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ハル来タル

作者: 富永 真一


 親友のゆかりが結婚を決めた。すでに結納を済ませ、これから挙式の日取りを決め、披露宴の準備に入ると言う。

五島麻衣子はそれを聞いてショックを受けた。なにも事前に知らされていなかったからだ。

「ごめんごめん」大学時代から十年間の付き合いになるゆかりは、土曜午後表参道のカフェで向かい合い、おじさんのように片手拝みをした。

「急に決めたことなのよ。三ヶ月前、会社の先輩に誘われて出た飲み会で、一目ぼれされちゃって・・・・・・」

「その彼氏のことは知ってるよ。それにしても一言ぐらい・・・・・・」

 麻衣子は口を尖らせる。報告の義務などなくても、裏切られた気がする。ゆかりは以前、結婚など当面しないと言っていた。女の友情ハムより薄いとはよく言ったものだ。

「とりあえず、おめでとう」麻衣子は笑みをつくってそう告げる。

「とりあえずって何よ」ゆかりも笑いながら抗議する。

「あっごめん・・・・・・」麻衣子はすぐに右手を口にあてて謝った。

「ま、でも、なんか、ごめん」

「ゆかりがあやまらないでよ。おめでたいことなんだし」麻衣子は気まずい空気を一掃できる言葉を探すが見当たらない。

「で、ずいぶん急に決まった感じがするのは気のせい?」麻衣子はにんまりと笑う。

「それがさ・・・・・・」

「おめでた婚?」最近はできちゃった結婚とは言わないようだ。順番を間違えたという印象を払拭するためにおめでたなんてつけても結局は大人の失敗。ポジティブ思考とは名ばかりの厚かましい考え。逆にそんな言い方をする方がみっともないじゃないか。言ってみて胸のうちで麻衣子は毒づく。

「それが違うの」

「ええ?」そうじゃなくてこのスピード婚って何があったのだろう?

「カレが四月から海外勤務することになって、ついてきてくれって」言いながら、今生の誉とばかりに頬に赤みが差してくるゆかりは本当に照れくさそうにメニューに目を落としながらことの成り行きを語った。

「ええ?」麻衣子は、親友の絵に描いたようなシンデレラストーリーにどう応えてよいのか気持ちの整理が追いつかず、ゆかりの後ろの景色に焦点を移す。ガラスの向こうの通りではカップルがこちらの店内の様子を窺っている。どこを見ても同じだ。どいつもこいつも幸せをこれでもかと言わんばかりに放出している。

「すごいじゃーん」脚本に書かれた台詞を読んでいる新人役者のような抑揚のない賞賛。ドラマだったらNG、即テイクツーのはず。

「で、海外ってどこ?」どうせ上海とかシンガポールとかニューデリーでしょ?

「ニューヨークなの」ゆかりは口ぶりまでシンデレラっぽく控えめになっていく。

「ええ、すごいじゃーん」今度は演技でなく声が裏返った。

「いやーぜんぜんすごくないよー」ゆかりの顔がさらに紅潮し、ピンク色の頬は乙女のそれだ。今までそんな表情を見たことがない。

「ちょーすごいじゃーん」もうどうにでもなれ。

「だってあたし英語ぜんぜんしゃべれないしー」

「でも、すごいじゃーん」あーあ。どれくらいこの会話が続くのだろうか。

「だからカレ、じゃなくてダンナが最初は家政婦と英語の家庭教師をつけてくれるっていうんだけど・・・・・・」

「ふーん、すごいじゃーん」血の気が引いてきて意識が遠のきそうだ。

「だからごめん。八月のイタリア旅行はパスね」二人でヨーロッパに旅行に行く、そんな約束していたのが遥か昔に霞む。

「そ、そりゃそーだよね。わかったわかった」もはやそんな約束をしていたことすら忘れてしまいたい。


 気の置けない女友達との楽しい喫茶タイムになるはずだった久々の東京行きに、麻衣子は感じたことのない疲労を溜めて家路についた。帰りの下り電車を待つホームでは、凍えて手先に感覚がなかった。今年は暖冬のはずだったのに。気のせいだろうが東京発の列車の車内も薄暗く見える。いつもなら座らずドア付近で立つのだが、思わず空き席を目掛けて早歩きをしてしまう。競争に勝ってボックス席に腰を下ろす。鞄を膝の上に抱えて目を閉じた。とにかく自分を落ち着けるために目を閉じたかった。するとゆかりの終始浮かれた表情が瞼に浮かんだ。べつに友達の結婚を祝いたくないわけではない。こと親友の幸せならば本当は心から祝福してあげたい。報告を受けたら一緒に手を取り合って、涙を流して喜んであげるべきなのだろう。そんな当たり前なことができなかった自分にも嫌悪感がわいてくる。でも、ずっと一緒に独身の幸せを謳歌すると先月会ったときも言っていたゆかりの豹変振りには素直に喜べない事情もある。動き始めた窓外を見ると浮かない自分の顔がガラスに映っていた。

しかたなくまた目を瞑った。疲れてはいるものの睡魔は全く訪れそうにもなく、時間は麻衣子の心理をさらに複雑にかき回すだけで思考が収まるところが見つからない。こんな時はどうすればいいのだろう。茅ヶ崎に着いたらどこかの店で一杯飲んで帰ろうか。いや、そんな慣れないことをするとよけい気持ちが萎える。家に帰って梅酒でも飲んで寝よう。なかなか減らない梅酒の入ったビンが冷蔵庫の中に横たえてあった。そんなことを考えていると目の前で、シャッター音がし、麻衣子は目を開いた。

「やべ!」前に座った男が舌打ちをした。同年代のスーツ姿の男がスマホを伏せた。

「なにか?」

「いえ」

「この人今、あなたの写真撮ってましたよ」麻衣子の隣に座った中年女性が大きな声で言う。

「ちょっと! なにしてんですか! 警察に訴えますよ」こんな気持ちの悪い男に自分の目を瞑ったところを撮られるなんて一生の不覚。気持ちの悪い男もいるものだ。

「そうよ、すぐに消しなさい!」横の女性も応援してくれる。

「わかりました、すぐに消します・・・・・・」そう言って、男は席を立って逃げようとした。

「ちょっと逃げるな!」麻衣子はとっさに男の手首を掴んで引っ張った。ふざけるな、逃げようなんて女を舐めるにもほどがある。男は麻衣子の威勢に気圧され座席で麻衣子の写真を削除し、次の駅で逃げるように下車して行った。

