バイアスを取り除いたらばいばいアース
固定観念だったり先入観だったり、
いわゆる『バイアス』を取り除く事は一般的に良いこととされる。
私のような本来社会不適合者が高収入を得ているのも、
バイアスを取り除き、普通の人より遥かに世界を客観視しているからだ。
小説の世界においても、
『売れてるから面白い』だとか、
『有名な芸人が書いた本だから面白い』だとか、
そういったバイアスを取り除けば、自然と本当に自分に合った作品は何なのかがわかるようになる。
ただ、人間はどこまでバイアスを取り除くべきなのだろうか、
と最近は悩み始めている。
我々が法律を守り、日本人の道徳観に従って生きているのも、
幼い頃よりそれが素晴らしい事なのだと言う教育を受け、いわば『洗脳』されて、
強力なバイアスを持ったまま成長したからとも言える。
(洗脳という悪いイメージのある言葉を使ったが、
世の中に存在する洗脳の99%くらいは、
人間社会を保つために必要な良い洗脳と考えている)
そういった社会平和のために作られたバイアスを取り除いてまで、
人間は究極の客観的思考を身に着けるべきなのだろうか? と。
例えば私はいじめ問題について、このような考え方を持っている。
いじめはそもそも『悪』では無い。
多くは学校の教室という小さな民主主義国家の中で、
弱い、もしくは異常な個体が強い、もしくは多数派の個体に負けただけの、
動物の世界にもある当たり前の現象であり、これを無理矢理に悪と扱ってもうまくはいかない。
結局は自分が身体を鍛えたり、仲間を作ったりして強くなるしかない。
大多数の『いじめは悪い事』と言う価値観で生きて来た人間からすれば、理解できない考えだろう。
勿論私はいじめられっ子を突き放している訳では無い。
加害者が悪いんだ罰しろと騒ぐ暇があったら、自分を見つめ直して強くなれと言っているのだ。
ボクシングだったり格闘技だったりの漫画の導入だって、
いじめられっ子が強くなるために特訓する、みたいなものが多い。
『弱い自分が悪い』というのは残酷かもしれないが、
『強くなればいい』というのは非常に楽な解決法なのだ。
男女差別だったり人種差別だったりについても似たような考え方だ。
男女差別や人種差別が悪とされているのは、
『同じ人間なのだから平等に扱うべき』という思想が根底にある。
しかし、そもそも『同じ人間』という分け方自体、
どこかの生物学者だったりが決めたものに過ぎない。
人間と猿は『同じ霊長類』だし、
人間と豚は『同じ哺乳類』だし、
人間とゴキブリは『同じ生き物』だ。
『同じ生き物なのだから殺して食べるな』と言うヴィーガン的思想が理解を得られながらも、
決して全員が賛同している訳では無いのと同じように、
『同じ人間なのだから』と言う思想も絶対的な物として扱うことは出来ない。
生と死を除けば全ての生き物は平等では無い。
故に現状を把握して配られたカードを使って最大限に生きよ。
……と言った感じに、バイアスを取り除き続ければその先は、
『互いの利益のために手を組む事があり、それを効率化するために国や社会や法という概念が生まれたりしているだけで、この世の本質は弱肉強食』
という、野生動物の世界の考え方になってしまう。
知性があるからこそ人間は先入観に囚われているとも言えるのだから、
先入観がほとんどない世界が知性の低い(とされている)世界なのは当たり前なのだ。
(勿論人間も動物なのだから間違っているとは言えない)
私自身はその考えに従い自分を高めたからこそこうして生きているが、
一般的には非常に危険な考えだ。
私のような考えの人間が女神様にチートを貰えば恐ろしい事になるだろう。
それに自分を高めると言っても限度があるので、突き詰め過ぎればどんどん生きづらくなる。
長いものに巻かれることも、自分の頭で考えない事も時には大事なのだろう。