知っていること、知らないこと.3
ご覧になってくださっている方、ありがとうございます。
早速評価までつけて頂けたようで、光栄の極みです。
今後も楽しんで頂けると幸いです。
それでは、どうぞ。
「…え、それだけ?」
寛大な聖名も、さすがにこの一言にはムッとしてしまった。
静海が目を丸くして尋ねてくることになった経緯は、聖名が、電車を降りてから、やっとの思いで先日のお礼を口にしたことにあった。
『昨日は、助けてくれてありがとう』。
真っ直ぐ相手の目を見つめることはできなかったが、それでも、静海への真摯な思いが伝わるように告げたつもりだった。
しかし、それを聞いた静海は、本当によく分からない、という顔をしてあんな返事をしたのだ。
「わ、私にとっては大事なことなの」
「そうなんだ」と静海はあろうことか、そこで体を反転させて、駅のホームを出口目がけて歩き始めてしまった。
(嘘、まだ話の途中なのに、信じられない…!)
先ほどの発言も相まって、些か不服さを覚えていた聖名はその後ろ姿をじっと見つめていたところ、ややあって、静海が振り返った。
「学校、行かないの?」
「行く、けど…」勝手に歩き出したと思えば、立ち止まる静海に尋ねる。「い、一緒に行っていいの?」
静海はそれを聞いて心底不思議そうに首を傾げると、口を開いた。
「みんなは、クラスメイトと一緒に歩くのにいちいち許可を貰ってるの?」
貴方がよく分からないから、一応確認しなくてはならないのだろう、と考えていた聖名だったが、静海が、あまりにも普段の無感情さとはかけ離れたきょとんとした顔で尋ねるものだから、おかしくなって笑ってしまった。
「ふふ、ううん。いらないと思うよ」
小走りで隣に並び、共に階段を上る。
「そうだよね。よかった。私、みんなが持ってるよく分からないルールがピンとこないからさ」
「よく分からないルール?」
「うん」
「えっと、例えば?」
「…誰かが髪型を変えたら、なんか、過剰に反応するうえに、絶対に『可愛い』って言うこととか」
「あー…まあ、分からないでもないかな。でも、あれってコミュニケーションの一環なんだよね。私もするし」
できるだけ、普段通りのやり取りを意識する。緊張に支配されれば、また言葉が上手く紡げなくなる。
「コミュニケーション…」とわずかに表情を歪めた静海は、一度聖名のほうをチラ見してから、「じゃあ、一緒にお手洗いに行くのは?あれが一番分からない」と続けた。
「えー?コミュニケーション?どうなんだろう、とりあえず誘われたら行くけど、んー…、やっぱり、あれが何かって言われるとコミュニケーションなんだと思う!」
静海と自然と話ができているような気がして嬉しくなった聖名は、自然と笑みを浮かべ、少しでも多くの言葉をと夢中になって紡いでいた。
それゆえに、聖名が『コミュニケーション』と繰り返す度に顔をしかめる静海に気づかなかった。
階段を上り終え、改札をくぐって外に出た二人は、同じ制服で身を包む生徒たちに混ざって、真っ直ぐ学校へと向かった。
少しずつ寂しくなってくる桜並木を、聖名は静海と共に歩いた。
多少なりとテンポは悪かっただろうが、それでも構わなかった。今まで、数えるほどしか言葉を交わす機会がなかったことを思えば、重畳である。
静海の歩調に合わせて歩いていれば、自然と何人かのクラスメイトに追い越された。その多くが聖名に声をかけて挨拶してくれたが、隣を歩いているのが大月静海だと知るや否や、目を丸くして足早に去っていった。
「…いいの?」静海が、桜並木の横を通っている河川へと視線を移しながら尋ねる。「えっと、何が?」
「行っちゃうよ、みんな」
そして、「置いていかれる」と小さく静海が付け足す。どうしてか、その口調がとても切ないものに聞こえて、聖名はきゅっと胸が詰まる想いを覚えた。
「大月さんが…」
慌てて紡ごうとした言葉にハッとして、聖名は途中で口を閉じた。
こんなことを言われたら迷惑だろう、と思うと、それ以上のことを言えなくなってしまったのだ。
