(3) そばがきの味
孤次郎は湯につかり、ひとときの安らぎを覚えていた。露店で知り合った太一という子供に案内されたのは、「峰屋」というそば屋。店舗の奥には座敷が三つあり、それらは宿として貸している。中庭には露天風呂がある。信州らしい山の香りが風に混じって漂う。すでに日は暮れ、見上げると星空が広がっていた。
湯の中で、孤次郎は肩の力を抜いた。追われる身の上では、人目に触れる場所で緊張がほどけることはない。一人になったときだけ、彼は少しだけ安堵の息をつく。岩を枕に空を眺めると、風に乗って、そばの香りがほんのり漂ってきた。厨房では、太一の叔父である喜助が翌日の仕込みに勤しんでいた。
そのとき、太一がそっと小さな湯桶を手に持って現れた。
「お湯、熱すぎませんか?」
「ちょうどいい。いい湯だ。いいところを紹介してくれたな。助かる」
「おっちゃん、いや、孤次郎さん。助かったのはおいらのほうさ。本業のほうは閑古鳥が鳴いてるんだ。どうして客が来ないのかおいらにはわからないんだけど。やっぱりそばの打ち方が悪いのかなあ」
「そば打ちか・・・なつかしいな」
孤次郎の生家は、江戸、深川の雑穀問屋である。隅田川のほとりにある屋敷。そこに全国各地から船で穀物が運ばれてくる。手で揉んだそば粉の香りを思い出し、もはや帰ることのできない故郷、江戸を思い出していた。彼は江戸にいた頃、日本橋のそば屋にそば打ちの指南をしたことがある。そば打ちは子供の頃から手慣れていた。石臼の引き方からそば打ちの極意まで、孤次郎は熱心に指導し、その店は瞬く間に繁盛したのだった。
「そば打ちは奥が深いぜ。人が集まる宿場町で店が繁盛しないのは、やっぱり何かがおかしいんだ」
「何かがおかしい?」太一が目を丸くした。「味は悪くないんだ。だけど、表通りの艶屋には人が入るのに、うちはいつもガラガラで・・・。それで、孤次郎さんはそば打ちが好きなのかい?」
「好きっていうより、手が覚えているんだ。飯炊きと同じだな」
孤次郎は峰屋に訪れるやいなや、店でそばを食べた。味はいいのだが口当たりとのど越しに問題があると感じていた。
孤次郎は湯から上がり、肩の水を払う。
「太一、明日の朝、そばを打つところを見てみよう。気づいたことがあれば言う」
太一の目がぱっと開いた。
「ほんとに?叔父さんも喜ぶよ」
翌日、孤次郎は、午の刻を少し過ぎた頃、まどろみの中で目を覚ました。外には晩秋の陽が、宿場町の屋根をほんのり照らしている。長旅の疲れが出て、そば打ちを見ると約束したのに寝過ごしてしまった。気まずそうな顔をして孤次郎は店に顔を出す。店には旅装束の客が数人。給仕をするのは太一の姉、お花。お花は柔らかな臙脂色の小紋を着ていた。ところどころ薄い朱色や淡い金の草花模様が散らされていたそれは、若い体にぴったりと沿うように着こなされ、袖や裾の動きが軽やかだった。腰には落ち着いた深緑の帯をきちんと結び、細やかな折り目が所作の美しさを引き立てる。晩秋の風にそっと揺れる姿は、可憐でありながらも芯の強さを感じさせ、孤次郎の目に微笑ましく映った。
「孤次郎さん、ずいぶん寝坊したね」
厨房から顔を出した太一は、笑顔で手招きした。
「悪いな。まあ、ちょっと見せてくれよ」
孤次郎が厨房に入ると、そば打ち台の前で主人の喜助が口をへの字に曲げ、鋭い視線を孤次郎に向けていた。
「太一から聞いたが、客人。いくら客でも、いきなりご意見とは、いささか失礼じゃないかい?わしも職人だ、少しわけを聞かせてくれないか」
