純くんと約束したんです! 中編
保健室へと向かう道中、私は意を決して立ち止まりました。
このままでは教室から遠ざかってしまう。そこで私は、なけなしの勇気を振り絞って三つ編みさんに逆らうことにしたのです。
今日は、できるだけ教室を離れたくないんです。
「あのあの学級委員さん!」
「どうかした? あ、腕掴んじゃってゴメンね。痛かった?」
「いえ、そういうことではなくてですね……」
「お礼なら別にいいよ。自分の仕事を果たしただけだから」
「あ、お礼……えっと、そうですね。ありがとうございます。でも、ありがたいんですけど。正直ありがた迷惑っていうか……。つまり、今日は、私は、教室で待っていたいんです」
「あら、どうして?」
「じつは、昨日お見舞いにいって、純くんと約束したんです。教室で会おうって…………」
そしたら、彼女はニンマリと笑い、ふふふっと声を漏らしました。
「どうして笑うのでしょうか」
「んーとね、ついさっきも、どっかで聞いたような言葉だなって」
「えっと、どういう……」
「いいから」
また手を引っ張って、階段へと向かいました。遠ざかる教室が、どんどん小さくなっていくのを見ていたら、ずきずきと胸が痛みました。
一階にある保健室の前まで来ると、学級委員さんは私の前髪を整えてくれました。さらに、私のかわりに戸をノックしてくれたんです。
保健の先生である女性の返事が、向こう側からきこえてきて、中に入っていいとのことでした。
「じゃあ、河上さん。ちゃんと中で休むんだよ」
「はい、ありがとうございました」
私がそう言うと、学級委員さんは白い歯を見せたんです。
「ごゆっくり~」
早歩きで遠ざかっていく三つ編みの背中を見送った後、私は戸を開けます。
ちなみに、この保健室の先生は、わが校の教師陣の中では見た感じ若い部類に入りますが、すでに三十路に片足を突っ込んでいるという有力な噂があります。
保健室に来たのは初めてではありませんので、緊張とかはありません。ただ、教室から遠ざかってしまったことで、残念な気持ちがあったのは確かです。
私は保健室に入るなり、挨拶も忘れて溜息を吐いてしまいました。
白衣のおねえさんは、背もたれの無い丸椅子に座るよう促しました。そして、すぐに質問を飛ばしてきます。
「見るからに体調悪そうね。どう?」
「はい、おかしいんです。こんなはずじゃなかったのに……」
「ふむ、熱があるっぽいわね。お家で測ってみた?」
「たしか、三十八度八分でした」
「高っ、やばっ」
「それが私の平熱なんです」
「うそつけ」
「すみませ……ゲフン!」
「やれやれね。そんなんで、どうやって学校来たの。それだけ熱があったなら休んでも誰も文句言わないでしょうに、何で?」
「だって……」
「咳が出てるみたいだし、声もやられ気味ね。痰や鼻水は? 寒気がしたりとか、だるさとかもある? もしかしたら、お腹の調子も良くないかな?」
もう保健室まで来てしまっては、嘘を言ってもいられません。全てに頷いた私は、がっくりと俯きました。
他ならぬ大好きな純くんとの約束を守れなかった自分が、情けなかったのです。
「これは、そうね……。詳しくはわからないけど、たぶん、あなたも風邪だわ。流行ってるみたいね。念のため、病院に行った方が良いと思うけど……どう? 一人で帰れそう?」
私は、首を小さく横に振りました。
学校に留まっていれば、約束を守るチャンスが来るかもしれないと思ったからです。
もしかしたら、これから熱が下がるかもしれません。急に体調が回復する可能性だって大いにあると信じています。
せめて少しでも長く、池之端純くんが約束の教室に来るまで、待ちたいんです。
もしも、純くんが教室に入ったときに私が居なかったら、きっと、ひどく落胆すると思うんです。好きな人を落ち込ませるのは、正しくないって、思います。
「それじゃあ、お家に連絡して、誰かに迎えに来てもらいましょうか」
「ま! 待ってください先生。今日は、両親とも仕事で家には居なくて……」
またしても嘘を吐いてしまった罪深い私です。お母さんは、きっと家でカンカンです。
「そうなの、じゃあ取り敢えず落ち着くまで、この保健室で寝てましょうか。さいわい、ベッドにも空きがあるし……」
私は、これでもかってくらい、力強く頷きました。
「そうさせて欲しいんです。貴重なベッドをお借りするというのは、下賎な私なんかの身に余るほどの勿体無いことではありますが、誰も迎えに来てくれない孤独な私を不憫だと思――げほげほ」
「あーあー。良いから良いから。さっさと寝なさい」
「けほ……すみません……」
そうして先生が立ち上がり、私に色々と指示を飛ばしてきました。
もう一回体温を測れだとか、さっさと治せだとか、用紙にクラスと出席番号と名前を書けとか、額に貼る冷たいシートの箱を手渡されて、それ装着しろとか命令されました。
そんなに一度に色々できると思ったら大間違いです。この人は、風邪を引いた私を何だと思ってるんでしょうか。
しかも、驚くべきことに手渡された箱の中には、もう一枚もシートが残っていないではありませんか。
これは、試練なのでしょうか。それとも新手のいやがらせなのでしょうか。保健の先生のくせに病人を陥れる気満々だとでもいうのでしょうか。
「あのあの先生、ありません」
