放課後、お見舞いしに行ったんです。
あのあの純くん、今日は心細かったんです。遅刻で先生に叱られた時に純くんが居なかったせいで、遅刻扱いになっちゃって……。
って、嗚呼、こんなことを言ったら、責任を感じてしまうかもしれません。
まるで純くんが居ないせいで、私が傷ついたのではないかと勘違いされてしまう恐れもあります。
愛する人に嫌な思いをさせたくありません。きっと私が「純くんの不在によって困った話」を口にしたら、はやく邪悪な気を追い出そうと焦ってしまうに違いないんです。急かしてはいけません。純くんを想うなら、責任感の強い純くんを疲れさせるような言動は慎むべきなのです。
何せ、私は、純くんの……か、カノジョなのですから。
「池之端……ここが、純くんの家……」
表札を撫でた私は、どうしてか忍び足で門の前に近付きます。門扉は開け放たれていて、私を中へ中へと誘っているみたいです。
「…………」
大変です。緊張が尋常じゃないです。思えば、純くんのお母様やお父様には会ったことがありません。
――恋人の両親に会う。
これが緊張を呼ばずに、何を呼ぶというのでしょう!
意を決した私は、門の辺りでインターホンを探したのですが、あろうことか、どうやら設置されていない様子でした。
「ど、どうしても、敷地内へと入れということでしょうか……」
私は苦しげに胸をおさえて呻き声をあげながら、玄関のドアの前に立ちました。
震える手で、胸の高さにあったインターホンを押します。
そして、軽快な音色が響き渡った時、なんと私は逃げ出していました。
お庭の草むらの陰に咄嗟に隠れてしまったのです。
図らずもピンポンダッシュをしてしまった罪深い私です。
ええ、わかります。何をやっとるんだというのは自分でも強く思います。でも、だって、仕方ないじゃないですか。心の準備が足りてなかったんです。
「…………あれ?」
だけど、おかしいです。
ピンポンを押したのに、誰も出てきません。もしかして、実は押せてなくて、私の幻聴だったのでしょうか。その可能性は否定できません。緊張のあまり、おかしくなってしまったことも十分に考えられます。
私は、草むらからガサリと飛び出し、もう一度、インターホンを押してみます。
やっぱり、さっき響いたのと同じ軽い音が鳴りました。
だったら、やっぱりおかしいです。
純くんは、風邪で、いえそのつまり、邪悪なものにあてられて、お家で静かにしているはずなのです。
「もしかして、出てこられないほど具合が悪いのでしょうか」
――まさか、邪悪な何かに、やられて瀕死状態なんじゃ……!
それどころか、邪気にあてられて弱っているところに暴漢が襲って、池之端一家が全滅なんてことになってしまったんじゃ……!
心配になった私は、玄関を引き開けました。
「……あいてる」
鍵が開いているということは、普通に考えれば、誰かが居るはずです。
木のぬくもりが感じられる家の中は、明かりが落とされ、どことなく、ひんやりとした空気です。
ごめんくださーいと言いましたが、返事はなく、誰か居ませんかーと震えた声で言ってみても、何の反応もありませんでした。
心配になった私は、はじめて池之端家の敷居をまたぎ、純くんの部屋へと歩み出しました。
純くんの部屋は、二階です。
私は、どうしてかコソ泥みたいに足音を立てないようにして、階段を一つ一つ踏んでいきます。
本当は、わかっているのです。このようなことは不法侵入であり、絶対にやってはいけないこと、すなわち正義に反した行為だと。だけど、すぐに引き返したほうが良いと頭では考えているのに、足が止まりません。どうしたら良いのでしょうか。
ふと、階段を上りきった辺りで、げほげほと咳の音が響き渡りました。
その邪悪な音に導かれ、私は閉じた扉の前まで歩いたのです。
ここが純くんの部屋に違いない。
私は、思い切ってドアをノックしました。
はーい、と純くんのかすれた声。
私は扉に向かって、また震えた声を出します。
「あ、あのあの、わた、私です!」
「ウえっッ!?」