「ありがとうございました。助かりました」

麻衣子は隣の女性に礼を言う。

「いやよねー。あんな男。もっとかっこいいイケメンにだったら撮らせてやってもいいのにね」

「へ?」だめだ、今日はどいつもこいつもイカレてるやつばかりだ。

「でも、こんなこと言ったら怒られちゃうかしら」中年女性は膝に乗せた買い物袋を揺らせてにやにやと笑う。

「怒りませんよ。なんですか?」

「あなたね、写真なんて撮られるだけましよー。わたしなんかもう盗撮なんてされっこないもの」

「いえいえ、それはどうでしょう?」いったいなんてことを言う女だ。

「『どうでしょう?』っていってくれるの? まだいけるかしらね」

「・・・・・・」そういういみじゃねーよ。この状況でそんなこと言うのはどうでしょう?って意味。

「あなた美人だからついついさっきの男も撮りたくなっちゃったんじゃないかしら・・・・・」

「いえいえ、そんなこと。わたし次の駅で降りますので、どうもありがとうございました」女は話し始めると止まらないタイプの女だったようで麻衣子が耳を傾ける意思を示すと一向に終りそうもない会話が続き、おまけに人生訓まで垂れ始めたので麻衣子は嘘を言って切り上げざるを得なかった。

麻衣子はそう言って車輌を代えた。茅ヶ崎にはまだ四〇分以上かかる。窓際に立った麻衣子は窓ガラスに自分の顔を映した。学生時代、そして教師になって数年は街を歩けばよく声をかけられた。最初は断り方も分からなかったナンパもあしらい方を覚えてきたと思った近頃はとんとご無沙汰だ。でも、こうして見ると、声がかからなくなったのは自分のせいじゃない、世の男が草食化したからだということがわかる気がして来た。わたしをハントする男だって必ずいるはず。麻衣子は車内をそれとなく見回した。

 

「おはようございまーす」挨拶の声は大きすぎず小さすぎずを心がけている。目立つのは好きではないがか弱いタイプと思われたくもない。鞄を置いて時計を確認七時三二分。いつもどおり。

「うーす」

「おばんでやんす」

同じ学年の古垣と深井は珍しく揃ってデスクで仕事をしている。

「あれ、ごっさん、おれが何で早いのかってつっこまへんの?」麻衣子が鞄をデスクにおくなり、正面に座る深井がメガネの向こうからつぶらな目をこちらへ向けてくる。少し日に焼けたのは土日に少年野球の練習をしていたからだろう。「日に焼けましたね」なんて呼び水を入れれば、またつまらぬ冗談が長々と続きそうで面倒だった。深井の歳は麻衣子より一つ下だが教師歴七年目の香小の古株の先輩である。どうしていつもこうめんどくさいのか。腹が立つ元気もない。

「いや、今聞こうと思ってたんですよ。今日はどうしたんですか深井さん」

「うふふ、言わない」

「言わんのかい!」横の古垣がつっこむ。

「うひょひょ、言わないよー」

二人を放っておいて、出席簿と教科書一式をもって麻衣子は教室へ職員室を出た。朝から無駄な力は使いたくない。ただでさえ今は教室での出来事に集中したいし、仕事が早く終われば一刻も早く学校を出たいのだ。

 教室は四階にある。一段一段脚が重い。冬に入った頃から数名の男子が授業中騒いで授業の妨害をし始めたのだ。六年生の一月という時期にそういった事態は避けたかったが、そうなってしまった今は、その影響を最低限にして他の子どもへの広がりを止めるのが精一杯だった。ただでさえ卒業を控えたこの時期は忙しいのだ。卒業文集の締め切り、卒業アルバムの表紙、図工の卒業制作、クラスの卒業発表。二月に入ると卒業式の練習も開始される。余裕を持って教科書の範囲を終えテストも余裕をもって終えておきたい。男子数名の小さな反目は今のところ広がらず小火で終ると見ているが他のグループに飛び火すると面倒なのでしばらくは騒いでいる男子たちに目を光らせおきたい。

四階に来ると廊下の窓を開けると冷たい空気が流れ入った。教室にも早朝の冷たい空気が滞留している。教卓にテストが重ねてある。金曜日にやったものだが、定時になったので採点せずに学校を飛び出した自分を思い出した。体が軽い金曜日の放課後にしておくべきだったと今になって後悔する。子どもたちが来る前にしておきたいことは山ほどあるのに、テストも今日のうちに返してしまいたい。気持ちを入れなおし、算数の採点を始めた。タイマーをセットする。昨日の電車の隣に座った中年女性の言葉を思い出した。

「何事も考えようよ。いいほうに考えるの。“いい”っていうのは、二つ意味があるの。一つは良し悪しの“良い”、もう一つは好き嫌いの“好い”。わたしなんかいっつも自分の好きなように考えるわ」目を瞑った自分の顔を盗撮された麻衣子をかばってくれた中年女性が麻衣子にかけた言葉だった。“盗撮されるほど美しい”。

「月曜朝からフル回転で仕事をするような流れになるのも悪くないかもな」珍しく麻衣子は一人ごちしてみた。窓から見えるだれもいない校庭はいつもより広く見え、東から出たての太陽の光が少しずつ照らす範囲を広げている。

「一人二十秒でがんばってみよう。それが終ったら日記の返事。算数の教材研究。いけるとこまでいってみよ」


「五島先生、ちょっとこっち」校長の大谷がひきつった顔をしている。今日は特に問題が起こらなかったから安心して放課後仕事に取り掛かれると思っていたのだが、何があったのだろうか。自分のクラスの誰かだろうが、今のところ心当たりがない。校長室に入ると、養護教諭の嵯峨野と教頭の東川がソファに座っている。

大谷に促され、嵯峨野が切り出した。

「佐伯綾さんが『死にたい』って。『もう死ぬ日を決めた』って言うんです」

「佐伯綾ってどんな子? 」

「えっと、特に目立たない普通の子です」言っていて少し情けなくなる。担任している子どもに対してとっさに出た言葉に。

「なんか最近気になったことはないの?」大谷が鋭い目を向ける。

「特には・・・・・・」正直言ってノーマークだった。このごろは授業を荒らす数名の男子に気を取られていて大人しい女子にまで目を配る余裕はなかった。仮に少し落ち込んだ素振りを見せていたとしても自分が察知できていたかは疑わしい。

