特別な人.3
明日も、12時、18時で更新します!
穏やかな秋は過ぎ去り、清冽な空気を讃えるような冬がやってきた。
あれ以来、茉莉花とは距離ができてしまったけれど、それ以外は、上手くいっていると言って良さそうだった。
所属している部活も楽しかったし、静海との時間も多くなっていた。彼女も思いのほか写真部の活動が楽しいようで、よく話題に挙げていた。もちろん、学生の本分である学業にも抜かりはない。
茉莉花のことだけが心配だったが、全く話さないわけではなかったし、何よりも、孤独ではなさそうだったのだ。
時折、茉莉花に声をかけていたのは、金門優奈だ。これには聖名も驚かずにはいられなかったが、どうやら、喧嘩の原因を作ったのは自分だと責任を感じているらしかった。
自分と静海の距離を縮めるようなイベントを用意してしまったことで、茉莉花からは煙たがられていたものの、それにこりもせず、また、敵意もなく近寄ってくる優奈に諦めているふうでもあった。
とにもかくにも、日々のモチベーションは保たれている。そのおかげもあってか、あまり好きではない体育の授業の前だって、気落ちすることはなかった。
「うぅ、どうしてこんな寒い日に持久走なんだろうね…」
早めに着替え終わった聖名は、隣で着替える静海を極力見ないようにしながら、震え始めそうな体をかき抱きつつ、そう言った。
「多分、長距離を走れば、自然と体が暖まるからじゃないかな」
「私、体力ないから、暖まる前に止まりそうになる…」
「聖名は運動苦手だもんね」
「あ、ひどぉい。自分は運動できるからって」
「…今の酷いは冗談?」
「ふふ、正解。よく分かるようになってきたね」
ASDの特性として、『他人の気持ちの分かりづらさ』があって、字面通り受け取りすぎることがあるわけだが、これは全く想像できないわけでもなかったし、繰り返し伝えれば、今のように正しい判断ができるときもあった。
静海は上半身下着一枚になったかと思うと、ふぅ、と息を吐いて体をこちらへと向けて言った。
「分かるのは聖名のだけ。他の人が相手だと、結構外れる。多分、経験則で当てているだけなんだと思う」
静海の『特別』になれたような嬉しい言葉。
いつもなら、小躍りしながらお礼と気持ちを伝えるところなのだが、今の聖名はそれどころではない。
(たしかに、話すときは体をこっちに向けてって言ったけど…!)
同年代(少なくとも、自分と比べたら)と比べて、凹凸に富んでいながらも、無駄のない体つき。
白く透き通るような肌は、少女と大人の女性の中間に位置する今の彼女自身を強く体現しているように美しく、艶やか。
まさに、孤狼に相応しい洗練された肉体だ。
一昔前であれば、それだけの感動で終わっていたかもしれない。しかし…。
聖名は、無防備にこちらへと開かれた体の瑞々しさに、視線が釘付けになってしまっていた。
(す、すごい…――じゃなくて、ち、静海ってば、こんな大胆に…)
十代らしからぬ艶やかさに、聖名がごくり、と思わず生唾を飲み込めば、静海が訝しがって口を開いた。
「…どうしたの?聖名」
「え!?」
「いや、じっと私のことを見てるから…」
しまった、無遠慮に凝視してしまっていたようだ。
聖名は慌てて手を振り、ごまかそうとする。
「えっと、その、ほら、髪――そう、髪。この間みたいに、ポニーテールにしないのかなって思っただけ。それだけだよ」
我ながらよい言い訳ができた、と人差し指を真っ直ぐ立てながら考えた聖名は、他人の評価に興味のない静海のことだから、てっきり、そのまま、「ふぅん」とかなんとか言って終わると思っていた。
しかし、意外なことが起こった。
静海が思案げな様子で顎に手を当て、熟考する素振りを見せたのだ。
頼むから、早く体操服を着てくれと言いたくなる状況だ。目のやり場に困りすぎる。
ややあって、静海が抑揚のないイントネーションで尋ねる。
「聖名は、そっちのほうが好きなの?」
「す…」
