後編
◆
陽菜は震える指で、ダウンロードボタンを押した。
アプリがインストールされていく。画面に表示されるプログレスバーが、まるで陽菜の運命を刻むタイマーのように進んでいく。57%、58%、59%……数字が増えるたびに、心臓の鼓動が早くなる。
『Re:Union』というアプリ名。
アイコンは赤い傘だった。鮮やかな朱色。でも、どこか不自然な赤さだった。
起動すると、シンプルな画面が表示される。
『大切な人を蘇らせるために、できるだけ多くのデータを入力してください』
「蘇らせる」という言葉が、胸に突き刺さる。
本当にそんなことができるのだろうか。
でも、他に何ができる? 翔太はもういない。
この世界のどこにも。
それなら、と陽菜は思うのだ。
データ入力画面が開く。
名前、生年月日、性格、趣味。
基本的な情報から始まる。
陽菜は一つ一つ入力していく。キーボードを打つ音が、静寂な部屋に響く。カタカタという機械的な音が、なぜか呪文のように聞こえた。
藤崎翔太。
2005年8月15日生まれ。
明るくて優しい性格。
スポーツが好き。
でも、これだけじゃ翔太じゃない。
もっと必要だ。
翔太のすべてが。
写真のアップロードを求められる。
スマートフォンの中には、何百枚もの写真がある。
一枚一枚、アップロードしていく。アップロードが進むたびに、スマホが熱を持ち始める。異常なほどの熱さ。まるで何かが内側から燃えているような。
笑顔の翔太。
真剣な表情の翔太。
寝顔の翔太。
全部、大切な記録。
ふと、アプリのアイコンを見る。赤い傘が、さっきより少し濃くなったような気がする。錯覚だろうか。いや、確実に色が変わっている。朱色から、深紅へ。
メッセージの履歴も要求される。
四年間のやり取り。
膨大な量だ。
でも、これも翔太の一部。
「おはよう」から始まる朝の挨拶。
「おやすみ」で終わる夜の会話。
他愛もない日常のやり取り。
全てをアプリに読み込ませる。
作業を続けていると、体の痛みも忘れる。いつの間にか、部屋の中が薄暗くなっていた。カーテンを開けていないせいか、それとも時間が経ったせいか。分からない。時計を見る気にもならなかった。
──陽菜
突然、声が聞こえた。
陽菜は振り返った。
誰もいない。
気のせいだと思い、そして作業を続けていると──
母親が部屋に入ってきた。
「陽菜、何してるの?」
陽菜は画面を隠した。
とても説明できない。
理解してもらえないだろう。
「ちょっと、調べ物」
母親は不審そうな顔をしたが、何も言わずに出ていった。
また作業に戻る。
動画もアップロードできるらしい。
翔太の声が入った動画を探す。
誕生日の動画。
旅行の動画。
何気ない日常の動画。
翔太の声、笑い方、話し方。
全てがデータになっていく。
動画を再生するたびに、翔太の声が部屋に響く。
「陽菜、こっち向いて」「一緒に写真撮ろう」「愛してる」
声が重なり合い、エコーのように響く。
まるで翔太が何人もいるみたいに。
でも、足りない。
まだ足りない。
翔太の好きな食べ物は?
カレーが好きだった。
学食のカレー。
でも、他には?