「教頭先生! 生活アンケート出る?」生活アンケートとは、三ヵ月に一度とる子どもたちへの学校生活全般に関するアンケートで、内容は学習面から友人関係に至る幅広い内容の質問が並ぶ。教師側はそこにいじめを受けやすい子や問題行動を起こしやすい子の動向を探るためにとっている。またいじめに直接参加していなくてもそういう行動を見た子どもからの情報を上手く活用し未然にいじめを防止しようと学校全体の苦心の末に編み出された一つのいじめ防止対策でもある。麻衣子の煮え切らない反応に痺れを切らしたように大谷は東川に指示を出す。

「生活アンケートには何か書いてあった?」再び大谷の厳しい目。

「それは・・・・・・」佐伯が特に何か書いていたという記憶はない。ただ正直まったく確信がもてないのだ。彼女が何かそんな苦しみを抱えていたなんて。そう思うと同時に、アンケートには何も書いていないことを祈る。担任の自分が見落としていたことになったら大変だ。

「えっと・・・・・・」

「わたしが見る」大谷が教頭からアンケートの束を受取ろうとした麻衣子からその束を取り上げた。少し自分の鼓動が速まり、掌にじんわり汗をかくのがわかる。

「これね、佐伯あやってかいてある」

麻衣子は黙って頷いた。

「なんにも書いてない」

―よかった。そう言いたくなる衝動を抑え、麻衣子は胸を撫で下ろした。子どもが明確なSOSを送っているのに、それを無視してしまったという最も恐れるべき事態は免れた。

「嵯峨野先生、もう一度詳しい状況を説明して!」

「今朝、わたしが保健室にきたら、扉の前に立ってるんです」

「綾がね?」大谷は嵯峨野に詰め寄るように尋ねる。

「そうです。で、珍しいんで、聞いてみたんです。どうしたの? 具合悪いの?って」大谷に圧されるようになった嵯峨野はしどろもどろに答える。

「そしたら、そしたら?」

「べつにって言って、そのまま教室の方に戻って行ったんです。教室に行ったかどうかは分かりませんでしたが、階段を上って行ったんで多分教室だと思います」

「それで『死にたい』って言ったのはいつなんですか?」麻衣子も気後れしまいと嵯峨野に訊いた。担任は私なのだ。いくら校長と言えど、大谷だけがこの場の空気を支配するのが許せなくなってきた。しかし狼狽している分、声が擦れているのが自分で分かる。死にたいと言った子どもは初めてだ。いったい何があったのか知らなければならい。

「放課後です。六時間目に体育で怪我をした子の処置が終って誰もいなくなったのでわたしが扉を閉めようとしたら、そこに、扉のすぐ外側に綾ちゃんが立っていて。わたしすぐに思い出したんです、今朝のこと。それで、すぐに黙って保健室の中に入れて、座らせて聞いてみたんです、話を・・・・・・」

「そしたら?」大谷はしていたマスクを外し、嵯峨野に身を乗り出して一言も聞き漏らさないという姿勢だ。横では東川がノートに詳細を書き込んでいる。

「『わたし、死ぬんだ』って。『もう死ぬ日は決めたんだ』って。」

「『わたし死ぬんだ。死ぬ日は決めたんだ』って嵯峨野先生に言ったのね」東川が繰り返し確かめる。

「そうです」

「うん。どうして死にたいと思ってたんだって? 聞き出せた?」

「それはできませんでした。いろいろと話をしてみたんですけど、死ぬ日が二月一三日だって言うんで、まだ時間があるんでそれまでになんとか事情を聞きだしていくしかないと思います」

「そっかー。理由は言わないんだ」大谷はソファの背もたれに体を倒した。

「何なんだろう」麻衣子は思わずこぼした。嵯峨野の話を聞きながらも麻衣子なりに佐伯綾の最近の様子を思い出してみたのだが、特段気になることはなかったとしか思えなかった。

「五島さん、とにかく明日以降注意して見ていこう。ちょっと大変だけど」

「はい」

「それと、すぐに保護者に電話。学校では様子を見る限り特に原因は分からない。お家で気になることはなかったかって。これからはご家庭と学校で連携をとって見ていきましょうって言うんだよ」眉間に皴を寄せたまま、大谷は一度校長室を出て行った。

 麻衣子は佐伯の家へ電話したが綾の祖母が出て、父親も母親も帰宅していないとのことだった。二人とも帰りが十時を過ぎると言うので、また明日かけなおすとだけ伝えて電話を切った。

―何か手がかりが欲しい。

麻衣子は要録を職員室の奥に置いてある大きな耐火金庫から取り出した。要録とは児童の入学から卒業までを記録した文書で、家族構成から一年毎の成績、生活態度、病歴などの情報が書かれている。

上から順番に目を通す。読み飛ばしがないように人差し指で指しながら丹念に見ていく。気にかかることがあれば何でもいい。飛びつきたい気分だ。住所、生年月日、保護者の氏名、

「入学時と二年生以降の母親の名前が違ってる」麻衣子は思わず呟いた。

 一年時の担任の氏名欄に目を移した。片山恭子と書いてある。覚えのない名前だった。定年退職か異動でここにはいない。異動したならば異動先に電話をして状況を確認することもできるが、退職していたらそれは無理だ。二年生の担任は山内豊子。今香小で四年生を受け持っている三十代の教師だ。まずは山内に聞いてみよう。

「山内さん、ちょっといいですか。佐伯綾のことで伺いたいことがあるんですけど」

「はい、どうしましたか」関西訛の返事が返ってきた。色白で丸顔の柔和な山内は物腰も柔らかく決して相手に警戒感を抱かせないタイプだ。仕事中に話しかけても迷惑な顔一つせず、後輩の相談にもよく乗っている。こんな人が小学校教師には向いていると思うのだが、こういうタイプは実際希である。

「あやがちょっと悩みがあるみたいなんですが、クラスのほうでは特に気になることもないので要録を探っていたら、一年生のときに母親が代わっているんですね。その時の事情ってご存知ですか」

少し思案顔を見せて考え込む山内の顔がぱっと晴れやかな表情になった後すぐに浮かない顔に戻った。

「お母さんが亡くなったんですよ」すぐに浮かない表情になった理由が分かった。

「それでお母さんがかわったんですね」と言いながらふと腑に落ちないなにかが麻衣子の胸にも湧く。

「一年生の時の担任の片山先生がちょっとあやちゃんがかわいそすぎないかってこぼしてました。年末頃に、そうそう確か、今頃にお母さんが亡くなって、三月の終りにはもう新しいお母さんが来ました」

