第3話「0x02_非正規アクセス」
壁掛け時計の秒針が、無機質な音を立てて二十二時を告げた。
薄暗い自室。
俺はパソコンのモニターが放つ青白い光を背に受けながら、畳の上に置かれた黒いヘッドセットを見下ろしていた。
右腕の神経が、休むことなく警鐘を鳴らし続けている。
皮膚の下で暴れ回る高熱。
この痛みを抱えたまま、再びあの狂った仮想世界へ接続すれば、現実の肉体にどれほどの負荷がかかるのか想像もつかない。
最悪の場合、脳神経が焼き切れる。
だが、迷いはなかった。
「……待たせたな、トウヤ」
乾いた唇から、親友の名前を紡ぐ。
左手でヘッドセットを掴み上げ、乱暴に頭部へ装着した。
後頭部の接続端子が頸髄にピタリと密着し、冷たい金属の感触が肌を刺す。
深く息を吸い込み、電源ボタンを押し込んだ。
視界が強制的にブラックアウトする。
現実の部屋の古びた匂いが消え、重力感覚が泥の底へ沈み込んでいく。
『網膜パターンの照合を開始します』
感情の一切存在しない、システム音声。
普段であれば、この直後に爆発的な光の奔流が世界を構築し始めるはずだ。
だが、今回は違った。
『……照合に、致命的なノイズを検知。特異個体のアクセスを強制承認します』
システム音声が、機械的なバグを起こしたように歪む。
直後。
光ではなく、ドス黒い汚泥のようなコードの濁流が、網膜を直接焼き切るような勢いで視界を埋め尽くした。
「が、ぁっ……!」
右腕の痛みが爆発的に跳ね上がる。
仮想空間へデータを転送する正規プロセスに、俺の右腕に巣食う異形の力が無理やり介入しているのだ。
神経を直接引き裂かれるような激痛。
奥歯を噛み砕くほどに食いしばり、声にならない悲鳴を飲み込む。
暗闇の中で、緑色の文字列が竜巻のように渦を巻き、やがて強引にひとつの景色を構築し始めた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
足裏に、硬い石畳の感触が伝わってきた。
目を開ける。
そこは、俺とトウヤが拠点にしていた階層とは全く異なる景色だった。
朽ち果てたレンガ造りの建物が立ち並ぶ、見捨てられた街。
街灯はひび割れ、仄暗い青色の光を頼りなく落としている。
第一層の端に位置する、放棄された旧市街。
レベルの低いモンスターすら出現せず、アイテムの採取ポイントもないため、通常のプレイヤーは決して寄り付かない完全な過疎エリアだ。
俺は荒い息を吐きながら、自身のアバターを見下ろした。
初期装備であるレザージャケットの袖の下。
現実の肉体に刻まれていた黒い幾何学模様のアザは、この電子の肉体にも全く同じ形で刻み込まれていた。
アザの表面には、緑色の微小なノイズが静電気のようにチカチカと這い回っている。
顔を上げる。
石畳の広場の中心に、天を突くようにそびえ立つ巨大な時計塔があった。
針は止まり、文字盤はひび割れている。
あの裏掲示板の何者かが指定した、取引の場所。
周囲に他のプレイヤーの気配はない。
環境シミュレーターが作り出す、人工的な風の音だけが路地裏を吹き抜けていく。
俺はショートソードの柄に左手を添え、警戒を怠らずに時計塔の足元へと歩みを進めた。
ブーツの靴底が石畳を叩く音が、やけに大きく響く。
「……来たか。特異個体」
唐突に、背後から声がした。
足音は全くなかった。
弾かれたように振り返り、ショートソードを引き抜く。
そこには、奇妙なアバターが立っていた。
性別すら判別できない、分厚い灰色のローブを全身に纏った人物。
