第1話 蒼き精霊のいた庭
王宮の奥、白い石壁に囲まれた庭園は、昼下がりの陽を受けて静かにきらめいていた。
噴水の水音。
揺れる薔薇。
誰もいないはずのその場所に、ひとりの少女がしゃがみ込んでいる。
淡い金の髪に、小さなティアラ。
王女アイリスは、そっと両手を差し出した。
「今日は、少し元気ですね」
目の前で、蒼い光がふわりと舞う。
それは蝶のようで、子どものようでもある、小さな精霊。
王宮の誰にも見えない――アイリスだけに見える存在。
蒼き精霊。
王族の象徴とされるその力は、幼い彼女の中で、時折制御を離れる。
「だめよ、そんなに高く飛んでは……」
言葉と同時に、光が一瞬、強く弾けた。
空気が震える。
次の瞬間、庭園の茂みがざわりと揺れた。
「――誰だ」
低く、しかしまだ少年の声。
振り向いたアイリスの視線の先に、黒髪の少年が立っていた。
年の頃は、彼女より二つほど上だろうか。
質素だが整った衣服。腰にはまだ飾りのような細身の剣。
彼は、精霊を見ていた。
正確には――蒼い光の渦を。
「あなた……見えるの?」
問いかけると、少年はわずかに眉を寄せる。
「……何かが、暴れているのは分かります」
その言葉と同時に、少年の周囲の空気がわずかに整う。
アイリスの胸元に集まりかけていた蒼い光が、ゆるやかに落ち着いた。
魔力が、重なった。
無意識の補助。
それは偶然にしては、あまりに正確だった。
精霊が、くすりと笑うように揺れる。
「……すごい」
アイリスは目を丸くした。
こんなことは初めてだった。
いつもは、侍女たちが慌て、魔術師が呼ばれ、結界が張られる。
けれど今は違う。
隣に立つ少年の存在だけで、蒼き光は穏やかに呼吸している。
「あなた、名前は?」
問えば、少年は一歩下がり、きちんと礼をとった。
「レオンと申します。本日、父に伴われ登城いたしました」
硬い口調。
けれどその瞳は、まっすぐに彼女を見ている。
「レオン」
アイリスはその名を口の中で転がした。
不思議と、響きが馴染む。
遠くから、侍女の声が聞こえた。
「殿下ー!」
探しているのだろう。
少年もまた、視線を庭園の出口へ向ける。
「そろそろ戻らねばなりません」
その言葉に、なぜか胸がきゅっとした。
今日初めて会ったばかりなのに。
もう少し、話していたいと思ってしまう。
「……また、会える?」
思わず零れた問いに、レオンは一瞬だけ戸惑った。
「機会があれば」
真面目な答え。
それが可笑しくて、少しだけ寂しい。
アイリスは立ち上がり、裾を払った。
どう言えばいいのだろう。
次に会える約束がほしい。
でも王女として命じるのは、違う気がした。
だから、ほんの少しだけ考えて。
「――わたしが大きくなったら」
少年がこちらを見る。
蒼い精霊が、ふわりと二人の間を舞う。
「守りに来て」
無邪気な響き。
けれど、どこか本気の願い。
レオンは目を見開いた。
それは命令でも、正式な誓いでもない。
ただの子どもの約束。
けれど。
「……覚えておきます」
短く、しかし確かに答えた。
その瞬間、蒼い光が静かに収束する。
風が止み、庭園が穏やかに息をついた。
侍女たちが駆け寄ってくる。
振り返ると、レオンはすでに礼を取り、距離を保っていた。
「レオン」
最後にもう一度呼ぶ。
少年は顔を上げる。
アイリスは笑った。
それが、約束になるとは知らずに。
蒼き精霊だけが、すべてを見ていた。




