あの夜、途絶えた言葉を.4
何か理由があるのだろうとは思っていた。静海が理由もなしに、自分のことを拒絶するとは始めから考えていない。
ただ、こんなにも非合理的な理由とは思ってもみなかった。自分と母親とを勝手に重ねて、それで、きっとそうなるから、という理由だったなんて。
「私、静海のお母さんじゃないんだよ?そんなふうになるかなんて、分からないじゃん!」
「なるよ」
「ならない」
「なるってば」
「ならないって!」
そうして、やけになって小学生みたいな問答を繰り返していると、とうとうこらえきれなくなったらしい静海が、膝を叩きながら立ち上がり声量を上げた。
「親でもそうなるのに、なんで自分がそうならないって言いきれるわけ!?」
孤狼の発した怒りの唸り声に、聖名もぐわっ、と感情を押し上げられて怒鳴り返す。
「静海のお母さんより、私のほうが静海のこと好きな自信あるもん!」
決して、彼女の母親が悪かったと言うつもりはない。しかし、ちゃんと静海と話し合ったのだろうかという疑問は強く残った。
自分は静海と適切な関係を築ける。
障害だとか、性格だとか、過去の経験だとか。
それらをひっくるめて、話し合うことで二人の未来を築くことができる、その確信があった。
何も知らない子どもの言い分だと思われても構わない。どうせ、確証のない未来だ。初めから結果を決めつけてかかるほうが馬鹿らしいではないか。
必死になって叩きつけた言葉を、静海がどう受け取っただろうかと彼女の様子を窺う。すると、静海は真っ赤になって同じようにこちらを見つめていた。
「…な、なに、その精神論…。強引すぎる」
「だ、だって静海が変なこと言うから!」
「変なこと言ったのは聖名のほうだよ。あー…もう、なんか、体熱い」
「照れてるんだよ、それ」
「照れてないよ。呆れてる」
「嘘吐き。顔赤いくせに」
「それを言ったら、聖名だってそうだよ」
そんなこと言われなくても分かっている、と目尻を上げる。
静海はいつからこんなにも分からず屋だっただろうか。そんなふうに考えてから、すぐに出会った当初から彼女はこうだと結論づける。
そうだ、これが大月静海なのだ。
発達障害とか、生まれとか、見た目とか性格とか、全部ひっくるめてそうだ。
『大月静海』、彼女につける名前として、これ以上、相応しいものはない。
発達障害でも、女でも、美人でも、変なやつでも、当然ながら『オオカミ』でもない。
じっと、無言で互いに見つめ合う。睨み合っているつもりだったそれは、やがて、馬鹿らしさと青々しさになだめられて、どちらからともなくため息と共に終わった。
「…聖名って、こんなに強情だったんだね。知らなかった」
「そうだよ」白い呼気が天上へと昇っていくのを見送りながら、聖名は続ける。「臆病者で、作為的で、言いたいことはあんまり言えなくて、頭の回転も遅くて…そのくせ好きな人のこととなるとしつこくて、強情で、勇気を出せる――それが私なんだよ、多分」
用意もしていないのにスムーズに言葉が群れを成して、外へと飛び出していく。
呆気に取られた静海の顔を見ていると、理由も分からないがとてもすっきりした気分になれた。
背伸びをしてから、また一つため息を吐く。そして、言葉もなくこちらを見つめている静海の手を何の前触れもなく取る。
静海が何か言おうとしている気配を感じた。だからこそ、聖名は素早く言葉を紡いだ。
「何でもかんでも、決めつけないでやってみようよ」
寒空の下にいるのに、静海の手はとても暖かい。
じんわりと滲んでくる彼女の熱に、少しだけ凍えていた言葉たちが動き出す。
「写真のときと同じで、実際にやってみたら意外と楽しいかもしれないし」
「…あれは、聖名だったから…」
そこまで言って、静海はふっと何かに気づいたみたいにぽかんとした表情になった。
