あのあの猫さん、いけません 前編
ちがうんです。決して使い込んだわけじゃないんです。
ほら、これスーパーマーケットのレシートです。これが証拠になるでしょう? 私はちゃんと、おかあさんに頼まれたブツを買ったんですよ。なんなら、今から一緒にお店に行って、証明してもらってもいいです。
ていうか、普通に考えたらわかるはずです。私が独り占めしてモグモグ食べてしまったわけでは無いってことを。
だいたいにして、そんなに大量の鮮魚をひとりでパクパク食べられると思っているんですか? これには深い事情があるんですよ。話せば長くなるんですけどね……。
な、なんでそこで池之端純くんの名前が出てくるんですか。
まさか、私が純くんと魚を山分けするわけがないですよ。
おかあさん滅茶苦茶です。ありえないです。私が純くんに全く調理していない生のお魚さんを踊り食いさせたとでも言うんですか? 純くんが、そんなにクジラやセイウチなどの海獣っぽく見えるんですか。
あ、いや、その、落ち着いて下さい母上様。話を聞いてほしいんです。
まず、おかあさんの依頼は、晩御飯のおかずにするためのお魚を買ってくることでしたね、そうでした。
私は、ぺらぺらの買い物リストを渡され、「今日はご馳走だ」と喜び勇んで駆け出したのです。たしかに、途中で池之端純くんに出会って、デスティニーだと感じたことは紛れもない事実です。だけど、だからって、私が純くんと遊ぶためのお金を得るため、買い物の費用を横領したなどということは、断じて無いんです。
ちがうんです。純くんとは、ほんの少しだけお話しただけでお別れしました。
「何をしておるのだ、まやか」
今日もいかしたポーズです。親指と人差し指をビシリと立てていて、プロ野球の野球の審判が、シビれるストライクのときに見せる姿勢を斜めにしたみたいなかんじでした。
「お買い物です。おかあさんに頼まれて」
「ほう、晩御飯の買出しとは素晴らしい心がけだ。さすがは、我が子羊。聖なる心を持っている」
「純くんは、ここで何をしているんですか?」
「ただの見回りだ。どこかに悪鬼が徘徊していないかと思って、見回りをしておったのだ。まやかは、魔を呼び寄せる体質をしているからな。まやかが悪鬼どもに襲われるのを未然に防ぐためにだな……」
こんな風に、人知れず私を守ろうとしてくれる純くんは、とても優しい人なんだと再確認させられます。
「ときに、まやか」
「何ですか、純くん」
「まやかのほうは、何を探しているのだ?」
「お魚です」
そうして、おかあさんのくれたメモを二人でいっしょに確認したんです。それだけで、名残惜しかったですが、純くんとはお別れしました。純くんも見回りでお忙しそうでしたし、今日、純くんと会ったのはこれっきりでした。
純くんと別れた後、私はスーパーに入りました。まず真っ先にお菓子コーナーに目を奪われてしまったのは紛れもない事実です。渡されたお金で購入してもバレないんじゃないかと考えてしまったのは謝罪すべきことだと思います。だけど、それでも私は誘惑に勝ちました。大勝利でした。名残惜しく何度か振り返りながらも、鮮魚コーナーへと歩を進めたのです。
鮮魚コーナー『超★新鮮市場』には、大きな大漁旗がありました。荒々しい青い波の上を魚が雄雄しく跳ねています。魚の銀色のボディが太陽の光を跳ね返してきらきらと光っています。
安いよ安いよいらっしゃっせーと叫ぶ太い声も響いていました。
深呼吸をすれば生ぐさい空気。いのちのにおいです。
私は、おかあさんのメモを取り出します。
アジ、サワラ、イワシ、それからカツオの切り身と、マグロの赤身を買えと書いてありました。一体、これだけのお魚さんを何に使うのかと不思議に思ったのです。池之端純くんは、メモを見て、まさか鮮魚を武器にするわけではなかろうなと呟いていました。よもやそんな命を粗末にする輩がこの時代に存在しているとは思えませんが。いずれにしても、おかあさんは何を作るつもりなんだろうと気になったんです。
でも、すぐにそんなことを考えている場合でもなくなりました。
なんと、驚くべきことに、『超★新鮮市場』では、魚の名前にふりがなを振ってくれてなどいなかったのです!