変に思われていないかと横目で静海の様子を窺う。すると、彼女は感情の読めない表情のままこちらを見つめていた。
「…待てばいい、んだよね」
長年を共にした茉莉花と同じように、静海は聖名が言葉を紡ぐのを待ってくれようとした。
聖名はその事実に、今まで感じたことがないほどの強い胸の高鳴り、そして、もっと自分のことを知ってほしいという気持ちと、それよりも深く、目の前の大月静海という人間のことを知りたいという気持ちを抱いた。
いや、『気持ち』というには随分と濁っていた。より適切な形を探すのであれば、『欲』というのが相応しい。
せっかく待ってもらっているのだから、ゆっくりと言葉を形作った。
違うことなく、静海に『気持ち』が届くように。
「大月さんが一緒に行ってくれるなら、大丈夫…です」
よし、言えた。
静海が遠回しは苦手だと言っていたから、ストレートに伝えることを意識した。実際、それどおりできたことだろう。
しかし、静海は聖名の言葉を受けても、気落ちした様子で視線を下げてしまった。
「蛍川さんまで、変な奴と思われるよ」
「へ、変な奴?」
「うん。知らないわけじゃないんだ。オオカミって呼ばれてること」
うわぁ、と言葉が出そうになる。茉莉花がつけた嫌なあだ名のことを知っているということは、自分だってどう思われているか分からない。
「大月さん、あ、あのね、私は――」
「知ってる。蛍川さんは言ってない」
不安視していたことを、びしっと静海が否定した。
「加賀茉莉花が私のことを悪く言ってても、蛍川さんだけは絶対に乗らない。…知ってるよ」
「そっか…」
今までの自分を褒めてあげたくなった聖名だったが、こんなところで会話を切るわけにもいかない、と急いで茉莉花のフォローを行った。
「茉莉花もね、ちょっと荒っぽいだけで、本気で悪く思って言ってるわけじゃないんだよ?度が過ぎるところはあるかもだけどぉ」
「本気かどうかは、私には関係ない」
「うっ…」
おそるおそる相手を盗み見れば、静海の顔にはオオカミと揶揄されるだけの気迫が宿っていた。
「…ごめん」
「どうして蛍川さんが謝るの?」
「茉莉花とは、私もよく一緒にいるから」
「…分からないな、その理屈」
くしゃ、と隣で静海が髪を撫でつける。イライラしているように見えた。
「頻繁に一緒にいるからって、蛍川さんは加賀茉莉花じゃない。蛍川さんは私を傷つけてないし、嫌っているわけでもない。そうでしょ?」
聖名には、これほどまで自分の考えをつらつらと述べられる人間のことが不思議でならなかった。
言葉はすぐに誤解を生むもの。そして、誤解は人を傷つけもするし、惑わしもする。百害あっても一利なしの代物だ。
だというのに、どうしてみんな、こうも向こう見ずに言葉を放てるのか。息を破裂させて飛ぶ弾丸は、喉奥に戻すことはできないというのに。
じっと黙って思考を巡らせていると、それこそ静海に誤解されてしまったらしく、彼女は怪訝な顔で聖名に尋ねた。
「…もしかして、私のこと嫌いだった?」
「え…!?」
急に静海の雰囲気が鋭くなった。どうやら、聖名の態度を勘違いしてしまったらしい。
「…あんたらのルールでよく分からないものが他にもある。それは、『嫌いな人間が相手でも、合わせて話をする』ってことだ」
ぴたり、と足を止めた静海は、視線だけで人を殺せそうなほど冷徹な表情を作ると、「だったら、私にその必要はない。さっさと行ってよ」と突き放すような言葉を口にした。
「ち、違うよ!わ、私――」
「どんな言い訳をするか知らないけど、遠回しには言わないでね。時間の無駄だから」
喉元に銀の刃でも当てられているかのような緊張感。他の生徒たちが横を通り過ぎていくのが気にならないほどであった。
ここで間違えば、自分はきっと『加賀茉莉花』と同じものとして扱われるようになってしまう。茉莉花のことは大事だが、静海の件については彼女と同類と思われたくない。というか、思われたら、終わる。
(す、ストレートに、率直に…って、どう伝えるの?う、うぅ、分かんない…けど、もう、言うしかない…!)