ストレートな表現は、自分の『特別な感情』を認めた今の聖名にとっては、あまりに心臓を苛む物言いである。
そこに特別な意味はない、と自分に言い聞かせつつ、周囲のクラスメイトらが自分たちに興味を持っていないことを確認する。それから、困ったふうなはにかみ顔で聖名は答える。
「ま、まあ、うん」
普段の無造作ヘアに比べたら、どんな髪型だって、いっそう静海の魅力を高めるに決まっている。
「そっか」と頷いた静海は、「ヘアゴムと櫛ある?」と続けた。
「あるけど…もしかして」
「いいから、貸して」
半ば強引に聖名からそれらを借りた静海は、手早く髪を整え始める。
無造作に放出されていた濁流が、清らかな水流に変わっていくように、静海のまとう印象が変わっていく。
聖名は、段々と自分たちに――正確には静海に周囲の生徒の視線が集まっていくのを感じていた。
体育は二クラス合同なので、結構な量の視線が彼女へと注がれることになったが、やはりというか、なんというか、静海はそんなものまるで気にしていない。
何度も何度も櫛を通し、髪を綺麗にしてみせた静海は、仕上げにポニーテールに結い上げると、左右に数回首を振って調子を確かめてから、「よし」と自分にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。
「どう?こっちのほうがいい?」
見事な手際だ。手先が器用なほうなのは知っていたが、それに驚いている生徒は一人や二人ではなかった。
「…うん。すごい似合ってる」
「そう、よかった」
みんなの目からは野暮ったい野良犬のようにしか見えていなかった少女は、一瞬のうちに、気品あふれ、注目を集める狼のような女性へと変貌した。
元々、スタイルの良さならクラスの、いや、学校中の誰にも比肩する者のいない静海だ。そんな彼女が着替えもそこそこのままで身なりを整えている姿は、この歳の少女たちには刺さるものがあったのだろう。彼女らは静海のことを話題にヒソヒソ話を始めてしまった。
(…なんか、もったいないことしたかな)
その後は、ささっと着替えを済ませた静海に導かれて聖名も教室から出た。
すれ違う生徒たちが静海を何度も振り返って見ている様子が、滑稽なようでもあり、独り占めにしていたものが指の隙間からこぼれ落ちていくようでもあり、聖名は複雑な気持ちで隣を歩く彼女の横顔を見つめるのだった。
やっぱり、失敗だった。
聖名は、男女問わず代わる代わる声をかけられている静海を、少し離れたところから眺めながら肩を落とした。
『今日はどうしたの?』とか、『髪型変えたんだ』とかならまだいい。
『そっちのほうが似合ってるね』とか、『えぇ、かわいい!』とか…自分でさえ一生懸命になって吐き出すような言葉を、何の躊躇もなく浴びせているクラスメイトを見て、頭のなかがぐるぐる回り始めた。
たしかに、そっちのほうが似合ってるけど。
たしかに、静海は十分にかわいいし、綺麗だけど。
そうこうしている間に、もう持久走が始まってしまう。学校の外周をぐるぐる回る授業内容は、今の自分に悲しいまでにぴったりな気がした。
静海と一緒に走れたらなぁ、とも思っていたが、彼女はこちらを気にすることもなく、前のほうに並んでしまう。
そうしているときも、周囲から声をかけられている。以前の彼女なら、冷徹と思われるあしらい方をしたのだろうが、今の彼女は、聖名の言いつけを律儀に守っていた。
話すときは相手のほうに体を向けるし、頷くだけではなく、きちんと声を発して返事もしている。よくも悪くも気持ちを言葉にする習慣が続いているから、何を考えているか分からない振る舞いは軽減していた。
そのせいで、静海はある程度『話せる』人間になってしまった。いや、良いことなのだが…。
(静海のことを最初に見つけたのは、私なのに…)
自分でも嫌になるような、薄暗い気持ちが湧く。
静海が誰のものでもないくらい、自分が一番よく分かっている。
だけど…。
