第2話「0x01_痛覚の残滓」
右腕の神経網が、内側から灼かれている。
泥のように重い意識の底から浮上した俺の脳髄を、真っ先に殴りつけたのはそれだった。
閉じた瞼の裏で、赤と黒のノイズがチカチカと明滅している。
目に見える外傷はない。
だが、皮膚の下に張り巡らされた神経の束に、致死量の劇薬と高圧電流を同時に流し込まれ、ぐりぐりと掻き回されているような狂おしいほどの激痛。
「……あ、ぐ、ぁ」
乾ききった喉から、紙やすりで擦過したような呻き声が漏れた。
ゆっくりと目を開ける。
網膜を刺したのは、あの突き抜けるような青空ではない。
シミの浮いた、見慣れた安アパートの黄ばんだ天井だった。
窓の外からは、深夜の国道を走り抜ける大型トラックの低い駆動音が、薄い壁を震わせて響いてくる。
空調の効いていない室内は、ホコリと古本の混ざったような、どうしようもなく陳腐な現実の匂いが充満していた。
現実だ。
俺は、あの狂ったシステムの中から帰還した。
畳の上に横たわったまま、重鉛のように動かない身体を無理やり引き起こそうとする。
その瞬間、右腕の筋肉が痙攣し、脳天を突き抜けるような痛みが奔った。
「が、はっ……ハァ、ハァ……ッ!」
脂汗が全身の毛穴から一斉に噴き出す。
俺は左手で右腕の付け根を強く掴み、畳の上で海老のように身を丸めた。
痛みの波が引くのを、奥歯が砕けるほど噛み締めて耐える。
Tシャツの袖口から露出している右腕。
肉体そのものが崩壊しているわけではない。
だが、そこの肌には、仮想世界で刻まれたはずの幾何学模様の黒いアザが、タトゥーのように深く、毒々しく沈着していた。
震える左手の指先で、その表面をなぞる。
火傷の痕のように、そこだけが異常な高熱を帯びていた。
ドクン、ドクン。
俺自身の心音とは全く別の、不気味な電子的な律動を刻んでいる。
(気のせいじゃない。あの力は、現実の神経系にまで直接根を張っている)
物理的な負傷ではなく、神経そのものを書き換えられる痛み。
あの漆黒のウィンドウと契約し、神の領域に触れた代償。
俺の肉体は、確実にあの異形のバグに侵食されている。
壁に背中を預け、荒い息を吐きながら部屋を見渡した。
床には、俺が先ほどまで被っていたヘッドセットが無造作に転がっている。
青い電源ランプは消え、今はただの黒いプラスチックの塊だ。
「トウヤ……」
親友の名前を口にすると、胃袋が激しく痙攣した。
あの時、トウヤは俺を庇って、巨大なタワーシールドごとあのモザイクの獣に貫かれた。
声帯が引き裂かれんばかりの絶叫。
顔のパーツがランダムにズレ、肉体が緑色のコードへと分解されていくあの悍ましい光景が、フラッシュバックする。
吐き気が食道を駆け上がり、俺は口元を左手で乱暴に覆った。
這うようにして、床に落ちていたスマートフォンを左手だけで拾い上げる。
冷たいガラスの感触。
電源ボタンを押し、ロックを解除する。
時刻は、深夜の二時四十分。
ブラウザを立ち上げ、ニュースアプリのトップ画面を更新する。
読み込みのインジケーターが回転し、数秒後、無機質な明朝体の見出しが画面を埋め尽くした。
『続報・大人気VRゲームでの集団昏睡事件、被害者は全国で120名を突破か』
『原因はサーバーの過負荷による一時的な脳波の異常。運営会社は緊急メンテナンスを発表』
『未帰還者の家族からの問い合わせ殺到。警察もサイバー犯罪の可能性を視野に捜査を開始』
俺は、食い入るように文字の羅列を追った。
記事のテキストをスクロールする左手の親指が、かすかに震えている。
(過負荷による脳波の異常、だと?)
