『名前』.4
自分たちの会話って、思ったより曖昧なんだなぁ、と思い知らされる今日このごろです。
前髪の具合を確かめることで、聖名の指先は十分前から大忙しだった。
正面から見たとき、斜めから見たとき、横から見たとき…。
どうにもこうにも納得できる感じにならないぞ、と気にし続けているうちに、すでに待ち合わせ時刻の寸前まで時は流れていた。
(もうちょっとだ…)
改めて、ショーウィンドウに映る自分の姿をチェックする。
リボンの付いた白のブラウスに、チェックのハイウェストのスカート。その下には、黒のタイツ。
少しでも自分のことを可愛いと思ってもらえたら…そう思って、家の鏡の前で一人舞踏会を開くこと一時間。
それだけの時間を注いで作り上げられた今日の自分でも、納得できる仕上がりではなかった。
ルックスには人並みに気を遣っていた。そうして磨き上げられた自分を鏡で見ると、気分が上がった。
しかし、今日はどうだろう?
どれだけ考えを巡らせても、不安の影は消えてくれない。
「…はぁ」
情けのない自分のため息を耳にした聖名は、こんなことではいけない、と意識して背筋を伸ばして、ガラスの中の自分を見つめた。
(大丈夫、人並みには可愛いはずだよ。うん)
きゅっ、と気合を入れると同時に固く結ばれる唇。
それから数秒後、その唇が、小さく開かれることとなった。
ガラスに映る自分の向こう側に、ぴんと伸びたスマートなシルエットが見えた。
洗練された影は、一度、ショッピングモールの中央にある噴水広場で静止した。やがて、影は周囲を見渡すと、ぴたり、と自分のほうで顔の向きを止めてから、ゆっくりとした足取りで近寄り始めた。
みるみるうちに確かな輪郭と色彩をまといだした影が、呆気に取られている聖名の後ろまで来て、止まる。
「…蛍川、さんだよね?」
自分でも驚くほどに緩慢な動きで、聖名は背後から声をかけてきた相手の顔を振り返った。
灰色のロングコートに、黒のベスト、その下には白のワイシャツ。足回りはシンプルな黒のジーパンに、ブラウンのショートブーツ。肩には噂の一眼レフ。
普段は適当に散らしている長髪はひとまとめに結い上げられ、櫛やらヘアアイロンやらを当てたのか、サラサラと秋風に揺れていた。
およそ、普段の無骨な感じからは程遠い印象の大月静海が、聖名の前に立っていた。
この予想だにしない変わり身に、聖名は声も出せずに口をパクパクとさせて、冷静さを取り戻そうとするばかりだった。
「…学校で見るときと、なんだか印象が違うね」
その言葉、そのままそっくり返します、とアンニュイな瞳をしている静海へと心のなかで唱える。
ややあって、静海は聖名が言葉に詰まっていることを悟ると、「少し、待とうか」と呟き、ショーウィンドウに立つ聖名の隣へと移動し、彼女と同じように広間のほうへと体を向けて並んだ。
道行く人が、聖名と静海をちらりと盗み見ていた。
聖名は静海が注目を集めているとばかり思っていたが、彼女だって中性的な静海と並ぶことでいっそう愛らしく人々の目には映っていた。
聖名は少しばかり落ち着きを取り戻すと、オイルが切れかけている機械そっくりの動きで静海の横顔を見やる。
孤狼の如き鋭い目つきは健在だが、およそ学生らしくないファッションが、静海をまた別の生き物に変えていた。
この変わりようでは、おそらく、外ですれ違ってもクラスメイトたちは気づくこともあるまい。
「か、かっこよすぎでしょ、大月さん…」
「え?なにが?」
「いや、なにが、じゃなくて」今日ばかりは、きょとん顔が小憎たらしい。「学校で会うときの印象と違いすぎるのは、私じゃなくて大月さんのほうだよ。び、びっくりしたんだから…!」
「ん…ああ…そうかな」
「うわぁ、無自覚?」
「まあ、いつもこうだし。蛍川さんだって、学校じゃそんなリボンのついたブラウス着ないでしょ?」
「そ、それは確かに校則通りのものだけど…でも、髪も、ほら…」
「うん」不意に、静海が口元を綻ばせる。「このほうが、色々とよく見えるから」
いつもはセットされていない髪で隠れてしまっている、造形が整った静海の顔でその笑顔をされると、どうにも胸がじゅくじゅくと痛む。
嫌な痛みではない。今すぐにでも叫び出したいような、飛びつきたいような、甘く、青い痛みだ。
