第7話「0x06_現実への刺客」
スマートフォンの真っ黒な画面が、唐突にノイズを走らせてフリーズした。
情報屋からの警告のメッセージが表示された直後のことだった。
タップしても、電源ボタンを長押ししても、何の反応もない。
やがて、端末の裏側から触っていられないほどの異常な高熱が発生し、リチウムイオンバッテリーが膨張していく嫌な軋み音が聞こえ始めた。
俺は舌打ちをし、熱を持ったスマートフォンを畳の上へ放り投げた。
(パソコンだけじゃない。俺のネットワークに繋がっている端末は、全部運営に掌握されたのか)
ゆっくりと立ち上がる。
右腕は肩から指先まで完全に感覚を失い、ただの重しのようにぶら下がっているだけだ。
左手で右腕を掴み、シャツの袖に無理やり通して固定する。
動かない肉体の一部を引きずって歩くという感覚は、想像以上にバランスを崩し、俺の歩みをひどく不器用なものにしていた。
静まり返った室内。
窓の外からは、白み始めた朝の光が差し込んでいる。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
ピピッ、という無機質な電子音が、背後の玄関ドアから鳴り響いた。
オートロック式のスマートキー。
俺が何も操作していないにもかかわらず、内側のサムターンが勝手に回転し、赤いロックランプが点灯した。
(なんだ?)
俺は左手でドアノブを掴み、強く引いた。
開かない。
もう一度、体重をかけて引っ張る。
だが、頑強な金属のドアは完全に枠と一体化したように微動だにしなかった。
ガチャガチャとノブを揺らしていると、今度は頭上からブォォォンという低いモーター音が鳴り始めた。
見上げると、壁に設置されたエアコンの吹き出し口が全開になり、そこから熱風が勢いよく吐き出されていた。
設定温度の上限を遥かに超えた、火傷しそうなほどの熱風。
暖房ではない。エアコンの室外機とコンプレッサーの安全装置をソフトウェア側から強制的に解除し、モーターを限界まで暴走させているのだ。
「ふざけんな……こんなことまで」
俺は左手でエアコンの電源コードを引き抜こうと手を伸ばした。
だが、その前に室内の空気が一気に変質した。
焦げ臭い。
部屋の隅に転がっている、先ほどショートして黒煙を吹いたパソコン。
そのマザーボードの残骸から、エアコンの熱風に煽られて、チロチロとオレンジ色の炎が上がり始めていた。
(運営のマスター。あいつは本気で、俺をこの部屋ごと焼き殺す気か)
背筋に冷たい汗が伝う。
エアコンの熱風はさらに勢いを増し、室内の温度はすでにサウナのように上昇していた。
酸素が薄くなり、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。
パソコンから上がった炎は、壁紙に燃え移り、黒い有毒な煙を吐き出しながら天井へと這い上がっていく。
煙感知器は鳴らない。
それもすでに、ネットワーク経由で無効化されているのだろう。
「ゲホッ、ガハッ……!」
俺は這うようにして床に伏せ、煙を避けた。
右腕が使えないため、身体を支える左腕と両足に異常な負荷がかかる。
玄関は分厚い鉄のドアだ。左手一本でこじ開けることは不可能。
残された脱出口は、ベランダに繋がるガラス窓しかない。
俺は左手で、部屋の真ん中にあった木製のローテーブルの脚を掴んだ。
重い。
普段なら両手で簡単に持ち上がる安物のテーブルだが、片腕だけで振り回すにはひどくバランスが悪い。
「う、おおおおっ!」
煙で視界が霞む中、俺は立ち上がり、全身の遠心力を使って木製テーブルをガラス窓に向かって叩きつけた。
ガシャンッ!