ふざけるな。
そんな綺麗な言葉で済むような現象ではなかった。
あいつらは、あのモザイクの化け物にデータを物理的に削り取られ、存在そのものを完全に消去されたのだ。
運営が発表している文言は、事態を矮小化するための明らかな隠蔽工作だ。
トウヤの名前を探して、さらに記事の深部へと潜る。
だが、公表されているのは十代から二十代の男女という大雑把な括りだけで、個人を特定する情報は一切開示されていなかった。
スマートフォンを床に放り投げ、俺は壁伝いに立ち上がった。
ふらつく足取りで、狭いキッチンのシンクへ向かう。
蛇口を捻り、左手だけで冷たい水道水を掬い、顔に何度も叩きつけた。
水滴が顎から滴り落ちる。
シンクの上の小さな鏡に、幽鬼のように青ざめた自分の顔が映っていた。
目の下には濃い隈ができ、瞳孔は微かに収縮している。
だが、その奥底には、恐怖を塗り潰すほどにどす黒く、冷たい怒りの炎が灯っていた。
(運営は事実を隠している。表のニュースサイトや公式掲示板で騒いだところで、情報は統制されて消されるだけだ)
濡れた顔をタオルで乱暴に拭き、俺は部屋の隅に鎮座しているデスクトップパソコンの前へ座った。
システムを書き換えられるなら、現実のデータだって引きずり出せるはずだ。
トウヤの今の状態。
未帰還者たちがどこに隔離されているのか。
そして、あのモザイクの獣の正体。
左手で電源ボタンを押し込む。
冷却ファンが低い唸りを上げ、トリプルモニターが一斉に青白い光を放ち始めた。
キーボードに手を置こうとして、顔をしかめる。
右腕が、燃えるように痛い。
指先を動かすだけで、ガラスの破片が血管の中を流れているような激痛が走る。
まともなタイピングなど、到底不可能な状態だった。
(クソッ、動け……!)
歯を食いしばり、右手の中指を強引にキーボードへ押し付けた。
バチッ。
指先がキートップに触れた瞬間、青白い静電気が弾けた。
「な……っ」
モニターの画面が、唐突に激しく波打った。
ブラウザのウィンドウが勝手に閉じられ、真っ黒なコマンドプロンプトの画面が次々と自己増殖していく。
(俺は何も操作してない。ただ触れただけで……)
右腕の黒いアザが、パソコンの排熱ファンに呼応するようにドクンと大きく脈打った。
現実のハードウェアが、俺の肉体に宿った異形の力に直接干渉されている。
緑色の文字列が、滝のように画面を流れ落ちていく。
俺がかつてトウヤから教わった暗号化通信を、パソコンが勝手に、かつ異常な速度で実行し始めていた。
プロキシサーバーを何重にも経由し、接続経路を偽装し、アドレスをランダムに書き換えていく。
まるで、右腕そのものが独立した意志を持ったハッキングデバイスになったかのような錯覚。
息を呑む暇もなく、俺は深い電子の海の底、ダークウェブの深層領域へと強制的に引きずり込まれていった。
数秒の無機質な演算処理の後。
中央のモニターに、真っ黒な背景と、簡素なテキストだけで構成された無骨なウェブサイトが表示された。
サイトのタイトルはない。
ただ、最上部に白抜きで掲示板のディレクトリ名だけが記されている。
完全な匿名性が保証され、あらゆる違法データと都市伝説が交差する裏の巨大掲示板。
右腕の熱が、スッと引いていく。
どうやら接続の役目は終えたらしい。
俺は痛みを堪えながら、なんとか左手と、右手の痙攣しない指だけを使ってマウスを握り、スレッドのタイトルをスキャンしていった。
犯罪の匂いが充満するスレッド群を読み飛ばす。
検索窓に不器用なタイピングでキーワードを打ち込み、エンターキーを叩いた。
ヒットしたのは、たった一つのスレッドだけだった。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ スレッド:非正規データの発生と │