すごくビックリした声。痰が絡んだ濁った音。ご両親でないことに驚いたのでしょう。
「なっ、その声、まさか、まやか……本当にまやかなのか?」
「はい、そうです。河上まやか。お見舞いに来ました」
「むぅ、まやかのことを考えていたら、本当にまやかが来たというのか。いや、これは夢かもしれん。あるいは邪神の用意した幻聴であろうか」
「いえ、あの、その、私は本当の本物で。誰も居ないみたいだったので、心配で、ここまで上がって来ちゃったんですけど……すみません……ご迷惑でしたね……」
「いやっ! いや、その、そのその……謝ることではないぞ、まやか。俺を心配して来てくれたのであろう」
「は、はい。そうなんです。看病をしに来たんです」
と、私がドアレバーを下ろしかけた時でした。
「――ならぬっ!!」
「え……」
私は肩を弾ませてレバーを手放しました。
純くんは、大音声を出したせいか、ゴホンゴホンと咳払いして、
「気持ちは有難いが、まやか。今はその……入ってはいかんのだ」
「そんな! どうしてですか! 純くんが辛い思いをしている時に、私はそばで支えたいです!」
「ならぬ! ならぬのだ!」
「どうして……」
「その封印の扉を開くならん。俺がここに封じ込めている魔物が表に出てしまう。そうしたら魔物は、近くに居る人間を襲うだろう。我が愛する子羊を、そのような危険な目に遭わせるわけにはいかぬのだ」
「純くん……」
「案ずるな。大丈夫だ」
「本当ですか?」
「俺を信じないと言うのか?」
純くんが優しい人だってことは信じています。けれど、優しいがゆえに、私を心配させまいとして嘘を吐くことがあるんじゃないかって思うんです。
今だってきっと、私に病気をうつしてしまわないように、入って来るなって言ってるんだと思います。
どんな形であれ、好きな人のことを疑いたくはありません。でも、ドア越しの苦しげな声や、ひどい咳をきく限りでは、大丈夫だなんて、とても思えません。
「…………あのあの……ひょっとして、純くんが風邪を引いたのって……あの時の……」
「違う! 断じて違うぞ、まやか! 決して先日の雨に打たれたことが原因ではない!」
「でも……」
「いいか、よく聞け、まやか」純くんは、ところどころかすれた声で言います。「勘違いしているようだが、これは風邪ではないのだ。邪悪な魔物を体内に敢えて取り入れることによって、無効化し、殲滅しているところなのだ。俺ほどの魔力をもってしても抑え切れぬものを、何故あえて取り込んだのかといえば、新たな秘技を会得するために他ならない」
「魔物を、体内に……? そんな……そんな危険なことを、たった独りで?」
「……帰るのだ、まやか。ただでさえ、今の此処は瘴気が濃い。まして貴様は、魔を呼び寄せやすい体質をしている」
「そうだったんですか?」
「ああ。それゆえ、新たな力が必要になった。この新たな奥義を会得する必要ができたのだ。我が体内に取り込みし魔物を制御し切った時、また一つ、まやかを守るための大いなる力を手にすることができる…………」
「学校をお休みしてまで、することなんでしょうか……」
「なに、まやかのためと思えば、欠席なぞ、痛くも痒くもないわ」
「純くん……」
私は感激して呟きました。私のために、大事な学校を休んでまで、戦ってくれているというのです。
「さぁ、わかったろう? ここは体に毒だ。巨悪を呼び寄せる前に、聖なる子羊のゆりかごに帰るのだ」
「純くん、明日は会えますか……?」
「ああ。明日は、必ず学校に行くぞ。這ってでもな」
「お待ちしています。約束ですよ」
「寂しい思いをさせて、すまなかったな。心配をかけたのも謝る。……そして、何より、見舞いに来てくれて、本当に有難う」
「また明日、教室で」
そうして私は、大好きな人の顔を見ることが叶わないまま、はじめての池之端家を出ることにしたのです。
玄関で靴を履いている時に、ゲホゲホと調子の悪そうな咳がきこえてきて、戻りたくなる気持ちが湧き上がります。必死に抑えて駆け出しました。




