あの夜、途絶えた言葉を.2
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幸か不幸か、気持ちが抑えられなくなる機会は、優奈に話を聞いてもらった次の日に訪れることとなった。
最も寒さが苛烈な二月の土曜日。課外授業という形で、月に一度、午前のみ学校へ行かなければならない日のことであった。
登校したクラスメイトのなかで部活に所属していないものは口々に、土曜日なのにどうして『道徳』の授業なんて受けに来なければならないのか、とぼやき合っていた。部活動のある者はさっさと終わらせて部活に行きたい、という感じだ。
冬休み明けて以降、暇な時間は自学習に使うようになった茉莉花の邪魔をしている間に、担任の教師が教室に入ってくる。
「じゃあね、茉莉花。お昼ご飯、一緒に食べよ」
「もちろん。あー…あいつも一緒だけど、いい?」
「ふふ、ええ、構いませんよ?」
「なによ、その顔は…」
「別にぃ?」
「…変な勘違い、しないでよね」
からかい口調の聖名にぶつぶつ小言を言いながら、茉莉花はまた勉強に戻った。授業の始まるギリギリまでやるつもりらしい。
茉莉花の変わりように度肝を抜かれた者は多い。聖名もその一人であったが、それは小テストであろうとなんだろうと、早くも結果を出し始めたことに対してではない。茉莉花が担任の教師の説得を受けて、態度を変えることを選んだことに対してである。
どうやら彼女は大学進学への道を選ぶらしい。進学校であるから不自然ではないのだが、彼女は卒業後働く気まんまんだったから、驚きだ。
特待生として進学し、将来的に有利な選択肢の多い状態で就職を考えたほうが、親への恩返しにもなると言われたことが大きなきっかけのようである。
さて、前半の授業は、ユニバーサルデザインだ、ノーマライゼーションだかいう話だった。
なんとなく分かったようで、分からないようで…といった内容ではあったが、中学生の頃、というか静海と出会う前と比べたら、入り込め方が違った。
静海みたいに個性的な人でも、みんなと同じように生きていければ確かに幸せなんだろう。
そこまで考えて、ふと、聖名は『みんなと同じようにってなんだろう』と不思議に思った。
『普通』とか、『常識』とか、『みんな』とか…。
姿の見えない怪物みたいだ。
みんな知っているのに、みんな見たことはない。
神様みたいなものだ。問題は、その神様が教えに背くものに手厳しいことだ。
そんな不思議な存在が、静海を一人にするのだろうか。
「じゃあ、道徳の授業を再開しますよ」
担任の声が響いたことで、ハッと我に返る。
小難しいことを考えていた、と聖名が自嘲気味に口元を歪めたのも束の間、すぐに教師の話に引き込まれることとなる。
「さあ、みなさん。左利きの人、手を上げてください」
突然の問いかけに、生徒たちは不思議そうに教師の顔を見つめる。
(あれ、道徳の授業だったよね、これ)
そんなふうに思いつつ、聖名は手を挙げた。四十名ほどのクラスメイトたちのうち、自分も含めて三人程度が挙手したこととなる。
「よろしい。では、次にAB型の人。手を挙げてください」
今度は四人程度が手を挙げた。以外に少ないな、と考えていると、教師は満足そうに手を下げるよう命じた。
そして、ややあって、にこやかな顔から一転、真剣な顔つきになって続ける。
「今、手を挙げてもらった人と同じくらいの割合で、性的マイノリティの方がいます。まぁ、一応秘密にしている人もおられるでしょうから、ここでは挙手を求めません」
しん、とクラスが沈黙に包まれる。
その反応に聖名はむしろ、だからなんだと言うんだろう、と反感さえ覚えた。
母の世代くらいまで同性愛はアンタッチャブルな雰囲気というか、そっとしておくことが吉、という感じだったらしい。驚くべきことに、結婚だって駄目だったらしい。
生産性がどうとか、小難しいことを政治家様がおっしゃっていたと聞くが、『個人がどう生きるか』という問題の前に、偉い人が理論武装していること自体、滑稽である。
もちろん、今はもうそんなご時世ではない。それなのに、急に真面目な空気になったのが気に入らなかった。
教師は生徒たちの真剣な顔を見渡すと、「…今日、先生がしたいのは性的マイノリティに関することではありません」と盤面をひっくり返すみたいに話題を変えた。
ここからが、聖名にとって、そして、静海にとっても大事な話の始まりだった。
「発達障害。みなさんも名前くらいはご存知ですよね」
