『名前』.1
これより2章が始まります。
少しでも楽しんで頂けると幸いです!
『ASD(自閉症スペクトラム)とは、『人との関わりが苦手』『こだわりがある』といった特性のある障害です。コミュニケーション面について、その苦手が多岐に分かれており、①他者の意図理解が苦手で、俗に言う『空気が読めない』状態になりやすい。②共感性が乏しく、定型発達の方が一般的に感じるような共感を覚えにくい、などがある』。
いつもの朝なのに、いつも通りではない朝、聖名は椅子に座って母が朝食を作ってくれるのを待ちながら、携帯の画面を食い入るように見つめていた。
静海が見せた自虐的というか、拒絶的というべき態度に相応のショックを受けていた聖名は、朝起きてから、寝不足の頭でその障害について調べてみていた。
ASDは、簡単に言うとコミュニケーション面での困りごとが表に出やすい障害で、先天的なもの、つまり、生まれ持った障害のようだった。
「はぁ…」と聖名はため息を吐く。
静海が、突如として『障害者』になったことに聖名は強い違和感を覚えていた。
(言われなきゃ、分からないよ…。そりゃあ、まぁ、変な人ではあるよ?間違いなく。でも…あんなの個性的なだけで、私と同じじゃないのかな…)
考えても、パッとした答えは出ない。
外からは小鳥たちのハミングが聞こえ、開かれたカーテンの隙間からは、朝の穏やかな光が差し込んでいる。
絵に描いたような理想的な朝だ。だが、それは見た目だけの話で、聖名の心には分厚い雲がかかっていた。
――ほらね?私たちは、『知っていることしか知らない』んだよ。
静海が言い放った言葉を思い出し、ますます気分は落ち込む。知ってすらいない自分に、どうしようもないのに自己嫌悪が募った。
「はあぁ…」
聖名が先ほどより大きなため息を吐き、机にだらりと突っ伏したところで、美味しそうな匂いと共にコーンスープとおにぎりが並べられた。
「どうしたの、聖名。朝からお手伝いもしないなんて、珍しい」
「あー…ごめんね、お母さん」
「いいのよ。何かあったんでしょう?」
手伝いをしなかったことを咎めるのではなく、自分の様子が普段とは違うことを最優先に気にかけてくれる優しい母に、聖名はつい嬉しくなって、がばっ、と身を起こした。
「そうなの、ねえ、聞いてくれる?」
「どうぞ。ご飯が冷めないうちで、遅刻しない時間までならね」
柔和な微笑に、聖名も笑顔を浮かべて頷く。
『親ガチャ』という不謹慎な言葉があるらしいが、仮にそんなものが本当にあるとしたら、間違いなく自分は大当たりだ、と聖名は自信を持って答えられる人間だった。
家は両親共働きで、決して裕福ではない家庭だ。しかし、お金が幸福の全てではないと聖名はこの歳から身をもって知っている。
聖名は昨日あったことを母に赤裸々に話した。
母は、発達障害や自閉症という言葉には多少の聞き覚えがあるようだったが、ASDだ、自閉症スペクトラムだ、という段階にくると小難しい顔をして聞いていた。
一通りの話を終えれば、母は思案げに口元へと手を寄せていた。それから、数秒もすると、どこか含みのある微笑と共に口を開く。
「貴方は、その子と仲良くなりたいのね」
「え?」つい、声が裏返る。「い、いや、そうだけど…え、なに。なに、その顔」
「いえ、別に」
「別にって、絶対にそんな顔してないじゃん!」
「いいのよ、そんなことは」ふっと、母が目を閉じ、口元を歪めた。「今、目の前にある問題に比べたら、本当に些細なことよ」
急に全てを理解したみたいな顔で聖名の前に腰を下ろした彼女の母は、目を細めてコーヒーの香りを堪能していた。そして、一口つけてから、むくれた顔をしている自分の娘に本題に戻るよう促した。
「まあ、仲良くなりたいのは事実」
「ええ、それでどこが気に入ったの?」
「えっとね、大月さんは格好良いの。すらっとしてて、モデルみたいで…。一人でいたって堂々としてるし、自分の意見も臆さないで言えちゃう。それから…」
そこで聖名は、ハッと言葉を止めた。
自分が続けようとしている言葉を耳にしたら、母がどんな顔をするかなんとなく予測できてしまったからだ。
「それから?」
さすがは自分の半分を構成している人間。すでに先の先を読み、にやけ面を浮かべてそう尋ねてきた。