保健の先生は、何の言葉を発することなく、優しい表情を貼り付けたまま首を傾げてみせました。
そこで私は、お返しとばかりに無言のまま、両手で箱を頭上に掲げてみせたのです。空っぽであることを示すために、箱を逆さにすることも忘れませんでした。
「ああ。減熱シートが無かったのね。って、あれ? ええっ? もう切れちゃったの? おかしいなぁ、買ってきたばかりのはずだけど……」
そして、白衣のおねえさんは、しばらく考え込んだ後、こう言ったんです。
「まぁいいや。とにかく、わたし、ちょっとダッシュで買ってくるから、勝手にベッドで寝といてね」
言い切るや否や、本当に走りながらばたばたと保健室を出て行ってしまいました。
ひとり残された私は、我慢していたくしゃみを思いっきりして、慌てて鼻をティッシュで押さえたのです。
しばらくしたら、保健室の独特の匂いのせいでしょうか、すこし体調が安定してきた気がします。
体調が悪い時に激しい運動をしたから思考力が著しく低下していただけであって、おとなしくしていれば脳みそもそこそこ回転してくれるようです。
それにしても私は、どうして風邪など引いてしまったのでしょう。
昨日彼にうつされたのかもしれませんし、先日のにわか雨に打たれたことが原因かもしれません。いずれにしても、同じタイミングで同じ病にかかるのは……何といいますか、こ、恋人らしくて悪くないとも思えます。
けれど、もしも今、純くんがふらふらの私を見たらどう思うでしょうか。おそらく、「自分がうつしてしまったのだ」と罪の意識に苛まれてしまうでしょう。そうして守れなかったと自分を責め、また、さらに強力な新技を身につけるため、体内に邪悪を取り込む選択をしてしまうのかもしれません。
だから、この状態の私を、優しい純くんに知られるわけにはいきません。
新技云々という展開にはならないにしても、責任を感じて「すまぬ」とか言ってくるに決まってるんです。私は、彼のそんな姿をあまり見たくありません。彼は、格好つけて、堂々とおかしくてイケてるポーズをしているのがよく似合うんです。
今の私に会ったら、純くんは元気をなくしてしまうんじゃないでしょうか。せっかく体内の邪悪なものと戦いながら学校に這ってきたのに、私を邪悪な何かから守れなかったことを知れば、きっと傷つきます。
だから、私が目指す最善の道は只一つ。またたく間に病を治してしまうことだけなんです。
でも、それでも、私は、すこしでも早く純くんに会いたいから、病院なんかには行けないんです。
かくなる上は、おとなしくベッドで寝るという選択がベターだと思われます。
「純くん……」
私は普段と違う声で言って、溜息を吐きながら、ベッドへと続くカーテンを開けたんです。
開けた瞬間に心臓が飛び跳ねました。
なんと驚くべきことに、そこには、青い顔をした男の人がいたのです。
青いと言っても、死んでるとか、そういうのではありません。水色の物体――熱をさますシート――を顔面中に貼りまくって、顔が見えなくなっている怪しい人がいたんです。誰も居ないだろうと思ってカーテンを開けた瞬間にそんなのを見たものだから、酷くびっくりしてしまったんです。
「ひゃぁ!」
思わず叫び、後ずさりました。その拍子に、カーテンを思いっきり踏んでしまった私を誰が責められましょう。びりびりびりと嫌な音が響いたと思ったら、私の身体は斜めになりました。どうやら私は、カーテンで滑って仰向けに倒れようとしているようでした。手足をばたつかせて、なんとか転倒を回避しようとしたら、後向きで走ることになり、運の悪いことに人体模型に直撃してしまったのです。
倒れた人体模型。
もげる腕、飛び出す内臓、頭がとれて脳みそがむき出しに!
「キャアア!」
喉をやられてるのが嘘のようなクリアな金切り声が出ました。
咄嗟に逃げ出そうとして、壁に手をつこうとしてポスターを破きました。また転びそうになって近くにあるものを掴もうとした時に、積み上げられた書類を見事に空中にばら撒き、畳まれたパイプ椅子をガシャーンと倒し、私は、すっかり散らかった保健室の床に座り込む形で落ち着きました。
ばら撒いた印刷物が全て落ち、動くものが無くなった時、涙で滲んだ視界には、いつのまにか右の上履きが脱げてしまった自分の足がありました。
「何だ……」
ベッドの上の怪しい人がそんなことを言いました。
何だとは何だ。頭にきた私は、地べたに座ったまま憤りを表明します。
「何なのかっていうのは、私の台詞なんです。何で、あなたは、顔を水色にして寝ているんですか。あなたのせいで、保健室がしっちゃかめっちゃかに――」
「む、その声……我が深き眠りを妨げし者は、まさか……」
「え?」
むくりと起き上がった男の顔から、水色のシートがぼとぼとと落ちた時、私は唖然として固まりました。
「やはり……やはりそうか! まやか!」
それは、私の彼でした。すごく元気そうでした。血色の良い顔。声も全然変じゃなくて、それは、いつもの池之端純くんに見えました。
「じゅ、純くん!?」
「いかにも、俺は池之端純!」
ベッドに座りながらの派手なポーズ。左手で自分のおでこをおさえながら、右手を真横に伸ばしています。病気を感じさせないキレの良い動きでした。
「まやか、お前に会いに来た」
「純くん!」