「それ、速すぎません」思わず麻衣子の声が大きくなった。父親への抗議の思いが声に出た。

「二年生の初めは大変でした。」いろいろと記憶のスイッチが入った山内は、情緒が不安定な綾が不登校になりかけたことや、教室でお漏らしをしたことなど当時の様子を話してくれた。

 その後一週間ほど綾は落ち着いた様子だった。保健室に時折篭ったり、相談室で女性の相談員と会話をするものの自殺をほのめかしたり、悩みを明かすこともなくなってきていた。しかし、心配な要素が全く消えたかというと麻衣子にはそうは思えなかった。金曜日の放課後、来週の打ち合わせが終ったあと、麻衣子はそれとなく隣に座る小野原に綾のことを打ち明けた。

「わたしには一言も悩みを打ち明けてくれないんです」

「綾ちゃんて、あの生徒会長みたいにしっかりしている子です?」

「確かにそう見えるかも。しっかりしてそうに見えますよね」

「しっかりしてないんですか?」

「しっかりしているところもあるんですけど、もろいところもあって」

「そういう弱いところは担任には見せたくないんじゃないですか?」

「そうなんですかね」

「向こうから心を開いてくれないなら、無理に聞こうとしない方がいいんじゃないですか」

「はい。でも担任として何も出来ないのが辛いです」

小野原は一〇年目の中堅で、香小は二校目である。六年担任も何度もこなした経験がある。思春期の女子の扱いには慣れていると、麻衣子はよく相談を持ちかけている。

「結局その手の悩みって、こちらが直接解決してあげられることじゃないじゃないですか? だから自分で解決していくのを見守ってあげるしかないと思うんですよ?」半疑問系の言葉尻が若干上がる小野原の言葉に、やけに説得力を感じた。確かに、死にたいと言っていたが、その原因は学校での交友関係や教師とのやり取りにあるわけではなかった。子どもとはいえ心の問題に他人が入り込むのは難しいのかもしれない。

「そうですね、たしかに・・・・・・」

「お父さんとはお話できそうなんですか?」

「はい、やっと連絡が取れて・・・・・・」

週明けの月曜日の放課後に父親が来校する話になっていた。それまでに事が起きてから今までの出来事の流れを説明できるようにまとめておかなければならない。今日は用事があるからもう出なければならない。休日出勤だ。嫌でも溜息が漏れる。


 横浜の馬車道にある、海外渡航相談所に通い始めたのは、夏休みの七月末からだった。ちょっとした出来心で調べてみた海外留学。障害になるものがなく、いつでも止められるからとりあえずと思って始めた準備が、自然の成り行きの如く進行中だった。実現するかどうかは置いておいて、海外生活を想像しながらその準備に没頭できることが、今の教師生活の支えになっているといった具合だ。大学や大学院への留学というとTOEFLを受験し入学試験をパスしなければならず敷居が高い。EU圏は受け入れが厳しいが、オーストラリアやカナダなどの日本との友好国へは就学ビザを取得すれば、語学留学という形で一年間居住することが許される。より手続きが簡単なのは一年間の就労ビザで行くワーキングホリデイだ。三十歳以下の年齢まで受け入れている国は少なくない。麻衣子は後者に関心を抱いていた。大学を出たばかりではなく数年働き、経験を積んでいる二八歳という自分の年齢は適齢だと思う。大学の友人も何人かワーキングホリデイで海外生活を送っていた。夏から手続きをし始めて半年経つ。もう少し英語力をつけてからでないと向こうの生活では不自由だろうと思うと英会話の学校にも通いたい。そう思ってはみたものの日々の仕事の忙しさにかまけて勉強はそっちのけだ。最悪向こうに行ってからでも会話くらいは何とかなるのではないか。ここ一,二ヶ月はとにかくこの場所から遠ざかれる大義名分が欲しいという切実な思いがのしてきていた。

 事務所の女性はてきぱきとしていて余計な会話はなくそれでいて居心地の良さを与えられる同性から好感をもたれるタイプの女性だった。麻衣子は秘かにこの女性に憧れをもっている。自分もそんな社会人を志してきたが今の自分は周囲からそう見られているのか、自分ではよくわからない。

「五島さん」品のある声で呼ばれると少し自分の格が上がったようにすら思えてくる。

「はい」

「事前に準備していただく書類の方はこれですべて揃いましたね」こう言うと上村は小さく労いの笑顔をくれた。

「遅くなりましてすみません」

「いえ、恐縮なさらずに。結構必要書類を集めていただくだけでも大変ですから」

黙って頭を下げる。

「こちらとしましては、粛々と準備を進めていきますので、五島さんの方も出国に向けた準備を始めておいてください」

今の仕事が向いていないとか、嫌になったとか、そんなことではない。そう自分には言い聞かせている。

―ただ少し疲れただけだ。

ちょっと休憩が必要。鳥だって長い距離を休みなく飛び続けることはできない。遠い旅路ならばそれなりに止まり木で羽を休めることもしなくてはならない。大学を出て六年間、ずっと教師をしてきた。現場に入って知る現実に志を挫かれそうになりながら、なんとか乗り越え理想と現実に折り合いをつけ子どもたちを育ててきた。ちょっとここらで一呼吸入れたくなったのだ。

―問題は一つ、いつどのタイミングで辞意を申し出るかだ。卒業式では遅すぎるだろう。でも卒業させてみないとわからないこともある。自分の気持ちも少なからず変わるかも知れない。海外に出る。仕事を続ける。両方の選択肢を残して、今は進むしかない。決断が下せるまでは。