「…学校でも、そんなふうにしたらモテるよ、絶対」
口にしてから、しまった、と聖名は後悔した。
そんなことを言って、静海が実際に髪型を変えて通学しようものなら、間違いなく、彼女の隣を自分が独占することはできなくなる。
しかし…。
「モテてどうするの?」
「どうするのって、えっと、ちやほやされたら、嬉しくないかな?」
自分で言いながら、果たしてそうだろうか、と疑問を抱く。すると、その小さな疑問を吹き飛ばすみたいに、静海が鼻を鳴らした。
「ふん、興味ないね」
すうっと、胸が晴れやかになるような感覚。
普通、思っても口にはしないだろう――というのを口にできる静海のことを、聖名はやっぱり好ましく思った。静海の生まれ持った特性がそうさせるのかもしれないが、そんなことは良い意味で自分には関係がなかった。
「言ったでしょ、私、人には興味ないって」
「でも、嫌いなわけじゃないんだよね」
「そうだよ」
「えっと、前に言ってたことと矛盾してないかな?」
少し踏み込んで尋ねてみれば、静海は少し真剣に考え込む素振りを見せた。
「確かに。うん、訂正するね。私、人間関係にはあんまり興味がない」
ニュアンスの違いに過ぎない気もしたが、きっと、静海にとっては大事な違いなのだ。
ただ、それを言われると気になってしまうこともあって…。
「あのぉ…」
聖名が俯き、自分の親指の爪を繰り返し擦りながら言う。
「私も、人間で、私と大月さんの関係も、人間関係なのですがぁ…」
ちらり、と盗み見た静海の顔は無表情だ。しかし、顔は真っ直ぐこちらを向いている。これもお願いすることで、少しずつやってくれるようになったことだ。
「それも言った。私も蛍川さんのことには興味があるし、友だちになりたいって言ってくれた蛍川さんとは、もっと、つながりを深めていきたいって思う」
興味がある、もっとつながりを深めたい。
それらの言葉が、どれだけ強く聖名の心を打ったことだろう。
凪いだ海のような静けさが広がる彼女の黒曜石にじっと見つめられると、不思議と静海も自分と同じ気持ちなのではないかと思えてくる。
(そんなはずないよね…――いや、でも、もしかしたら…)
聖名は、一縷の希望を託して…でも、自分は傷つかないように相手の気持ちを確かめようとする。
「そ、そんなこと言われると、勘違いしちゃうよ…?」
依然として、静海の瞳は静かなままだ。
「あ、その、嫌とかじゃなくて…」
ちらり、と横目で静海の様子を確認。数秒前から、何も変わっていない。
もどかしくなった聖名は、もう少し踏み込もうと決めた。
「き、期待しちゃう…から…その…」
どうだ、ともう一度、確認。
静海は小首を傾げている。
いかんともしがたい沈黙が流れる。
自分でも驚く大胆さに、頬が熱くなる。しかし、静海の反応を待つ間に流れる鼓動の声は、それ以上に熱くたぎり、青い希望で一色に染まっていた。
ようやく、静海に動きがあった。
彼女は体をこちらに向けると、一歩、近づいた。
手を伸ばせば、容易に触れられる距離。
普通の友人では、あまり考えられない距離。
端正で、孤独な顔が近づく。
この何者にも媚を売らない、誇り高き狼のような雰囲気が聖名は大好きだった。
少しずつ、静海の唇が開かれ、美しき一音、一音を、賛美されるべき麗らかな言葉を紡いでいく。
「蛍川さん」
透き通るような響き。至高の管楽器でさえ、この音は出せない。
「は、はい…」
うっとりと相手の瞳を見上げる聖名は、今か今かと静海の次の言葉を心待ちにしていた。
「待てば、いいんだよね?」
「え?」
その結果が、これだ。
「言葉、変なところで途切れてるから。いつもみたいに考え中、なんだよね?」
「…い、いや、その…」
「違うの?」
いや、違うだろう、と少しだけ責める気持ちを込めて視線を送るも、静海はきょとんとした顔になったきり、動かない。それでは埒が明かないため、不服さを全開にしつつ、聖名は何度か頷いた。
すると、静海はこてん、と首を倒し、淡白に言ってのける。
「そっか。じゃあ、蛍川さんの言ってること、意味分からないよ」
首を反対に倒し、「もう少し、具体的に言ってもらえる?」と頼んでくる静海に、聖名はかあっと熱くなるものが全身から込み上げてくるのを感じつつ、静海を恨めしそうに睨みつけるのだった。
