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A.O. //_OVER:RIDE  作者: じょな


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第9話「0x08_神の解体」

重い漆黒の扉を押し開けた瞬間、音と重力の概念が完全に消失した。


無限の回廊を満たしていた不快なノイズも、靴底から伝わる硬い床の感触も、すべてが嘘のように途絶えた。

そこは、上下左右の境界線すら存在しない、圧倒的な純白の空間だった。


光源はない。

空間そのものが、網膜を焼かない程度の静かで冷たい光を放っている。


俺は扉の敷居を跨ぎ、その無重力の純白へと足を踏み入れた。

身体がゆっくりと宙に浮き上がる。

左手のショートソードの残骸を捨て去り、俺は動かない右腕と、視力を完全に失った左目を抱えたまま、残された右目だけで空間の中心を睨みつけた。


そこには、巨大な水晶の球体が浮かんでいた。


球体の内部には、数え切れないほどの光の明滅が、銀河の星々のように渦を巻いている。

120名の未帰還者たちから搾取し続けている、膨大な脳波データの集合体。

この狂った仮想世界を維持し、進化させるための、メインコアそのものだ。


そして、その巨大な水晶に背中を預けるようにして、一人の男が宙に浮いていた。


真っ白なスーツに身を包んだ、神経質そうな細身の男。

顔には表情の起伏がなく、まるで精巧な蝋人形のようだ。

男の背中からは無数の細い光の糸が伸び、背後の水晶コアと完全に直結している。


『……本当に、ここまで辿り着くとはな』


男の口は動いていなかった。

だが、その声は空間そのものを震わせ、俺の脳髄に直接響き渡った。


デバッグエリアで聞いた、あの傲慢で底冷えする声の主。

このシステムの設計者であり、プレイヤーの命を部品として弄ぶ、自称・神。


「迎えに来たぜ。その球体をぶっ壊して、全員まとめて現実へ連れ帰る」


俺は喉の奥から血の塊を吐き出しながら、低く唸った。

中枢神経に直接打ち込まれた金属ピンが、首の裏で熱を持ち、脳をジリジリと焦がし続けている。

生きているのが不思議なほどの激痛と疲労。


マスターと呼ばれた男は、俺の無様な姿を冷ややかな目で一瞥した。


『驚嘆に値するよ。右腕の神経を焼き切り、さらには頸髄に旧世代のインターフェースを直結させてまで、この絶対領域に侵入するとは。……だが、それはただの愚かな自殺だ。君の現実の肉体は、すでにショック死の寸前まで追い詰められているはずだ』


「俺の心配をしてくれるのか? 優しい神様だな」


『純粋な疑問だよ。なぜそこまでして、たかがデータになりかけた他人の意識を救おうとする? 彼らはすでに、この偉大な自己進化システムのインフラとして昇華された。無駄な感情論でシステムを破壊しようとする君の行動は、論理的に全く理解できない』