見ているだけで元気が出てくるような大漁旗を背景にして、いくつも並んでいる魚。籠の上に丸ごと並べられたものもあれば、パック詰めされているものもあります。しかし、知識と経験が不足している私には、どれが母上様から頼まれた魚なのか、全く判別できなかったのです。
「いらっしゃっせー、こちら世界屈指の品揃え、『超★新鮮市場』です!」
ねじりはちまきのおにいさんの威勢良い声が店内の一角に響き渡ります。
豊富な魚たちとともに、いくつもの漢字が踊っていて、眩暈がしそうです。非常に不親切なお店だと、この時は思いました。
鮪、鱧、穴子、鰯、鱚、鱈、太刀魚、鰤、鰈、白子、鮭、鰊、平目、鰆、蝦、海胆、鮑、蛤、浅蜊、蜆、牡蠣、鰺、秋刀魚、鰤、鮟鱇、河豚、鯛、鱸、鯰、鯉、鯖、初鰹……などなど。
なんとかわかるものもありましたが、大半は難しい漢字に見えます。以前、おかあさんに内緒で、おとうさんと回転寿司に行ったことがあるのですが、その時、湯呑みにびっしりと魚偏の漢字が書かれていました。おとうさんは、「完璧に読める」などと自慢していましたが、あの時面倒くさがって無視せずに、おとうさんの話に耳を傾けておくんだったと思います。
「いらっしゃっせ、お嬢さん! 今キャンペーン中でして、この魚の名前を全て正解した人には、先着三名さまに、この特上大トロをプレゼント中!」
「大トロ!? 大トロというと、まさか、あの大トロですか!?」
「そう、現物はこれだぁ」
「こ、これは!」
私は、幻と名高い大トロという物体を見て、その、すぐにでもとろけそうな美しいピンク色に魅せられました。
だって、大トロですよ。希少な存在ですよ。しもふりと同じくらいスゴイやつです。
いや、おかあさんは中トロが好きとか、そんな好みはきいてないんですよ。昔は捨てられてた部位よね、とかいう豆知識も今は遠慮しておきます。
私は、スーパーの床を三歩ほど踏みしめました。
「いいでしょう。ねじりはちまきのおにいさん。キャンペーンクイズとやらに挑戦してあげます。じゅるり」
私は、一種類目の魚を指差しました。ぎらぎらと銀色に輝く、死んだ魚のような目をした細長い魚。私のか細い腕よりも更に細い、小さな魚。
「これは、アジ……ですね?」
「…………」
時間が、止まったかのように思われました。ねじりはちまきも沈黙し、店内を流れていた軽快なBGMも突如として止まりました。
ごくり、店員のおにいさんの次の発声に、意識を集中させます。
「そいつぁ……鰯だァ! 残念!」
「イワシかー!」
「いきなり終わっちまったな。若いお嬢さんといえど、一つか二つくらい当てて欲しかったんだがな」
「うぅ、すみません……」
「いやいや、そんなこの世の終わりみたいな暗い声で謝るようなことでもないけど」
「あのあの店員さん、クイズには無様に失敗しましたが、お魚、買いたいんです」
気を取り直して言ったところ、店員さんは、笑顔をつくり、
「へい。何をお買い求めでしょう!」
私は、おかあさんのメモに目を落とします。
「えっと、アジ、サワラ、イワシ、それからカツオの切り身と、マグロの赤身が欲しいんです」
「毎度! お会計はレジでお願いします!」
ねじりはちまきの鮮魚店員さんから品物を渡された後、私はクイズ失敗の恥ずかしさもあって、勢いよく彼に背を向けました。
「お嬢さん。ちょっと待って」
「え?」
呼び止められてしまった私は、きっと恐怖でびくびくした表情をしていたに違いありません。クイズに失敗したのですから、罰として有り金を全部置いていけなどと言われても仕方のない状況だと思えたからです。
だけど、違っていました。お財布のなかのキラキラの小銭が奪われることはありませんでした。
「これ、持っていきな」
そうして差し出されたのは、ちくわでした。
「いいんですか!?」
「ああ。参加賞さ」そうして、ねじりはちまきのおにいさんは腰を折ります。「あざっした~。またよろしくお願いしま~す!」
と、いうわけなんです。
この時の私は、「純くんにも会えたし、ちくわさんも貰えたし、今日はなんて良い日なんだろう」などと思っていました。
でも、これにておしまいというわけにはいきませんでした。問題は、ここからなんです。ここから先を話すのは、とっても気が重いんですが…………わ、わかってますよ。ちゃんと話します。落ち着いてきいて下さいね。