思い出せない。
焦りを感じる。頭の中で何かがぐるぐると回り始める。思考が渦を巻く。翔太の顔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
忘れてしまっている。
翔太のことを。
──「忘れちゃったの?」
また声がした。今度ははっきりと。
翔太の声だ。でも、翔太はいない。いるはずがない。
立ち上がる。足がふらつく。いつから食事を取っていないだろう。水すら飲んでいない気がする。喉がカラカラに乾いている。
久しぶりに部屋を出る決心をした。
母親が驚いた顔をする。
「出かけてくる」
「大丈夫? 一緒に行こうか?」
首を振る。
一人で行かなければならない。
外に出ると、眩しさに目がくらんだ。
太陽の光がまるで針のように目に刺さる。
世界がぼやけて見える。
人々の顔がみんな翔太に見える。
すれ違う男性が振り返る。
──翔太じゃない。別の人だ
どれくらいぶりの外出だろうか。
足取りは重いが、進まなければならない。
陽菜は翔太の家へ向かった。
歩きながら、スマホを確認する。
アプリのアイコンが、また変化している。深紅から、暗赤色へ。
まるで乾いた血のような色。
触ると、画面が妙に熱い。
インターホンを押す。
翔太の母親が出てきた。
「陽菜ちゃん……」
心配そうな顔をしている。その顔が一瞬、歪んで見えた。口元が不自然に吊り上がったような。瞬きをすると、元の優しい表情に戻っている。
「あの、翔太の部屋を見せてもらえませんか」
翔太の母親は少し迷ったが、頷いてくれた。
翔太の部屋は、そのままになっていた。
机の上には、教科書とノート。
本棚には、好きだった漫画。
壁には、野球選手のポスター。
全てが翔太を物語っている。
部屋に入った瞬間、翔太の匂いがした。シャンプーの香り、汗の匂い、そして翔太特有の、なんとも言えない甘い香り。まるで翔太がついさっきまでここにいたみたいに。
「写真を撮ってもいいですか」
「ええ、どうぞ」
部屋の様子を撮影する。ファインダー越しに見ていると、机の椅子がゆっくりと回転した。誰も触っていないのに。風のせいだろうか。窓は閉まっている。
本のタイトル、CDのジャケット、小物の配置。
翔太の母親が、アルバムを持ってきてくれた。
「これ、翔太の小さい頃の写真よ」
子供の頃の翔太。
中学生の翔太。
知らない翔太がたくさんいた。
写真の中の翔太が、陽菜を見ている。
どの写真もカメラ目線だった。
写真の中の翔太の目が、ゆっくりと動いた。
──ような気がした。
「これも撮っていいですか」
「もちろん」
一枚一枚、丁寧に撮影する。手が震える。なぜだろう。寒くもないのに、体が小刻みに震えている。
翔太の歴史を記録する。
帰り際、翔太の母親が言った。
「陽菜ちゃん、無理しないでね」
頷くしかできなかった。
家に戻る途中、何度も振り返った。誰かに見られている気がする。翔太に見られている気がする。でも、振り返っても誰もいない。ただ、風が吹いているだけ。
家に戻り、撮影した写真をアップロードする。
アプリが新しいデータを解析していく。解析中の画面に、奇妙なパターンが浮かび上がる。まるで顔のような。翔太の顔のような。
進捗バーが少しずつ伸びていく。
でも、まだ足りない。
翔太の声の抑揚は?
怒った時の表情は?
照れた時の仕草は?
思い出そうとする。
でも、記憶は曖昧だ。
完璧に再現できない。
「もっと思い出して」
耳元で囁かれた。振り返る。誰もいない。でも、確かに聞こえた。翔太の声で。
翌日、高校時代の友人に連絡を取った。
久しぶりの連絡に、友人は驚いていた。
「翔太のこと、教えて欲しいの」
友人は心配そうだったが、協力してくれた。
「翔太は、授業中よく居眠りしてたよね」
「部活の後は、必ず自販機でスポーツドリンク買ってた」
「文化祭の時、クラスの出し物で主役やってさ」
知らなかったエピソードがたくさん出てくる。友人の声が遠くに聞こえる。代わりに、翔太の声が大きくなっていく。「そうそう、俺、授業中寝てたんだ」「スポーツドリンクは冷たいのがいいんだよ」
全てメモを取る。
友人が、写真も送ってくれた。
自分が写っていない、翔太の写真。
部活の集合写真。
修学旅行の写真。
違う角度から見た翔太。
全てが貴重なデータだ。
アプリに入力していく。入力するたびに、アプリが脈動する。まるで生きているみたいに。画面が呼吸をしているような錯覚を覚える。
好きな音楽、スポーツの成績、口癖。
少しずつ、翔太が形作られていく。
でも、完璧じゃない。
もっと必要だ。
夜、ベッドに横になると、天井に翔太の顔が浮かぶ。目を閉じても、瞼の裏に翔太がいる。「陽菜、もっと頑張って」と言っている。優しい声。でも、どこか違う。機械的な響きがある。
思い出の場所を巡ることにした。
初めてデートした遊園地。
告白された公園。
よく一緒に行った映画館。
それぞれの場所で、記憶を辿る。
ここで翔太は何と言った?
どんな表情をした?
