ウッドイエロービーチにて 後編
私は、池之端純くんに重大な嘘を吐いていました。
出かける前日の夜に純くんが電話を掛けてきたことは、以前もお話したと思いますが、その時に、私は体調は万全だと言ってのけたのです。
だって、純くんが、
「保健室でまやかと力を分け合ったたからだろうか、あの日を境に、すこぶる体調が良いのだ。邪気を取り込む前よりも圧倒的に体が軽い。おそらく、まやかもそうであろう?」
なんて言ってきたものだから、まだ熱が下がっていないなんて言えなかったんです。
「はい。そうですね。私も、もうピンピンしてます」
「そうか、よし!」
私からデートの約束をするように仕向けておいて、自分が行けないなんて、あってはならないことです。
私は、全力で風邪を治そうと、栄養のあるものをたくさん食べて、ちゃんとお薬も飲んで、ちゃんと布団に寝たんです。
今朝になっても未だ熱が下がっていなかったけれど、純くんに会えば治るんじゃないかって思って、こっそり家を抜け出して来たんです。
書き置きに、『風邪は治りましたので、出掛けてきます』と記したので、お母さんにも嘘を吐いたことにもなります。あまりにも罪深いです。
「ん……」
私は目を開きました。赤色の屋根が見えます。その奥には青空。真横を見れば、シャッターを背景に、純くんが何となく格好いいポーズで座っていました。
「まやか」
「ここは……」
「まやか。心配したぞ」
「また、心配させてしまいましたか」
「熱が、下がっていなかったのだな」
周囲を見回すと、シャッターの下りた休業日の店の前を借してもらっているようでした。慌てて起き上がろうとした私を、純くんが制します。
「安心するのだ。文句を言われようものなら、俺が全力で戦う。硬い地面しか用意できなかったのは己が無力を感じるところだが、日陰は貴重だ。まやかは落ち着くまで休むのだ」
「申し訳ないです……」
「謝らずともよい。それにしても、やはりこの異国に充満する邪気にあてられてしまったようだな。もう二度と目を開けないかと思ったら、恐ろしくてたまらなかったぞ」
「ごめんなさい、純くん……」
「謝るのは俺の方だ。お前が邪悪なものに蝕まれ、苦しんでいることに気付けなかったのだからな」
「あのあの純くん、ごめんなさい……」
「もう謝るなと言っている」
「すみません。その、実は、風邪が治ってないけど、どうしても純くんと一緒に出かけたくて、治ったフリしてたんです。お薬を飲んで来たのですが効果が切れてしまったのではないかと――」
「わかったと言うておろう!」
「あ……す、すみません……」
やっぱり、純くんを怒らせてしまいました。
風邪を治せなかった約束破りは責められてしかるべきです。だから、やっぱり私が極悪なんです。お別れを告げられても仕方のないほどの狼藉を働いてしまった私は、小さくなって罪状とそれに伴う罰則を告げられるのを黙って待っているしかないんです。
だけど、純くんは、私を全く責めませんでした。
「落ち着いたら帰るぞ、まやか。これ以上、まやかを邪気にあてておくわけにはいかぬからな」
「でも、せっかく横浜に来たのに……」
「まやか!」
叱られました。
「は、はい……すみません」
なんだか情けないです。約束を守れなかった上に、迷惑ばかり掛けてしまいました。
ともかく、こういったわけで、さらに調子が悪くなってしまう前に、帰ることにしたんです。
駅のホームへと向かいます。
怒っているわけでは無いのでしょうが、純くんは何の言葉もかけてくれませんでした。私のほうも、なんとなく純くんに話しかけづらくて、移動の間、ずっと無言でした。
私の小さな鞄には、いつの間にか甘栗の袋が一つだけ入っていて、全滅は免れたのだとわかり、少しだけ安心しました。だけど、私ときたら、そのことについて触れてみても良いものなのに、純くんに全然話しかけられなかったんです。
風が吹いて、電車が来ました。
私は、ボックス席の窓際に座って、外を眺めます。
電車が走り出し、遠ざかっていく横浜を見つめて悲しくなっている時、先に口を開いたのは、勇気と正義の人、池之端純くんでした。
「両の瞳に焼きつけておくのだぞ、まやか。この地には、借りができた」
「借り……ですか?」
「そうだ。まだ、まやかと共に見たい景色が、あの地に多くあるのだ。だから、その……」
「そうですね。いつか、もう一度、来ましょうね。今度は二人とも体調が良いときに」
「ああ、その通りだ」
そして次の瞬間、驚くべき奇蹟が起きたのです。
「約束の地だ」「約束の地ですね」
同時でした。私と純くんは、同じ内容の言葉を、電車内で重ねあったというわけです。
ただそれだけ。単純なことです。よくあることと言えば、そうなのかもしれません。だけど、私には、それが、とてもとても嬉しくて。本当に私は幸せだなって、あらためて思ったんです。
純くんと一緒に居られて。
純くんと同じ風邪を引けて。
純くんと同じ言葉を重ねられて。
純くんと何度も約束を結べて。
きっと、そうやって、これからも。
――あのあの純くん、だいすきです。
私は、彼の肩に、思い切り寄りかかったんです。
さて、休みが明けて、邪気にあてられた状態から復帰した私は、純くんと一緒に自転車登校したんです。
体調を崩したことなんて嘘みたいに、二人、元気で登校しました。遅刻をしなかったら、クラスのみんなから、珍しいねって言われてしまいました。
「でも残念だったね。河上さんが遅刻しなかった日に限って、先生が居ないなんて」
「え? 伊藤先生、どうかしたんですか?」
「あ、まだ知らなかったんだ。さっきから、この話で持ちきりなんだけど……伊藤先生ね、風邪で入院してるんだって」
「入院!?」
私と純くんは顔を見合わせます。
もしかしたら、私たちと同じように邪気にあてられたんじゃないかと思ったんです。つまり、風邪がうつったんじゃないか、と。
たかが風邪じゃないかと油断してこじらせると、大変なことになりかねないって、あの後、お医者さんや両親からすごく叱られたんです。
「あのあの、純くん、もしかして……この件も、実は純くんや私を襲った邪悪な何かの仕業なんですかね。邪気は、誰かにうつすと治るのかもしれません」
「ふむ。その可能性は否定できんな。だが、別の病魔のせいであろう。もしも、我らを苦しめたあの凶悪な魔物のしわざであれば、あやつのごとき常人が、入院くらいで済むはずがないのだからな」
普段より少しポーズが大人しくて、少しだけ声が小さいのは、純くんなりに先生を心配しているからだと思われます。
「ふん、こうなった以上、致し方あるまい。あの男の留守の間は、俺がこの教室を守ってやるしかないな。うわっはっは!」
すっかり元気を取り戻した私たちだったんです。
【邪気に当てられて 完】