「そっか、次も聖名と一緒か」
「うん」
静海のなかで、カチリ、と綺麗な音をして歯車が噛み合ったのが聖名にも分かった。
「…あぁ、もう。どうにも私は、頭が堅い。こうだと決めつけたら、そこから頭が逃げられなくなるんだ」
「あ、それってASDの特性らしいよ!」
「そうなの?」
こんなときに無粋かと思ったが、あえて口にする。
共に生きていくうえで、発達障害の特性を腫れ物のように扱っては駄目だという確信があったからだ。
「えっと…シングルフォーカス?あれ、レイヤーだったかなぁ?…とにかく、一つの視点とか考え方にのめり込みやすいんだって」
「そっか」
「だからこそ、私と一緒に考えよう?お互いの気持ちを伝えあって、お互いの問題は話し合って、さ。私も一人じゃ『うわー』ってなるし」
「…うん」
感慨深げに頷いた静海には、先ほど教室で感じられたような拒絶感はもうなかった。
「それにしても、随分と色々勉強してくれてるんだね。ASDのこと」
「もちろん。好きな人のことをたくさん知りたいって思う気持ちは、『みんな』同じだからね!――静海だって、そうだよね…?」
そう問いかければ、静海はまたぽかんとした顔になって、聖名のことをパチパチと瞬きしながら見つめた。そして、たっぷり十秒ほど無言になってから、ふっと笑って、独り言みたいに言った。
「はは、そっか、私も結局は『みんな』のうちの一人か…」
その呟きがどういう意味を持つのかは、聖名には分からなかった。ただ、静海がどこか満足そうな顔をしていたから、それでいい気がした。
長い沈黙が流れた。雪が全ての音を吸い込んでみせた、あの夜の再現みたいな静けさがそこにはあった。
やがて、おもむろに静海の指が自分の指に絡められる。初めて、静海のほうから指を通してくれたことに軽い驚きを覚えつつ、彼女のほうを上目遣いで見やる。
よくよく見てみたら、静海の美しい顔は紅潮していた。それが寒さのためではないことぐらい、聖名には容易に分かった。
「聖名」
「なぁに?」
胸の辺りがじんわりと温もる響きに返事をすると、静海の桜色の唇がたおやかに動いて言葉を紡いだ。
「私、聖名のことが好きだよ」
「…うん」
「あの夜、聖名が言いかけた言葉の続きを、今、聞いてもいい?」
聖名は静海のお願いに、すぐに笑顔で頷いた。そして、体の向きを斜めにして彼女に向き直ると、相手も同じようにそうした。
膝が、とん、と触れ合う。布とタイツ越しだから温もりはなかったが、それでも縮んだ距離感に胸が高鳴る。
「私も、静海のことが好きだよ。整った顔とか、濡れ羽色の髪とか、ちょっと低い声が好き。――でもそれ以上に、無愛想だけど私にはたまに笑ってくれて、時々言葉が刺々しいけど嘘は絶対に吐かなくて、空気が読めなくて頑固者でも、一生懸命私と分かり合うために言葉を紡いでくれる…そんな静海のことが、大好き」
「…すごいね、聖名。私の全部好きだ」
「そうだよ、何か悪い?」
「ううん、全く。ありがとう、本当に」
静海が泣きそうな声で呟きを漏らすから、つられて聖名も涙ぐんだ。
きらきらと光る涙のレンズを通して、静海を見つめる。
美しい輝きをまとう孤狼が視界というファインダーに収まったとき、甘い痛みに胸が苦しくなって、息が止まりそうになった。
――あぁ、こういうのが、『時間が止まってる』ってことなのかなぁ。
「静海」と聖名が涙声で声を発する。
「なに、聖名?」
「これから、もっともっと、色んなことを一緒に知っていこうね」
静海が優しく頷いてくれる。
彼女の頬につたう一筋の流星は、いつまでも聖名の胸のなかで煌めいていた。
残すはエピローグのみとなりました。
明日の夕方、更新致しますのでよろしくお願いします…。