顔の部分は深いフードで覆い隠され、その奥にはテクスチャの存在しない、ただの真っ暗な空洞が広がっているだけだ。
プレイヤーの頭上に必ず表示されるはずのキャラクターネームやレベルの表記すら、一切存在しない。
完全にシステムから逸脱した、偽装の塊。
「お前が、掲示板の書き込みの主か」
俺は剣の切っ先をローブの人物に向けたまま、低い声で尋ねた。
「警戒しなくてもいい。私に戦闘能力はない。ただの観測者であり、データの残骸を漁る清掃員のようなものだ」
ローブの奥から響く声は、合成音声のように平坦で無機質だった。
男とも女ともつかない、不気味な響き。
「トウヤは……俺の親友のデータは、どこにある。運営のゴミ箱と言ったな」
単刀直入に本題をぶつける。
右腕の痛みが、相手の存在に呼応するように微かに脈打っていた。
「焦るな。まずは現状を認識しろ。君の親友が喰われたあのモザイクの獣、あれは単なるバグではない。運営が意図的に放った、データの回収プログラムだ」
「回収、だと?」
「そうだ。優秀な脳波を持つプレイヤーを無作為に選別し、肉体から意識のデータを切り離して、システムの最深部へと連れ去っている。彼らは今、隔離されたデバッグエリアで、ある巨大な演算のための生体部品として組み込まれている」
生体部品。
その単語が脳髄を直撃し、胃液が逆流しそうになった。
トウヤは今も、あの絶叫を上げた時と同じ激痛の中で、終わらない計算を強制させられているというのか。
怒りで視界が赤く染まる。
「そのデバッグエリアの座標を教えろ。俺が、そこへ行く」
「今の君では不可能だ。第一層の転移門からではアクセス権限が足りない。だが、君のその右腕の異常な力を使えば、システムの壁を物理的に……」
ローブの人物が言いかけた、その時だった。
カツン。
硬い金属が石畳を叩く音が、広場に響き渡った。
俺と情報屋は同時に音のした方向へ視線を向ける。
時計塔の影から、三つの人影がゆっくりと歩み出てきた。
先頭を歩くのは、純白と黄金で彩られた豪奢なフルプレートアーマーに身を包んだ、金髪の剣士だった。
背後には、同じく高位の装備で身を固めた魔術師と盾役が控えている。
彼らの頭上に輝くギルドエンブレムは、このゲームのトッププレイヤーたちで構成された最強の戦闘集団のものだった。
「見つけたぞ。裏掲示板にアクセスしていたネズミと、システムを汚染するバグの宿主」
金髪の剣士が、傲慢な笑みを浮かべて俺を見下ろした。
彼の装備からは、通常のアイテムにはあり得ない、神々しいほどの白い光のパーティクルが溢れ出している。
「……何者だ、お前ら」
俺が低く唸ると、情報屋が小さく舌打ちをした。
「白き騎士。運営から一部の管理者権限を与えられ、この世界の秩序を強権的に守るエリートプレイヤーたちだ。まさか、私の偽装経路をここまで早く追跡してくるとは」
「秩序だと? プレイヤーが化け物に喰われているのを放置して、何が秩序だ!」
俺が叫ぶと、金髪の剣士は心底見下したような溜息を吐いた。
「無知な一般プレイヤーは黙っていろ。一部の犠牲は、この完全な世界を次の次元へ進化させるための尊い礎だ。我々は神の代行者として、システムに仇なすイレギュラーを排除する権限を与えられている」
剣士が右手を虚空に掲げる。
彼の頭上に、システムメッセージのウィンドウが展開された。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ 対象の権限レベルを確認。 │
│ デリートプロトコルを申請。 │
│ │
