知っていること、知らないこと.2
打算なく、さらりと人を助けられる人って、かっこういいですよね。
まぁ、打算かどうかが分からないから、変に疑っちゃうんですけど。
インスタントといえど、コーヒー特有の香り豊かな味わいは、いつだって心を落ち着かせるものだ。特に、夜もそこそこ深まる、23時頃。この時間に飲むコーヒーは格別だった。
一日の終わりの厳かさを堪能しながら、電気ランタンの光を頼りに、本と共に明日の文字を追う。
普段のルーティン通り。実に気持ちがいい。
言葉のまとまりを目でなぞり、頭で咀嚼しているうちに、置き時計の長針は『6』を指していた。
(明日の準備の時間だ)
ぱっと立ち上がり、普段の学生鞄に必要なものを詰める。自分の部屋と同じく、整頓された空間は居心地の良さを感じるものの、当の学校は面倒の塊でしかなかった。
「…せめて、あれを持っていけると違うんだけど」
ちらり、と横目でパソコンデスクの上に置いてある一眼レフカメラを見やる。
大好きだった祖父の遺品として貰ったものだ。他にもたくさんのレンズや三脚があったが、それは一先ず棚にしまっている。今の自分には不釣り合いなものと思ったからだ。
あの箱の中には、美しい記憶たちが山のように入っている。すでにメモリーカード何枚ぶんも撮影したが、それでも気が収まらない。
撮っても、撮っても、解決されない何かがまだ胸の奥にあった。それを探して、ずっと自分の眼差しは旅をしているのだが、どうにも…納得できるものには巡り会えていない。まだ子どもだから、行けない場所も多い。そういう未踏の地に、『それ』はあるのだろう。
いつもと同じ場所に掛けられたブレザータイプの学生服のポケットに、棚から持ってきたハンカチを入れる。
すると、何も入っていないはずのポケットの底で、指が硬い何かにぶつかった。
(おかしい。ポケットのなかにはハンカチ以外入れないようにしているのに…)
すぐさまそれを掴み取り、ポケットから出す。
中から出てきたのは、『C』の文字を象った銀色のバッチ。――自分たちが通っている学校の校章だった。
いつの間にか外れていたか、と制服の襟元を確認するも、そこには全く同じものが光り輝いていた。
予備なんてあるはずもない校章が二つ、手元にある…。
顎に指を添えて考えれば、答えは数秒で浮かんだ。
「…あの子のか、これ」
電車での一幕を思い出し、ため息を吐く。
混んでいる電車ほど憂鬱なものはない。人が増えればそれだけ邪魔が増えるし、窓の外できらめく景色にも、どうしても人の影が入り込んでしまうものだ。
「明日も、同じ電車だろうし…そのときに渡すか」
ポケットに校章を入れ直し、再び眠りの準備に移っていると、不意に扉がノックされた。
誰なのか、など考える必要はない。この家には自分以外は父親しかいないからだ。
「静海!月、月綺麗だぞ!」
そんなに大声を出さなくても聞こえているよと、大月静海は扉を開け、四十代手前にまでなった父に対して答える。
「…それがどうかした?」
「いや、お前のカメラで撮ったら綺麗に映らんかなぁ、と思って」
「ああ、なるほどね。うん、ありがとう、お父さん。見てみるよ」
「おう。それがいい、それがいいぞ。じゃあ、おやすみ」
天真爛漫、という笑い方がこの歳になっても似合う人間はそうそういないだろうな、と考えつつ部屋に戻り、父の勧めに興味を惹かれ、カーテンを開ける。
直後、月光が部屋に降り注ぐ。
電気ランタンの頼りない暖色の光を打ち払う青い輝きは、すぐに静海の心を踊らせた。
カメラを手に取り、夜でも景色が綺麗に映るよう調整する。それから、窓を開けて外に身を乗り出した。
ひゅう、と秋の夜風が頬に当たる。なかなかに冷たいが、夜を彩るのに今、これ以上のものはないとも思えた。
レンズ越しに覗く、丸く白い月。
万人を照らす光の一寸でも、この一枚に収まればいい。
そう思いながらシャッターを切る。
小気味の良いシャッター音を数度響かせた後、すぐに画像を確認すれば、思わず口元が緩んでしまうくらいの写真が撮れていた。
静海は、こうした写真が撮影できるのは、自分の腕のおかげではなく、祖父のカメラの性能のおかげであると自覚していた。
だからこそ、もっと勉強して、回数を重ねて、美しいものをこの小さな箱を通して、胸のアルバムに飾っていきたいと考えていた。
月明かりを舞台に心踊っていた静海の頭のなかからは、とうに蛍川聖名のことなどいなくなっていた。