「上村さん、ちょっと伺ってもいいですか」麻衣子は遠慮を忍ばせた声で訊いた。緊張で体が強張り、体の芯が熱を帯びる。

「なんでしょう」普段話しかけてこない麻衣子からの質問に上村は目を開いて答えた。

「不躾なこと伺うようですが、おいくつですか。すごく落ち着いて見えるんだけど、お若く見えるので」

「五島さんからそんなこと訊かれるなんて思ってもみませんでした」

 ワーキングホリデーに海外に出かけていく若者は比較的社交的でおしゃべりなのが多く相談をもちかけられることもあると上村は言った。

「でも五島さんはあまりおしゃべりなさいませんでしょ」

「しゃべるのがきらいなわけではないんですけど」

「いつもこちらへ見えるときは、ソファに大人しくすわっていらして手続きを済ませるとお帰りになるものだから」

「上村さんとお話してみたいと前から思っていたんですが、いつもお忙しくされているし・・・・・・今日はわたしが最後みたいですし、少しだけならお話できるかなって」

「そうだったのね。私はあなたより一回りも上です」

「え?」少し年上だとしても二、三歳の差だろうと思っていただけに同世代だと思っていた麻衣子は心底驚いた声を漏らした。

「あら、嬉しいわ」

「信じられません」

「子ども来年高校入学なの」少し誇らしげに見えた上村はいっぺんに母親の顔をした。六時を告げるチャイムが響いた。

「実は相談したいことがありまして、唐突で大変申し訳ないんですが、このあとお時間いただけますか」麻衣子は自分でも思ってもみないことが自分の口から滑るように出てきたことに驚きながらも、さてこれからどこで相談を持ちかけどこまで自分は胸の内を彼女に打ち明けるべきなのか差し迫ったことを考えていた。

「ごめんなさい。今日はすぐに帰宅して夕食をつくらないと。ほんとにごめんなさいね」

「いえ、こちらこそ。そうですよね。急にごめんなさい」頭を下げながら、麻衣子は自分の思わぬ積極性に驚きを隠せなかった。

「せっかく当てにしていただいたのにお断りするのは申し訳ないから、連絡先お教えしておきます」そういって上村は名刺の裏にメールアドレスを書いてよこした。

「ありがとうございます」

麻衣子はぺこりと頭を下げてセンターを出た。

 

 白井綾の父親とは、初めて会うことになる。四月の家庭訪問では仕事に出ていて留守であったため、かわりに綾の祖母と話した。あまり綾のことを把握していないようだったので、核心的な話はできそうにないなと彼女の印象であった。父親はどんな男なのだろう。教室で一人、父親の訪れを待った。四時十五分ちょうどに、父親は訪れた。スリッパを引きずる音を立てて、軽く頭を下げて教室に入ってきた。麻衣子が案内する席に座って改めて挨拶をする。

「今日はお越しくださいましてありがとうございます。担任の五島です」

「白井です。よろしくお願いいたします」

ちらりと上目遣いでこちらの表情を伺うように父親は目を合わせた。その目つきからどこか慇懃な感じが漂ってきた。

「綾さんですが、最近は落ち着いてきたようで、おうちではご様子はどうですか?」穏便な語り口で麻衣子は切り出した。今は落ち着いてきている。今さらことを荒立てるつもりは父親もないだろう。お互いの意識を共有しておきたい。

「学校には随分といいように使われてきたようですからね」父親は目まで隠れるくらい伸ばした髪の毛の向こうからすごむような目で麻衣子を見る。

「はい?」何のことを言われているか、さっぱり分からない。

「小さい頃から、少し発育が早かったんで、先生からはいつも世話役に仕立て上げられたようでね。綾も迷惑していますよ。学級委員だかクラス委員だか知らないが、そういう立場におかれて、友達をまとめたり注意したり、そういう仕事を押し付けられた娘の身にもなってくれ!」声を荒げる父親に麻衣子は、次の言葉が出てこなかった。一人で綾の父親と会うべきではなかったと後悔した。しかし、六年生の担任は卒業準備や成績処理で手の空いている者は誰もおらず、管理職も今日は午後から出張だった。

「ずっと学校で無理をさせられていた。それが今爆発してるんじゃないですか!」マシンガンで撃たれたように麻衣子は身動きが取れない。体が硬直していく。

「そうでしょうか・・・・・・」麻衣子はそう言うのが精一杯だった。

持参したノートには、養護教諭や教頭に語った綾の胸のうちがつぶさに書かれている。一年生の時に亡くなった母親のことが忘れられず、毎年命日が近づくと家で泣いている。どうしてか今年はその気持ちが整理できない。養護教諭たちは、卒業という別れの時を前に母親との惜別の記憶が増幅されているのではないかと分析していた。その後も、父親は娘が学校で追い詰められていると主張し、麻衣子はただ頭を垂れることしか出来ず、無論ノートを開いて綾の気持ちを伝えることなどできなかった。

 父親の帰った後、暗い教室で麻衣子はうな垂れた。

「何でもかんでもこっちのせいにすんなよ・・・・・・」机に突っ伏したまま、ただ時計の針が進む音だけを聞いていた。何とか立ちあがって職員室で支度をして帰らなければ。今自分にある力を全て振り絞ってもそれをする力が残っていない気がした。


 麻衣子は上村は向かい合っていた。上村充子、海外渡航センターの職員である。彼女が案内した紅茶の専門店は馬車道を一本奥に入った路地に面したアンティーク調の門構えの店だった。店員に外光が届きにくい一番奥の席に案内された。茶色い二人がけの丸テーブルは鈍い光を周りに放っている。

「お勧めの一杯があるのだけど、それでいいかしら」

「はい、お願いします」

上村はカウンターまで歩いて行き、注文をつけている。いくつか店員と言葉を交わし、上村は麻衣子の席に戻ってきた。

「行ってみなさい」椅子に座るなり上村は麻衣子にそう語りかけた。

「はい?」麻衣子は上村の目を見る。

「そう言うことにしているの。海外へ出てみるか迷っている人に相談された時には」

「はい」麻衣子は村上の顔を改めて見つめた。光の少ないところでは、やはり年相応に見える。そしてその相応に見せているなにものかがセンターのカウンターで、海外渡航の相談を受けているいつも麻衣子が見ている上村以上に説得力をもたせていることも感じた。

「紅茶飲みましょう。ここのお店の紅茶おいしいわよ」

ほとんど待たないうちに店員が紅茶を運んできた。香りが辺りに広がる。

「おいしい! これなんていう紅茶です?」

「特上級のアッサム」

「こんな香りの豊かな紅茶、飲んだことはなかったです」

「ここのは香りが全然ちがうの」

「イギリスですよね、紅茶って」

「それがここは原産国のインドから直接仕入れているの。だから香りが強いでしょ」

「コーヒーよりも香りがしっかりしている」

「日本で本物のアッサムが飲めるのはここだけ」

「ほんとうですね。こんなおいしい紅茶はじめてです」

「日本じゃ飲めないものが海外でなら飲める。日本じゃ見られないものが他の国からだったら見えるかもしれない」

「たしかに、そうですよね」

「わたしは五島さんどうして海外へ行くのを迷っているか知らない。聞いたって、それはしょせんわたしには理解できないことなの。だからあえて聞こうとは思わない。冷たく聞こえたらごめんなさい」