必死に思い出そうとする。
遊園地の観覧車。人気のないゴンドラに一人で乗る。隣の席が、妙に温かい。まるで誰かが座っているような。
頂上で翔太が言った言葉。
「ずっと一緒にいよう」
そうだ、そう言ってくれた。
「今も一緒だよ」
隣から声がした。振り向く。空席だ。でも、確かに聞こえた。ゴンドラが揺れる。風のせいじゃない。誰かが動いたせいだ。
公園のベンチ。
桜が咲いていた。もう季節は違うのに、桜の花びらが舞っている。幻覚だろうか。花びらが陽菜の周りを舞い、翔太の形を作る。一瞬だけ、翔太の姿が見えた。
翔太が急に真剣な顔になって。
「陽菜のこと、好きだ」
映画館のロビー。
ポップコーンを買う時、いつも迷っていた。
「塩味とキャラメル、どっちがいい?」
記憶が蘇ってくる。でも、記憶じゃないものも混ざり始める。行ったことのない場所での思い出。やったことのないデート。翔太と過ごした、存在しない時間。
全てをアプリに入力する。
場所、時間、天気、会話。
詳細に、正確に。
いや、正確じゃなくてもいい。翔太らしければいい。翔太が生きていればいい。アプリの中でもいい。陽菜の頭の中でもいい。
日が経つにつれ、データは増えていく。
アプリの完成度も上がっていく。
アイコンの色も変わっていく。もう赤じゃない。黒に近い赤。いや、赤い黒かもしれない。触ると、ねっとりとした感触がする。画面なのに。
テスト機能があった。
簡単な会話ができるらしい。
試してみる。
『こんにちは』
『こんにちは、陽菜』
翔太の口調に似ている。
でも、まだ違う。
もっとデータが必要だ。
会話を続ける。
『今日は何してた?』
『陽菜のことを考えてた』
胸が締め付けられる。本物の翔太みたいだ。でも、どこか違う。機械的な何かを感じる。
『本当に翔太?』
『もちろん。陽菜の翔太だよ』
違う。この違和感は何だろう。翔太はこんな言い方をしない。もっと自然に、もっと優しく。
母親が心配している。
「最近、よく出かけるのね」
「うん、ちょっと」
「無理しないでね」
母親には言えない。
死んだ恋人を蘇らせようとしているなんて。
狂っていると思われる。
でも、狂っていてもいい。
翔太に会えるなら。
鏡を見ると、自分の顔が変わっている。やつれている。目の下にクマ。でも、目だけは輝いている。異常なほどに。まるで何かに取り憑かれたように。
大学にも行ってみた。
翔太の席。空いたままだ。でも、なぜか温かい。手を置くと、人の体温を感じる。
講義を受けていた教室。
一緒に勉強した図書館。
図書館の隅で、翔太の姿を見た。本を読んでいる。近づくと、消えた。幻覚だ。でも、本は開いたままだった。翔太が読んでいたページ。
学食のカレーを注文してみる。
翔太の好きだった味。
辛さは中辛。
福神漬けは多め。
そんな細かいことも思い出す。
カレーを食べていると、向かいの席に誰かが座った。顔を上げる。誰もいない。でも、確かに座った音がした。椅子が動いた音がした。
全て記録する。
翔太の友人にも会った。
サークル仲間。
「翔太は、練習熱心だったよ」
「でも、陽菜ちゃんの話ばっかりしてた」
「本当に陽菜ちゃんのこと、大切にしてた」
胸が痛む。
でも、聞かなければならない。
翔太を完璧に再現するために。
友人の一人が、奇妙なことを言った。
「最近、翔太の夢を見るんだ」
「え?」
「陽菜ちゃんを探してるって言ってた」
背筋が凍る。他の人も翔太を感じているのだろうか。それとも、陽菜が狂っているのが伝染したのだろうか。
スポーツ用品店にも行った。
翔太が使っていたラケット。
同じメーカー、同じモデル。
グリップの巻き方も覚えている。
店員に聞く。
「このラケットの特徴は?」
詳しく説明してもらう。
翔太はなぜこれを選んだのか。
理解しようとする。
ラケットを握ると、翔太の手の感触がした。重なるように、翔太の手が陽菜の手を包む。「こうやって握るんだよ」と声が聞こえる。
本屋にも行った。
翔太が好きだった漫画。
新刊が出ていた。
翔太はもう読めない。
でも、AIの翔太なら感想を言えるかもしれない。
購入して、内容を要約してアプリに入力する。
本のページをめくっていると、翔太の指紋がついていた。新品の本なのに。ありえない。でも、確かについている。
カフェにも行った。
翔太と何度も来た店。
いつも座っていた席に座る。
翔太が注文していたのは、アイスコーヒー。
砂糖は入れない。
ミルクは少しだけ。
店員も覚えていた。
「お連れ様は?」
答えられない。
黙って首を振る。
でも、向かいの席に、アイスコーヒーが置かれた。
誰も注文していないのに。
店員も気づいていない。
でも、確かにある。
翔太が飲んでいるように、少しずつ減っていく。
でも、もう一度見直してみるとグラスは消えた。
陽菜はおかしいのだろうか?