凄まじい破壊音とともに、分厚い窓ガラスが粉々に砕け散る。
鋭いガラスの破片が左頬を掠め、生温かい血の感触が流れた。
だが、痛みを感じている余裕などない。
俺は窓枠に残ったガラスの破片を左手の袖で払い落とし、燃え盛る部屋からベランダへと転がり出た。
「ハァッ、ハァ、ハァ……っ!」
冷たい朝の空気を、肺の底まで貪るように吸い込む。
むせ返るような咳が止まらない。
ベランダから下を見下ろす。
ここはアパートの二階だ。
非常階段は玄関側にしかない。
飛び降りるしかないが、バランスを取るための右腕が使えない状態で着地すれば、足を骨折する危険性が高い。
俺はベランダの柵を左手で乗り越え、雨樋の太いパイプにしがみついた。
指の関節が白くなるほど強く握りしめ、足の裏を壁の凹凸に押し当てて、少しずつ下へと滑り降りる。
ギシッ、と雨樋の金具が嫌な音を立てる。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、左腕の感覚が麻痺しそうになるのを気力だけでねじ伏せる。
地面まで残り二メートルというところで、雨樋の金具が壁から完全に剥がれ落ちた。
「が、はっ!」
俺は背中からアスファルトに叩きつけられた。
肺から空気が強制的に押し出され、一瞬、意識が白く飛ぶ。
だが、休んでいる暇はない。
見上げると、俺の部屋の窓から黒煙が猛烈な勢いで噴き出している。
すぐに近隣の住人が気づいて消防車を呼ぶだろう。
だが、そこに警察が来れば、俺は確実に拘束される。
そうなれば、情報屋と合流してAOへ再びダイブすることは不可能になる。
俺はふらつく足で立ち上がり、左手で腹を押さえながら、早朝の裏路地へと走り出した。
(情報屋が指定した合流地点。たしか、西口の地下駐車場だったはずだ)
記憶の底に焼き付いている座標だけを頼りに、足を動かす。
大通りは避けた。
至る所に設置されている監視カメラが、まるで生き物のように首を振り、俺の姿を探しているように見えたからだ。
信号機は、俺が交差点に近づくたびに不自然なタイミングで赤に変わり、行き交う自動運転のタクシーが俺の真横をスレスレで通り抜けていく。
偶然ではない。
都市のインフラ全体が、明確な殺意を持って俺というバグを排除しようとしている。
仮想空間の絶対的な神は、現実のネットワークすらもその掌の上で弄んでいるのだ。
「ハァ、ハァ……クソッ、ふざけやがて」
額から流れ落ちる血と汗を左手の甲で拭いながら、俺は駅の裏手にある薄暗い地下駐車場へと転がり込んだ。
蛍光灯が等間隔で点滅する、コンクリートの無機質な空間。
早朝のため、駐車されている車はまばらだ。
その最奥。
周囲の監視カメラの死角になる位置に、真っ黒なワンボックスカーがエンジンをかけたまま停まっていた。
窓ガラスはすべてスモークフィルムで覆われ、中の様子は全く見えない。
俺が近づくと、後部座席のスライドドアが自動で静かに開いた。
「乗れ。パトカーのサイレンがそこまで来ている」
車内から聞こえてきたのは、仮想空間で聞いたあの平坦な合成音声ではなく、生身の人間の、少し掠れた若い男の声だった。
俺は迷わず車に乗り込み、シートに倒れ込んだ。
ドアが閉まり、ワンボックスカーはタイヤを鳴らすことなく、滑るように地下駐車場を走り出した。
「ハァ……お前が、情報屋か」
俺は息を整えながら、車内の様子を見渡した。
後部座席は完全に取り払われ、代わりに四台の高性能なモニターと、巨大な水冷式のサーバーラックがむき出しの状態で鎮座していた。
無数のケーブルが床を這い回り、青や緑のLEDランプが暗い車内を不気味に照らしている。
モニターの前に座っていたのは、ひどく痩せ細った、俺と同じくらいの年齢の青年だった。
肌は病的に白く、目の下には深い隈が刻まれている。
彼の手元にはキーボードがなく、代わりに彼のこめかみには、直接脳波を読み取るための電極のパッチがいくつも貼り付けられていた。
「現実世界での初めましてだな、ハルト。……その右腕、完全に神経系のリンクが焼き切れているな」