「いえ、そんなこと」麻衣子は首を左右に振る。テーブルの木目に目を落とす。何本もの茶色の川が、蛇行しながら走っているように見える。

「わたし、この仕事をしていて一番思うことを言ってもいい?」ティーポットから紅茶をカップに注ぎながら上村が話し続けた。

「はい、もちろん」会話の速いテンポに気後れしそうで一口紅茶を口に含んだ。それだけで鼻からアッサムの芳香が心地よく抜ける。喉越しは爽やかで後味は残らない。

「若いってことはそれだけで価値があるってこと。羨んでいるんではないのよ」

上村が誰かを羨むなんて似つかわしくない。麻衣子も彼女の言葉に同意する。

「そういう自分の今や将来に向き合って悩んでいる人と付き合ってみると、それ自体がなんかすごいなって、素直に思う」

「そうですよね。わたしにだってまだいろんな可能性があると思います」素直な気持ちが言えるのはアッサムティーのせいだろうか。

「だいたいここに来る人がする相談は決まってるけど、悩んで悩んで一年間海外で暮らす人もいるし、日本を逃げるように出て行く人もいる。人によってそれぞれよ。でもね、一年間経って戻ってくると、みんな良い顔をしてる」

「そうなんですね」そう言って麻衣子はもう一度紅茶を口にした。温かい蒸気が鼻から抜ける。一口目とは違う落ち着きをくれる。

「失恋、失業、自分へのご褒美、現実逃避。なんだって良いの、理由なんて」

麻衣子は、ふと上村には紅茶が似合うと思った。

麻衣子は、店内を照らすオレンジ色の照明を見上げた。この証明も外国からの輸入品なのだろうか。そう思うと丸い電球が異国の空に昇る太陽のように思えた。外国で見る太陽はどう見えるのだろう。もしかするとその太陽は新しい自分を照らしてくれるかも知れない。今自分が座っている椅子も、紅茶の入っているカップも外国製だろうか。だとすると自分を同じ場所に縛り付けておくこと自体が不自然な気さえしてくる。

「まず、自分が向こうで最初にすることをイメージするの」

上村の声がBGMのように意識に滑り込んだ。麻衣子の脳裏に新しい土地で英語を学んでいる自分の姿が浮かんだ。様々な肌の色をした人達が学ぶ教室で、麻衣子はテキストと辞典を机に重ねて、片言の英語で隣に座った若いブロンズの女性と何かを話している。

「想像するだけで未来は変わるの。想像するのはただでしょ」上村が笑う。麻衣子もつられて笑う。こんなに自然に笑ったのはいつぶりだろうか。

「少し聞いてもいいかしら」

「もちろん」

「あなた、小学校で先生をなさってるのよね?」

「はい」

「大変でしょう? 今の時代の先生は」

「はぁ。正直言って想像と全然違っていてびっくりです」

「きっかけは? 先生になろうとした」

「父が教師だったんです」

「それで」

「ただ、それだけだったような気がします」

「仕事なんてそんなものかもしれないわ」

「あまり深くは考えなかったんです」

「きっとお父さんが先生をなさっていらした頃と今とでは学校をとりまく環境も大違いでしょうしね」

「父にもそう言われます」

「いろいろとご相談はされているのね」

「しょっちゅう話す方ではないのですが、会えば話します」

意識の底のほうから、紡ぎだされてくるような言葉に身を任せるように麻衣子は話した。

「父は校長にもなったので、いろいろな立場からものを見て話してくれますが、それを聞くたびに自分の至らなさというか力不足を実感するようで辛いんです」

「そんなお父さんの背中を見て育ってきたあなたですから、きっと自分に課すものも人よりも大きいんじゃないかしら。それだけ、自分で自分にプレッシャーをかけているのかも」

「いえ、そんなつもりはないんですけど」

自分は自分にプレッシャーをかけているのだろうか。麻衣子は自問する。教師として目指すべき理想像が美しすぎるのだろうか。否、麻衣子は首を振る。理想像なんか今は描けない。だからこれでよかったのかと迷っているのだ。

「先ほどのお話ですが、どうしてみなさん、良い顔をして戻ってくるんでしょう」

「そうね。私には自分の生かし方を見つけて戻ってくるように見えるわ」

「自分の生かし方ですか」

麻衣子には上村と時間と空間を共にしている今が、とても失いがたいものに感じた。自分の生かし方という言葉を、幾度も紅茶とともに飲み込んだ。


 自分のクラスの子どもの名前を間違わずに呼ぶということがこれほど難しいと思えてしまうのが卒業式なのか。雨粒が屋根を叩く音にBGMのカノンが合わさる。麻衣子はパイプ椅子に腰かけて手の甲を見た。幅五〇㎝の板の上を歩くのは簡単だが、それが地上一〇〇mの高さに掛けられた橋であれば話は別だという、どこかで聞いた話を思い出した。下に大地という安全を保障するものがあれば難なく渡れるものを、失敗したときには命を失うという事実が状況を一変してしまう。教室では何気なく呼べる名前も、失敗したら一大事、という状況では想像を絶するほど難しくなる。呼名ひとつとってもそうなのだから六年生の担任が卒業式で気を配らなければならないことは山ほどある。式中に涙するなんてことはまずない。もしそんな教師がいたら現場を預かる責任者として失格の烙印を押されかねない雰囲気さえ漂っている。もちろん麻衣子も卒業式を終え、子ども達を卒業生として校門から送り出したところで感動の涙の波に呑み込まれることなど想像できないのだから重圧だけが涙を抑える唯一の要素ではないのだが。今の麻衣子は重圧から一刻も早く解き放たれたいと求める素直な心情を認めるしかなかった。

 一組の児童が卒業証書を受取った。雨脚はさらに強まり、BGMはほとんど聞こえなくなってきた。雨粒が硬い鉄板を叩く音も決して悪くない気がしてきた。何より、今日であの忌まわしい日々が終ると思うと、自分にとっては全ての音は福音なのかもしれない。そう麻衣子は思った。教師達が座る出入口近くの席からステージ方向の対角線上に麻衣子の四組の子どもたちの席がある。教師席の目の前にグランドピアノが生徒たちへ向けた視線を遮るようにして置いてある。パイプ椅子に座る自分のクラスの子どもたちを見ようと背筋を目一杯伸ばしても目の届かないところに彼らが座っている。背筋を伸ばしているか、やはり気になる。見える範囲のわずかな子達は総じて神妙に姿勢を正して座っている。あれだけ好き勝手悪さをしていた男子児童たちも、考えてみればまだ子どもだ。皆あどけない顔をしている。