ややあって、逃げ道はないことを悟ると、聖名は頬を赤らめ、頬杖をついて横を向いてから呟く。
「それから…あのね、瞳が綺麗なの。みんなみたいに携帯の画面を見つめてるんじゃなくて、ずっと景色を見てて…それが、映ってて…」
「ふふ、そう」
訳知り顔で笑う母に、聖名は心のうちで、『ああ、もう』と毒づく。
「貴方がその大月さんと仲良くなりたがっているのは分かったわ。それで、何が問題になっているの?」
「だから、その、大月さん、障害者で――」
「障害者であることが問題なの?」
間髪入れずに返してくる。
こういうときの母は、少しだけ怖い。まるで世の中のこと全てを知り尽くしていて、間違っているものを踏み潰そうとしているみたいだからだ。
もちろん、母はそんな人間じゃない。自分と同じように間の抜けたことをする父に対し、かなり寛容であるばかりか、それを楽しんでいるようにも見える。
…そう、厳しく教え諭そうとしているという感覚が一番強いかもしれない。だとしたら、不安でも自分の気持ちを口にしたほうがいい。
「ううん、そこは多分、問題じゃないよ」
「どうして?」
「だって、障害者かどうかなんて、言われなきゃ分からなかったもん。そうやって大月さんに別の名前がついちゃっただけで、取り返しがつかないほど何かが変わるとは思えないんだよね」
「よろしい」と母は笑った。「じゃあ、改めて。何が問題なの?」
聖名は熟考するべく目を閉じた。そして、一分ほどたっぷり考えてから、ゆっくりと答える。
「きっと、大月さんのことを何も『知らないこと』が問題なんだと思う。っていうか、嫌なんだろうなぁ」
「そう、無知であることが嫌なのね」
「うん?うん…」
「なら、どうするべきか…答えは簡単でしょう?」
聖名は短く頷いた。小難しい部分はあったが、母が言いたいことの核心は十分理解できた。
いつだって頭のなかを整理してくれる母に感謝しつつ、きゅっと唇を固く結ぶ。
そうだ。自分は何を迷っていたのだろう。
『知っていることしか知らない』のであれば、『知っていること』にしてしまえば、何の問題もないではないか。
ガタン、と母が椅子から腰を上げ、それから、時計のほうへと視線を投げた。
「時間よ。ご飯を済ませて、お行きなさい、聖名」
電車の時間が近づいている。
大月静海に会えるその時間が、今日はいつもとは違う意味でドキドキしていた。
電車に乗り込めば、すでにいつもの位置に静海はいた。ただ、少しだけ違ったことがあった。いつもは窓の外ばかり見ている静海の目が、ちらり、と後ろから乗車してきた聖名を捉えたことだ。
目が合い、不安から逃げ出しそうになるが、ぐっとこらえて、ただ相手を見つめ返す。驚いたことに、静海のほうがすっと目を逸らした。
「おはよう、大月さん」
近寄り、声をかける。ちょっと、真剣な声なんて出してみた。
静海は少しだけ目を細めると、数秒してから、「おはよう」とこちらを見ることもなく返事をした。
拒絶的な印象にきゅっと心臓が縮むも、すぐに自分なりに調べてみたASDの知識を総動員し、『これは、悪意があってのことじゃない』と考え直す。
誰もが自分と同じ感覚、ルールを持って生きていると今まで考えていたことのほうが傲慢だったのだ。静海に近づく以上、それを忘れてはならない。
「昨日言われたこと――」
「忘れて」本題に入ろうとしたら、一瞬で言葉を遮られてしまった。「…あんなこと、言うつもりじゃなかった。忘れて」
静海の表情が明らかな苦悶に歪み、後ろを流れる刹那的な背景と合わさって、とても切ないもののように感じられた。
昨日あったことを、理由は分からないが、静海はなかったことにしようとしている。
自分の気持ちを率直に口に出すことが苦手な聖名からすると、それはとてももったいないことのように思えた。なぜなら、昨日の言葉こそ、静海と周囲を隔絶している本当の気持ちのように思えたからだ。
とはいえ、忘れてあげることはできない。ここで引き下がれば、静海ときちんと仲良くなる機会を失う。
聖名は相手の言い分を無視して、もう一歩近づいた。体が触れるか触れないかといったギリギリの距離だ。
「昨日、大月さんに言われたこと、私なりに考えたり、調べてみたよ」
「え?」
「それでね、私なりに思ったことがあるんだけど…やっぱり、私は大月さんの苦労は分からない。想像はできるけど、それで共感できるわけじゃないもんね」
