聖夜を君と.4
パシャ、という乾いた音で、聖名はまどろみから意識を覚醒させた。
ぼうっとした脳みそは、一瞬、ここがどこだか理解することができずにいた。
ぼんやりと灯るいくつかの光、そのなかを、人の輪郭を帯びた影が揺れている。
やがて、人影が言った。
「ごめん、起こしちゃった?」
こちらを気遣う静海の声だ。
それでハッと我に返った聖名は、自分が今、静海の家にお邪魔していることを思い出し、慌てて身を起こした。
「あ、こっちこそごめん…勝手に寝てた」
「いいよ。もう時間も時間だし、そろそろ眠ろう」
「え、何時?」時計を見渡そうとするも、暗いし、どこにあるかも分からなかったのでそう尋ねた。「さっき零時を回ったところ」
「嘘、もったいない…」
せっかくのお泊り、しかも、クリスマスだというのに…自分は一体、何をやっていたのだろうか。
眠ることなんていつだってできる。もっと聖夜に相応しい大事な話があったはずだ。
そう、例えば、良い雰囲気なんかを作って好きな人の話をするとか、悩みの話をするとか…?
そこまで考えて、聖名は自分でよく分からなくなっていった。
(クリスマスに相応しい話題ってなんだろう?恋人でもないのに、なんの話がぴったりな話題になるの?)
そんなどうでもいいことに頭を使っているうちに、静海が電気ランタンを片手に近づいてきた。
寝ぼけた頭で、どうしたのだろうと考えていると、静海はそのままベッドの足元のほうから、自分が横になっているのとは反対側へと乗り上げた。
「ち、静海!?」
「なに」
「あ、えっと…」
どうしてそんなことをと尋ねかけるも、少しずつ回り始めた頭が答えを導き出す。
「…そこで、寝る…んだよね」
「え?うん…変なこと聞くね、聖名」
「そうだよね、変なことだよね…」
同じベッドに入っていても平然としている静海を見て、いよいよ、聖名は彼女のことが分からないと思った。
手を繋いだだけで恥ずかしがるくせに、一緒のベッドで眠ることには何の抵抗もないとはこれいかに…。
彼女にとっては、何かが違うのだろうか?
「あの、私はどこで寝ればいいかな?」
「いや、ベッドでしょ」
「…ベッドって、ここ?」
「聖名、本当にどうしたの?寝ぼけてる?」
正直、どうしたのはこちらの台詞だが、これはいつものこと。
「あー…えっとね、一緒のベッドだと、色々と困らないかなぁって思ったの」
少しだけ揺さぶりをかけたつもりだったが、静海は表情を曇らせ、理解の難しさをその身で示してみせるばかりだ。
「今、私が困っているのは、枕のことだけだよ」
「え、あ、ごめん…」
敷いていた枕を返す。いつもなら恥ずかしくてたまらないだろうが、こうも無感情に言われると、慌てるほうが難しい。
持久走の一件があって以降、聖名はてっきり静海が自分に好意を抱いているとばかり考えていた。しかし、それもここに来ていよいよ怪しいものに思われた。
好きな人と一緒のベッドに入って、ドキドキしない人間なんているはずがない。実際、自分が今まさにそうだ。はちきれんばかりに鼓動は高鳴っている。
ただ、自分だけが舞い上がっているような気がしてからは、それも段々と馬鹿馬鹿しく思えてきて、収まりつつあった。
「あはは、やっぱり、なんでもないよ。おやすみ、静海」
「うん、おやすみ」
淡白な返事に、現実なんてこんなものかとため息が出そうになる。
特別な夜だからといって、特別なことが誰しもに起こるわけではないのだ。
聖名は電気ランタンの明かりを頼りに、大きめの毛布に静海と一緒に潜り込んだ。本当なら嬉しいはずのイベントが、今では干からびた魚みたいに新鮮さを欠いていた。
このまま、静寂だけが暗闇を喰み、ホワイトクリスマスは夢のように終わるのだろう。外でちらつく雪と同様、明日の朝にでもなれば跡形もなくなっているはずだ。
ところが、聖名の予測は見事に外れることとなる。
「聖名」
夜のしじまに投じられた一石に目を開く。
枕元に置かれた弱々しい暖かな光が、同じように目を開き、こちらを見据えていた静海をぼんやりと照らしていた。
「…どうしたの?」
「今日はありがとう。楽しかった」
静海らしからぬ一言に、聖名は思わず、絶句する。
もちろん、彼女は決してお礼を言わない人ではない。ただ、能動的に、しかも、こういう具体的に何かしてもらったわけでもないタイミングで言うことが非常に珍しかったのだ。
言葉を返さずに自分を凝視する聖名を不思議に思うこともなく、静海は抑揚のないイントネーションで続けていく。
「いつも一緒に出かけてくれることもそうだけど、お父さんと話してくれたことも…ほら、内容も含めてね。あと、写真撮らせてくれたこととか、家に泊まってくれたこととか…とにかく、私は…」
