純くんと約束したんです! 前編
あのあのお母さん、ちがうんです。
本当に、ちがうんです。これは風邪じゃないんです。
発熱って、それは体温計が壊れているんじゃないですかね。それ古いし。
声が変なのは、昨日の夜にお布団の中で大声で歌っていたからだと思われます。深くお布団をかぶっていたせいで、鬼気迫る壮絶なシャウトがお母さんにはきこえなかったに違いありません。
ふざけてなんか、ないですよ。
私が今まで嘘を吐いたことありましたか?
「…………」
きょ、今日だけは信じてください、お母さん。学校に電話なんかしないで下さい。さあほら、今ならまだ間に合います。その受話器を下ろし――ゲフンゲフン。
ちが、けほ、ちがうんです、今の咳は、私のじゃないんです。たとえ咳だったとしても、風邪によるものじゃなく。
へ? 病院? やだやだやだやだ。
大丈夫。大丈夫ですってヘクシッ!
うぅ、ティッシュ、ティッシュ……。
く、くしゃみじゃないんです。仮にくしゃみだったとしても、私の意志じゃなくてですね、何らかの花粉とか、コショウの類だと思うんでクシャン!
ああ、なんか変な語尾でしゃべるゆるキャラみたいになってしまったじゃないですか。お母さんのせい――ァイタッ!
何でおでこ叩くの……はっ、やられた。その冷たい平手で私の体温を確認したわけですね。
ないない、熱なんか無い!
待って、やだ。本当に。
私、今日、学校で待ってるって約束してるんです。約束をもちかけた私が約束を破るなんて、あってはならないことでしょう。そのくらいのこと、気の遠くなるくらい永い年月を生きているお母様なら知っているはずです。
寒気なんてちょっとしか無いです。吐き気も無いです。この発熱だって聖なる私にとっては微々たるものです。ちょっと咳やくしゃみが出るくらいで、喉の痛みだって我慢できます。
ちょ、まって、放して!
やだ、放してってば!
「いい加減にしなさい、まやか!」
「えいっ! 行ってきます!」
私は、母の制止を振り切って、華麗に自転車に跨りました。
愛用のママチャリを必死に漕いで、辿り着いた学校。
ずいぶん長い旅路のように感じられました。
それというのも、どうにも身体がだるくって、火照ってる感じがして、動悸も酷くなっているのです。大した運動をしているわけでもないのに、どういうわけか息も荒いです。相変わらず喉が痛くて、咳も出ます。お腹まで痛くなってきました。
一段一段が、こんなにキツイなんて初めてのことです。どうしてこの校舎の階段には手すりが付いていないのだろうと不満に思いました。
トラウマになりそうな心臓破りの階段を上りきると、そこは廊下でした。朝の光を反射してまぶしく光っているであろう廊下には、誰の姿もありません。そんなことくらい、視界が霞んでいてもわかります。
さて、どうして誰も居ないのか。
たぶん、朝のホームルームが始まっているのでしょう。腕時計の確認すら億劫なので、確証は持てませんけど。
間に合うように急いだはずなのに、思ったように体が動かず、この有様です。
……また遅刻してしまいました。
私は、いつものように、ホームルーム中のドアを開けたんです。
そこに、純くんの姿はありませんでした。こんなことなら、お母さんの言うことをきいて、ちゃんとお医者さんに行くんだったと思って、そこから先は、もう頭が真っ白になって、心は絶望で真っ黒になって、私は何も言えずに、入り口で立ち尽くしたんです。
教室の皆さんの視線が突き刺さり、溜息を吐いた伊藤先生は険しい感じで言います。
「なんだ河上。また遅刻か。今日という今日は許さんからな。あとで指導室に呼び出すから覚悟しておけよ」
「……ちがうんです」
自分の声が、かすれていることに驚いた私です。
「何が違うんだ、言ってみろ、河上」
「…………」
「どうかしたのか。いつもみたいに、言い訳の一つでもしてみたらどうだ」
先生に責められても、どうしても言い返す気力が出ませんでした。ありのままを伝えようとしても、ちっとも頭が働かなかったのです。
「また何か理由があるんだろ。今日の遅刻の理由は何だ」
それでも、何かを言わなければ着席さえ許されないと考えた私は、搾り出すように、かすれた声を発します。
「えっと、体調が悪くて――げほげほ」
先生は無言で不快感をぶつけてきました。軽蔑するように眉をひそめています。
自然に出てしまった咳ですが、もしかしたら演技しているように映ったのかもしれません。
「あ、あの……ちがうんです……けほ……」
「わざとらしい咳だな」
「え……」
「そんな三文芝居に騙されるものか。教師をなめ過ぎなんじゃないのか」