ちょっとだけ声が大きくなってしまったせいで、周囲の乗客からの視線を浴びる。恥ずかしくなったが、静海が聞く態勢に入ったことが分かったので、構わず話を続ける。
「だからね、私、大月さんのことを知りたい」
「私のことを?」
「うん。知っていることしか知らないのが問題になるなら、大月さんのことも、知っていることにしてしまえばいいと思うから」
事前に考えていたこともあって、聖名はきちんと自分の気持ちを言語化することができていた。
言葉が心を宿し、瞬きと共に踊る。
静海は驚いた様子で目をぱちぱちとさせていた。
やがて、静海は視線を右往左往させると、最終的にドアにもたれかかり、窓の外を見つめながら聖名にこう言った。
「私は、自分の気持ちを言葉にするのが得意だ」
脈絡のない一言。しかし、何か大きな意味があるのだと、聖名には十分察することができた。
「――だけど、なぜだろう。今、自分がどんな気持ちなのか…言葉にできない。言葉にできないものこそ、言葉にしなければならないのに…」
静海のなかの逡巡が、困惑が、水面に映る光り輝く月のようにありありとその表情に浮かんだ。
無色透明な光。どうしてこうも、これに心を奪われるのか…聖名は不思議でならない。
「迷惑?」多分、違うだろう、と思いつつ尋ねると、静海は寸秒もなく、「違う」と答える。
「…どうでもいい」
「違う」
「悲しい」
「…違う」
「苛々する」
「絶対に違う」
「…嬉しい?」
これであってくれ、と祈りを込めつつ問いかければ、静海が弾かれるように顔を上げた。その白い面持ちは心なしか赤らんでいる。
「それ、かもしれない」
「ほ、ほんと?」
「うん。私のことを理解しようとしてくれる人間なんて、父親以外、いないと思っていたから…」
よしっ、と思わず胸の前でガッツポーズを取る。自分の言葉は届いたのだ。
「それじゃあ、これからも大月さんのことを私に教えてよ」
「本気?冗談だったら最低だけど」
「もちろん本気だよ。本気だから、色々調べたんだもん」
「そうか」
こくり、と静海が頷く。
「私は、人の気持ちをくみ取ることが死ぬほど苦手だ」
不謹慎だが、死ぬほどという表現に笑ってしまう。
「うん」
「だから、もしも、私が分からない人の気持ちを、蛍川さんが教えてくれるなら、それはとても嬉しい」
「うん…!」
ぴたりと視線が交差した時間が続く。
心が通っているような感覚を胸に、静海の言葉を待つ。
今の聖名は、どんなことでも教えてあげたい気持ちであったし、どんなことを言われても受け止められる自信があった。
斜め15度くらいの角度で見上げた静海の瞳が、躊躇うように揺れた数秒後、彼女は少し恥ずかしそうに口を開く。
「早速、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「うん、どうぞ、どうぞ」
ずいっと、静海が距離を詰めてきた。
近すぎる距離に心臓がきゅっとなる。
ドキドキしながらも、後退せずにじっと静海を見上げていれば、彼女は吐息混じりで声を発し、小首を傾げた。
そのあざとい仕草が、静海の孤高なイメージとギャップがあって、こう…なんとも言えない気分にさせるものがあった。
「…どうして、蛍川さんはこんなに優しくしてくれるの?」
「え…?」
思わず、声が裏返る。
こちらの気持ちを知ったうえで試しているみたいな、ドキッとする質問。
「私のことを知りたいのは分かった。信じる。でも、どうしてASDのことを勉強してまで、私のことを知りたいの?」
「えっと、それは…」
「それは?」
気になっても、『空気が読めたら』こんなところで聞く質問じゃないだろう、と思ったが、そもそもそれが苦手な人だったんだと思い出す。
「…さぁ、どうしてでしょう…?」
「は?教えてくれるって言ったばかりなのに?」
「そ、それだけは、ご自身でご想像ください…」
一瞬で、空気が凍った。
「――蛍川さん、ちょっと意味分かんないんだけど」
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
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