男の言葉には、本当に微塵の悪意も含まれていなかった。

ただ純粋に、人間の感情というものを『無駄なエラー』としてしか認識していないのだ。


「理解できなくていい。お前みたいなイカれた機械に、人間の痛みが分かってたまるか」


俺は左手を虚空に突き出した。

死んだ右腕に代わり、左腕の血管を無理やり拡張して、バグのコードを全身から引きずり出す。

激痛に全身が反り返りそうになるのを、気力だけで押さえ込む。


左手から黒い泥のようなノイズが溢れ出し、瞬時にあの巨大な漆黒の刃を形成した。


「さっさとそこを退け。お前のその澄ました顔ごと、真っ二つにしてやる」


俺が黒い刃を構えると、マスターは初めて、その整った顔に微かな嘲笑を浮かべた。


『バグが神に牙を剥くか。いいだろう。君のその不快なエラーコードを、私の手で直接フォーマットしてやる』


マスターが、右手の指先を軽く弾いた。


その瞬間。


「が、ぁっ……!?」


俺の身体が、見えない巨大なプレス機で上下から押し潰されたような、絶望的な圧力に襲われた。


無重力だったはずの純白の空間に、突如として現実の数十倍の重力が発生したのだ。

骨が軋み、内臓が破裂しそうになる。

俺は為す術もなく、真っ白な虚空の底へと叩き落とされ、這いつくばった。


『ここは私の絶対領域だ。物理法則、環境データ、あらゆる事象の決定権は私にある。君がどれほど強力なバグを持っていようと、システムそのもののルールには逆らえない』


マスターがゆっくりと宙を降りてくる。

俺は歯を食いしばり、左手の黒い刃を床に突き立てて、どうにか身体を支えようとした。


だが、マスターが再び指を動かすと、今度は俺の周囲の空間の温度が、一瞬にして絶対零度まで低下した。

皮膚の表面が凍りつき、肺の中の水分が凍結して呼吸が止まる。

さらには、不可視の刃が全方位から降り注ぎ、俺のアバターの肉体を容赦なく切り刻んでいく。


「ガ、アアアァァァァッッ!!」


回避不能。防御不能。

これが、神と呼ばれる存在の力。

システムの一部を書き換えるだけの俺の力とは次元が違う、世界そのものの押し付け。


俺は血だるまになりながら、純白の床の上で痙攣した。


『終わりだ。君の特異な権限は、私が後でじっくりと解析し、次のアップデートの糧とさせてもらう。……さようなら、名もなきバグよ』


マスターが冷酷に宣告し、右手を俺に向けてかざした。


┌────────────────────────────┐

│                      │

│ 絶対権限の行使を確認。          │

│ 対象データの完全消去デリートを実行。 │

│                      │

└────────────────────────────┘


虚空に巨大な赤いウィンドウが展開され、そこからすべてを無に帰す真っ白な光の奔流が、俺に向かって放たれた。

視界が白に染まり、意識の糸がプツリと切れそうになる。


(これで、終わりなのか)


トウヤの顔が浮かんだ。

未帰還者たちの家族の、泣き崩れる姿が浮かんだ。

俺は結局、あいつらを助けることもできず、ただ自分の命をドブに捨てただけなのか。


『絶対に、現実に引きずり帰してやる』


いつか自分が吐いた言葉が、脳裏を反響する。


(ふざけるな。……終わってたまるか)