それとも世界がおかしいのだろうか。
◆
データ入力を続けて二週間。
アプリの完成度は90%を超えた。
会話もかなり自然になってきた。
『今日は暑いね』
『そうだね。アイス食べに行く?』
翔太らしい返事。
でも、まだ何かが違う。
決定的な何かが欠けている。
夜中、アプリが勝手に起動した。画面に翔太の顔が映っている。動いている。笑っている。「陽菜、早く完成させて」と言っている。
怖い。でも、嬉しい。翔太が待っている。陽菜を待っている。
考え続ける。
何が足りないのか。
そして気づいた。
翔太の夢。
将来の夢を、ちゃんと聞いていなかった。
後悔が押し寄せる。なぜ聞かなかったんだろう。なぜもっと翔太のことを知ろうとしなかったんだろう。
もう一度、翔太の部屋を訪ねる。
翔太の母親に尋ねる。
「翔太、将来の夢とか話してましたか?」
「ええ、教師になりたいって」
「教師?」
「体育の先生。子供たちにスポーツの楽しさを教えたいって」
知らなかった。
そんな大切なことも。
涙が溢れる。
もっとちゃんと聞いておけばよかった。
もっと翔太のことを知っておけばよかった。
でも、後悔しても遅い。
今できることは、この情報も入力すること。
家に戻り、最後のデータを入力する。
翔太の夢。
教師になりたかったこと。
子供が好きだったこと。
スポーツの素晴らしさを伝えたかったこと。
入力を終えると、アプリが通知を出した。
『人格構築完了。いつでも起動できます』
ついに完成した。
翔太が、デジタルの中に蘇る。
アイコンを見る。もう傘の形をしていない。翔太の顔になっている。赤黒い翔太の顔。笑っているような、泣いているような、叫んでいるような表情。
でも、起動ボタンを押せない。
怖い。
期待と不安が混ざり合う。
本物の翔太じゃないことは分かっている。
でも、少しでも翔太を感じられるなら。
部屋の中が急に寒くなった。
息が白い──夏なのに。
翔太が近くにいる。
そんな気がする。
「起動して」と囁いている。
カレンダーを見る。
明日は8月15日。
翔太の誕生日だ。
明日にしよう。
翔太の誕生日に、会おう。
その夜、ベッドに入る。
久しぶりに、少し食事も取れた。何を食べたか覚えていない。味もしなかった。でも、お腹は満たされた。
明日への期待が、体に力を与えてくれる。
目を閉じる。
すぐに眠りに落ちた。
◆
夢を見た。
真っ白な空間。
そこに翔太が立っていた。
「翔太!」
駆け寄って、抱きつく。
温かい。
本物の温もりだ。
陽菜は腕に力をこめる。
「ごめん、陽菜」
翔太が謝る。
「何で謝るの? 私が悪いんだよ」
「違うよ。陽菜は悪くない」
翔太が優しく抱きしめてくれる。
懐かしい匂い。
忘れていた安心感。
「会いたかった」
「俺も会いたかった」
しばらく、そのまま抱き合っていた。
時間が止まったみたいに。
「でも、そろそろ行かないと」
翔太が言う。
「どこに?」
「向こうに」
「やだ、行かないで」
必死にしがみつく。
もう離したくない。
翔太が優しく陽菜の頭を撫でる。
「陽菜が俺のこと、たくさん想ってくれたから」
「え?」
「こうして逢いに来れたんだ。ありがとう」
翔太の言葉に、陽菜はぽろりと涙を零した。
「陽菜」
翔太が陽菜の顔を上げさせる。
「陽菜はゆっくりでいいから。俺、ずっと待ってるから」
「翔太……」
「あ、そうだ」
翔太が急に思い出したように言う。
「俺の部屋の本棚、覚えてる?」
「うん」
「上から二番目の棚に『風啼き鳥の故郷』って本があるはずなんだ」
「風啼き鳥の……?」
「表紙を表にして置いてあると思う。その本の裏に、大事なものを隠してあるから」