三組の児童が呼ばれ始めた。次が四組だ。麻衣子は腕時計に目を落とす。あと一時間もしないうちに式が終る。ここへ来ても何の感慨も名残惜しさもない。淡々と名前を読み上げるまでだ。

「四組」

 雨音に包まれた物音一つしない大きな箱の中に自分の声が少し遅れて響く。

「相川めぐみ」

 元気な返事が聞こえた。胸を撫で下ろす。これを三十二回繰り返せば終るのだ。

 呼名に慣れてきた麻衣子は名簿を後ろ手に持ち、一人ひとり歩み出る子どもの顔を見ることにした。

「田沢翔」

「はい!」

よく体育館中に届く透き通った声だった。その声が麻衣子の胸に滑り込んだ。次の田辺ゆめ子を呼ぶのが一瞬遅れただろうか。麻衣子は我に返った。田沢翔に揺すられた感情を建て直し、呼名を続けた。

 席につく。田辺の前で少し間が空いたのは誰にも気づかれていない様だ。

五組の卒業証書授与が続いているのを聞きながら、麻衣子は溢れてくる涙を堪えることができなかった。

―ごめんね、翔・・・・・・

 田沢翔。良くも悪くも目立つ子ではない。時々クラスを荒らす数名の男子の中に加わることはあった。麻衣子を悩ませる“主犯”ではなかった。

―先生、一度も褒めてあげてなかったね。あんなきれいな返事ができるようになってたんだね。

教師とは、“良い子”には信頼の眼差しと感謝の言葉を与え、“悪い子”には、警戒の目と褒賞の言葉を与えるものだ。田沢翔は、“良い子”にも“悪い子”にも、どちらにも色づけされない無色な子だった。麻衣子の意識の網からこぼれていた子だった。六組全員の授与が終るまで、麻衣子の涙は止まらなかった。

 卒業式が終わり、教室に子どもたちとともに戻る。これが子の子達と過ごす最後の教室だ。さすがに感じ入るものがある。何度となく途方に暮れたこの教室も子どもたちがいなくなれば、単なる一つの箱に戻る。麻衣子は、用意しておいた言葉を教卓の前に立って読み始めた。子どもたちへの思いを正直に言葉にしてみた。最初はざわついていた教室も、気がつくと音もなく静まっていた。

 最後のさよならをして、子ども達が保護者とともに教室を後にする。麻衣子は教室の扉の前に立って一人ひとりと挨拶をした。ハイタッチをするもの、礼儀正しく頭を垂れるもの、手紙を渡すもの、それぞれの別れ方がある。

「翔くん、いい返事だったよ」

「おぅ」虚を突かれた翔だったが少し遅れて表情がほころぶ。子どもは子ども。褒められれば嬉しいのだ。実は褒める方はもっと嬉しい。麻衣子は改めて発見した。

教室に残って壁に貼られた掲示物を眺めていた綾は、最後に麻衣子の前に来た。小さく折りたたんだ手紙を隠すように麻衣子に渡す。

「せんせい、ありがと・・・・・・」

「こちらこそ、ありがとう。中学でもがんばってね」この子は、どこまで知っているのだろう。父親のこと、死別した母親のこと。そして担任として苦しんでいた私のこと。麻衣子は優等生としての仮面で押し隠している彼女の胸の内が、読めずにいた。ずっと分からず仕舞いだと諦めていた。

「いろいろと私がいたから大変だったでしょ」

めがねの奥の瞳が潤んでいる。

「そんなことないよ」麻衣子も教師として続けるべき言葉があるのは分かっている。何か彼女の贖罪の思いを打ち消す言葉を語らなければならない。しかし自分の口はそれを語るには未熟すぎる。彼女の前では自分の言葉は軽すぎる。自分が思っている以上にいろいろなことを綾が理解していることを今の今まで知り得なかったのだ。

「ほんと、ごめん、せんせい」

「そんなことない、ほんとにそんなことないよ・・・・・・」それ以上言葉が出てこない。

 気がつくと泣きじゃくる綾を麻衣子はただ抱きしめていた。


 卒業式の翌日から教室の掃除を始めた。余韻に浸る気にはなれなかった。まだ麻衣子の心は自身の進路を決めかねていたからだ。卒業生を送り出せば、結論の糸口らしきものを手にする自分を想像していた。この仕事に自分は向いているのかどうか。この仕事を自分が本当にやり抜けるのだろうか。そんな問のヒントくらいは見えてくるのではないか。そんな淡い期待にすがり付いて昨日までやってきた。

しかし、卒業式を終えた今、迷いは増すようにさえ思える。やり終えたという充足感がある。でもやれなかった事も見つけてしまった。煮え切らない宙ぶらりんな気持ちが振り子のように大きく左右に揺れている。

すっかり空き箱になった教室を廊下から眺めた。誰もいなくなると、萎れたようになって急に小さく思える。靴隠しがあった頃は、早朝から泣きながら教室に来ていた。子どもが来る八時までに必死で涙を拭き平静を装った。子どもの足音と歓声が上がってくるのを恐怖に似た気持ちで待っていた。そんな自分がこれから先も教師を続けて行けるのだろうか。続けていける自信がないのなら、せっかく手に入れた海外での生活をするチャンスを手放したくない。

一年間という時の流れの不思議を思う。過ぎてしまえばあっという間だったともいえるが、一日一日がとてつもなく永い時間に感じられもした。出口のないトンネルを両足に重石をつけて進んでいくような毎日もあった。

―でも全てが終った。今、この瞬間をもって。


「まいちゃん何年目だっけ?」

校長の大谷から呼び出されたのは卒業式の三日後だった。来年度の人事についての話が少しずつ聞こえてくる頃だ。大方その話だろうことは予測が立つ。

「えっと、今年で三年目だったんで、四月からは四年目ですが」

「そっか。それなら、臨任から数えるとどれくらい?」

大谷は満面の笑みを浮かべている。こちらも自然と笑い皺をつくってしまう。何か良い話であればいいが。

「三年間臨任をしたんで、七年ですね」

大谷のほくそ笑んだ顔に嫌な予感が音もなく湧いてくる。

「えっ何ですか? 主任とかはまだ無理ですよ」一昨年度同世代の男性教師が主任をしたが、主任たる重責を果たすことなく一年間終った。それ以降、その教師の株は著しく落ち、再度主任に抜擢されることはないだろうともっぱらの評判である。主任とは怖いポストなのである。

「ちがうの」

大谷の言葉に一瞬胸を撫で下ろしたが、背中に薄っすらと汗が滲んだ。気温のせいではなかろう。少しずつ広い範囲に汗は広がっていく。嫌な予感はまだ収まるところを知らない。

「今年も初任が三人来るのよ」

まさか初任者研修の指導教官か?

