中編
◆
六月に入り、梅雨の季節が始まった。
じめじめとした空気の中、傘を差しながら大学へ通う日々。
「今日も雨か」
翔太が空を見上げる。
「天気予報だと週末は晴れるみたいよ」
陽菜が言う。
「じゃあ、どこか出かけよう。雨続きで鬱憤溜まってるし」
土曜日、予報通り久しぶりの晴天となった。
二人は電車で隣町まで出かけることにした。
「久しぶりの青空だね」
陽菜が伸びをする。
「気持ちいい」
商店街を歩き、雑貨屋を覗いたり、古本屋で掘り出し物を探したり。
昼食は、通りかかった小さなイタリアンレストランで取ることにした。
「ここ、雰囲気いいね」
「穴場っぽい」
パスタを注文し、のんびりと食事を楽しむ。
「来週で記念日だね」
翔太が言う。
「もう四年かあ」
「早いような、長いような」
陽菜は微笑む。
「でも、毎日が充実してた」
「これからもよろしく」
翔太が真剣な表情で言う。
「こちらこそ」
食事を終え、店を出る。
午後の日差しが眩しい。
「あそこのカフェ、テラス席があるよ」
陽菜が指差す。
「休憩していく?」
二人は道路を渡ろうとした。
信号は青。
横断歩道を歩き始める。
その時だった。
交差点に、猛スピードで車が突っ込んできた。
赤信号を無視して、真っ直ぐこちらへ。
翔太が陽菜の腕を掴んだ。
「危ない!」
翔太は陽菜を突き飛ばした。
陽菜は歩道に倒れ込む。
鈍い音がした。
振り返ると、翔太が道路に倒れていた。
車は止まることなく走り去っていく。
「翔太!」
陽菜は駆け寄る。
翔太は動かない。
頭から血が流れている。
「翔太、翔太!」
必死に呼びかけるが、反応がない。
周囲の人たちが集まってくる。
誰かが救急車を呼んでいる。
陽菜は翔太の手を握りしめた。
冷たくなっていく手。
「お願い、目を開けて」
涙が止まらない。
救急車のサイレンが近づいてくる。
救急隊員が翔太を担架に乗せる。
陽菜も一緒に救急車に乗り込んだ。
病院への道中、翔太の手を握り続ける。
「大丈夫、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように繰り返す。
病院に到着し、翔太は処置室へ運ばれていった。
陽菜は廊下で待つことしかできない。
警察が来て、事情を聞かれる。
うまく説明できない。
ただ、翔太が自分を守ってくれたことだけを繰り返す。
翔太の両親が駆けつけてきた。
陽菜は泣きながら謝り続ける。
「ごめんなさい、私のせいで」
翔太の母親が陽菜を抱きしめる。
「あなたのせいじゃないわ」
でも、陽菜にはその言葉が届かない。
長い時間が過ぎた。
医師が処置室から出てきた。
表情を見て、全てを悟る。
「申し訳ありません。手を尽くしましたが……」
膝から力が抜ける。
翔太の母親の泣き声が聞こえる。
陽菜は何も考えられなかった。
ただ、涙だけが流れ続ける。
葬儀の日。
陽菜は黒い喪服を着て、斎場にいた。
祭壇には翔太の遺影が飾られている。
笑顔の写真。
つい先週まで、一緒に笑っていたのに。
参列者が次々と焼香をしていく。
陽菜の番が来た。
遺影の前に立つ。
翔太が笑っている。
「ごめんね」
小さくつぶやいて、焼香する。
手が震えて、うまくできない。
席に戻ると、また涙が溢れてくる。
友人たちが心配そうに見ている。
でも、誰の言葉も耳に入らない。
葬儀が終わり、火葬場へ。
最後のお別れ。
棺の中の翔太は、眠っているようだった。
「また明日」
いつものように言いたかった。
でも、もう明日は来ない。
火葬が終わり、骨を拾う。
こんなに小さくなってしまった。
翔太の両親が、陽菜に声をかける。
「これ、翔太が大切にしていたから」
渡されたのは、二人で撮った写真だった。
先月、映画を見に行った時のもの。
二人とも笑顔で写っている。
陽菜は写真を胸に抱きしめた。
家に帰っても、現実感がない。
部屋には翔太との思い出が溢れている。
机の上の写真立て。
本棚に並ぶ、一緒に選んだ本。
クローゼットにかかっている、翔太が誕生日にくれた服。
全てが、翔太の不在を際立たせる。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。
翔太の匂いがするような気がした。
でも、それも幻想でしかない。
スマートフォンを開く。
翔太とのメッセージのやり取りが残っている。
『今日はありがとう。また明日』
最後のメッセージ。
もう返事は来ない。
涙で画面が滲む。
翌日、大学へ行こうとした。
でも、玄関を出られない。
翔太のいない大学に、意味があるのか。
母親が心配そうに声をかける。
「無理しなくていいのよ」
陽菜は部屋に戻った。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
何も考えたくない。