静海はそこで不自然に言葉を区切った。
奇妙な間と、暗がりに浮かぶ思案げな面持ちから、彼女が何かを逡巡していることが分かった。
「――いや、今日のことだけじゃない。ここ数ヶ月のこと、本当に聖名には感謝している。他人に理解を求めること自体がナンセンスだって、諦めかけていた私に、また人と関わる楽しさを教えてくれて、ありがとう、聖名」
ありがとうじゃ足りないけど、と自嘲気味に付け足した静海は、そのまま聖名の反応を待つことなく、「それだけだから。じゃあ、おやすみ」と再び目を閉じた。
紡ぐべき言葉が見つからなかった。
言葉にできない感情こそ、言葉にするべきだと分かっていたのに。
予想外なことが起こるとすぐにショートしてしまうこの脳みそを忌々しく思いつつ、深呼吸する。
吸って、吐いて…吸って、吐いて…。
徐々に落ち着きを取り戻した聖名が最初に考えたことは、『勝手すぎる』というものだった。
『おやすみ』って、返すことなんて、できるはずがなかった。
こんなの、言い逃げである。
本人がどういうつもりかなんて関係ない。
ここで終わらせたりなんか、できない。
聖名はおもむろに静海へと手を伸ばした。
言い逃げした彼女の手を取り絡めれば、びくっ、と反応しつつ静海は目覚める。
「え、なに?どうしたの、聖名」
「どうしたの、じゃないよ。ずるいよ、静海」
「ず、ずるい?何が?」
「自分だけ今の気持ちを伝えて、満足して眠るなんて、許さないから」
抽象的で曖昧な言葉の表現。静海からすると、本当に理解し難いのだろう。彼女は目を白黒させて手を引こうとしていた。
もちろん、それも許さない。
聖名は強く指を絡める。
「手、繋いだりするの、嫌なの?」
「だから、嫌じゃなくて…恥ずかしいんだって」
「嬉しくない?」ぴたり、と静海の動きが止んだ。暗闇のせいで分からないが、困惑しているか、図星を突かれて固まっているかだろう。「私は嬉しいよ、静海は?」
一拍遅れて、小さな声で静海が答える。
「…嬉しい、よ」
かあっ、と体の内から熱がこみ上げる。
自分の体で、自分の心なのに、聖名はもう、その制御を自分が手放していることをそのときになってようやく察した。
絡めていた指を素早くほどき、次に聖名は静海の頬に触れた。
「聖名、本当にどうしたの…?」
「どうしたんだと思う?」
普段はのろのろと回る頭の中のエンジンが、気持ち良いくらいに順調に回転している。
「どうして私がこんなことをしてるんだと思うの、静海」
言葉が次々に出た。それこそ、抑えきれず、こぼれ出るみたいに。
「わ、分からないよ」
「考えて」
「そんなこと言われたって…。私がそういうの苦手なの、分かってるでしょ」
「知ってるよ、知ってるから、聞いてるんじゃん」
我ながら道理の通っていない説明だ。しかし、その無理を押し付けている力強さが自分の背中を押した。
少しだけ体をずらし、静海へと近づく。さらに、もう片方の手で静海の手をまた握る。
「聖名、ちょっとだけ困ってるよ、私…」
「なんで」
「だから、その…」
「なんで、私がこうやって手をつないだり、くっついたりすると困るの?ねぇ、静海。ごまかさないで答えてよ」
雪崩の如き言葉に飲み込まれた静海は、珍しく言葉を詰まらせ、少しだけ顔を逸らした。それが許せなくて、聖名はぐっと静海をこちらに向き直らせて尋ねる。
「お願い、教えて。こういうの嫌なら嫌って言って」
静海はとうとうこらえきれなくなったようにぎゅっと目をつむると、それから少ししてゆっくりと目蓋を上げ、照明の光できらきらと瞳を光らせながら言った。
「何度も言うけど嫌じゃないよ、ただ、その…――色々と、抑えきれなくなるから、駄目なの」
ぷつん、と何かが頭のなかで千切れた。
それが一体、何だったのかは聖名にも分からない。
理性の糸であったような気もするし、抑えていた言葉を結び止める糸だったかもしれない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
糸は切られた。
後は、落ちるだけだ。
「私はもう、我慢できなくなってるんだよ?」
強い語調に押され、静海はひゅっ、と息を飲んだ。
普段は温厚で緩慢で、しどろもどろになっていることのほうが多い聖名が、今、こうして自分を追い詰めるように言葉を、指を、きらめく眼差しを向けてくることに、静海は酷く驚き、そして、理解に苦しんでいた。
どうして、こんなふうに逃げ道を塞いでくるのか。
自分なりに『そう』なってはいけないと必死で我慢して、逃げてきたのに。
たどり着いてはならない場所へ、聖名は自分を引っ張っていこうとしている。静海にはそう感じられていた。
「さっき聞いたよね、なんで私がこんなことすると思うって」
