうか。まさかおかあさん、晩御飯抜きとか言ってませんよね。
あーあー、きこえません、きーこえませーん!
……えーと、えーと、待ってください、あ、そうだ、大トロ! 賞品の大トロをもらってくるというのはどうでしょう。スーパーの鮮魚売り場、『超★新鮮市場』では、クイズイベント開催中なんです。魚偏の漢字に詳しいおとうさんがクイズに挑めば、全種類を言い当てるなど造作も無いと思うんです。
……ダメですか。そもそもおとうさんが未だお仕事から帰ってきていないので、開店時間内に間に合うか難しいところですけど、頑張ればなんとか……。
……まあいいです。もういいです。ちょうどダイエットをしようと思っていたところなので、むしろ都合がいいんです。夕食を一度抜いたくらいで死んだりしません。
泣いてなんかないですよ。そんな、御飯抜きをくらった程度で泣いてしまうようなヤワな娘に育ててしまった記憶があるんですか?
泣いてなんか……。
晩御飯抜きって……そんなことって…………。
私はあんまり悪くないのに。
そして私は俯いて、とぼとぼとした足取りで自分の部屋に向かい、ベッドに力なくダイブしたんです。うつ伏せの姿勢になる形です。
寝返りを打って仰向けになりました。
ぐるるるるぅと、お腹が鳴いてしまいました。
嗚呼、今日は、散々な一日でした。最悪な日だったと言ってもいいくらいだと思います。でもきっと明日は、今日よりは素敵な一日になるはずです。今は、それを楽しみにしながら、枕を濡らそうと思います……。
私は、こんな日もあるさと自分自身に言い聞かせ、せめて夢の中くらいは幸せな一日であってほしいと、愛する池之端純くんのことを思い浮かべながら、ゆっくりと目を閉じたんです。