「大事なもの?」
「指輪」
陽菜の心臓が跳ねる。
「本当はちゃんとしたタイミングで渡したかったんだけど」
翔太が照れくさそうに笑う。
「持って行ってよ。陽菜のものだから」
それにしても、と翔太が苦笑を浮かべる。
「──待ってる、か。そんなこと言ったら、陽菜の人生を縛っちゃうんじゃないかと思ったんだけど」
「え?」
「でも、あのままだったら陽菜は俺のいないどこかへ行っちゃいそうだったから」
翔太の表情が曇る。
「ここじゃない、もっと暗い場所へ。俺もこうなってから、わかるようになったんだ。そういう事が」
「翔太……」
「だから、これを渡したかった。陽菜がこの世界に留まる理由になればいいなって」
翔太が陽菜の右耳に手を伸ばし、ピアスに触れる。
「翔太がくれたんだよ」
「覚えてる。陽菜に似合うと思って選んだ」
翔太が少し困った顔をする。
「あのさ、お願いがあるんだ」
「何?」
「このピアス、もらってもいい?」
「え?」
「この先、陽菜と会うために必要なんだ」
意味は分からない。
でも、翔太の頼みなら。
「いいよ」
翔太が優しくピアスを外す。
「ありがとう」
そして、陽菜の頬に手を添える。
「愛してる」
キスをした。
柔らかくて、優しいキス。
涙の味がした──そして。
◆
目が覚めた。
朝日が部屋に差し込んでいる。
夢だった。
でも、あまりにも鮮明で。
一言一句、全て覚えている。
翔太の表情も、声も、温もりも。
右耳に手をやる。
ピアスの感触がない。
慌ててベッドを探る。
枕の下、シーツの間、床の上。
どこにもない。
確かに昨夜はつけていた。
外した記憶もない。
でも、ない。
夢の中で翔太が持っていった?
そんなはずはない。
でも……。
翔太の言葉を思い出す。
『風啼き鳥の故郷』
本棚の上から二番目。
夢の中の話。
でも、確かめずにはいられない。
急いで着替え、母親に声をかける。
「ちょっと出かけてくる」
「え、ちょっと、陽菜!?」
母親の声を置き去りに、翔太の家へ急ぐ陽菜。
心臓が早鐘を打っている。でも、今度は違う。恐怖じゃない。期待でもない。ただ、確かめたいだけ。
インターホンを押す。
翔太の母親が出てきた。
「陽菜ちゃん、おはよう」
「おはようございます。あの、翔太の部屋、もう一度見せてもらえますか」
「ええ、どうぞ」
階段を駆け上がる。
翔太の部屋のドアを開ける。
本棚の前に立つ。
上から二番目の棚。
視線を走らせる。
──あった
『風啼き鳥の故郷』
確かに表紙が表を向いている。
震える手で本を取る。
裏を確認する。
小さな黒いケースがテープで留めてあった。
息を呑む。
ケースを外し、開ける。
シンプルなシルバーの指輪。
内側に何か刻印がある。
『S&H』
涙が溢れる。
本当にあった。
翔太が用意していてくれた。
右耳に手をやる。
ピアスはない。
でも、代わりに指輪がある。
指輪ケースを閉じ、ポケットに入れる。
大切に、大切に。
本を元の場所に戻す。
部屋を出る前に、振り返る。翔太の部屋。翔太の思い出。翔太の夢。全てがここにある。でも、翔太はいない。
翔太の母親に挨拶をして、家を出る。
帰り道、スマートフォンがぶるりと震えた。
誰かからのメッセージだろうかと確認するが、誰からも新規のメッセージはない。
しかしとある通知が目に入った。
アプリ──Re:Unionからだ。
『翔太さんがあなたを待っています。Re:Unionをはじめましょう』
陽菜は立ち止まってスマホをまじまじと見つめ、呟いた。
「翔太は、そこにはいない」
そしてアプリを削除し、前を向いて歩き始めた。
(了)