│ 網膜投影への干渉について │
│ │
└────────────────────────────┘
作成日時は、今日の午後。
まさに、トウヤが喰われた時間帯と完全に一致している。
俺は唾を飲み込み、そのスレッドをクリックした。
一番最初の書き込みの文章を読んだ瞬間、心臓が大きく跳ねた。
【1: 名無しさん】
『今日の14時頃、第4層の環境データに致命的な欠落が発生しているのを確認した。
運営のサーバーから流れてくる正規のパケットとは異なる、謎のノイズが混じっていた。
パケットを解析した結果、それはテクスチャを持たない異常な質量を持った何かとしてフィールド上に顕現していたはずだ。
あれに接触したアバターは、ログアウトプロトコルを強制切断されている形跡がある』
(こいつ……運営の発表より前に、あの化け物の存在に気づいている)
背筋に冷たいものが走った。
ただのプレイヤーではない。
ゲームの裏側、システムそのもののパケットの異常をリアルタイムで監視していた人間だ。
俺は左手だけでキーボードを叩き、返信欄に文字を打ち込み始めた。
右腕をかばいながらのタイピングは遅く、もどかしい。
【15: 名無しさん】
『目撃した。
テクスチャの剥がれたモザイクの獣。
俺のパーティメンバーがアレに貫かれ、アバターごと消去された。
あれは、プレイヤーのデータを物理的に削り取るバグだ。
お前は、あれがどこから来たのか知っているのか?』
送信ボタンを押す。
画面が更新され、俺の書き込みがスレッドの末尾に追加された。
返信を待つ。
部屋の中は、冷却ファンの音だけが単調に響き続けている。
一分。二分。
画面を見つめる俺の目は、瞬きすら忘れて血走っていた。
三分が経過しようとした、その時。
ジジッ。
スピーカーからノイズが鳴り、掲示板の画面とは別の、真っ黒なウィンドウが突然ポップアップした。
俺のプロキシ通信を逆探知し、相手側から強制的にダイレクトメッセージのポートを開いてきたのだ。
┌────────────────────────────┐
│ │
│ 接続要求:UNKNOWN │
│ │
└────────────────────────────┘
相手は、俺の経路偽装をいとも簡単に突破し、このパソコンの環境に直接干渉してきている。
俺は左手でキーボードのYキーを強く叩き、接続を許可した。
真っ黒なウィンドウに、白い文字がカタカタと自動で打ち込まれていく。
『> 接触を確認。』
『> モザイクの獣を目撃し、かつ生還したプレイヤーですね。』
『> 奇跡か、あるいは……システムのエラーコードをその身に宿したか。』
(なんだと?)
俺は無意識に、右腕の黒いアザを強く握りしめた。
こいつは、俺の身に起きている力の異常にまで感づいているのか。
『> あなたの親友のデータがどこへ行ったのか、私は知っています。』
『> 運営のゴミ箱に落ちる前に、取引をしましょう。』
『> 明日の22時。第1層、放棄された旧市街の時計塔にて。』
通信は、そこで唐突に切断された。
ポップアップウィンドウが自動的に消滅し、後には再び、不気味なほどに静まり返った自室の空間だけが残された。
俺はモニターの青白い光に照らされたまま、深く、長い息を吐いた。
「……取引、だと」
罠かもしれない。
相手は、ただのネットの愉快犯か、あるいはあの異常事態を引き起こした運営側の人間かもしれない。
だが、行くしかない。
トウヤのデータが完全に消滅する前に、どんな細い糸でも手繰り寄せる必要がある。
右腕の痛覚が、再び微かに脈打った。
それはまるで、明日待ち受ける未知の領域に対する、狂気じみた歓喜のようにも感じられた。