あのあの、これは仮病とかじゃなくてですね……と言おうとしても、こんなに辛い時に先生からショックな言葉を浴びせられ、うまく声が出てきてくれません。
「それとも、証拠があるのか。本当に病院に行って、本当に病気だったなら、医者に診断書を発行してもらえるはずだろう。どうなんだ」
「ない……です……けど……。病院いってませんし……」
「じゃあ信じることは無理だな」
私は、その時、狼がくるぞーと日常的に言い続けたがために信じてもらえなくなった人の童話を思い出したんです。
今の、私のこの状況というのは、たぶん狼少年のソレに近い状況だと思われます。
かといって、もう必死に弁解する元気もありません。もしこの場に純くんが居てくれたら味方になってくれるのかなぁ、なんて虚しいことを思いついたのですが、彼が座っているはずの席は空席です。私の隣にもいません。
――教室で会おうって言ったのに。
なんだか、ふらふらします。視界が白くなったり黒くなったり、ほのかにぐらぐら揺れてしまったりで、きもちわるくて、吐きそうになります。
私は口元をおさえました。気分が悪くなったから咄嗟にそうしただけなのですが、どうやら先生は、私が泣きそうになっていると勘違いしたようで、さっきまでよりも少しだけ優しげな声で、言いました。
「泣いたからって、どうにかなると思うな。もう高校生なんだぞ。もう半分大人なんだ」
「すみません……」
「ま、話は後で聴いてやる。さっさと座れ」
「申し訳ないです……」
謝るのは当然です。因果応報、私の自業自得なんです。運悪く本当にやむを得ず遅刻したこともあったけれど、特に理由なく遅刻したことも今まで何度でもあって。だから、今、こんなに辛いのは、それらのツケがまわって来たんでしょう。
でも、それにしたって……。
私は、窓際の席に向かいます。
と、ふらふらしながら途中まで歩いたのですが、その時、急に冷たい手が、私の手首を掴んだんです。
「え?」
振り返れば、綻び一つない見事な三つ編みがありました。真面目そうな学級委員さんが立ち上がって私の手を掴んでいたのです。
「待って、河上さん」
「うぇ、学級委員さん……な、なんですか……っ」
教室後部の壁を見つめながら言った形です。つまり、私は、学級委員という名の権力から顔を逸らしてしまったのです。どうしてそんな行動に出たのか、自分でもよくわかりません。普段の行いが正義にかなっていないという自覚があるから、そんな行動に及んでしまったのでしょうか。
「うーん、そんなにびくびく怯えられると、なんか悲しいんだけども……まあいいか。えっとね、河上さん、ちょっといいかな」
彼女は言って、いきなり私の首筋に左手を滑り込ませてきました。
「ひゃん」
悲鳴を上げるほどの冷たい手。あるいは、私の体温が高すぎるのかもしれませんが。
かと思えば、右手で私の前髪をどかしました。手首が解放されたのは良いですが、何をしようとしてるのかわからず、とてもこわくて、目をぎゅっと閉じた臆病な私です。純くんが居ないだけで、いつもより不安倍増になってしまうんです。
後頭部を掴まれ、引き寄せられます。
「わわわっ。何するんですか唐突に!」
鼻の頭とおでこに、冷たい何かが触れました。
「へ?」
おそるおそる目を開くと息がかかるくらいの至近に彼女の白い顔があって、私と彼女のおでこ同士が触れ合っていて。そこでようやく、体温チェックをされていることに気付きました。普段の状態ならもっと早くに気付けるのでしょうけども、熱っぽくてボーっとしていたので、それは無理というものです。
つまり、彼女はこの時点で、私の様子が普段と違うことを感じ取っていたということです。先生にもバレなかったことを簡単に見破るとは、さすが学級委員を名乗って三つ編みにしているだけのことはあります。
「うん、やっぱね。声もかすれてるし、すごい熱あるみたいだし……」
考え込むように呟いて、先生の方に勢いよく振り向きます。トレードマークの三つ編みを鋭く振り抜きながら、よく通る高い声を出しました。
「先生ー。河上さん、本当に調子が悪いんだと思いますー」
「え、うそ、え、そうなのか? 本当なのか河上」
「熱もあるみたいなので、保健室に連れて行きたいのですが」
すると、どうしてか先生は段々と蚊の鳴くような小声になり、
「あ……そ、そうか……それは……頼む」
「行こ、河上さん」
学級委員は有無を言わさず私の腕を引っ張って、廊下へと引きずり出しました。
その際、先生は、私が教室から出るまで、私と目を合わせてくれませんでした。