聖名は、立ち止まった静海の元へと小走りで戻ると、五月雨式に来る生徒の列が途切れたのを見計らって、口を開いた。
「大月さんのこと、嫌いじゃないよ」
沈黙。
疑われている気がして、これだけじゃ足りないんだと焦燥に駆られて付け足す。
「む、む、むしろ、好きっていうか、その…!」
「好き?」繰り返されてハッとする。口走りすぎた。「適当に言ってない?」
「い、言ってないよ」
「…じゃあ、具体的にどのへんが?」
「どのへんって…うぅ」
それを口にさせるなんて、とんだ羞恥プレイだ。もしかしてだが、自分の気持ちを分かっていて静海はからかっているのではないだろうか。
しかし、そっと顔を上げて盗み見た静海の面持ちは真剣そのもの。具体的に言えないのなら、やはり、虚実とみなす――とでも言いたそうな険しい顔つきであった。
もうどうにでもなれ、というヤケクソ同然の思いで、聖名は静海を納得させようと努める。
「自分の意見を持ってるところとか、独りでも堂々としてるところとか…私にはできないことだから、憧れるっていうか…」
とことこと、一人前に進みながら続ける。じっとなんてしていられなかった。
「憧れる…私に?」
「あ、あと、その…いつも、電車で窓の外を見てる横顔が――か、格好良くて…!」
「格好良い…」
「お近づきになれたらなって、話してみたいなって、ずっと…」
聖名は、静海の驚いているような態度にも気づかず、そのまま言葉を重ねようとしていた。だが、それは少しだけ顔を赤くした静海によって止められる。
「分かった、分かったよ、蛍川さん。私が間違ってた、ごめん。蛍川さんは嘘なんて吐いてない」
しかし…聖名はその制止が耳に入っていないくらい、暴走していた。
「…友だちになりたいなって、声をかけてみたいなって、ずっと電車のなかで思ってたの!」
やっと言った…。
電車のなかで横顔を追う日々を重ねる度に強くなっていた気持ちを言葉にできて、万感の思いで聖名は顔を上げた。
そうしてから、やっと彼女は気づく。
ここは学校の正門前だということに。
浴びせられる衆人環視。そのなかには、クラスメイトの視線も混じっていた。
(さ、最悪…。恥ずかしくて、死にそう…!)
ずっと温めていた思い…何もこんなタイミングでなくとも良かっただろうに。
いよいよ迷惑がられるのでは、と拳を固く握る。羞恥で足は一歩も動けない。
すると、そんな聖名へと、静海が穏やかに告げた。
「私みたいな人間と友だちになっても、一文の得もないけど」
静海の声のトーンはいつもどおりだ。こんな状況で臆さないところこそが、聖名の憧れているところであった。
「それでもいいなら、私は構わないよ」
すっと手が差し伸べられる。
手を取れということなのだろう。フィクションみたいな気障な振る舞いだが、静海がやると絵になった。
「も、もちろん!」
引っ込められる前に、急いでその手に飛びつく。こんな恥をかいたのだ、今更引き下がるわけには絶対にいかない。
重ねた静海の手のひらは、とても暖かかった。
心の冷たい人間の手は暖かいと聞いたことがあるが、そんなの下らない、と今は吐き捨ててやりたい気分だ。
ほんの少しだけ綻んだ静海の顔つき。信じてもらえた、という謎の確信が聖名の慎ましやかな胸にはあった。
やがて、手のひらを離した静海が言った。
「じゃあ、教室まで一緒に行こうか。蛍川さん」
ああ――…なんて、幸せな朝なんだろうか…。
聖名ははにかみながら、ゆっくりと頷くのであった。
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