ホイッスルが鳴り響き、一斉にみんながスタートする。気怠げな生徒が多いが、運動部を筆頭に例外も少なくはない。静海もその一人だ。
ぐんぐんと離れていく静海の背中。
このまま静海が他人との接し方を学んでいって、彼女の周りに人が集まるようになれば、こうして自然と距離ができてしまうのだろうか。
(だったら、もうそんな練習しなくていいよ…)
そこまで考えてから、聖名は、あ、と我に返った。
(最低だ。最低なことを考えちゃってる、私…はぁ…)
自分のエゴで静海と接していることに今更ながら気がついた聖名は、走るスピードを落とすのと同じように視線を地面へと落とした。
そんなときだ。横から、誰かが声をかけてきた。
「大月さん、あっという間に先に行っちゃったやん」
「優奈…」二つ結びを踊らせながら隣に並んだのは、金門優奈だ。「うわ、なんかすごい暗い声!どうしたん」
「別に…」
「別にって…」
苦笑した優奈は、ぽんぽん、と聖名の背中を叩きながら、他の誰にも聞こえないような声量を出した。
「大月さんと喧嘩したと?」
「してない」
「じゃあ、どうしたと?」
「…」
「誰にも言わんけん、言ってみてばい。したら、楽になると思うよ」
ちらり、と覗いた優奈の顔は、当然ながら100%善意の塊だ。
たしかに実直な彼女であれば、静海のことを相談してもからかったりはするまい。
聖名は少し迷ってから、優奈に事のさわりだけでも話してみることに決めた。もちろん、静海の障害については触れずにだ。
「勝手なことを言ってるのは分かってるんだけど…」
話の最後をそう締めくくった聖名は、おそるおそる、優奈の様子を窺う。
すると、優奈はにやけ面でこちらを見つめていた。相談したことが失敗だっただろうかと不安になるほど、こちらのテンションとはギャップがある態度だ。
「つまり、大月さんが自分のところから離れていくのが嫌とやね」
「…別に、そこまでは…」
「嫌じゃないと?」
「…嬉しくはないよ」
精一杯の強がりを口にすれば、優奈が子どもにするように微笑んで見せる。
冬の空気の冷たさは、青い話の前に忘れ去られていた。それくらい、聖名にとってこの話は深刻なものだったのだ。
「ねぇ」
「なに」
「聖名って、大月さんのことを、そういう意味で好きと?」
「――っ」
弾かれるようにして優奈を見れば、いつの間にか、彼女は真剣な顔つきに様変わりしている。
そこには、最初に聖名が想像していたとおり、相手の悩みを揶揄するような愚かさは微塵もない。ただ、慈悲深い聖女の如き厳粛さと穏やかさがある。
馬鹿正直に肯定することはできないものの、今や、自分の中の『特別』な感情を認めてしまっていた聖名には、俯き、沈黙を保つことぐらいしかできなかった。
ゆったりとした速度で走る二人。それなのに、鼓動はすでにフルスロットル。
「…ごめん。答えんでいいよ」
それからしばらく、二人は黙々と走った。冬の寒さを思い出せるようになるまで、ひたすらに。
そのうち、優奈が思い出したように口を開いた。
「聖名」
「…なに」
「大月さんは、聖名が似合うって、そっちのほうが好きやって言ったけんが、わざわざ髪型を変えたんやと思うよ」
「私が…」
「うん」確かに、静海は何度もそれを確認してくれていた気がする。「色々あるけん、無責任なことは言えんけど…誰がどう見ても、大月さんにとって聖名は特別な人やろ」
『特別』。
その言葉が、軋む心をすうっと軽くしていった。
そうだ、この学校において、私が誰より静海のことを理解している。
静海のほうに『好き』という『特別』がなかったとしても、その事実に揺るぎはない。
すると、ぎゅっと両手の手のひらを握り込んだ聖名の背中から、低く抑揚のない声がかけられる。
「聖名」
胸にじんわり来る響き、振り返らずとも誰だか分かる。分かるが、あえて聖名は振り返った。
そこには、少し頬を上気させて走り寄ってくる静海の姿があった。
「やっと見つけた。こんなに後ろのほうにいたんだね」
