弱者は大衆に含まれるか
日本は弱者に厳しいだの言う人もいるが、
世界的に見れば日本はトップクラスに弱者に優しい国であるし、
そもそも動物で弱者を見捨てない種族というのは人間くらいなものだ。
病気になった個体だったり身体の小さな個体は群れから追い出されたり下手すりゃ親に食われる。
今日を生きるために狩りをしなければいけない、
多くの子供を守らなければいけない自然界の生き物からすればそれが当然なのだ。
何なら人間の社会だって弱者を守ろうなんて風潮になっているのはつい最近で、
口減らしのために子供を捨てて神隠しということにしたり、姥捨て山の伝承が各地にあったり、
今より豊かでは無い人間の世界では動物のような判断が行われていたのだ。
ほとんどの動物がやっていないだけあって、弱者を見捨てないという選択はデメリットもある。
一つは勿論全滅の可能性があるということだ。
余裕があるならば弱者を養っても問題無いが、余裕が無いのに弱者を養おうとすれば破綻する。
あまり政治的な話をしたくは無いが、年金や生活保護なんてのはその最たるものだろう。
働けなくなった老人やニートを働ける若者で支えて行こうなんてシステムが成り立つのは、
老人やニートが少なくて若者が多いというバランスを前提としたものだ。
平均寿命が上がったり、生活保護申請者が増えたりするだけでそのバランスは崩れる。
いつまでも余裕ある状態が続くと思って安易に作った人間の傲慢さを如実に表したシステムだよ。
自然淘汰を否定する事で環境に適応した種族や進化した種族が生まれにくいという問題もある。
例えばキリンの首が長いのは進化によるものだと言われている。
首の長い個体は高い場所にある葉っぱを食べることが出来たり戦いで有利になるため生き延び、
そういった個体が子供を作るという行為を繰り返した結果、今のキリンの首が長いという説だ。
もしも首の短いキリンがいた時代に人間がお腹を空かせて可哀想だと
餌をあげたり保護をしたりすれば、首の短いキリンも生き延びて子供を作り、
今でもキリンの首はそんなに長く無かったかもしれない。
また、コアラやジャイアントパンダは絶滅危惧種であるが、
その原因は環境を破壊する人間だけが悪いのではなく、
『ユーカリしか食わねえ』『笹しか食わねえ』
というふざけた食生活にも問題があると言っていいだろう。
特定の食べ物しか食べないなんて生き物は当然絶滅しやすいが、
人間が無駄に保護をしなければ、突然変異で色々食べられるコアラやパンダが発生して、
それが繁殖してコアラやパンダが進化する可能性は高くなっていたかもしれない。
もしくはあっさりと絶滅して、他の動物がその分幅を利かせる訳だから
他の動物が進化するかもしれない。
何が言いたいかと言うと、今の日本のように働けない人間や能力の低い人間でも、
それなりの生活が出来たり娯楽が楽しめる社会というのは『当たり前』では無く、
たまたま余裕がある時代だから成り立っているに過ぎない『イレギュラー』ではないかということだ。
勿論それを『当たり前』にするために努力しようという事は否定しない。
私が気にしているのは、言葉は悪いが本来ならば淘汰されているような存在による人気によって
支えられているモノに価値は果たしてあるのか、
大衆娯楽の大衆の中にそういう人たちを入れてもいいのかということだ。
仮に私の小説がニートだったり生活保護だったりだけに凄く刺さって売れたとして、
その売上は本来であれば存在しなかったと考えることもできる。
ニートや生活保護は経済を回してるなんて言うが、他人の財布から金を取って使ってるようなものだ。
『ニートや生活保護でもお金を使える時代を読んでその人達に向けた小説を作る商才』
は評価されるのかもしれないが、小説自体は評価されるのだろうか、されている気になるのだろうか。
言葉にしないだけで大半の物書きは、自分の作品はニートや生活保護なんかよりも、
真面目に働いてる人だったりエリートだったりに評価されたいと思っているはずだ。
私のように本業でがっつり稼いで趣味で書いてるような、
売上だ人気だPVだにさほど執着していない人間は特にその傾向が強いだろう。
日本はこれからどんどん貧しくなるなんて言うが、
私はどうせ貧しくなるのなら、
ニートや生活保護だった存在が小説を楽しむなんて余裕が無くなるくらい貧しくなって欲しい。
その時に私の中の基準ではあるが、真の大衆娯楽と偽の大衆娯楽がわかるはずだ。