ドクン、と心臓が強く跳ねた。まさか、ここで聞くことになるとは思ってもいなかった言葉だ。
「左利きの人、AB型の人、それぞれ挙げてもらいました。発達障害の方は、その半分より少し多いくらいの割合でいると言われています」
どうでもよさそうに、「諸説ありますがね」と付け足した教師は、それから淡々と発達障害について説明を始めた。
ADHD(不注意欠如・多動性障害)、ASD(自閉症スペクトラム)、SLD(限局性学習障害)などといった類型があること。
先天的なもので、育て方や当人の努力不足が原因で発症するものではないこと。
周囲の人とのギャップを感じる機会が少なくはなく、ストレスを抱えやすいこと。
そして、それぞれの特性を語った後、歴史的にも有名な人物の名前を複数名挙げ、彼らが発達障害であったことを説明した。
聖名がすでに知っている知識と、そうではない知識があった。時間はあっという間に過ぎた。特に、発達障害の人が二次障害――鬱や適応障害などに苛まれやすい話を聞いたあたりからは高速で過ぎた。脳がフルスロットルで稼働しているのが自分でも分かった。
やがて、他人の若い教師は厳粛な顔つきで話をまとめ始める。
「色々と話しましたが、せめて、発達障害は『社会性の障害』ということだけでも理解して帰ってください。
つまり、他人や社会との軋轢のうえで困り事が表面化する障害だということです。少し分かりにくかったかもしれませんね…そう、発達障害の特性を『障害』にしてしまうのは、社会の在り方や、みなさん自身の偏見であるということです。極端な話、山にこもって一人で自給自足の生活を送っている間は、『障害による困りごと』は表面化しづらい。
理解者の有無、環境の良し悪しで、彼らの苦しみや困りごとは増えもするし、減りもします。
ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンの考えが社会に普及して久しいですが、まだ完全とは言い切れません。先生はその原因を、社会を作っている人の多くが、こうした教育を若いときに受けていないからだと考えています。
だからこそ、みなさんには今のうちから知っておいてほしいのです。自分が意図せずして加害者になる可能性を。そして、多様性への理解を示すためには、自分の外側にあるものを知ることこそ大事であるということを」
教師の熱弁に多くの生徒が惹きつけられ、耳を傾けていた。それくらい、教師の気合の入り方が違った。それこそ、担当の授業で教鞭をとっているときより熱がこもっていただろう。
この話を聞いて、茶化すことのできる人間などいなかった。
根本的に青く、純粋な少年少女たちはインモラルなことを毛嫌いするため、口にこそ出さなかったが、自分がそうした加害者にならないようにと少なからず考えていた。
教師もそれを感じたのだろう、満足そうに頷いてみせた。そこには充足すら見え隠れしていた。
一人の少女が、反旗を翻すまでは。
「詭弁だ」
水を打ったような静けさのなか、驚くほど鋭く研ぎ澄まされた冷たい声が響き渡る。
視線は、自然と彼女に集まった。
今、この人が発言したのか、何と言ったのか…それを疑うような視線の群れにも臆さず、少女は続ける。
「そうして綺麗な言葉を並べたぐらいで『みんな』が変わるなら、『彼ら』はそもそも苦労してない」
「お、大月さん?」
「先生が自然と『彼ら』と『みんな』を区別したように、どこまで行ったって無理解の壁はそこにある」
周囲が小さな声でざわめきを発するなか、聖名も、「静海…」と消え入る声で呟く。
これでは、自分がそうだと言っているようなものだ。
まさか、この場でカミングアウトするつもりなのか。
「どうしたの、大月さん。ちょっと、外に出てから…」
教師が、教室の外に逃げおおせようとするも、静海はそれを拒絶するみたいに無理やり言葉を噛みちぎる。
「先生、私は発達障害の当事者です」
ざわめきがいっそう強くなる。教師だって海千山千の老教師ではなく、理想に燃えるような若い人間だ。きっと、こんな状況を上手に乗り越える術は持ち合わせていない。
(あぁ、やっぱり…静海…どうして)
聖名は、斜め前、少し離れた場所に座っている静海の横顔を見つめた。
強い意志が感じられる凛とした横顔。
まさに、人間の群れのなかに躍り出た孤狼。
美しく、気高く、しかし、ずば抜けて異質であった。
同時にその意志の頑強さは、ぞっとするほどの危うさを感じさせた。
