最終話「0x09_未帰還者たち」
落ちていく。
光も音も存在しない、絶対的な無の空間。
マスターの肉体を両断し、メインコアから百二十名の意識を解放した直後、俺の自我は泥深い底へと沈み込んでいった。
システムそのものを強制書換するという、人間の脳髄が耐えられるはずのない極限の過負荷。
全神経が焼け焦げ、指先一つ動かすことすらできない。
このまま俺の意識もデータの塵となって、虚無の海に溶けて消えるのだろうか。
だが、不意に、後頭部から強烈な引力が生じた。
俺の意識が、目に見えない太いケーブルで上へと一気に引き上げられる感覚。
仮想の肉体が素粒子レベルで分解され、現実の物理法則へと強引に引きずり戻されていく。
内臓を雑巾のように絞り上げられる吐き気。
直後、首の後ろに突き刺さっていた三本の金属ピンが、強烈な力で引き抜かれた。
「ガ、アアッ……ゲホッ、ガハッ……!」
凄絶な咳き込みとともに、俺は現実世界へ叩き落とされた。
肺に流れ込んできたのは、雨と埃、そして錆びた鉄の匂いが混ざった、地下廃工場の冷たい空気だった。
口から吐き出した胃液と血の混ざった汚物が、コンクリートの床を汚す。
全身が痙攣し、奥歯がガチガチと鳴って止まらない。
「息をしろ! ハルト、気道を確保しろ!」
耳元で、情報屋の青年の切羽詰まった声が響いた。
冷たい布が俺の首筋に押し当てられ、金属ピンが引き抜かれた傷口を強く圧迫止血している。
ゆっくりと目を開ける。
だが、網膜に映し出された景色は、ひどく歪で、いびつなものだった。
左目の視界が、完全に真っ暗に塗り潰されている。
仮想空間での死闘の末、過負荷で視神経の一部が完全に焼き切れたのだ。
残された右目だけで、薄暗い空間と、俺を覗き込んでいる青年の青ざめた顔を捉える。
「ハァ、ハァ……終わっ、たか……?」
掠れた声で尋ねると、青年は血まみれの布を俺の首に押し当てたまま、深く、震える息を吐き出した。
「ああ。終わった。……お前は本当に、あの神を引きずり下ろしたんだ」
青年が顎でしゃくった先を見る。
車内に設置されていた水冷式サーバーの群れが、異常な熱を発して黒煙を噴き出していた。
何台ものモニターがバチバチと火花を散らし、完全にショートしている。
「システムの最深部から、膨大なデータが現実世界へ向けて一斉に射出されるのを観測した直後、運営のメインサーバーそのものが物理的にメルトダウンを起こした。AOという世界は、今この瞬間、完全に消滅した」
青年の言葉に、俺はコンクリートの床に仰向けに倒れ込んだ。
冷たい床の感触が、俺が確かに生きている現実を教えてくれる。
右腕は相変わらず動かない。
左目は何も見えない。
全身の筋肉が断裂したように痛み、首の後ろからは絶えず血が流れている。
だが、胸の奥底には、今まで感じたことのないような静かな熱が広がっていた。
「トウヤは……他の奴らは」
「全員、肉体への意識の帰還を確認した。マスターの絶対領域が崩壊したことで、システムに囚われていたすべての鎖が物理的に断ち切られたんだ。……お前が、百二十人の命を現実に引きずり戻した」
その言葉を聞いた瞬間。
張り詰めていた緊張の糸が、ついに音を立てて千切れた。
右目から、熱い涙が止めどなく溢れ出した。
声を出して泣く気力すらない。ただ、生きて帰ってきたという安堵と、親友を救い出せたという事実だけが、冷たいコンクリートの上で俺の魂を温めていた。
遠くから、パトカーと救急車のサイレンの音が近づいてくる。
情報屋が、俺のバイタル低下を見て密かに通報していたのだろう。
「俺はここで消える。お前を病院に送り届けたら、俺の痕跡はすべて消去する。……生きろよ、最高のバグ野郎」
青年の足音が遠ざかり、ワンボックスカーのエンジン音が地下駐車場から消え去る。
やがて、けたたましい足音とともに、眩いフラッシュライトの光が俺の顔を照らし出した。
(トウヤ。……今から、帰るぞ)
俺は迫り来る救急隊員たちの声を聞きながら、静かに残された右目を閉じた。
◇
それから、一ヶ月の時間が経過した。
消毒液の匂いが充満する、白い廊下。
俺は点滴のスタンドを左手で引きずりながら、都内の総合病院の静かなフロアを歩いていた。
窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。
仮想世界のテクスチャではない、本物の、太陽の熱を持った空。
あの地下廃工場で保護された後、俺は一週間ほど生死の境を彷徨った。
頸髄への深刻なダメージと、極度の神経疲労。
医者からは、よく生きていたと呆れられるほどの満身創痍だった。
左目の視力は、やはり戻らなかった。
右腕の神経も完全に死滅しており、今は黒いグローブと長袖のシャツで、肌に刻まれた毒々しいアザを隠している。
一生消えることのない、あの狂った世界で俺がシステムを喰い破ったバグの証明。
だが、後悔は一ミリもなかった。
俺は歩みを止め、ある病室のドアの前に立った。
『神谷 冬弥』と書かれたネームプレート。
左手でノブを回し、静かにドアを開ける。
「……遅いぞ、ハルト。また寝坊か?」
ベッドの上に上半身を起こしていた青年が、俺を見て悪戯っぽく笑った。
頬は痩せこけ、肌はまだ病的に白い。
点滴の管が何本も繋がれているが、その瞳には、かつて俺と一緒にくだらないゲームの話をして笑い合っていた頃の、確かな光が宿っていた。
「悪い。リハビリが長引いてさ」
俺はベッドの傍らにある丸椅子に腰を下ろした。
トウヤが意識を取り戻したのは、俺が集中治療室を出た数日後のことだった。
百二十名の未帰還者たちも、全員が後遺症なく目を覚ましたという。
あのマスターと呼ばれた運営の設計者は、システムの崩壊と同時にメインコアからの過負荷を脳に直接浴び、現実世界で廃人同様の植物状態となって発見されたらしい。
警察と公安による大規模な捜査が入り、AOの運営会社は跡形もなく解体された。
「……聞いたよ。お前のその右腕と、左目のこと」
トウヤの視線が、俺の黒いグローブに覆われた右腕と、眼帯をした左目に向けられる。
彼の声が、微かに震えていた。
「俺の親から聞いた。俺が目を覚ますまで、ずっと……お前が一人で、何かと戦い続けてくれたって。俺の意識が暗闇に沈んでいた時、最後に見たのは、真っ黒な剣を持ったお前の姿だった」
トウヤは両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「ごめん。俺が、あの時お前を庇わなければ……お前がこんな一生の傷を負うことなんて、なかったのに」
病室に、トウヤの押し殺したような嗚咽が響く。
俺は小さく息を吐き、動く左手を伸ばして、トウヤの肩を乱暴に叩いた。
「馬鹿野郎。お前が俺を庇ったから、俺は生き残って、あのふざけたシステムをぶっ壊せたんだ。お前が未帰還者にならなけりゃ、俺はあんなイカれた神様をハッキングしようなんて思わなかった」
俺の言葉に、トウヤがゆっくりと顔を上げる。
「これは、俺が自分で選んだ代償だ。誰かに押し付けられたエラーじゃない。俺が自分の意志でシステムを書き換えて、お前を現実に引きずり戻した証だ」
俺は眼帯の下の失明した左目と、死んだ右腕を誇るように笑ってみせた。
「だから、お前が泣く必要はどこにもない。……お前はただ、生きて現実に帰ってきたことを喜べばいいんだよ」
トウヤの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
彼は何度も何度も頷きながら、俺の左手を両手で強く握りしめた。
その温かさ。
仮想世界のシミュレーターでは絶対に再現できない、血の通った人間の体温と、脈打つ命の鼓動。
(俺は、これを守りたかったんだ)
トウヤの泣き顔を見ながら、俺の胸の奥で、長かった戦いが本当に終わったのだという確かな実感が込み上げてきた。
窓の外から、心地よい春の風が吹き込んでくる。
病室の白いカーテンが静かに揺れた。
失ったものは大きい。
俺の肉体には、一生消えない痛みの残滓と、バグの記憶が刻み込まれている。
だが、その代償の先に、俺の親友はこうして確かに笑い、泣き、息をしている。
それだけで、俺が世界のルールをオーバーライドした意味はあった。
俺はトウヤの手を握り返し、窓の外に広がる眩しい現実の空を見上げた。
俺たちのハッキングは、これで完全に終わった。
システムのエラーコードから生還した未帰還者たちの、新しい日常が、ここから始まる。