│ 承認。白き騎士に絶対破壊の権限を付与。 │
│ │
└────────────────────────────┘
剣士の腰にある長剣が、眩い閃光を放ちながら引き抜かれた。
刃そのものが、システムの演算力を束ねたような高密度のレーザーの束で構成されている。
「消え去れ、バグ野郎。お前の汚いデータは、一ミリバイトたりともこの世界に残さない」
剣士が地面を蹴った。
その速度は、俺の肉体的な反射神経を遥かに凌駕していた。
システムが彼に与えた異常な加速補正。
一瞬で俺の目の前に到達した剣士が、光の長剣を上段から振り下ろす。
俺はショートソードを交差させて防御姿勢をとった。
だが、意味はなかった。
音も衝撃もなかった。
俺のショートソードは、光の長剣に触れた瞬間に緑色のコードへと分解され、霧散した。
「なっ……」
絶対破壊の権限。
防御力や耐久値というシステムの計算式を無視し、触れたものを強制的に消去する力。
「遅い!」
剣士の嗤い声とともに、光の刃が俺の胸元を深く切り裂いた。
「が、はァッ……!」
ダメージエフェクトはない。
HPバーも減らない。
だが、斬られた胸部のテクスチャが焼け焦げ、そこから緑色のノイズが噴き出した。
同時に、現実の肉体の胸を熱した鉈で叩き割られたような、凄絶な痛覚が脳天を貫いた。
俺は血を吐くように咳き込みながら、石畳の上を無様に転がった。
「ハハハハッ! なんだその無様な姿は。痛覚設定はオフのはずだぞ? やはりお前はシステムから外れた汚物だ。さっさとゴミ箱へ送ってやる」
剣士が、ゆっくりとした足取りで俺に近づいてくる。
後方に控える魔術師と盾役は、完全に余裕の態度で高みの見物を決め込んでいた。
情報屋は、すでに壁際まで後退し、静観の構えをとっている。
(痛い……息が、吸えない)
石畳に倒れ伏したまま、俺は喘いだ。
だが、胸の痛みよりも、右腕の奥底で煮えたぎる熱の方が、遥かに狂暴だった。
トウヤは、こんな痛みの中で連れ去られたのか。
こんな傲慢な連中の、ふざけた神様ごっこの犠牲になって。
「……ふざ、けるな」
俺は、石畳に左手を突いて、ゆっくりと立ち上がった。
右腕の黒いアザから、紫色のノイズが激しく明滅し始める。
チリチリと、周囲の空間そのものが高熱で歪み始めた。
「まだ動けるのか。往生際の悪い」
剣士が再び光の長剣を構える。
「お前らが神の代行者なら」
俺は右腕を、剣士に向けて真っ直ぐに突き出した。
「俺は、そのふざけた神をぶっ殺すバグだ」
右腕の血管が弾け飛ぶような激痛。
限界を超えた神経の悲鳴を、圧倒的な怒りと憎悪でねじ伏せる。
俺の右腕から、ドス黒い汚泥のようなコードの奔流が爆発的に噴出した。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ OVERRIDE_ │
│ 管理者権限の強制展開を確認。 │
│ 対象の保護領域へ侵入します。 │
│ │
└────────────────────────────┘
俺の脳内に、無機質な声が響き渡る。
右腕から噴き出した黒いコードが、瞬時に巨大な漆黒の直剣の形を成した。
「なんだその気色悪い力は! だが無駄だ、俺は無敵の保護領域に守られている!」
剣士が光の長剣を振りかぶり、俺の首を刎ねようと突進してくる。
俺は一歩も引かず、漆黒の直剣を横薙ぎに振り抜いた。
狙いは、剣士の肉体ではない。
彼を覆っている、システムの絶対的な保護領域そのもの。
真っ白な光の長剣と、真っ黒な直剣が激突した。
ギリギリギリッ!