聖名は、自分が『発達障害』というものを甘く見ていたことを今さらながらに思い知らされた。
こうまで言外の意図が伝わらない――ありていに言うと、『空気が読めない』とは想像もしていなかったのだ。
それは、ショッピングモールの中を歩いて回るときだって例外ではなかった。
歩く速度が速くて、何度も置いて行かれそうになるし。
少し休憩したいと申し出ると、「私は外で写真を撮ってくる」と言い出すし。
そろそろ昼食にしようと思って、お腹は空いていないか尋ねたら、「私は別に」とだけ言うし…。おかげでお腹が鳴って、恥ずかしい思いをさせられたところだった。
「お腹空いたの?」
「…大月さん、デリカシー」
じっとりとした目で睨むも、真っすぐ見返される。そうして静海が、「私の苦手なやつ」と小声で呟くものだから、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね、大月さん。でも、私も、お腹が鳴って恥ずかしかったの…」
「なんで恥ずかしいの?」
「恥ずかしいでしょ!」
ちょっと強めに言い返すと、静海は不思議そうに尋ねてくる。
「なんで?」
「なんでって…」そう聞かれると、ちゃんと理由を説明できない自分がいることに、聖名はふと気づく。「なんでだろ…。お腹空いてるって思われるのが、恥ずかしいのかな」
「それは恥ずかしいことじゃない。むしろ、健康的でいいことだよ」
「ふふ、なにそれ。確かにそうだけど」
真面目腐った調子でそう言う静海に、聖名は段々とむくれていることが馬鹿らしくなってきて、笑顔をこぼした。
その後も静海は、お腹が鳴るのは決して恥ずかしいことではないのだと議論を続けようとしたので、「余計に恥ずかしくなるよ」と聖名は話を区切って昼食にありつくことにした。
あまりお腹は空いていないということだったので、軽食に留めようかと静海に提案したところ、彼女はデリカシーのないことに、「お腹が鳴るくらい、空腹なんだよね?」と尋ねてきた。
憎らしいきょとん顔をつねりたくなったが、さすがにそんな勇気はない。それに、空腹なのは事実なので、聖名は喫茶店ではなく、その隣の洋食屋に静海と共に入った。
空いているお席にどうぞ、と案内され、どこに座ろうかと考えていると、静海が真っ直ぐに一番窓際の席へと向かった。
置いて行かれそうだったので、小走りになって追いかけたが、静海は席に着くや否や、すぐに窓の外をじっと眺めた。
脇目も振らない行動に、驚きと不満を覚えつつ、小走りで追いつく。
「大月さん」
「なに?」
「こっち向いて」
「あ、うん」と視線がこちらに向けられる。それはそれで、気恥ずかしい気持ちになってしまう。
「また、お願いしたいことあるんだけど…いい?」
「いいかどうかは、内容による」
それはそうだけど、と唇を尖らせるも、こんな話をしても、きっと意味はないのだろうと思い直し、聖名はお願いを口にする。
「こういうときもだけど、歩いてるときとかに私を置いていかないで?」
なんで返しがくると予想し、理由の説明をどうしようと考えていた聖名だったが、意外なことに、静海は黙ったまま硬直し、ややあって、頷いてみせた。
肩透かしを食らったものの、静海がお願いを聞いてくれたことを嬉しく思い、注文に移る。
頼んだのはオムライス。静海はコーヒーだけだったので申し訳なかったが、彼女がそれでいいのなら、口を出すべきではないのだろう。
すぐにオムライスが運ばれてくる。また腹の虫が鳴ってしまう前に、急いで手を合わせて昼食にありつく。
口の中に広がる、甘い卵の風味とケチャップの旨味。
満たされていく空腹に、思わずぺろりと唇を舐めた瞬間、パシャッ、とシャッターが切られる音が聞こえた。
驚いて目を丸くすれば、正面には、カメラを構えた静海の姿。
「えぇ!?今撮るの?」
「うぅん。一応、撮ってみたんだけど…」不穏な語尾だった。「面白いけど、なんか違うね。蛍川さんでも駄目かも。意味ないみたい」
意味がない。
その言葉は、聖名を谷底に突き落とすのに十分すぎるものだった。
次回の更新は火曜日になります。
お目通し頂いている方、本当にありがとうございます。