「いやー無理ですよ」

そう言いながら、笑い飛ばそうとする。乾いたいつもの笑い声は出ず、次第に麻衣子の声は響かずに校長室の壁に吸い込まれる。大谷の顔は一転して真剣だ。

「今年はいろいろあったけど、よく最後まで乗り切ったじゃない」

大谷の顔色は相変わらずで、その眼差しからは目を逸らせそうもない。

「いたく感心しちゃった。初めての六年生でしょ? やんちゃな男子がいるクラスだったし、綾ちゃんのことも本当に大変だったでしょ。卒業式の子どもたちったらすごくいい顔していたもの。途中バタバタしていてもね。あの子たちも卒業して何年かしたら、先生に感謝するし、謝りたくもなるわ」

「そうですかね。そうだと嬉しいんですけど」

「そんなものよ、子どもなんて。悪いことしたり、大人を困らせて始めて自分に気づく子もいるの。とくに男の子はそうよ。そしてね、担任が教壇にしっかり立っているところを子どもっていうのはよーく見ているものなの。担任が逃げ出したらすぐに子どもはバラバラになるし、クラスが荒れるわ。でもあなたは逃げなかったじゃない。朝から六時間目まで、教室にいたし、子どもたちの前に立ち続けたわ。今年一年で随分逞しくなったんじゃない」

「いえ、わたし、自分としてはぜんぜん・・・・・・」

声が詰まった。封印していたはずの今までの心の痛みや辛さを体中の細胞一つ一つが思い出しているようだ。卒業式が終わって三日。まだその火照りを体が覚えている。授業中さわがしくなった数名の子を、声を荒げて怒鳴る。なんで話を聞かないの? どうして黙って座っていられないの? どうして私の嫌がることをするの? 苛立ちや抗議の思いや、やり場のない無力感に日々溺れかけていた日々。そんな中でも、確かに多くの子どもたちが自分の話に耳を傾けていた。一人ひとりの目を思い出した。そうだった。

「確かに苦しくて全てを投げ出しそうになった時も、たくさんの子たちがわたしを見ていてくれました」

「そうだったでしょ。それはあなたがその子たちに頼られていた証拠よ」

「はい」

「ハンカチ、わたしのも使って」

大谷がポケットからハンカチを取り出す。

「いえ、だいじょうぶです」

大谷の顔が滲む、あまり直視していられない。

「ほら、一枚じゃ足りないじゃない」

仕方なくハンカチを受取る。

「すみません、洗って返します」

滲んだ大谷の目が一層細くなった。

「苦労した人って、必ず報われるのよ。いやそれ以上のものが身につくし、強くなれる。人にだってやさしくなれるものなの」

「・・・・・・はい」

「だからね、そういう場面を乗り切った人に後輩を育ててもらわないと困るの」

「自信ないです・・・・・・」

「謙虚でよろしい!」

「ほんとに、わたしなんか・・・・・・」

「謙虚だから人は伸びるの。今伸びている人に教えてもらうと、その人も伸びると私は思ってる。だからまいちゃん、あなたに引き受けてもらわないとコーチョー困っちゃう!」大谷は、笑ってしなをつくる。

大谷の有無を言わせない物言いに、麻衣子は初任の指導教官を引き受けてた。卒業生を送り出したという解放感がそうさせたのだろうか。もしかするとそれ以上に大谷が自分の苦労を理解し、その経験を評価してくれたことが嬉しかったのかも知れない。人間自分を評価した人には逆らいにくい。

 職員室に戻ると、麻衣子のはれぼったくなった目元に気づいた小野原が真っ先に声をかけてきた。

「どーしたんですか?」相変わらずこの人はのどかだ。天使か、シスターか。それとも。

「ちょっと今日は花粉症がきつくて」

今日は二時間有給をとって早く帰ることにした。職場にいたくないと思ったわけではない。今の気持ちを誰にも邪魔されたくなかっただけだ。一週間もすれば、また悩みの多く忙しない日々がやってくる。こんな晴れやかな気分に浸れる日はしばらくやってこないのだ。

駐輪場の奥に置いてある自転車を動かしながら麻衣子は校長室で見せられた初任者の履歴書を思い出していた。

「これが、来年度の初任者さんたち」

「・・・・・・」

「女の子一人に、男の子二人」

「いいんですか、こんなのわたしが見ちゃって」

「特別よ。他の人にはないしょ」

「この社会人経験五年で、今年二八歳の彼」

「めっちゃイケメン!」

「この人の初任研担当をお願いって言ったら断れる?」

 

赤信号でひっかかることが多い横断歩道。今日は青だ。そのまま坂を下る。いつもなら暗くなってから通る道。そして下りきる前に思わずブレーキをかける坂。今日はいつもの景色とぜんぜん違う。そしていつもの自分と少し違う。春の光に満ちた空気の中を、坂を降りてきた勢いそのままに、麻衣子は自転車を走らせた。髪の毛を風に梳かせる。視界の隅に開きかけたいくつかの桜の蕾が、何か言いたげに開きかけていた。


 拝啓 

村上充子様 

ご無沙汰しております。

ずっと悩み続けて保留にしていた、わたしのワーキングホリデイ計画でしたが、今日をもって一旦中止することに致しました。上村さんに伺ったような海外での生活を夢見ていたわたしでした。海外で自分の目にしたことのない物、会ったことのない人々、様々な物事に出会ってみたい。そう思っていました。いえ、正直言って今もそういう思いが消えたわけではありません。でも、もう少しわたしはここ日本でやってみようという気になったのです。今はその自分の素直な気持ちに正直でいたいのです。

そしてもう少し、日本でやってみて、また改めて他の場所での未知の経験に心惹かれるようであれば、その時また改めて考えてみようと思います。

その時は、ぜひよろしくお願いいたします。

                  草々

                                        五島麻衣子


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