硬度の高いものほど、柔軟さには乏しく、折れてしまったら二度と元には戻らない。
静海は今、折れようとしているのではないか。
少なくとも聖名には、そう見えた。
「先生ではなく、一人の大人として答えてほしいことがあります」
「…な、なんですか?」
すぅっと細められた瞳。
叩きつけるつもりだ。
『みんな』や『普通』、『社会』といった目に見えない怪物に爪弾きにされてきた一人の純粋な人間として、挑戦状を叩きつけるつもりなのだ。
「今まで『普通』に生きてきたつもりだったのに、医者に診断を受けた日を境に、急に『障害者』になった私の気持ちが、『みんな』に分かると思いますか?何にでも名前をつけたがる人の性が私になすりつけたものの厭さ加減が、みんなに分かると…?」
教師は何も答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
静海は海底のように静まり返った教室で、ふっ、と嘲笑にも似た吐息を漏らした。
「…やっぱり、ナンセンスだ、こんなの。詭弁を弄して、無闇に希望を持たせるのはかえって毒にしかならない。どうせ、分からないんだから。ここにいる全員、誰にも…」
ナンセンス、詭弁、毒…。
どの言葉も、中途半端に静海と関係を築いてしまった自分への皮肉のように感じられた。いや、彼女に限ってそんなはずはないと分かっている。だが、自分の心がそう後ろ向きに捉えてしまった。
特に、最後の言葉は効いた。
どうせ分からない。ここにいる全員。
静海は、本気でそう思っているのだろうか。
このクラスにいる人間の全てが同様で、誰一人として特別ではないと。
希望を持つべき相手はいないと、本気で考えているのか?
ぎゅっ、と、聖名は拳を膝の上で握りしめる。
二人で積み上げてきたものは、なんだったのだろう。
たかが数ヶ月の関係かもしれない。しかし、自分にとって、否、自分と静海にとって大切な時間だったはずじゃないのか。
それまで疑わなければならないのだろうか?
それが、発達障害の彼女が他人と手をつなぐということ?
――違う。絶対に違う。
聖名は、己の胸の中心で渦を巻く感情を言葉にしようと口を開きかけた。だが、どうにも上手くいかない。
苦手なことではあった。だが、それだけじゃない。
この胸を掻きむしる気持ちを――憤りを、悲しみを、苛立ちを、困惑を、歯がゆさを…どんな言葉で表わせるというのだろう。そんなものを持ち合わせた脳みそなら、とっくの昔に静海へと伝えている。
心に、そっと暗雲が差す。
このまま口をつぐんでいることしか、自分にはできない気がした。
それが相応しいのだという諦観の嵐が、聖名を飲み込もうとしていた。
そのとき、たまたま風が強く吹いた。
風を受け、カーテンが揺られたことで、その隙間から、真昼前の冬の陽光が聖名の瞳を貫いた。
光は、記憶を呼び覚ました。
酷く赤く、酷く眩しく、例えようもないほど絶佳な夕焼けのことを。
静海と初めて出かけたあの日。初めて、下の名前で呼びあったあの日。
あの日、二人で決めたことがある。
『思っていることは隠さず、口にすること』。
口にしていない想いは、伝わらないから。
障害があるからとか、ないからとか関係ない。誰だってそうなんだ。
誰でもない、静海が最初に言い出した約束。
それを今、放棄してしまっているのは、やはり、静海なのだ。
「…嘘吐き」
気づいたら、そう口にしていた。
周囲の視線が集まってくるのを感じ、緊張は高まった。だが、ここで勇気を振り絞らなければ、一体、どこで振り絞るのだという気持ちに支えられ、聖名はどうにか言葉を紡ぎ続けた。
「本当は、分かってほしいくせに。どうしてそんなふうに強がるの、静海」
賽は投げられた。
自ら上がった舞台の中央で、聖名は顎を引いて静海の背中を真っ直ぐ見つめた。
ゆっくりと、彼女がこちらを振り返る。
驚愕で見開かれた瞳。そこには、『まさか聖名が発言するとは』という気持ちが込められているのが、聖名にも手に取るように分かった。
残念だけど。黙っていてなんてやらないよ。
だって、私は何一つ納得してないんだから。
聖夜の後から、驚くほど他人行儀になった彼女のことを、何一つ納得していない。
言葉が上手く紡げなくてもいい。静海が自分の気持ちをごまかしてもいい。
それでもいいから、自分の心を伝えることだけはやるべきだと、聖名は確信していた。
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