空間が悲鳴を上げるような、異常なノイズ音が響き渡る。
剣士の顔に、初めて焦燥の色が浮かんだ。
「ば、馬鹿な! 俺の破壊権限が、押し負けているだと!?」
光の刃が、漆黒の刃に触れた端から、腐り落ちるようにドロドロと溶け、黒いノイズへと変換されていく。
パリンッ、という乾いた音を立てて、剣士を覆っていた光のパーティクルが完全に砕け散った。
神から与えられた無敵の鎧が、ただのポリゴンの残骸へと成り下がる。
「あ、あぁ……?」
剣士が間抜けな声を漏らした。
頼りにしていた絶対の力が、指の間からこぼれ落ちたことを理解できない顔。
俺は踏み込み、漆黒の直剣の柄で、剣士の腹部を全力で殴りつけた。
「ガ、ハァッ!?」
剣士の身体がくの字に折れ曲がり、石畳の上を無様に転がっていく。
後方にいた魔術師と盾役が、信じられないものを見る目で硬直していた。
「ひ、ひぃっ……!」
剣士が、美しい金色の鎧を泥とノイズで汚しながら、後ずさりする。
先程までの傲慢さは微塵もなく、そこにあるのは、理解不能なバグに対する純粋な恐怖だけだった。
「お前らの正義は、そんなに脆いのか」
俺は漆黒の剣を引きずりながら、剣士を見下ろした。
剣の切っ先が石畳を削り、火花とノイズを撒き散らす。
「く、来るな! 俺を殺せば、お前もただの犯罪者だ! 運営が絶対にお前を許さないぞ!」
「安心しろ。俺はお前らみたいなイカれた化け物じゃない。……俺が消すのは、お前らのそのふざけた特権だけだ」
俺は漆黒の剣を高く振り上げた。
「や、やめ……っ!」
振り下ろされた黒い刃が、剣士の身体を真っ二つに両断した。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ 対象のアバターデータを強制書換します。 │
│ コマンド:初期化 │
│ │
└────────────────────────────┘
俺の脳内に無機質な声が響く。
直後、剣士の肉体を構成していた無敵の装備、レアアイテム、レベル。
そのすべてのデータが緑色の文字列へと分解され、空間に霧散していった。
あとに残されたのは、初期装備の粗末な布の服だけを着た、呆然とする剣士のアバター。
彼が数千時間をかけて築き上げた最強のデータは、今この瞬間、完全にフォーマットされたのだ。
「あ……俺の、俺のデータが……神の権限が……!」
剣士が震える両手を見つめ、絶望に満ちた叫びを上げる。
「さっさと現実に帰れ。お前らの神様にも伝えておけ。次はその首を直接引きずり出して、システムごとぶっ壊してやるってな」
俺が漆黒の剣の切っ先を突きつけると、剣士は狂ったように悲鳴を上げながら、自らログアウトのメニューを叩いた。
後方にいた魔術師と盾役も、我先にと光の柱となって逃げるように消え去った。
広場に、再び静寂が戻る。
彼らの意識は、無事に現実の肉体へ戻ったはずだ。
だが、もう二度とこのゲームで神の代行者を名乗ることはできない。
俺は漆黒の剣を消散させ、その場に片膝を突いた。
限界を超えて力を使った右腕は、もはや感覚すらない。
ただ、奥底でドクドクと不気味な脈動だけが続いている。
(トウヤを連れ戻すまで、俺は絶対に、人間をやめない)
理不尽なシステムに、心まで喰われてたまるか。
「……驚いたな」
背後から、情報屋の平坦な声がした。
振り向くと、ローブの人物がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「まさか、システムの一部である白き騎士の保護領域すら書き換え、さらにはデータを初期化するだけに留めるとは。君のその力と意志は、運営にとって最大の脅威になる」
「おしゃべりは終わりだ。トウヤの場所へ行く方法を教えろ」
俺が睨みつけると、情報屋はフードの奥の闇を揺らした。
「いいだろう。君なら、あの場所へ辿り着けるかもしれない。まずは、第三層の辺境にある腐海の森へ向かえ。そこにある隠された転移陣が、デバッグエリアへの唯一の裏口だ。ただし……」
情報屋は一拍置いて、告げた。
「そこは、先ほどのような運営の犬ではなく、運営に見捨てられた無数のバグや狂ったAIが蠢く、真の掃き溜めだ。君のその右腕が、どこまで保つか見物だな」
「望むところだ」
俺は右腕を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。
どれほどの痛みが伴おうと、どれほどの化け物が立ち塞がろうと関係ない。
俺はトウヤを連れ戻す。
そのためなら、この世界の全てを書き換えてやる。
夜空を見上げると、ひび割れた時計塔の隙間から、赤いノイズの星が不吉に瞬いていた。