明くる日の電車は、平常通りの運行だった。つまり、席は苦心せずとも座れる状況にあり、わざわざ立っておく必要はないというわけだ。
それにも関わらず、大月静海はいつものように扉のそばに立っていた。
ただ、今日において、いつもと違う点が一つだけあった。
蛍川聖名が座席に座っていないということだ。
「あ、あの」
その当人が、電車のなかで小さく声を発した。停車していれば聞こえていたかもしれないが、軋む車輪とレールの悲鳴にかき消され、誰の耳にも届いていなかった。
「あの、大月さん」
勇気を振り絞り、もう一度だけ声をかける。
すると、ようやく声をかけられていた静海がそれに気づき、顔の方向を窓の外から聖名のほうへと移動させた。
静海はたしかにこちらを向いていたが、だからといって口を開くことはなかった。
まるで、赤の他人に対する反応だ。本当に名前を覚えていたのだろうかと、今更ながらに不安になってしまったが、もはや、ここまで来ておめおめと逃げ帰るわけにはいかなかった。そうなると、振り絞った勇気があまりにも不憫になる。
「お、おはよう」
静海が、こくりと頷く。
駄目だ。挨拶されても返さないなんて、迷惑がられているか、自分に興味がないとしか思えない。
そんなふうに考えていると、どんどん首の角度が下がってくる。
このまま回れ右して席に着くことにも違和感があるため、聖名はじっとその場に佇むことしかできなかった。
最悪な朝だ、と聖名が気落ちしていたところ、思わぬことに、静海が声を発した。
「蛍川さん、これ」
相手のほうから沈黙の檻を破ってくるとは想像もしてなかったため、聖名は弾かれるように静海を見上げた。
「え、なに?私?」
「…蛍川さん、だよね?」
「あ、うん。うん。私、蛍川です」
「うん。そうだよね」
我ながら妙な返しになってしまったと羞恥心を覚えていたのだが、静海の返答は淡白なものだった。
客観的には冷徹に見えないこともなかったが、聖名にとっては静海のこういう面こそ、クールでかっこいい、と感じるところであった。
「これ、多分だけど蛍川さんのものだと思う」
「え、どれ?」
差し出された手のひらを覗けば、そこには銀色のバッジ、校章がちょこんと乗っていた。
慌てて自分の襟元を探る。確かに、そこにあるはずだった校章の感触がない。
「ほんとだ、いつの間に…」と考えを巡らせば、すぐに昨日の電車内での出来事が脳裏に浮かんだ。
至近距離で嗅いだ、静海の甘い香り。それから、頬が触れた柔らかな体。
追憶は、熱をもたらした。
自分の顔がさっと朱に染まったのが、聖名には嫌でも分かった。
「き、き、昨日は…」
言うのだ。今、言うのだ。
そのために声をかけた。
一握の勇気を無駄死にさせないために、今、ここで。
昨日、聖名は静海にまともなお礼を言うこともできなかった。それは聖名が恩知らずだからではない。静海にくっつくほどの混雑がなくなった後、聖名がお礼を言う前に静海がイヤホンをつけてしまったためだ。
当然、改めてイヤホンを外させるようなことはできず。さらには学校でも声をかけられず、聖名は悶々と一日を過ごした。
だからこそ…二人きりになれる今(厳密にはそうではないが)、勇気を出したということである。
(ありがとう、って言うんだ。…え、でも、ありがとうございます、のほうがいい?丁寧かな?でも、同じ年だし…いや、でも…)
ぐるぐると思考が巡り、聖名の動きが止まる。不自然な間が生じ、静海が誰にも分からないレベルで首を傾げた。
言葉のまとまらなさに、頭が真っ白になっていく。
絶対に、変な人だと思われている。
そんな不安で聖名が涙目になりかけていると、不意に、静海が聖名の手を取った。
ドキリ、と鼓動が一つ、二つと鳴る間に、静海のたおやかな指が聖名の固く握られた掌を広げた。
「はい。返すね、これ」
ぽん、と校章が手に渡ってくるが、正直、それどころではなかった。
昨日に続き、静海のほうから行われるボディタッチ。
熱が伝播しないか心配になるほど、聖名の掌は熱を帯び始めていた。それに、頭だってやっぱり回らず、ぼうっと静海を見返すことしかできずにいた。
クールで誰も寄せ付けない。そんな印象があった静海からは、とても想像できなかった行動の数々に動転しっぱなしだ。
そんな聖名を不思議そうに見つめていた静海は、何を勘違いしたのか、再び校章を手に取ると、聖名の襟元に触れた。
聖名が声も出せずにされるがままになっていると、静海は襟元にかかった聖名の髪を穏やかな手付きで払い、校章を付け始めた。
(う、嘘ぉ…)