青年は振り返ることなく、モニターの文字列を目で追いながら言った。
「ああ。動かない。運営のマスターって奴に、最後の一撃を食らった」
俺は黒く変色した右腕を見下ろしながら、自嘲気味に笑った。
痛みがない分、仮想空間の時よりもかえって不気味だ。
「それで、トウヤは? あいつのデータはどうなった」
「バイタルは安定しているが、意識のログアウトはマスターのシステムロックによって完全に阻まれている。あそこは、運営の設計者自身が直接管理する絶対領域だ。外部からのハッキングではどうにもならない」
「なら、俺がもう一度行くしかない。あいつの喉首に、直接この真っ黒なバグを叩き込んでやる」
俺が言うと、青年はモニターから視線を外し、初めて俺の方を向いた。
その瞳は、ひどく冷たく、そしてどこか哀れむような色を帯びていた。
「無茶を言うな。君の右腕はもう死んでいる。正規のVRヘッドセットを被っても、システムは君の右腕の神経信号を読み取れず、ログインすら弾かれる。それに、マスターは君の生体IDを完全にブラックリストに入れた。君はもう、通常の手段ではあの世界に二度と入れない」
青年の言葉に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
分かっていたことだ。俺の片腕が使い物にならなくなった時点で、正規のプレイヤーとしての道は完全に絶たれた。
「……だが、通常の手段でなければ、入れる方法があるんだろう?」
俺が睨みつけると、青年は微かに口角を上げた。
「さすがだな。……あるにはある。だが、それは自殺行為に等しい」
青年は車内の奥に置かれていた、厳重なジュラルミンケースを引き寄せ、ロックを解除した。
ケースが開かれる。
中に収められていたのは、ヘッドセットのような生易しい形状のものではなかった。
太いケーブルの束の先端に、鋭利な金属製の巨大な注射針のようなものが三本、不気味な銀色の光を放って並んでいた。
「旧世代の、軍事用ダイブ・インターフェースのプロトタイプだ。網膜や表皮の神経からアクセスする安全な市販品とは違う。これは、頸髄に直接このピンを打ち込み、中枢神経をシステムと強制的に直結させる」
青年の言葉に、車内の空気がさらに一段階冷たくなったような気がした。
「右腕の神経が死んでいるなら、脳の根元から直接オーバーライドの権限をバイパスして引きずり出すしかない。だが、中枢神経を直結させるということは、仮想空間で受けるあらゆるダメージや負荷が、何のフィルターも通さずに君の脳を直接破壊するということだ。右腕を失うどころの話じゃない。少しでもキャパシティを超えれば、君は現実で即死する」
青年はそこまで言うと、三本の金属ピンを俺の目の前に突きつけた。
「相手は、この狂った世界を作り上げた本物の神だ。その神を相手に、たった一つの命をチップにして挑む覚悟があるか?」
俺は、鈍く光る金属ピンを見つめた。
トウヤの顔が浮かぶ。
モザイクの化け物に腹を貫かれ、絶叫を上げていた姿。
そして、あの冷たい培養液の中で、静かに眠っていた姿。
俺がここで立ち止まれば、あいつは永遠にあの暗闇の中で、部品として利用され続ける。
そんな結末を許すくらいなら、脳の数本が焼き切れるくらい、安い代償だ。
俺は左手を伸ばし、青年の手からその冷たい金属の束を奪い取った。
「やるに決まってるだろうが。俺は、神だろうがシステムだろうが、全部書き換えてぶっ壊すバグだ」
俺の迷いのない声に、青年は小さく息を吐き、そして深く頷いた。
「……狂っているな。だが、そうでなければあのマスターには届かない。サーバーのセッティングを急ぐ。目的地は、誰も近づかない廃工場の地下だ。そこで、最後のダイブを行う」
ワンボックスカーは、冷たい雨が降り始めた東京の街を、警察の包囲網を嘲笑うように静かに抜け出していった。
俺は車のシートに深く背中を預け、目を閉じた。
これが最後の戦いになる。
右腕の代わりに、俺の全身全霊の命をシステムに喰わせてやる。
だから待っていろ、トウヤ。
必ず、お前を現実に連れ帰る。