何も感じたくない。
でも、翔太のことばかり考えてしまう。
食事も喉を通らない。
母親が運んでくれるが、ほとんど手をつけない。
「少しでも食べて」
心配する母親の声も、遠くに聞こえる。
夜になっても眠れない。
目を閉じると、事故の瞬間が蘇る。
翔太が自分を突き飛ばす瞬間。
倒れている翔太。
血が流れている光景。
目を開けて、また天井を見つめる。
朝が来て、また夜が来る。
時間だけが過ぎていく。
スマートフォンには、友人たちからの心配のメッセージが届く。
でも、返信する気力がない。
ただ、翔太との写真を見続ける。
動画も残っている。
翔太の声が聞こえる。
『陽菜、こっち向いて』
カメラに向かって手を振る自分。
翔太の笑い声。
あの頃は、こんな日が来るなんて思いもしなかった。
一週間が過ぎた。
部屋から出ない日が続く。
髪も梳かさず、着替えもしない。
ただ、ベッドとスマートフォンの間を行き来するだけ。
母親が部屋に入ってくる。
「陽菜、少し外の空気でも吸いに行かない?」
首を振る。
外に出たくない。
翔太のいない世界を見たくない。
「このままじゃ、体を壊すわ」
分かっている。
でも、どうでもいい。
翔太のいない世界で、健康でいる意味があるのか。
母親はため息をついて、部屋を出ていった。
また一人になる。
スマートフォンを手に取り、写真フォルダを開く。
何百枚もある翔太との写真。
一枚一枚に、思い出がある。
これは初めてのデートの時。
これは高校の文化祭。
これは大学の入学式。
全部、かけがえのない記憶。
でも、もう新しい思い出は作れない。
涙が止まらない。
枕が濡れても、構わない。
ただ泣き続ける。
二週間が経った。
体重が落ちた。
鏡を見ると、頬がこけている。
でも、どうでもいい。
翔太はもっと痩せてしまった。
骨になってしまった。
大学から連絡が来る。
このまま欠席が続くと、単位が危ういと。
でも、そんなことはどうでもいい。
単位なんて、何の意味があるのか。
翔太と一緒に卒業できないなら。
友人が訪ねてきた。
「陽菜、大丈夫?」
部屋に入れたくない。
誰とも会いたくない。
「ごめん、今は一人にして」
ドア越しに告げる。
友人は諦めて帰っていった。
また一人になる。
この方がいい。
誰とも話したくない。
翔太以外とは。
でも、翔太はもういない。
スマートフォンの充電が切れかけている。
充電器を探すが、見つからない。
ベッドの下を探る。
手に何か当たった。
引っ張り出すと、翔太がくれたぬいぐるみだった。
去年のクリスマスプレゼント。
ゲームセンターで取ってくれたもの。
ぬいぐるみを抱きしめる。
翔太の代わりにはならない。
でも、これしかない。
三週間が経った。
もう曜日の感覚もない。
ただ、明るくなって暗くなっての繰り返し。
食事は一日一回、少しだけ。
それも母親に言われて、仕方なく。
体に力が入らない。
立ち上がるのも億劫だ。
でも、それでいい。
動く必要なんてない。
翔太に会いに行けないなら。
ある日、スマートフォンを見ていて気づいた。
翔太との通話履歴。
最後の通話は、事故の前日。
『明日、何時に会う?』
翔太の声が聞きたい。
でも、もう聞けない。
ボイスメッセージは残っていないか探す。
一つだけあった。
去年の誕生日に送ってくれたもの。
『陽菜、誕生日おめでとう。これからもずっと一緒にいようね』
何度も何度も再生する。
翔太の声。
優しい声。
もう聞けない声。
イヤホンをつけたまま、目を閉じる。
翔太がそばにいるような気がする。
でも、目を開ければ現実に戻る。
一人きりの部屋。
翔太のいない世界。
四週間が経った。
もう限界かもしれない。
体が重い。
頭も重い。
心はもっと重い。
母親が医者に行くよう勧める。
でも、医者に何ができる。
翔太を生き返らせてくれるのか。
この痛みを消してくれるのか。
薬で心の穴が埋まるのか。
答えは分かっている。
何も変わらない。
翔太はもう戻らない。
夜中に目が覚める。
喉が渇いている。
水を飲もうとペットボトルに手を伸ばす。
でも、掴めない。
力が入らない。
ペットボトルが手から滑り落ちる。
ベッドから落ちて、床を転がる。
取ろうとして、体を起こす。
めまいがする。
そのまま、ベッドから落ちた。
床に倒れ込む。
スマートフォンも一緒に落ちた。
画面が光る。
何かのページが開いている。
広告だろうか。
『大切な人といつでも一緒に』
そんな文字が見える。
『人格模倣AI-故人との再会を実現』
ぼんやりと画面を見つめる。
故人との再会。
翔太に会える?
震える手で、スマートフォンを拾い上げる。
画面をよく見る。
『最新のAI技術により、故人の人格を高精度で再現。メッセージ、写真、動画などのデータから、その人らしさを蘇らせます』
陽菜は画面を見つめ続けた。