「そりゃそうだな」と孤次郎は言う。「この店のそばに少し感じることがあったんだ。いきなり俺にそば打ちをさせろとは言わねえ。あれこれ文句を言おうとも思わねえ。ただ、一度、俺の掻いたそばがきを食べてくれないか?もしそれが口に合ったら、少し俺の話を聞いてくれねえか」
「そばがき?」
「そう、この店にはそば切りはあってもそばがきがないのが気になった。本来、そばがきあってのそば切りなんだ。そば切りはそば玉を細く伸ばして切ったもの、そばがきは粉を湯で練っただけの素朴な食べ物だ。そばがきが基本。さ、そば粉と湯をくれねえか。目の前ですぐに作る」
「喜助叔父、やらせてあげてくれよ」
と太一が媚びるような目で喜助の顔を見上げた。
「しょうがねえなあ、じゃあ、太一。お前が用意してやれ」
太一が漆塗りの椀と一膳の箸を孤次郎に渡す。それから升に入れたそば粉、熱湯の入った鉄瓶を持ってきた。客のいなくなった店の卓の前に腰を下ろす。太一は卓の上にそれらを置いた。喜助と太一、お花が孤次郎を囲むようにして座り、孤次郎の手元を見遣った。孤次郎は、まず、そば粉を椀に入れ、熱湯を少しずつ加える。間髪入れず箸を持ち、椀の中のそば粉を勢いよくかき混ぜる。太一が孤次郎の真剣な眼差しに目を見張る。椀の中で、そば粉の小さな塊がいくつも現れる。一瞬手を止め、熱湯を僅かに加え、再び箸で搔きまわすとそれらは一つになり、やがて饅頭のような塊になった。
「さ、できた。とりあえず何もかけず、そのまま口に入れてくれ」
孤次郎が作ったそばがきは、香ばしいそば粉の香りを立ち上がらせた。できあがったそばがきを喜助の前に差し出す。喜助が箸を取り、そばがきを少し千切り、口に入れる。そばがきは口の中で、ほろほろとほどけながらも、もっちりとした食感が舌に心地よく残る。噛むほどに粉本来の甘みと香ばしさが広がり、喉をすっと通った後には、口の奥に淡い余韻が残る。そば切りとは違い、粉の味をまるごと楽しめる、素朴ながらも完成された味だった。
喜助は大きく頷き、
「正直言って、悪くないな、これは」
太一がほっとした表情を浮かべる。喜助がお花と太一にそばがきを薦め、二人はそばがきを口に運ぶ。孤次郎は三人の表情を覗き込むようにして見比べる。
「うん」
と太一が頷いた。
「おいしい、これはあとを引くわね」
とお花が声を上げた。
二人の言葉を聞いて、喜助が少し悔しそうな顔で腕組みをする。喜助は立ち上がり、厨房に戻っていった。しばらくして厨房の中から喜助の声がした。
「孤次郎さん、そば打ちやってみるかい?」
その言葉を聞いた太一が、孤次郎の顔を見て笑顔を見せた。二人の顔を見比べて、お花が口元に微笑みを浮かべた。
すると、突然、店の木戸がきしむ音を立ててゆっくり開いた。そこに立っていたのはおりんだった。肩を落とし、歩くのもおぼつかない。紺色のかすりは、細かな白の斑点が散らされ、晩秋の冷たい陽射しに陰影を落としている。裾や袖は土で少し汚れ、旅や戦いの痕を物語る。着物は派手ではないが、控えめな紺色が静かな気品を感じさせる。
「そば、ちょうだいな・・・」
低く、かすれた声が店内に響く。孤次郎は振り返り、一瞬、目を見開いた。手傷を負っている。刀を交えた痕か、それとも追跡の最中の怪我か。
太一とお花は驚き、思わず箸を止める。孤次郎は、何も言わずゆっくりと立ち上がる。
「あんた、怪我してるな。とりあえず座って落ち着きなよ」
右腕に薄い血の跡が残り、袖口がわずかに乱れている。おりんは、孤次郎の視線を避けるように座敷の隅へ腰を下ろす。湯気に混ざるそばの香り、薪のにおい、そして晩秋の冷気――店には孤独と安堵、緊張が入り混じった空気が漂った。




