ウッドイエロービーチにて 中編
両側に多くのお店を見ながら、人通りの多い道を進んで行きます。見上げれば、漢字の看板が並んでいて、見慣れない風景に立ちくらみしそうです。
さて、お店に入るのは夜になってからだと純くんが計画を立てていて、まずは食べ歩きをしようではないか、ということになり、小手調べに大きなブタまんを買った彼は、それを私に手渡してきたんです。
私は、肉まんを二口ほど食べたところで純くんに手渡しました。
非常にジューシーで美味しい、ほかほかの肉まんでしたが、今の私には大きすぎです。とても食べ切れません。
「ぬぁっ、こ、これは、間接キッ……! いやしかし当然ではないか。俺とまやかは、付き合っておるわけだし……」
純くんは、私の食べかけの肉まんを見つめて、なにやら考え込んでいる様子。
「どうかしました? 純くん」
「いやァッ!」
裏返った叫び。しかし、すぐに必死に落ち着かせようとするかのように、続けます。
「……な、何でもないぞ。こ、この付近に邪悪な存在は確認できなぁい!」
「この胡麻団子も食べかけですけど、食べますか?」
「お、おう……」
「すっごく美味しいですよね。ちょっと油っこいですけど」
「ああ、最高に幸せだぞ……」
そういったやり取りを繰り返しながら、赤系の色が目に付く大通りをてくてく歩いていた私ですが、いきなり、カタコトの日本語を喋るお兄さんに呼び止められました。
「ヘイ、オジョサン、カワイイネ!」
背が高くて、すこし色黒で、素敵な人でした。エプロンをつけた爽やかな茶髪の方で、にこにこと笑っています。
可愛いと言われてしまった私は、思わず立ち止まりました。
その人は、次の瞬間、私の前に爪楊枝に刺さった黒っぽい物体を差し出してきたんです。お菓子みたいな、ほんのり甘い匂いがしていました。
「コレ、食ベテ、コレ」
もしかして、ナンパというやつでしょうか。
そこで、純くんが、低い声を出して言うんです。
「貴様、何をしている。我が子羊に気安く声を掛けるとは、良い度胸をしているな」
だけど、茶髪さんは、純くんを無視して私に話しかけ続けます。
「栗ダヨ、安イヨ、美味シイヨ~」
それは、ナンパなどというものではなく、栗の押し売りだったんです。
台の上に『天津甘栗』と書かれた袋が大量に並んでいて、その奥の籠にいっぱいの栗が入っています。そして、茶髪さんとは別に、もう一人黒髪の男性がいて、台の向こう側でにこにこ笑っていました。
「あのあのお兄さん、もしやこれ……」
「ウン、タダデ良イヨ、試食ダヨー」
無料という言葉に飛びつきたい年頃の私は、お兄さんの差し出していた甘栗をぱくりと食べてしまいました。まるで、釣り針のエサに食いついたお魚さんのように。
思わず「まろーん」と言いたくなるような、たいへん美味しい栗だったのですが、私が栗を食べた瞬間に、二人のお兄さんの目の色が変わりました。爽やかで朗らかな微笑みから打って変わって鋭く険しくなり、いわゆる商売人の目となった……とでも言えば良いのでしょうか。
一人が興奮気味に、「安イヨ、今ナラ、今ダケ特別、安イ安イ!」と言えば、もう一人が、甘栗の袋に別の袋の中身をドサドサっと入れて、「コレデ千円!」と叫びます。
突然高まったテンション。戸惑った私が反応できずにいると、畳み掛けるように押し売りが加速します。
「オジョサン、見テ、見テ」
黒髪の方が、籠の中に入っていた栗を鷲掴みし、次々に袋に入れていきます。袋の八割が埋まったところで、お兄さんたちは二人して「千円!!」と叫びます。
「え、そんなに良いんですか。でも、悪いです、そんな……」
「悪イ? 悪イクナイヨ! 良イ栗ダヨ! 美味シイヨ! ダッタラ、モット入レルヨ!」
今度は茶髪さんが必死の形相で、栗を詰めまくってくれます。
どうだ見たか、と言わんばかりにパンパンの紙袋の中身を見せ付けてくる茶髪さん。
「まやか、だめだ。こいつらは怪し過ぎる。行くぞ」
純くんは、私の腕を引っ張ります。
「でもでも純くん。さっき食べた栗は、美味しかったですよ?」
「しかし、これでも千円は高い。まして、剥かれちゃっていない状態の甘栗ならば尚更だ。皮を剥く際に、まやかが手を怪我する危険もあるしな」
「だけど、割烹着をまとった怒神やお父さんへのお土産に丁度良いんじゃないかと思ったんです」
「そうは言うがな、まやか。何となくこの栗を足しまくっていくというやり方は、悪魔的商法のニオイがするのだ」
「悪魔テ何ダヨ! ソンナノッテナイヨ!」
「しかも! よく考えてみれば、『栗』という字は『悪』という字と何となく似ているではないか!」
「ア、ソカ! 高イ思ウナラ、ハンブン、ハンブンデイイヨ!」
五本指を立てていることから察するに、五百円で良いという意味でしょう。
「あっ、すごく安くなりました。このくらいなら、どうでしょう、純くん」
「くぅ仕方ない。愛するまやかがそこまで言うならば……」
純くんが、震えた手でお財布から五百円玉を取り出します。
その光景を見た私は驚き、大いに焦ったんです。
「まっ、待ってください純くん。自分で出しますから」