こくりと頷く。それが限界だった。
「我慢できなくなってるからだよ。抑えきれない?そんなの、とっくに私のほうが抑えきれてないよ…!」
さらに深く、聖名が体を寄せてくる。
これ以上は駄目だ、と自由な片手で聖名を制そうとするも、頬に触れていた手によって絡め取られ、それもできなくなる。
普段の聖名からは想像もできないくらい俊敏で、強引な動作。
抑えきれなくなっている、その意味が、なんとなくでも静海には理解でき始めていた。
「静海」本人は分かっていないらしいが、同学年でも群を抜いて愛らしい顔が近づいてくる。「静海は、何を我慢してるの」
またこうだ。逃げ道を潰そうとしてくる。
有無を言わさない口調。沈黙は許されない。
「…言えない」
「言って」
「だから、言えないって…」
「言ってってば!」
怒鳴るような声に、思わず聖名を見つめる。
彼女の瞳は濡れていた。抑えきれない感情に蝕まれ、苦しんでいるようにも見える。少なくとも、切羽詰まっていることは間違いない。
これ以上、彼女を『そこ』で抑え込むのは罪悪だ。どちらにとっても良いことはない。
賽はすでに空中に放り出されている。
もはや、止められない。
出る目が何であれ、もう、賽は落ちる。それは抗えない決定事項だ。
賽が落ちたとき、自分にできることがなんなのかも決まっている。
終わりを始める以外、できることがないのなら…せめてそれは、自分の手で…。
「聖名のことを、大事に想う気持ちだよ」
「それって、つまり…?」
こくり、と頷く。
「私、聖名のことが好きだよ。友人としてじゃなくて、特別な存在として」
ぱあっ、と聖名の顔が明るくなっていく。
不安の暗雲が、自分の放った短い言葉で薙ぎ払われたのだろう。
一方で、静海の心は曇天模様。
少し前までは、聖名のそばにいて、彼女のことを想うだけでわけも分からず熱くなっていた胸が今、死んだように冷え切っていた。
「ち、静海、私も…!私も、静海のこと――」
その後に続く言葉を、静海はきちんと理解できていた。
聖名は静海のことを朴念仁だとか、相手の気持ちが徹底して分からない人間だと考えているようだが、そこには少し誤解がある。
確かに、障害特性の影響もあって、静海は言語化されていない人の気持ちは分かりづらい。ただ、だからといって非言語的なものから全く推察できないわけではないのだ。
聖名が自分としか手をつながないこと、くっつかないことを静海は知っていた。自分との予定を最優先にしているがゆえに、他の人との予定が被っていたときは、理由をつけて断っていることも。
初めは何のためにそんなことをするのか分からなかった。尋ねて返ってくる言葉が全て真実だとも思い込んでいた。
しかし、そうではないことを今の静海は理解している。それは、聖名のそうした行動に自分自身も喜びや充足を羞恥と共に覚えるようになっていたからだ。
そして、ある日、聖名に受けた些細な質問のため、自らの感情を自覚した。
それが懊悩ある日々の始まりだった。
「――駄目だ」
静海は、決定的な一言を吐き出そうとしている聖名の言葉を遮った。
「それ以上は、駄目だ」
「な、んで…」
驚きに目を丸くした聖名が尋ねる。
「駄目なんだよ…聖名。分かってほしい」
「駄目じゃないよ、静海。私は、静海のこと――」
「もうやめて、本当に。私…これ以上のものを求められても、聖名には返せない」
明確な拒絶の言葉に、ショックを受けた表情を浮かべる聖名を見ていたくなくて、少しずつ、静海は瞳を閉じた。
「…親しくなりすぎたんだよ、私たち。人は、近くなれば近くなるほど多くを求めてしまう」
目蓋の裏に映るのは、あの日の夕暮れ。
記憶のなかの夕日がこうして蘇る度、どうしても、思い出しそうになる言葉がある。
普段は無理やり抑え込むのに、今日はどうしてだろう、抑え込めなかった。
――『お母さんはこんなに静海を愛してるのに、どうして貴方はお母さんを愛してくれないの?』
蓋はどこだ。
『貴方の考えていることが、何も分からないわ』。
記憶の箱を閉じる、固く、重い、無機質な鉄の蓋はどこにいった。
『貴方を思って、一生懸命尽くしているのに…どうして何も返してくれないの、静海』。
もうやめろ。
『私のことが嫌いなのなら、そう言って』。
違う。私だって、貴方が大好きだった。
『言いなさいよ、静海!』。
違うんだ。私が欲しかったのは、平手じゃない。
『…ごめんなさい、お母さんが、悪いのよ…』。
…そうじゃない。私がしてほしかったのは、そんな顔じゃない…。
湧き上がる思い出たちが、悲しみを一気に静海の胸へと運んでくる。
静海は、事態を把握できていない聖名を一人残し、布団にくるまる。
昔からそうだ。暗闇は、いつも優しい。