わずかに引き寄せられ、一歩、二歩と静海に近付く。昨日ほどはなくとも、十分に近い距離感だ。彼女は予想外なことにパーソナルスペースが狭い人間なのかもしれない。
「お、大月さん、なにをしてるの、かな?」
「え?」
え、じゃないよ…と心のなかだけで付け足す。
「あのぅ、そのぉ…」
「…私、遠回しなのはあんまり上手く理解できないから、率直に聞いてくれると助かるんだけど」
「だから、その、校章、なんで、付けてくれてるのかなって…」
「蛍川さん、校章の付け方が分からないんだよね?」
「いや、子どもじゃないんだから付けられるよ…」
あまりの言い分に、聖名の口から本音が漏れる。それからハッとして、失礼なことを言ったかも、と慌てたが、静海の注意はそこになかった。
「え?じゃあ、なんで校章を手にしたままじっとしてたの?」
「う…」
痛いところを突かれ、目を背ける。
貴方に思い出しドキドキしてました、とは口が裂けても言えない。
答えに窮する聖名を見て、静海はやっぱり分からない、とでも言うふうに小首を傾げ、そのまま校章留めを続ける。
美しい狼を彷彿とする大月静海の瞳を、まじまじと下から見つめる。作業に集中している今がチャンスだった。
長いまつ毛、きゅっとつぐまれた口元。聖名のように髪の手入れを細やかに行っていないと思われるも、自然的な麗しさを感じる長い髪。
心臓の鼓動は、すでに激しく唸り声を上げている。
このままこうしていたいような、手に入らないくらいなら、いっそ飛び込んでしまいたいような…。
聖名は、自分が静海に感じている感情が憧れ以上のものと悟ってはいたが、だからこそ、色々とややこしいものだとも考えていた。
「蛍川さん、黙ってても分からないんだけど」
ずばっ、と切り裂くような一言。息がひゅっと詰まりそうになる。
「…なんか分からないけど、もういい?」
さらにもう一太刀。大袈裟切りにされて、苦悶の息が出そうになる。
反応のない聖名に辟易としたのか、静海は無表情で無言のまま窓の外へと視線を移してしまった。
(…寂しい)
興味がないと言われたみたいだ。いや、『みたい』ではなく、実際にそうなのだろう。そうでなければ、目の前にいるのに、透明人間みたいに扱うことなんて、普通はできるはずがない。
己の滑稽さに目頭が熱くなり、涙があふれそうになった。
(あ、駄目だ…面倒臭い奴って思われちゃう)
じわり、と浮かぶ涙を慌てて指先で拭う。人前で、しかも電車のなかで泣くなんて本当に馬鹿みたいだと聖名は落ち込んだ。
「ねえ」
不意に、静海が声を発した。反射的に顔を上げると、窓の外を見ているはずだった視線が自分へと注がれていた。
うっとうしがられる、と考えた刹那、聖名の涙は静海がポケットから取り出したハンカチによって優しく丁寧に拭われた。
一刀両断に切り捨てるような発言からは想像もできないくらい、ホっとする手付き。
「一体、どうしたのか分からないけど…悲しいことがあったなら聞こうか?」
私でいいならだけど、と付け足した静海を、聖名は信じられないような思いで見つめ返した。
そうしてそのまま黙っていると、静海は初めて困惑した顔を見せて、「あの、黙ってられると、本当に私は分かんないんだけど…」と呟いた。
そうは言われても、こっちだって待ってもらわないと言葉にできないのだ。
聖名はそんなふうに考えてから、ハッと、自分も静海みたいに相手へお願いすればいいのだと思い至った。
誰かに何かを頼む…勇気がいる行動だ。しかもそれが、自分のほうにそうしてもらいたい理由や原因があるのなら。
だが、これが最後のチャンスであるとも聖名は考えていた。
ここで沈黙を守れば、静海にお礼を言う――もとい、仲良くなるきっかけはもう来ない気がした。
さっき使い果たしたと思っていた勇気を、どうにか心のなかをひっくり返して探す。ほとんどそれらしきものは見当たらなかったが、なんとか、一声ぶんくらいはかき集められた。
「…言葉、まとめたいから、ちょっと待って…」
もう少し丁寧に頼みたかったが、静海にとってはそれで十分だったようだ。
「うん。ゆっくり待ってるから」
その言葉に、胸がすうっとする。
(頼んでよかった…お言葉に甘えて、ゆっくり、考えよう)
静海の優しさに感謝しつつ、聖名は目を閉じた。
こんなふうに言ってもらえて、よかった。
美しく気高い孤狼が、気まぐれで優しくしてくれているとしても、それでいい…。
ご覧になって下さり、ありがとうございます。
明日も18時に投稿しますので、よろしくお願いします!