「何だと! デートで女に金を出させるような男になれと言うのか!」
「でもでも、純くんの貴重なお小遣いを、このようなものに使わせるわけには……」
と、不意に、がさがさと耳障りな音がしました。見れば、黒髪のお兄さんが大きな白いビニール袋を取り出していました。何をする気なのかと思って眺めていたところ、何と、茶髪のお兄さんが栗でぱんぱんに膨れ上がった紙袋を、純白の袋にダンクシュートしたではありませんか。
「コレデドウデスカー!」
さらに、台に並べられていた栗入り袋を三つくらい放り込み、籠の中にあった栗も大量に入れてくれました。
「買った!」
ばちん、と青空に響いた音。お兄さんの手を五百円玉が叩いた音でした。
「あのあの純くん、ありがとうなんです」
「何を言うか、このくらい大したことではないわ」
私は、白い大きなビニール袋を抱えて大通りの真ん中を歩きます。もちろん中身は天津甘栗。たったの五百円で抱えるほどの栗を手に入れた私は上機嫌で歩いていました。
きっと日頃の行いが良いものだから、これは、ご褒美なんじゃないかと思うんです。
小さな鞄に入り切らなかったので、両手に抱える形になってしまい、動きづらくなってしまったことを差し引いても、良い買い物をしたなと思えます。
「む、見てくれ、まやか。あそこの屋台で非常に美味そうな焼きそばが売っているぞ」
「ええ、すごく美味しそうですね。でも、欲を言うと、もう少しさっぱりしたものが食べたいです」
「ふむ……ならば、そのへんの店で、スイーツでも買うことにするか」
「ええ、杏仁豆腐とかが優しい味で良いと思います。あと、甘いものじゃなくても、お粥とかも食べたいです」
「両方あるかもしれぬ。あの店に入ってみよう」
そうして、食料品店に向かって二人で歩き出した、まさにその時でした。
急に襲ってきた眩暈に、私はふらつきました。
何とかこらえようとしたのですが、白い袋を抱えていて、足元が見えなかったからでしょうか、私はちょっとした段差に引っかかって転倒してしまったのです。
「ああっ、甘栗がぁ!」
宙を舞う白いビニール袋。
はずみで袋が無残に破け、降り注ぐ焦げ茶色の甘栗。
栗たちは解放に歓喜したかのように軽快に転がってしまいました。
ぐしゃり、踏まれる栗。
栗に乗り上げて滑って転ぶ男の子を目の当たりにしました。
悲鳴が飛び交います。
男の子を避けた自転車が標識の柱に激突したようです。
何してんだよ、誰だよ、といった責任を追及をする言葉も耳に飛び込んできます。
尻餅をついて痛かった私ですが、そんなことを言っていられる状況ではありません。大変なことをしてしまいました。
背筋が凍る思いとは、まさにこのこと。
あろうことか、中華街大通りで大量の焼栗をぶちまけてしまうなんて!
私たちを囲むように、野次馬の人だかりができてしまいます。何人かは立ち止まり、栗をせっせと拾い上げては紙袋に戻してくれています。
「何だ、貴様ら!」純くんは興奮気味に叫びました。「よもや我が子羊に手を出そうと言うのではなかろうな!」
「待ってください純くん」
これは、どう考えても私が悪いんです。
「止めるな、まやか。お前は何一つ悪くない。悪いのは、破けるような袋に栗を詰めた愚かな奴らなのだ!」
「そんなことないです。あの人たちは、いっぱいサービスしてくれただけなんです! 袋が悪いんだとしたら、それもやっぱり私が悪くて……。実は、純くんには黙っていたことなんですが、この白い袋は……白き聖鳥の化身なんです!」
「白き聖鳥の化身だっただと……?」
「どうしてあれが荒ぶったのかと言うと、たぶん、以前、地下鉄で正しいゴミ箱に捨てなかったから、その悪しき行為が聖鳥の逆鱗に触れてしまったんです。ということは、私が悪いということなんです」
私は、両手を差し出します。ここに犯人が居ますよ、さあ手錠を掛けてくださいとばかりに両手の甲を向ける形で。
彼は、「やめるのだ」と言って、俯く私を立ち上がらせようとしました。
両手を優しく引っ張ってくれる彼には悪いですが、これは譲れません。何もかも、私が悪いんです。
お兄さんたちにサービスしてもらった大事な栗をいくつも無駄にしてしまいました。通行の邪魔をして皆さんの観光気分に水を差してしまいました。転がる栗のせいで転んだ子供もいたんです。小さな交通事故にも発展しました。
一歩間違えば、さらに取り返しのつかない事態になっていた恐れだってあります。
これを反省しなかったら、これから先の人生において、胸を張って生きられるとは思えないんです!
私は純くんの手を振り払いました。
「なっ、まやか?」
そのとき、ふっと意識が何処か遠くへ持っていかれるような感覚に襲われました。まるで、二度寝する寸前のような感じです。
そう思っているうちに、私の視界には屋根と看板たちと青空が映りました。かと思えば、視界が勢いよく流れます。
「まやか!」
そして、朦朧とする意識の中、ふわりと頭を冷たいものに包み込まれた感覚。
「あ、危なかった……まやか、おい、大丈夫か?」
訪れた暗闇。
「まやか……? まやかぁああああああああ!!」
彼の声だけが響き渡っていたんです。