「え?う、うん」
「てっきり、前のほうにいるのかと思ったよ」
そんなわけないだろう、と思わないでもなかったが、自分を探して冬の空気を切り裂き、加速し続けてくれていたという事実の前に、それは些細なことだった。
「あー、私もおるとよ、大月さん」
「ん?うん。それくらい、言われなくても分かってるよ、金門さん」
いつもだったら、そういう言い方は誤解を生むよ、と教えるところだが、今日はその気も湧かない。
だって、今のはつまり、『私』を探して走っていたことの証明だったから。
優奈は冗談でむくれ面をしてみせた後、聖名のほうを向いて、「ほら、言ったとおりやろ?」と小さな声で言ってから、「邪魔者は退散しますぅ」と速度を上げて、一気に離れていってしまった。
「邪魔者…?」と静海は不思議そうにしていたが、聖名にとってはとても嬉しい気遣いだった。
「こっちの話だよ、静海。気にしないで」
「ふぅん。まあ、金門さんはだいたい意味が分からないから、いいや」
辛辣だが、静海にとっては確かにそうかもしれない。金門優奈というのはそれくらい、普段は破天荒だ。
「それで、どうかしたの?」
「どうかしたって、なにが?」
「だって、私を探してたみたいだから…何か用事があるのかなって」
ちょっとだけ期待を込めて尋ねてみる。裏切られてもいいように心の準備は万全だった。
「…用事がないと、聖名と一緒に走っちゃ駄目なの…?」
眉を曲げて、不安そうにそう尋ねる静海。
聖名は彼女の姿を見て、表情が崩れるのを抑えるのに必死になった。
(か、かわいい、かわいすぎる…!)
いたずらに不安にさせてしまうことは悪いことだが、少し癖になりそうだ。
昂ぶる心を抑えるためにも、聖名は進行方向を真っ直ぐ見つめる。
「そういうの、誰にでも言ってる?」
「そういうのって?」
「えっと、理由がないと、一緒に走っちゃ駄目なのか、とか」
「まさか。そうそう言う機会なんてないし。そうじゃなくても、他の人には言わないよ」
「――な、なんで?」
「だって、面倒だから。他の人と絡むの。…まあ、写真部のみんなはまだいいけどね」
違う。違うぞ。勘違いするな。
そう言い聞かせつつ、静海の言葉に耳を傾ける。
「クラスの人たちに、髪型のことでしつこいぐらい話しかけられた。悪意はないんだろうけど、正直に言って、迷惑なんだよね。私は聖名がそっちのほうが好きって言ったから、変えただけなのに」
決定的な一言に、ぎゅうっと胸が締めつけられる。
(やっぱり、私のためだった…!)
本当はもっと速く走れるのに、自分に合わせて足を動かしてくれている静海が、途端に愛おしくて仕方がなくなる。
空いているその手を、この間みたいにつなぎたくなった。
走る度に蠱惑的に揺れる胸元に、飛び込んでしまいたくなった。
その血色の良い唇にさえ…触れたくなってしまった。
――罪悪なのだろうか…?女の自分が、女の子に触れたいと思うのは…。
「どうして、私が好きだって言ったからって、髪型変えたの?」
緊張と、運動による疲労とで、呼吸することが苦しくなる。そんな中でも、言葉ははっきりと綴られた。
「どうしてって、だから、それは…」
静海はその問いを受けて、不思議そうな顔をした。
やがて、何かを言おうと口を開きかけていたところ、静海は徐々に走る速度を落とし、最終的には立ち止まってしまった。
そして、突然、顔を真っ赤にさせて口元を片手で覆ったかと思うと、息絶えた言葉を飲み込んで沈黙した。
ふと、同じように立ち止まった聖名と静海の視線が重なる。
みるみるうちに、静海の顔が耳まで赤くなっていく。
静海はそのまま、何も言わずに視線を逸らしたかと思うと、冬の清冽な空気を引き裂きながら遠く離れて行ってしまった。
その背中を見て、再び聖名が不安に思うことは、もうなかった。
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