俺の肉体は死にかけている。

だが、俺の脳の奥底には、まだ燃え尽きていない『命』がある。


右腕の神経が死んだなら。

左目が失明したなら。

残された両足の神経を、心臓の鼓動を、脳髄のすべてを回路にして、このバグを暴走させればいい。


「アアアアアアアアァァァァッッ!!!」


俺は、床に伏せたまま、絶叫とともに自身の命の限界を突破した。


現実世界の俺の口から、鼻から、耳から、大量の血が噴き出す。

だが、その代償として。


俺の全身を覆っていた黒いアザが、周囲の絶対零度の空間を溶かすほどの異常な超高熱を放ち始めた。


放たれたマスターの消去の光波が、俺の肉体に到達する直前。

俺の全身から噴き出した漆黒の泥の奔流が、巨大な壁となって光波を真正面から受け止めた。


『……なに?』


マスターの蝋人形のような顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。


消去の光波が、漆黒の泥に触れた瞬間に、腐るようにドロドロと溶け落ちていく。

俺は自身の命を燃料にして、システムが押し付けてくる絶対法則そのものを、強引に『書き換え』ているのだ。


「ルールがなんだ。世界がなんだ……!」


俺は左手に握った漆黒の刃を杖代わりにして、圧倒的な重力に逆らい、ゆっくりと立ち上がった。

足の骨がメキメキと音を立てて砕けそうになるが、痛みはもうどうでもよかった。

残された右目から、血の涙を流しながらマスターを睨みつける。


「そんなもの、俺の命で……全部塗り潰してやる!」


俺は左手を高く掲げた。


『管理者権限【OVERRIDE】の臨界突破を確認』

『システムの基幹コードへ、全領域強制書換を開始します』


脳内の無機質な声すらも、ノイズにまみれて狂暴に歪んでいた。


俺の左手から、果てしのない漆黒の泥の津波が爆発的に広がり、純白の空間を容赦なく侵食し始めた。

圧倒的な重力が消え去る。

絶対零度の冷気が消え去る。


俺の放ったバグが、マスターの絶対領域を根本から腐らせ、ただの壊れたデータの残骸へと変貌させていく。


『ば、馬鹿な! 私の空間が、私のルールが書き換えられていく!? ただの一プレイヤーの脳波で、メインコアの演算力を上回るなど、あり得ない!』


マスターが初めて声を荒らげ、背後の水晶コアからさらに膨大な光のエネルギーを引き出そうとした。


だが、遅い。


俺は重力の消え去った空間を蹴り、マスターに向けて一直線に跳躍した。

左手に握った漆黒の刃は、空間そのものを切り裂くほどの巨大な闇の塊へと膨張している。


『来るな! 私は神だ! この世界の創造主だぞ!』


マスターが恐怖に顔を歪め、俺に向けて無数の光の矢を放つ。

だが、それらは俺の纏う黒いノイズに触れる端から、無意味な文字列へと分解されて消え去った。


俺はマスターの眼前に到達し、漆黒の刃を大きく振りかぶった。


「お前は神なんかじゃない。……ただの、出来の悪いウイルスだ」


渾身の力で、左腕を振り抜く。


『ア、ァァァァァァッッ!!?』


漆黒の刃が、マスターの真っ白なアバターを袈裟懸けに両断した。


抵抗すら許さない、絶対的な消去の斬撃。

マスターの肉体が、斬られた断面からどす黒いノイズへと変換され、ボロボロと崩れ落ちていく。

彼が纏っていた絶対的な権限は、俺の命を懸けたバグの前に、完全に沈黙した。


『私の、私の完全な世界が……!』


マスターの断末魔の叫びが、崩壊していく空間に虚しく響き渡る。

やがて彼のアバターは完全にノイズの塵と化し、一切の痕跡を残さずに消滅した。


空間を満たしていた純白が剥がれ落ち、漆黒の虚無が広がっていく。

俺は荒い息を吐きながら、左手の刃を消散させた。

その場に、再び崩れ落ちそうになる。


だが、俺の目の前には、まだあの巨大な水晶の球体が残されていた。

トウヤたちの意識が囚われている、メインコア。


マスターが消滅したことで、水晶を覆っていた強固なプロテクトがガラスのように砕け散っていく。


「終わったぞ、トウヤ……」


俺は残された最後の力を振り絞り、左手を水晶の表面に押し当てた。

冷たい、ガラスの感触。


『メインコアの制御権限を掌握しました。』

『全検体データの、安全なログアウトプロトコルを実行しますか?』


脳内に、今度は歪みのない、本来のシステム音声が響いた。


「ああ。……全員、現実に帰してやれ」


俺が掠れた声で答えた瞬間。


水晶の球体が、眩いほどの温かい光を放ち始めた。

球体の中に囚われていた無数の光の明滅が、解放されたように弾け飛び、次々と光の柱となって天空へと昇っていく。


120名の未帰還者たちの意識が、あるべき現実の肉体へと帰還していく光景。

それは、この狂った世界で俺が見た、最も美しいものだった。


トウヤの光が、俺の周りを一度だけ優しく旋回し、そして上空へと消えていった。


(よかった。……これで、全部)


役目を終えた俺の肉体から、すべての力が抜け落ちた。

全身の神経を焼き尽くし、命を燃やし尽くした反動が、ついに限界を超えて襲いかかってきた。


視界が急速に黒く塗り潰されていく。

崩壊していくシステムの最深部で、俺の意識は深い泥の底へと沈んでいった。


後悔は、微塵もなかった。


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